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「ソファも、テーブルも、冷蔵庫や洗濯機も」
「ああ、いいよ。僕が使う」
「……あなたの申し出はびっくりしたけど、ありがたかった。全部持ってっても、藍川先生のところには置いとけないなと思っていたから、処分先を探さないといけなかったし」
ベッドに八束を座らせる。私も隣に腰掛ける。
「……こういうときは、なんて言ったらいいのか、分からない」
息をつく。隣にいる八束をどうしていいのかも分からない。離れ難く、いとおしく、心底後悔しながら、やはり別れるべきだとまだ思う。
待たせることになる。ほったらかしになる。そんなのを、信じて待っていてくれよだなんて、とても言えない。けれど連れていくわけにはいかなかったし、連れていく気もない。私の芸術にとって、これはとても煩わしいことなのだから。
それでも人を求めてしまうのは、どういうことなのだろうか。
八束も息をつき、ベッドから下ろした足をぶらぶらさせた。
「後悔、してるんだよな」
「してる」
「でも行くんだろう」
「行く」
「僕と離れても」
「ああ」
「……芯から後悔するのに」
「……」
「離れたら、会えないし、話せないし、触れられないのに」
俯いていた顔をそっとあげると、こちらを一心に見つめている八束と正面切って目があった。
「戻ってくる?」
「……約束できない」
「きみは僕を捨てられないよ」
「その根拠は、なに? おれは、おれの芸術のために、自分勝手に、あなたを」
「僕を捨てるとき、きみはいまよりもっと果てしなく、ひどく後悔するからだ」
八束はきっぱりと言った。眼鏡の奥で瞳を燃やしている。
「そうだな……その通りだ」
「だろう、」
瞳の距離が狭まる。とてもスムーズな動きで頬を寄せ、私たちはくちづけた。
吸い、離れて、惜しんで、またくちづけて、心もとなく肩を抱き、ふたりで呆然とうなだれた。
「何度も言う、僕は別れない」
「……おれは行くよ」
「別れない……」
「そうか……」
ただ惜しみがたく身を寄せ合うだけで、それ以上をどちらとも求めることはできない。ひたすらに蒸し暑く長く深い夜を無言で耐えた。
「……こういうときは、なんて言ったらいいのか、分からない」
息をつく。隣にいる八束をどうしていいのかも分からない。離れ難く、いとおしく、心底後悔しながら、やはり別れるべきだとまだ思う。
待たせることになる。ほったらかしになる。そんなのを、信じて待っていてくれよだなんて、とても言えない。けれど連れていくわけにはいかなかったし、連れていく気もない。私の芸術にとって、これはとても煩わしいことなのだから。
それでも人を求めてしまうのは、どういうことなのだろうか。
八束も息をつき、ベッドから下ろした足をぶらぶらさせた。
「後悔、してるんだよな」
「してる」
「でも行くんだろう」
「行く」
「僕と離れても」
「ああ」
「……芯から後悔するのに」
「……」
「離れたら、会えないし、話せないし、触れられないのに」
俯いていた顔をそっとあげると、こちらを一心に見つめている八束と正面切って目があった。
「戻ってくる?」
「……約束できない」
「きみは僕を捨てられないよ」
「その根拠は、なに? おれは、おれの芸術のために、自分勝手に、あなたを」
「僕を捨てるとき、きみはいまよりもっと果てしなく、ひどく後悔するからだ」
八束はきっぱりと言った。眼鏡の奥で瞳を燃やしている。
「そうだな……その通りだ」
「だろう、」
瞳の距離が狭まる。とてもスムーズな動きで頬を寄せ、私たちはくちづけた。
吸い、離れて、惜しんで、またくちづけて、心もとなく肩を抱き、ふたりで呆然とうなだれた。
「何度も言う、僕は別れない」
「……おれは行くよ」
「別れない……」
「そうか……」
ただ惜しみがたく身を寄せ合うだけで、それ以上をどちらとも求めることはできない。ひたすらに蒸し暑く長く深い夜を無言で耐えた。
Tまでは二回往復する必要があった。引越しの荷物と資材を乗せたトラックで藍川の元へ行く。荷物を下ろして戻りトラックを返却して自家用車でTへ再び向かう。
