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階段は狭く急で、暗かった。二階には八束と四季の部屋、物置があると聞いている。四季の部屋は元は四季の母親、八束の姉が使っていたとも。扉ではなく、ふすまだった。それをスラリとスライドさせ、八束は部屋の電灯のスイッチを入れた。
パッと明かりが灯る。八畳間に八束の机と椅子、衣類を重ねたボックス、それとおびただしい本が置かれていた。本棚に仕舞いきれず、床に山を作っている。一体どこで寝ているんだと思うほど本で埋め尽くされており、床が抜けないかヒヤヒヤする。八束はその小山をどけ、椅子に座るように促した。自身は荷物ごとベッドの上に這い上る。
カーテンを引っ張り、窓の外が隠される。八束の机の上に乗っている読み差しの本のタイトルをなんとなく眺めた。流れる筆文字で、現代の文字として判別できぬ古い本だった。
ベッドの上で背を向けて着替えながら、八束は「話せよ」と言った。声が硬い。こわばった身体ごと抱きしめて誤魔化す自分を想像して、嫌気が差した。
「……すごいな、この部屋。床が抜けない?」
「これでも持ち込み制限はしてるんだよ。庭の土蔵に普段は仕舞ってる」
「てことはまだ本はあるのか」
「家中埋めても足りないだろうな。だいぶ売ったり処分したりを、定期的にやるんだけど」
本題と外れる会話を、八束は許してくれた。私は頭の後ろを掻き、「オススメの本ある?」と訊いた。
「……漠然とした質問だな」
「なんでもいいから手に入りやすそうなものを一冊ぐらい訊いとこうと思って。向こうで読むよ」
「どこに行くって、……言うんだ……」
八束の声が沈む。私は正直に、腹を括って、「T」と答えた。
「大学を辞めて?」
「ああ」
「Tに新しい仕事があるのか? それとも宅間に辞めさせられてここを出るのか?」
「いや、宅間の件は無関係。あいつに付け回されなくても大学は辞めてた。そろそろ頃合いだったんだ」
「頃合いとは?」
「以前あなたと行った恩師の個展。あの時すれ違ったね。藍川先生。先生の工房がTにある。そこで藍川先生のアシスタントを。個展の後に連絡を取って、打診されていた。大きな規模の制作を行うから手伝ってほしいと」
「それは、これからずっと?」
「期間は分からない。制作が終わればおれも藍川先生の元から離れる。ただ、いつ終わるのかまでは約束されてないから」
「あの倉庫を出てまで行かなきゃならないことなのか?」
「少なくとも二・三年はかかるだろうと踏んでいる。五年かかる覚悟、とも。そんなに長い期間を留守のまま契約しておけない」
「いつ、いつごろそれを決意した?」
「……」
「昨日決めて今日実行することじゃないだろう。いつから決めてたんだ。どうして、」
そこで八束はベッドにうずくまった。祈るように項垂れ、顔を膝に埋める。
「だからどうして、僕は、こんなにもきみのことを知らないんだろう……」
その問いは、息苦しくなる重たい問いだった。八束も苦しい。私も苦しい。水を吸えない水中に、ふたりで溺れて足掻いているような苦しさだった。
「おれが言わないから」と私は答える。
「……宅間のこともきみは言わなかった。今日あいつは、へらへら笑って報告してきたよ。僕をつけ回していたこと、きみをつけ回したこと。きみを攻撃して失敗してやり返されたと嬉しそうだった。僕の性癖を理解する気になった、とね」
「……あれは本当にろくでもないから、あなたにはもう関わってほしくなかった。やり方が幼いし、あなたも職を追われるようなことがあるんじゃないかとか、身体に傷つけられていないかとか、懸念すべき事柄が絶えない」
「きみと離れなければならない僕のことを考えたか?」
質問に、私はイエスと答えたかった。けれど答えられない。八束を傷つけると分かっていて、私は「考えなかった」と嘘をついた。
うなだれていた八束は顔を上げた。泣いてはおらず、私をきつく睨んでいる。
「別れるっていうのか」
「距離が距離だし。おれはやっぱりひとりにならないといけないんだと痛感しているから」
「そういうことを聞いてるんじゃない。きみの本心がどこにあるのかを知りたいんだ」
「……」
「嫌いになった、飽きた。男相手は気持ち悪い。こんな話でもされればまだ分かる。納得はできないし諦めるのにも時間がかかるだろうけど、なら仕方がないって思う。愛情を僕は得られなかったという意味だから。セノさん、ひとりになるって、なに? 言葉があるんだから、きちんと言語にしてくれよ。分かるように」
「これを、……説明し切れる気がしない」
「それでも話すんだ。話せよ」
「……」
「もう黙るな、静穏!」
八束はベッドから降りて。椅子に腰掛ける私の胸ぐらを再度掴んだ。どんな時の、どんな八束よりもモーションが雑で、乱れ、混乱していた。
「こんな意味の分からないまま別れたら、僕はまた宅間のようなクズとつるむぞ。それでもいいのか? きみは僕のなんなんだ? 僕らは、」
胸ぐらを掴む八束の手をほどき、今度は私が八束の胸ぐらを掴んだ。下から八束を睨みつける。忘れたはずの過呼吸の気配がそっと忍び寄る。やけに息苦しいと思っていた。
「だから嫌なんだ! おれはもう、こんなことで時間潰して感情を乱している場合じゃない!」
八束の胸ぐらを掴んだまま。ガクンと一度揺さぶった。
「作りたいんだ。おれは、芸術の傍にいたい。作れなきゃおれがおれである意味はないんだよ。そのためにはこの時間も交流も断たねば成せない。おれは、おれの成したいことを成したい。もうたくさんだ! ひとりにしてくれよ……!」
再度八束を揺さぶり、そのまま八束の胸に縋るようにうなだれた。声はあげなかったが、胸の中は悔しさでいっぱいで、こんな酷い言葉しか言えないことが情けなかった。
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「……おれが、何を黙っていたことを、誰から、知ったの」
「てことは計画的に黙っていたんだな。隠し通すつもりだったってことだ。ますます腹立たしい」
「待ってヤツカくん、なに? どしたの?」
「駅で宅間に待ち伏せされた。そこであいつから全部聞かされた。あいつが僕を狙って僕や僕の家族を付け回していたこと。ターゲットをきみに変えたこと。大学に写真を貼りだしたこと。仕返しを食らったこと。全部、全部だ。……職を追われるようなことをされてまでなぜ黙る? なぜ言わない? あいつの狙いは僕で、きみはとばっちりの被害者だ。なぜ罠まで張って懲らしめるようなことまでして、僕には言わない?」
荷物を投げ落とし、八束は私の胸ぐらを掴んだ。至近距離で見る眼鏡の奥の瞳は怒りと悲しみでじりじりと焦げ付くようだった。四季が慌てて「ちょっとヤツカくん」と静止に入る。
「どうしたの? 喧嘩?」
「この男はなあ、僕が過去に付きあいのあったクズに僕ら一家がつけまわされたことを知った上に、そのクズに自分自身の仕事を妨害されたんだ。大学は夏休みに入ったが、その前にことが起きていてきみは休講を余儀なくされたと聞いた。てことは非常勤のきみには収入がなくなると言うことだよな。職を追われたんだ。僕のせいで。それを黙っていたどころか、もうこの家に関わるなと周到に罠を張って懲らしめたらしい。それを、なぜ言わない? この家が危険だと言うこと、その危険がきみ自身に及んだということを、なぜ黙す? 自己犠牲心なんか持ちあわせてもなんの得にはならない。僕に言え! 隠すな、黙るな、秘密にするな!」