八束はそのどちらも仕事で見送ってくれたりはしなかった。離れる、という現実に直面してお互いにおじけていたのかも知れない。倉庫に残した家財や資材の管理簿をテーブルに置き、その横にちいさな木彫の作品を置いた。桃の実と枝葉をリアルに表現している。うっすらと塗装だけしたそれだが、きちんと塗れば本物と言い張れそうだ。実物大の大きさのそれに、私は「Happy Birthday」と書いたメモを添えた。
桃は魔を祓う。あなたの身に災いがどうか起こりませんように、と願って夏前から制作したものだった。
誰かを思って作品を作るのははじめてだな、と思いながら作った。それを置いてついにミナミ倉庫を出た。
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夕方、えっちゃんがやって来た。自転車を漕いで汗まみれ、そこに冷えたスイカはさぞや甘露だったようだ。中学生ふたりが中年ふたりを凌いで甘い蜜を瞬く間に皮だけにしていった。そのままにしておくと虫が来るからと、えっちゃんが丁寧に後処理をする。
「四季ちゃんの進路希望聞いたの?」と訊いてみた。
「聞きましたよ。それでちょっとビミョーな感じにもなりましたけど、まあおれら付きあい長いんで。南波が五年制の学校行っていい会社に就職してくれたら、おれは安心して実家継げます。おれ、高校は行きますけど卒業したら後継ぐんで」
そんな先のことまで考えているのかと驚いた。素直にそう言うと、えっちゃんは「でも来年には受験生すから」とシンプルな答えがあった。
「三年先とか、五年先って、多分すぐです。五年前のおれと南波が小学生でトヨエツの真似して笑ってたみたいに。すぐですよ」
えっちゃんは分かっている、と感じた。中学生でいられる年齢なんてあっという間で、えっちゃんの背がぐんぐん伸びて声変わりしたのも、周囲からすれば「いつの間に」と言える短さだったことをきちんと客観視している。
南波には迷惑たくさんかけたし、と笑ったえっちゃんと私の視線の先には、私の日用品の整理を請け負ってくれている叔父と姪の姿がある。
夕飯時になると、「ふたりを送ってくる」と言って八束が車にえっちゃんの自転車と中学生をふたり乗せていったん帰宅し、シャワーを浴びて着替えて戻ってきた。「昨夜はきみと飲めなかったからな」と手には酒がある。土産のクラフトビールの瓶をあけて飲みながら、八束は整理を手伝ってくれた。
先ほど四季には触らせなかった衣類をまとめ、「Tって寒いのかな」と八束は言った。
「たまに大雪のニュースを聞く」
「日本海側だから雪は降るんじゃないかな。気温はどうだろう」
「この辺の冬服、防虫剤とまとめて袋に入れてしまうぞ。なにか出しとくものはあるか?」
「ああ、特にない。ありがとう」
グビ、とビールを口にする。蚊が飛んでいたので蚊取り線香を焚いた。
「……気づいてるだろうし、これを言うかはやっぱり迷うんだけど、」と私は切り出した。
「なに?」
「あいつ、連れてくから」
窓の外をちょいちょいと指さした。八束はああ、と気づいて、ものすごく嫌そうな顔をした。
「宅間か。……妙な話になったようだな。……すまない」
「あなたが謝ることはないよ」
「いや、僕がきみを巻き込んだんだ。きみにはついあんなふうに怒ってしまったけど、元凶は僕だから……結局は自分のせいなんだ。きみの行動に納得は何もしてないけど」
ふ、と八束は複雑な感情を吐き出すように息をついて目線を外から逸らした。
「あなたが謝ることはないよ」
「いや、僕がきみを巻き込んだんだ。きみにはついあんなふうに怒ってしまったけど、元凶は僕だから……結局は自分のせいなんだ。きみの行動に納得は何もしてないけど」
ふ、と八束は複雑な感情を吐き出すように息をついて目線を外から逸らした。
「まあ、連れてくって言うか、ついて来るだろうなっていうのを、放置するだけだ」
「毎晩きみのところを付け回してるのか」
「なんかもう隠す気もないらしいな。ただそこでじっとしてるだけだからストーカー被害だって訴える気にもならない。あいつはさ、カオナシみたいなんだなって」
「ミヤザキハヤオの?」
「うん。行くとこが、本当にない」