「そうなの? セノくん」
八束の剣幕を逃して逸らすように、四季がそっと訊ねてきた。私のシャツを掴んでいる八束の手はふるえている。こういう行動はし慣れていないはずだから、よっぽどの怒りと憤りが彼に渦巻いているのだと分かる。
「え? 不審者のことだよね? 春先うちの周りにいたっぽいやつ。その人が? なに? その人が誰なのか分かったの? セノくんは。仕事の邪魔されたの? 懲らしめたってどういうこと?」
「いや、……」私はどう話すべきか迷う。宅間の素性を晒せば、四季や大家には八束の性癖も晒さぬわけにはいかないだろう。本人がそれを承諾しているのかは気がかりであるし、やはりこのことは八束には知らせずに済ませて終わりたかったと思った。宅間が八束と接触したということは、私の脅しは効かなかったということだ。西川の言うとおり私は甘かったのだろうか。けれど私はサディスティックではない。……多分、きっと。
八束は「まだ黙るのか」と追及を緩めない。私はついに観念した。
「おれのことはいいから、この家の、大家さんや四季ちゃんや八束さんが安全に暮らせるようにしたかった。おれは平気。大したことじゃない」
「大したことだろう? 中傷されて、尊厳を踏みにじられて、収入を追われて、なんで怒らないんだ?」
「怒ってるよ。だからやり返したんだ」
「じゃあそれをなぜ僕らに言わない? 僕らも当事者だ。ひとりで解決なんかするわけないだろう?」
「いや、させるつもりだった。懲らしめ足りなかったんだって、後悔してるけど」
「だからどうして」
「八束」
それまで黙っていた大家がようやく言葉を発した。「手を離しなさい。落ち着いて」と静かに言う。
「セノくんが悪いわけじゃないだろう」
「……そうだけどやり方が気に食わない」
「八束、セノくんはね、大学を辞めてあの倉庫を出るそうだ」
八束から急に手の力が緩んだ。緩んだ手はまだ私の胸元にわだかまっていたが、彼はゆっくりと大家の方を向いて「どういうこと?」と訊ねた。
四季も可哀想なぐらいに気を張り詰めて私たちの動向に目を瞠っている。
「私が聞いたのは職を移すからという理由で、事務的な手続きをしたぐらいだ。店子の詳細まできっちり追うような大家じゃないからね。詳しいことを知りたいなら、親しい友人という立場のおまえが訊きなさい」
「……引っ越すのか?」
八束の表情が変わる。怒りに満ちていた顔は、いまは驚きと戸惑いに変化していた。
「いつ?」
「……事務的なことが済めばすぐにでも。ごめん、これはちゃんと言おうと思っていて、ずっと言えなかった」
「そんなに前から決めていたこと、か?」
「大家さん、四季ちゃん」
胸に置かれた八束の手はそのまま、ふるえる背に手を当て食卓のふたりに向きあった。
「八束さんとふたりで話をしたいので、食いかけだけど、これでいったん席を外します。ごちそうさまでした、美味かった。……八束さん、ふたりになりたい。あなたの自室に上がっていいかな」
「……片付いていない」
「構わない。それともおれのところに来る?」
八束はうつむき、息を深く長く吐いた。
「二階、行こう」
荷物を拾い、八束はノロノロと歩き出す。その後を追う。不安げな顔を見せる四季に、「片付けできなくてごめん」としようもない謝罪をして二階にある八束の自室に上がった。
「みょうがって好きなんだけどさ。食べると口の中が痺れてきて、冷たいもの食べると苦味を感じたりするようになるんだよね」
「あ、味覚障害だよ。アナフィラキシー起きてないか?」
「アナフィラキシー? 蜂に刺されて死ぬやつ?」
「そうだね。それはアナフィラキシーの急性期の症状だ。要するにアレルギー反応。好きなのは分かるけど、あんまり摂取するとよくないんじゃないかな」