「……まさかあの映画みたいに、藍川先生に押し付ける気じゃないだろうな」
「そんなつもりはない。おれは怒ってる。あいつがあなたにしたことも、おれにしたことも。あなたがあんな奴と遊んだことすらも、怒ってる」
そう告げて立ち上がり、ビールを一気に飲み干した。「そこ、今夜はもういいよ」と指示する。
八束は瞳をふかくして、私を見あげた。
「……僕は、きみと別れるつもりは毛頭ないからな。ひとりでいる主義とか言って、そんなの後悔させてやるよ」
「もうとっくにしてるよ」
「……」
「でもおれは遠くに行くし、芸術のためならあなたを捨てられる。あなたに優しくしたいと思いながら、うまく出来ないんだよ」
「……語弊ありきで言うけど、きみってちょっと、自閉症っぽいところあるよな」
「ジヘイショウ」復唱してしまった。
「自閉症スペクトラム。きみ、教員免許持ってるだろ。大学でやんなかったの?」
「いや、やった。特別養護学校の実習だって行ったよ。けどあの頃は言い方も違ったし、よくわかんねーなと思いながら授業受けてたかな」
「ふうん。まあ、発達障害に当てはまるところもあればないところもあるし。この人のこれは個性的だなって思うのが強烈だと該当したりするし、しなかったりもする。僕もちゃんと勉強したわけじゃないからよくわかんないけど、ちょっと前に仕事で関わった人にそういう人がいて」
「うん」
「こんこんとひとつの物事を突き詰められる反面、人との接触が苦手。きみってさ、ひとりで延々と遊んでられる子どもじゃなかった?」
「うーん、ずっと絵を描いてたか工作してるかだったのは覚えてるけど、内向的だったかと言われるとそうでもない」
でも確かに人と話すのにすごく吃る時期があったな、と思い出した。
「人と適正な距離を掴むのは、苦手でさ。ひとりが平気」
「全く平気なわけじゃないけど、ひとりの時間は大事だな」
「そう、それを乱されるときみはものすごくストレスになるんだろう。そしてそういうストレスが身体症状に案外出やすい。だから離婚になったんじゃないの」
そうかもしれない、とふと思えた。ひとりとふたりのバランスがうまく取れなかったというか。
「僕もひとりでずっと本を読んでいられる。だからなんとなく分かる。それでも人が恋しいのも、分かる。僕は別れないぞ」
「……」
「きみがひとりになりたくても、黙って言わないことがあっても、別れない。昨夜のきみの別れ話を僕は聞いていない」
「……」
私は八束の手首を掴んだ。
「ちょっとこっち来て」
「なに?」
「あ、電気は消してくれ」
ブラインドとパーテーションで暗くしたままの、ベッドのあるスペースへ八束を引っ張る。ベッドサイドのランプだけ灯して、「これは置いて行こうと思う」とベッドを指した。
「待ってくれ、確かに退去を申し出たけれど、明日じゅうに引き払ってくれという話は困る。一週間後に引き払いますと、大家さんとは話をつけたはずだ」
「引き払うのは六日後でいいさ。持っていくものも、最低限必要なものにしてすぐに使わない資材とか日用品は置いてけ。きみがこの倉庫を契約していられるのは明日までと言う意味だ。明後日以降の入居者が決まった」
「ここに入居? 誰が?」
「僕だ」
さらりと、さも当たり前かのように八束は言い放った。私はあまりの展開に驚きを隠せず、目と口をあけたまま絶句してしまった。頭にかぶせていたタオルが床に落ちる。
「この倉庫はこれから僕が借りる。親父とも契約を済ませた。これ、きみの契約変更の書類な。署名だけくれ。きみはいつ出て行ってもいい。明日でも、六日後でも、一ヶ月後でも、三年後でも」
「それは、」
「きみがあまりにも僕に話さないことが多いから、僕も勝手に決めることにした。きみが出て行ったら、そうだな。ここには本でも置こうかと思ってる」
「……」
「ガスも電気も水道も、そのままつないでおけばいい。僕が使うから」
それを聞いて私は、――驚きで口元を手で覆った。うつむき、足元を見る。落ちたタオルは八束が拾った。三人分の足元が見える。汚れた作業靴と小さなローファーと手入れのされた革靴が、輪を描いて寄せ集まっている。
う、とうめき声が漏れた。八束が「不満か?」とそちらの方が文句がありそうに言う。