「えー? みょうがアレルギー? 私もうみょうが食べちゃだめ?」
いたくがっかりしながら四季はつゆの入った器と箸を置いた。食卓には氷に浸したそうめんとつゆ、たっぷりの薬味が用意されている。件のみょうがにオクラ、大葉に鰹節、いりごま。ねぎと七味、梅肉にごま油。みょうがに至ってはザクザクに切り刻んだものときゅうりのスライスをめんつゆで和えた浅漬けのような一品まで用意されている。よっぽど好きなのは伝わったが、話を聞く限りではあまり口にしない方がいいだろう。
夕方の早い時刻、南波家の早めの食事にありついていた。私の向かいには四季がいて、ショートパンツから長い素足を露出させ、プラプラさせながら「ショックだー」と嘆いている。八束はまだ帰宅していない。大家は書類を確認すると言って席を外している。
箸を伸ばし、とうもろこしの天ぷらを齧った。からりと揚がったそれはえっちゃんの家からのお裾分けを調理したという。油ぎりの良い見事な腕前に感服する。
「食べすぎなければ大丈夫かな?」と四季は諦めない。
「うーん、一概にそうと言えないのが食物アレルギーの怖いところだからなあ。やめておいた方が賢明、としか」
「セノくん、待たせたね」
そこへ大家が和室から戻ってきた。手には何枚かの書類がある。
「食事の最中に割ってすまない」
「いえ、勝手にお相伴に預かっているだけですので、むしろこちらこそ」
「セノくんのお話、分かりました。ここに日割りで金額を出したので、これだけ返金するということで」
「……ありがとうございます。急に無茶を言って、本来なら余計に支払うのはこちらの方なのに返金に応じていただいて」
「いえ、私としてはもう少し可能性を探ってはいるんだけどね。まあ、――人には色んな事情があるから」
大家の言葉に、私は深く頭を下げる。四季はちらちらと視線をめぐらすも、察してはいるのか淋しげではあった。
「おじいちゃんもそうめん食べよ?」と大家に四季が声をかける。
「ああ、そうだね。セノくん、ここにだけサインを」
促され、書類に「鷹島静穏」と書いた。これで、とうっすらとした淋しさと清しさを思う。これで、もう、これで。
大家は書類を仕舞いに下がり、戻ってきて食卓に着いた。
「あの倉庫は事故物件だからね」と大家はつゆに薬味をたっぷり入れながら語りかけてきた。
「借り手はそうそういないよ。だから物置き場として当面はそのままでいいとも思うんだけどねえ。あれだけの大きくて重たい資材、どう運ぶおつもりで?」
「大型の免許持ってるので、トラック借りて自力で」
「Tまで?」
「そうですね。長旅ですけど」
「うーん」
大家は考えてたが、不安そうな顔をしている四季の顔を見てにこりと笑い、「八束はまだ帰らないのかな」と話題を変えた。
「あ、そういえば遅いね。夕方には戻るって言ってたけどもう六時になる」
「天ぷらがあるから飲みたいんだけどねえ。セノくん、付きあいませんか?」
「実はそのつもりで来てたんです。八束さんにお土産に酒を買ってくるからって言われていて」
「なんだ。四季、八束に電話してみて」
と大家は言ったが、四季が立ちあがりかけると同時に玄関の扉があく音がした。無遠慮に家の中を進み、足音は私たちの傍までやって来る。台所に続く居間の入り口に、ノータイだがワイシャツ姿の八束が非常に無愛想に、不機嫌に立った。
「おかえりヤツカくん。いま噂してたとこ。遅いね、って」
四季が話しかける。八束はずかずかと居間を進み、荷物を持ったまま台所のテーブルまでやって来た。私はそうめんをすする手を止めて八束を見あげる。剣のある眼差しであたかも怒っているかのようだった。
いや、違う。怒っている。
予想に反して静かな声で、八束は「なぜ黙っていた」と私に詰め寄った。四季も大家も唐突な行動に呆気に取られているが、私だけはその台詞を聞いて、ああとうとうこの時が来てしまったな、と不思議と静かな気持ちで思った。
「どーせまた同じことの繰り返しだろ。こっちはまるきり被害者なんでね。おまえさんの情動ありきの行動は信用出来ない。思いつきで行動して、被害喰らうのはこっちだ。そんなカメラごときで解放されようたってね」
「いや、西川。こちらとしては情報は抜き取った。もう関わらないと約束するな?」
私は宅間に詰め寄る。宅間はへらへらと笑っていたが、目の奥底には怯えが含まれていたのを見逃さなかった。
「約束する、――します」
「カメラの前で誓え。証拠を残す。西川、」
「おっけ」西川はデジタルカメラを構えた。
瞬間、私はためらいなく宅間の耳元に足をつけ、耳を抉り取るかのように靴底で嬲った。髪を巻き込んでいるらしく、宅間は痛みで苦悶の表情を見せた。
手にアウトドア用の万能ナイフを構え、片目の先に突きつける。
「誓え。南波八束、及びその家族、関係者、私――鷹島静穏に二度と関わらない。もし次があったらおれはおまえの身の安全を保障しない」
つ、とナイフの切先を目に近づける。宅間は恐怖で目を瞑った。
「誓え」
「誓う! 誓います! もう二度と近づかない! 関わらない!」
「次はこれでは済まない」
「誓うから……!」
それきり黙った。
「分かった。解放しよう。カメラや機材は置いていけ。去れ。……もう来るな」
ナイフで拘束を解いた。宅間は本当に抵抗する気がないらしく、もたもたと立ちあがり、手をゆっくりと動かす。あらかた乾いたズボンを投げるとそれをのろのろと穿いた。私たちが回収していた機材の他に車に積んであったあれこれを運び出し、差し出して、こちらの方をおどおどと見てから一目散に車に乗り込み、去っていった。
車は信じられない速度で川べりを爆走し、道を折れてテールランプも見えなくなった。西川が「あーあ、大丈夫かね?」と背後で呟く。
「あいつが?」
「おたくよおたく、鷹島センセ。あんなんで解放しちゃって」
「いや。まあ、こんなもんだろ。こっちには脅しあげられるだけの物証は揃った。これでもう関わって来なけりゃそれでいい」
「いいの? 大学とか」
「事情は話すさ。それに、……もうこんなことをしている暇もないんだ、本当は」
「……藍川先生のアシスタント?」
「悪いな西川。おまえにゃ辛い話になるか?」
「いいの、いーのもう。藍川先生は決して僕にはなびかれてくんなかったけど、僕はいまちゃんと幸せだし。過去の話。過去過去。藍川先生を好きだった僕は昔の僕」
西川はタープの下に戻り、「ちょっと飲まねえ?」とメキシコ産の瓶ビールを二本取り出した。嵐を送ったついでに購入してきたらしかった。
ほとんど消えている炎はそのまま、虫除けキャンドルの明かりで西川とビールを飲んだ。
「――でも、藍川先生にこんなに信頼されてるおまえは羨ましい」と西川は呟いた。
「ジャンルが同じだから声がかかるだけだよ」
「おまえとの師弟関係はため息が出るほど清廉で美しい信頼だと思うよ。藍川先生、相変わらず?」
「お元気だ。歳は取ったけどそれはおれたちだってそうだから。六十代になんか見えないけどね、お孫さんがかわいいっておっしゃると、そうかあと思う」
「……そだね」
しばらく間ができた。「肉、もう少し焼くか?」と訊ねると、西川は「いつ行くの」と別のことを訊き返した。
「藍川先生のところ」
「……本当なら、とっくに。この騒ぎだったから」
「なあ、気になってたんだけど、……ヤツカさんて人にちゃんと話したか?」
「今回のこと?」
「とぼけんなよ。おまえがTに行くって話だよ」
「……」