「――……あなたはそうやって人をひとりにしないんだな」
絶望しながら歓喜が湧いた。混乱からではなく、希望にすがる想いがあった。
「なぜだ?」
「そりゃきみを好いているからだ」
姪の手前でも、八束は全く臆さなかった。
「みんなきみが好きなんだ。きみが好きだからきみの味方でいたい。きみがどんなにひとりになりたがろうと、周囲はそうしない。だから藍川先生もきみを必要としたんだし、あの方とは違うやり方でも、僕もきみの力になりたい」
うなだれている私の腕に、四季の腕が絡み付いた。「そうだよー、好きなんだよー」と四季は身体を寄せる。
八束もまた、私の頭をぽすぽすとはたいた。
「苦しんでいるきみの味方でいたい。苦しみながら芸術を生み出すっていうきみのスタイルなら尊重する。でも人生まるごと苦しみぬく必要はない。一瞬でも、楽しい時間や、充実した喜びがあっていい」
「……」
「僕らはきみが好きだ。信用を置いている。そして信用がなければ信頼は生まれない」
八束の手に力がこもる。四季に抱かれ、八束に撫でられ、私は呻いた。この人たちと離れたくないと心の底から思った。こんなにしてもらって、返せるものはあるのだろうか? 私ごときに、何ができるだろうか?
「ねー、スイカまだかな?」
「いくらなんでも早いだろう。もう少し待ちなさい」
「あ、そうだセノくん。聞いて」
四季は私の手を軽く引っ張り、私の情けない顔を覗き込んで、「私ね、行きたい高校がある」と言った。
「高校っていうか、高専なんだけど」
「……高専? って、理系の五年制じゃなかったっけ?」
「そーそ。高専って就職率高いしさ。もっと勉強したいと思っても進路に幅きくし。まあ、寮生活になっちゃうから受かれば家は出るんだけどね。でもそしたら早めに自立もできるのかなあって」
「倍率めちゃくちゃ高いし僕は理系なんかとても教えられないんだけどね」
最近すごく勉強している、と八束は言い添えた。確かに四季がよく勉強に励んでいる姿を見る。塾には行かず、でもネットなどを活用して勉強法をさらっているのも。
「おかーさん、理系だったんだって。大学は理工学部で就職先は電力会社だったし。それ聞いて、なんかこうピタッとハマったんだよね。あ、これだな、って。例えばこの町は大きな川があってヤツカくんもそういうことを調べてて、川って身近。おかーさんみたいに電力会社だったら水力発電やってるダム湖はこの川の上流にもあるし。もしくは水害に関することを知りたい。なんか、川に関わって暮らす人のことを考える仕事がいい」
「無理に大人びる必要もないよと僕は言ったんだけど、親父は四季がやりたいようにやればいいと言ったからね。そういう意向なら尊重すると、夏休み前の三者面談で担任の先生とも話して」
「……おれには思いつかないような進路だ」
手を握ってくる少女が、不思議な生き物に思えた。この間はえっちゃんと微妙な関係になってうんうん唸っていたと思っていたのに、新しいことを思いついてどんどん進んでいく。
それは昔、私にも確かに存在した若者らしい推進力だった。
「だからセノくんが戻って来る頃は、私はここにいないかもしんない。おじいちゃんはいま元気だけど、でもいつどうなるかは誰だってわかんない。ヤツカくんがひとりになってる可能性だってあるんだから、セノくんはやっぱりここに戻ってこないと。それにここにセノくんがいないなんてさ。こんなに倉庫暮らしの似合う変なおじさんはいないんだから」
「……そうか」
私はぐりぐりと目元を擦ってから顔をあげた。友好の印に四季の手を握り返した。
「教えてくれてありがとう。心からきみの進路を応援する」
「うん、頑張るんだ、私。とりあえずいまの学校で理数のトップファイブ入りを目指すの。十番内には入ったことあるけど、塾通いしてる子達にはなんか負けちゃって」
「それでもすごいよ」
「セノくんだってそうでしょ。好きだと頑張れるし伸びるんだよ」
「……そうだね」
好き、の向こうに何があるか。伸びていくばかりの葦草にはまだ分からぬ感情かもしれない。私は芸術を深く愛しているが、頑張って伸びた結果いまは足掻いている。八束を切り離そうとするぐらいに。人の傍から離れようと思うぐらいに。