「バーカ。いつもひとりで決めやがって。おまえってさ、肝心のことを間違えてるんだ。夏衣とのこともそうだよ。おまえら夫婦は距離感がおかしかった。だってお互いのこと知らねえんだもん。何してるかとか、どういう予定かとか。どういう考えを持っていて、どういうことが今日あったのか。まるでおとぎ話みたいで。お互いのスタイルを尊重しあってるからとか言ってたけど、違うよな。鷹島はひとりの人と長く続かねえなあとは思ってたけど、そういうことなんじゃねえの? 自分のことを言わない。相手のことも訊かない。知らないまんまで済むかよ。おまえら付きあってんじゃねーのかよ」
「酔っ払ったか、西川」
「そうやってはぐらかすのもな。今日のことだって下手すりゃ言わねえだろ、おまえ。なんでそんなに蚊帳の外に置くんだ。おまえだけのことじゃねえって。おまえらのことなんだよ。髭でなんもかも隠して腹の内もぜってー見せねえ。そういうのが、パートナーに向ける態度であっていいわけねえだろ。くそったれ」
喋っているうちに興奮したのか、西川は「あー」と叫んで頭をガリガリと掻いた。昔はなめらかな長い髪を自慢していたが、いまは短めに揃えている。だが相変わらず綺麗な髪だ。それをむしるような仕草で乱暴に立ちあがる。
「明日! 明日にはヤツカさんは帰って来るんだろ、出張から。ぜってー会いに行けよ。そんで話せよ。喧嘩してもいいから全部だ!」
「西川、夜だから」
「約束しろ!」
「……分かったよ」
そう言うと、西川はぷいっとそっぽを向いて「着替えて寝るっ!」と室内へと入って行った。ここも片付けなければな、と思いながらも重い腰が上がらない。
「……わかってるんだよ、西川」
そっと呟き、宅間の置いて行ったカメラに手を伸ばす。収納ボックスにはケーブルやレンズの他に綺麗に整理された記録媒体が複数収まっている。
その再生の中に収まっていたのは、どれも八束の姿だった。
「悪いがこっちが被害者なんでな。おまえが失禁して気を失っているところは記録させてもらった。これからおまえがおれの意に反するようなことをするなら、容赦なくデータを晒す。質問に答えろ」
そう告げると、ぐうう、と宅間の腹が鳴った。腹が減っているか、と呆れたが、それも無理からぬ話だった。
「水ぐらいは分けてやる。今夜はそれでしのげ。一日ぐらい食わなくても死なない」
「……もう、あんたには歯向かう気もねえよ」
宅間はみじろぎ、「せめて身体を起こしてくれ」と頼んできた。
「手足は拘束されたまんまでいい。というか、あんた上手いな、縛るのが。びくとも緩まねえ」
「職業柄ロープは使うんだ。知ってるだろうに」
「そこの、……玄関の扉に盗聴器仕掛けてたのもお見通しか?」
「調べたからな。だから利用もさせてもらった。おれはよくここで電話をしたり、八束さんと話をするから、……ただ、家の中まで侵入の様子はなかった。ないな?」
「ない。……何が訊きたい」
「動機だ。こんなことをした理由。今回は個人的にとどめるが次は警察沙汰にする」
「話をする。するから、身体を起こして座らせてくれ。……抵抗はしない」
しおらしく宅間は言った。それを三分の一程度信用することにして、両手両足を縛ったまま材木からは男を解き放った。椅子に座らせたが、腰縄をつけ先は材木に結えつけた。犬にリードをつけたような格好だ。
宅間は息をついた。
「……別に、ただおれは南波八束に未練があっただけさ」
そんな気はしていた。私は宅間の言葉を待つ。
「あいつはさ、おれらみたいな世界のやつにはとんでもない魅力? 引き寄せるモンがあるんだ。まず身体つきがいい。暴力の振るい甲斐のある身体をしている。ぶつと真っ赤に腫れて、痛みで身体をくねらせる。それがそそるんだ。そして性的な快楽を得るくせに態度は屈しねえ。ねじ伏せたくてゾクゾクするよ……。それが冬のはじめぐらいから変わった。プレイそのものを拒むようになったがそれもまたこちらとしては火がつく。趣味で済ませられなくなった頃、もう関わりたくないと言われた。こっちとしては服従させたくて仕方がなかったから、諦めきれなかった。八束の理由を探るうちにあんたに行き着いた。あんたといる八束は明らかに普通なんだ。あいつの本性も知らねえくせにと頭にきてよ。おまえを潰して八束を潰そうと思った。失敗したけどな」
宅間は唾を吐くように大袈裟に息をついた。
「あいつには中毒性があって、あの身体から離れられなくなる。依存するんだ。あいつの過去の男はどれもおれと似たようなろくでなしで、同じような感覚に陥るらしいぜ。ストーカーだと分かっていながらあいつを追いかけ回しているうちに、あいつとおまえの関係性に気づいた。煮え繰り返ったよ。あいつがまともじゃなかったらただの戯言ひとつと思ったが、あいつはあんたの前じゃまともなんだ。気味が悪くてよ……あいつがおまえに心酔しているのは明らかだったから、おまえを攻撃すればあいつにダメージが及んで、壊れると思った。おれはあいつを壊したかったんだ。あんたの大学に貼った写真は、あいつとのプレイでおれが撮った写真だ。ここまでやればあいつはおれに泣きつくと思ったが、あんたはあのことをあいつには漏らさなかったな。おかげであいつに被害が及ばねえし、挙句罠にははまるしよ。怖くなった。急にだ」
「何が怖いんだ」
「あんただよ、あんた」
くつくつと自嘲するように宅間は笑った。
「とんでもねえサディスティックだ。おれより遥かにな。攻撃は冷静で正確、方法も熟知している。あんたに鑿突きつけられた時、八束みたいなマゾヒストを急に理解した。自分の力じゃ敵わねえと理解したときの、圧倒的な力の差が恐ろしくて、……自分を壊されるのが心地いいんだ。支配の喜びってやつ。……あんた、向いてるよ。ゲージュツなんかやってねえでこっちの世界に来いよ。たちまち人気もんだぜ」
「くだらない話だ」
「八束が虜になるのも分かる。だがあんたは八束には優しくする。なぜだ?」
「答える必要もない」
「そうかい。まあいいよ。……水をくれ」
そう乞われ、ペットボトルの水を投げた。宅間の身体に当たって地面に落ちる。それを不自由な身体で拾い、不自由な手でひねって飲んだ。哀れな姿に同情さえ出来ない。
「どうせおれのことは調べ尽くしたんだろう」
水を飲んでから、宅間は言った。
「尽くした訳ではないが、鍵は手にしたな。個人情報なら醜態まで手の内にある。もっとも、住んでる場所や職業までは把握してない。まあ、仕事っていう仕事もしてなさそうだ」
「住んでる場所なんか調べらんねえよ。ホームレスだからな」
その答えはさすがに意外性があった。
「車中泊でその日にチンピラ仲間からもらう野暮用みたいなのをこなして金もらって暮らしてる。やる相手がいればホテルで寝る。車、見たんだろ。あれに積んでるのがおれの全部だよ」
「……その割にはあのカメラや機材は高額だと思うが」
「それにつぎ込んでんのさ。だから宿なし。……おれを縛って繋いだまんまでいいからよ、車まで連れてってくれ」
「何をする気だ」
「カメラ、機材、全部あんたにやる。そこには過去に撮りためた八束のデータもSDに記録したのが収まってる。とにかく全部あんたにやる。だからこれでもう解放してくれ」
「えー? 信じるかなあそんなことをさあ」
声が割って入る。嵐を送って帰ってきた西川がいつの間にか背後にいた。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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