眩い夏の光を直視したようで、私は頭を打ち振った。
「片付け、手伝うよ。それでえっちゃん来たらみんなでスイカ食べよ」と四季が言った。
「いや、」と私は口にする。
「休憩しようと思ってたところだったから。もうちょっとみんなで話そう」
それを言って、四季よりも先に八束が声をあげた。軽く笑う。久々に見た顔だな、と思った。
出立は、一週間後にした。大家にもそう話していたし、早く藍川の元へ向かいたかった。話ではすでに制作に入っているという。私の他に三人ほどアシスタントがつく予定だが、ひとりを除いて通いだと聞いている。名前を訊けば知っている人たちだった。第一線で活躍している者も、若手注目株も、皆一様に藍川を慕っている人物だ。
とにかく作業場を片付けて倉庫を綺麗にしなければならない。大汗かいて資材をまとめ道具類をまとめる。これを日用品でも行わなければならない。こうして引っ越してきたな、と私は五年前の記憶を手繰った。
――アトリエ、ですか。
物件を決めたとき、大家とともに八束もいた。休みだからと運転手代わりにされていたのだ。
――そう言えば聞こえはいいですけど、ただの作業場ですよ。アトリエを持てるような優雅な生活は送れません。
――どんなものをお作りになるんですか?
――立体彫刻ですね。材質は木が主ですが粘土でも石膏でも金属でも、なんでも。最近は寺の坊さん伝いに持ち込まれる仏像彫刻や社殿なんかの修復の依頼が多いので、主にはそれの制作になります。だからアトリエとは言い難いですね。
――いや、僕なんかには逆立ちしたって成せないような素晴らしいお仕事でびっくりしました。
――大したものではないです。
――彫刻と関わりのある方と出会えて嬉しいです。僕は好きな現代彫刻家がいるんです。ご存知かな。鷹島静穏ていう。
――……いえ、私は、あの。
あの時、まさか自分の活動名が出てくるとは思わなくて驚いた。もう何年も制作発表に至れていないのに、作品を知っていてくれている人がこんな小さな町にいたこと。
あれは間違いなく喜びだった。八束の無表情にはひっそりと笑みが潜んでいて、その眼差しにじくじくと甘くむず痒い痛みが走った。私がここで制作に戻れればこの人は喜ぶだろうかと考えた。そういう記憶だ。
重い資材は機械がないと積み込めない。トラックとフォークリフトを借りているのは三日後からの予定で、道具と日用品の片付けを優先した。ひとりで黙々と手を動かす。段ボールに詰め込むのは割れて困るようなものだけにして、あとは大きなビニールで包み込んでしまうことにした。トラックでの引っ越し、業者を頼むわけでもない。大学に通うためにひとり暮らしをはじめた時も、妻との結婚で引っ越した時も、もしくは離婚した時も、引っ越しは全て自力で行ってきた。
真夏のさなか、昼間の行動は堪えた。汗まみれになって濡れた頭の上からホースの水をかぶる。このまま昼寝して夜やろうかな、と考えていると、光に満ちた明るい庭先にひらりとスカートの裾がひるがえった。
セーラー服姿の四季が、快活にこちらへ走ってくる。元より扉をあけ放している。びたびたの髪にタオルを引っかぶり、慌てて近くへ寄った。
「セノくーん」と四季は入り口をくぐってやって来る。
「お邪魔しまーす。あれ水遊びしてたの? ねえねえスイカ食べない?」
「なんで制服なの? 夏休みでしょ?」
「ああ、今日はね。命日だから。おかーさんのお墓参りしてきたの」
「――ああ、そうか」
南波家は盆より少し前に悼む人がいる。若死にしたから四季が成人するまでは命日に墓参りをするんだ、と何年か前に八束が言っていたと思い出す。去年あたりが七回忌だったかと思う。
スイカを食べるか、と訊いてきた割には四季は手ぶらで財布すら持たないようだった。
「四季ちゃんここまで何で来たの? ひとりは危ないんだけど」
「あ、ヤツカくんと車で来たよ。ヤツカくんも来るよ――ほら」
バタン、と後方で音がした。炎天下を、ネットに入った大玉のスイカをぶら下げて八束がやってくる。姪が持つ軽やかな動作よりも少し重い、けれど夏の重さに負けず実直に歩く確かな骨肉。このモーションの豊かさは南波家の誰もが持つのか、いつ見ても魅入る。
八束も喪装だった。
「――やあ」と八束は眼鏡の弦を押しあげながら屋内へやって来た。どういう顔をしていいのか分からずわずかに下を向く。
「スイカを買って来た。この家、たらいがあったよな。冷やして食べよう」
「……こんな大きなスイカを、この三人で?」
「四季が選んだ。文句は四季に」
「私ねえスイカも好きなんだよねー。これ、えっちゃんちで買ったの。セノくんちに持ってくよって言ったら、店番済んだらえっちゃんも行きたいって言ってた。えっちゃんも夏の果物は大好き。だから終わっちゃうよ、こんなスイカ。すぐだよ、すぐ」
「だそうだ。水道借りるよ」
と、庭の水場へと進む八束に、端に寄せておいたたらいを渡す。八束はそれを不機嫌に受け取り、蛇口にホースをつないで流しっぱなしにして水を張り、スイカを冷やす。
「引っ越しの準備、順調?」と四季が訊ねる。
「いや、全然。資材は日頃から整理してたから梱包して積み込むだけなんだけど、日用品がね。散らかってる」
「セノくんちってそんなにものがあったっけ?」
「ないように思ってたんだけどな。なんだかんだで五年暮らしてると、ひとりでも増えるもんだな」
「……いつ引っ越すの?」
「ええと、六日後、」
言いさして、だが八束の声が「いや、明日だ」と割って入った。手をハンカチで拭いながら八束が再び屋内へやって来る。
「明日?」
「正確には、きみのこの倉庫の契約期限が明日切れるという意味だ。これは払ってもらった今月分の家賃から明日までの家賃の差額を引いた分の金。返金するものだ。親父から預かってきた」
そう言って八束はポケットから封筒を取り出し、私に寄越す。
私にされるままに揺さぶられていた八束は、私の肩に手を添え、「そうか」と呟いた。
「……きみは苦しいんだな……」
そのぽかりと宙に浮かせたような物言いに、私は顔をあげた。八束の表情は至って普通だった。もう怒ってもいなかったし哀れんでもいなかった。ただ、納得した、という顔だった。
「ずっと苦しんでいるんだ」
「……」
「だからきみの作るものは美しいんだな。はじめて理解した。普通の人、とくくると失礼だけど、きみのような繊細な才能を持ち合わせない人は、もっと大雑把で図々しい。だから雑音の中で生活を営める。きみの感性は鋭い分、相当に過敏なんだろう。センサーの目が細かい。だからこそのきみの作品で、裏返しがきみの不調なんだ。……それだけ長く苦しんでいる人に、僕がかけてやる言葉もない。きみのそのセンサーの鋭さを最大に発揮できる環境さえあるなら、とんでもない芸術を生み出すのは分かる。分かるから、……だからTなのか」
八束は私の手を外し、座り込んだ。
「きみと別れるのは、納得しない。しないけど、……前にきみは言ったな。自分のことが好きじゃないと。僕といても、ひとりにしてくれよと言うぐらいなら、きみにとってこの交流は、辛いだけだ」
やけに冷静に語るので、私も冷静を取り戻しつつあった。だが八束のそれは見せかけの話で、実のところ八束はちっとも納得などしていなかった。目の前の事実を淡々と述べたに過ぎない。そしてヒュ、と喉を鳴らしたかと思うと、八束はぎりぎりまで引き絞った矢のように張り詰めた声で「きみと離れたくない」と言った。
「別れたくない……きみのためにならなくても」
それには私の半分が同意している。残る半分がTへ行けとものすごい剣幕で訴えていた。
「きみの前妻という人は、出来た人だなと思う。こんな状態のきみをひとりに出来たんだから。僕には耐えられない。僕は、」
八束は震え出した。
「僕のエゴで、鷹島静穏の芸術の邪魔しかできない」
「八束さん」
ふるえる八束には添わず、私はようやく言葉を発した。
「わがままと我が身のかわいさで首を絞めているのはおれだ。自分のためにならないと思いながら、人恋しくて、誰かの傍にいたくて、傷つけられて喜ぶあなたが可哀想で、おれから付きあおうと言ったから」
「僕のこと、好きか?」
「可哀想だと思う。そして強い人だとも思う。繊細に歪んでみえてとても強か。そういうところに、惹かれたかもしれない。はじめっからおれは、辛かった」
私は息を吸い、目を閉じた。とてもじゃないけど直視していられなかった。
「おれと別れてください」
別れを切り出して、八束がどういう顔でなんと答えたのか。先程のことだったのに記憶が曖昧だ。気づいたら自分で運転して、倉庫に戻っていた。車をガレージに停めたまま私は思考を、というより行動自体を停止していたらしい。ぼんやりとあけた窓から夜風を浴びながら、八束はなんと言ったかな、とどうしても思い出せないことを思い出そうとしていた。
――君がそうしたいなら。
――僕は承知しない。
――どうしていま言われなきゃならないんだ。
八束が言いそうな言葉を色々と思い浮かべてみたが、どれもしっくり来なかった。ということは言われなかったのだろうか。八束はなんと言ったのだろうか。
息を吐き、車を降りる。気だるい真夏の風は、水の冷気で多少やわらいでいる。車から倉庫の入り口へと向かうと、その入り口に人影があった。アルミの扉を背にうずくまって通路をふさいでいる。人感センサーでついたきつい明かりの下、人影の正体は即座にあらわになる。宅間だった。
なぜ、こんな夜に限って、と苛立ちより疲労が肩にのしかかる。けれど宅間には追求すべき事柄もあった。
「よぉ、遅い帰宅だな」と痩せっぽちの若者は私を見あげて言った。
「約束を破ったな。八束さんに接触したと聞いた」
「なんだ、八束と一緒にいたのか? あいつとは接触したが、危害を加えることはしてないし、もうしねえよ。あんたに会いたかった」
ずらずらと並べて漏れる文句の意味が分からず、私は暗い目で宅間を睨みつけた。
「忘れらんねえんだ、昨日の衝撃が。あんたにだったら解剖されていい」
「何言ってる」
「あんた、引っ越すんだよな、Tに」
尻を叩き、宅間は立ちあがった。
「盗聴してたからな、知ってた。だったら早くあんたの立場を追わないとと思って貼り出した写真だったが、なんかうまくいかなかったよ。やり込められて、おれが参っちまった。おれはこの通り文なしで宿なしだ。なあ、おれも一緒にTに連れてってくれよ」
その台詞は、あまりにも意表をついて言葉が出なかった。
「……何言ってる?」
「ターゲットが変わっちまった。八束を傷つけたくてたまらなかったのに、あんたに罵られて脅されておれは気持ちよかったんだ。なあ、おれ割と手先は器用だぜ。八束よりも役に立つ。立たなくても、傍に置いてくれるだけでいい。あんたの傍にいたいんだ」
「……おまえの脳は、どうやらなんにも入っていないようだな」
宅間を乱暴に避けて、鍵を取り出し、私は扉をあけた。
「頼むよ、傍にいさせてくれ」
「ごめんこうむる。おれたちに一切関わらないと約束させたはずだ」
「ならここを出てくあんたにおれが勝手に引っ付いてくだけなら自由だよな」
「次は警察沙汰にすると言ったはずだ」
「あんたと一緒に行ったら、おれは八束には手を出せない」
その台詞に振り向くと、宅間は卑しい顔でニタリと笑った。
「あんたがおれの弱味を握ってるように、おれもあんたの弱点を分かってんだよ。八束だろ? おまえは八束には優しくしてえんだ。それを八束が望んでなかったとしてもな。八束の身の上に起きる不幸は許せない。だからおれを懲らしめた。……あんたがおれを連れてく方が、八束のためだと思うけど」
そう言ってのける男の顔は人の不幸を糧に生きてきたのだろうと思わせた。男の生い立ちまで知らぬがろくな人生でもなかったのだろうと分かる。だがそこに同情の余地はない。
「おまえなんかとTに行くのはごめんだ。帰れ」
「だから帰る家はねえんだよ、おれは」
「ならおれの視界から消えろ。八束さんの視界にも映るな」
「おれもTに行くからなっ!」
嫌な叫び声を背後に、倉庫の中に入って扉を閉め、施錠した。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
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2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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