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鴇田のアパートからいったんマンションへ戻って着替え、会社へ向かった。さすがにこんな災害の後なので被害の確認はすべきだった。蒼生子が心配だから、という頭はなかった。
マンションに戻ると蒼生子がいて、だが彼女は普段通りをふるまった。夫の外泊についてなにもコメントされない。どういうつもりなのか図りかねる。暖としてははっきりと「一緒にいたくない」と妻を拒み、帰らなかったのだ。
いつもの口調いつもの声音で「濡れたの?」と訊かれた。暖が着ていた蒼生子手製のシャツは濡れたのをかけておいただけだったので、再び着るときにはしわくちゃになっていたのだ。うん、とだけ暖は答えた。被害はなにもなく、夫婦の亀裂などなにも感じさせない完璧に整ったマンションの一室。塵ひとつない暖たち夫婦が暮らす家。寝室で着替えながらようやくスマートフォンの電源を入れたが、会社からの業務連絡と災害喚起情報が入っていただけだった。蒼生子は暖に対してなんのアクションも行っていなかった。
「暖、もう行く?」
と寝室から出て来た暖に妻は訊ねた。
「ああ、行く。この辺の被害は大丈夫みたいだから」
「ならテーブルの上にお弁当置いといたから、持ってってね。サンドイッチだけど。あとボトルにコーヒー淹れたから、それも」
「……ありがとう。蒼生子さん、今日は?」
「先生のお宅の被害がひどいみたいだから、様子を見に行って、手伝えることがあればお手伝いしてこようと思って」
「……そう。気を付けて」
「待って、暖。これ忘れて困らなかった?」
背を向けかけた暖に蒼生子が寄越したのは羞明対策で買った眼鏡だった。これがないと眩しくて困っていたというのに、その存在のことはまるで思い出さなかった。羞明の症状が蘇り、眩しいのはまさしくいまだ、と思う。
「ありがとう」
眼鏡を受け取り、マンションを出た。眼鏡はそのまま鞄の内ポケットに収まる。確実に夫婦の間になにかが挟まったのに、こんなにとりとめもない話をしている自分たちを滑稽に思った。このまま暖があの部屋に戻ることをやめても妻は部屋を綺麗に保ち続けるのだろうか。歪んだはずなのに、見なかったふりをされている。
前回の台風に続けての台風だったため、台風自体は前回よりも小規模だったとはいえ、被害があちこちで報告されていた。暖の暮らす街や取材地域も例外ではなかった。今回被害がとりわけ大きかったのは同僚の受け持つ地域で、そこは河川の増水で浸水した。増水の報を聞いたときから同僚は会社に泊まり、情報を拾い続けていたという。
暖が記者をしている新聞社は地元ローカル紙であり、規模も小さいため、社会記事も生活記事もその地域を担当する記者が取材を行う。大抵はふたりで各地域を担当するが、小さな自治体の場合はいくつか範囲をまとめて担当する。暖の片割れの地域担当者は、保育園が浸水したおかげで子どもの預け先がないと言って今日は休暇を取っている。災害を理由に出勤できない社員は何人もいた。出勤出来た内勤社員も手伝って、あちこちで被害の確認と取材を行った。暖自身の取材をようやく終え、社用車で戻って社内を確認する。まだ出ている社員がちらほらいて、空のデスクが目立つ。
取材と記事構成の合間、思い立って鴇田にメッセージを送った。鴇田のアパートは無事だったが、職場や収集エリアはどうだったのだろうか。ごみが散乱すれば鴇田たちも対応に追われることになるだろう。もしくは浸水被害で使えなくなったものをごみとして排出する必要に迫られれば、鴇田たち清掃会社の人間はもろに影響を受ける。
深夜になって届いたメッセージには『大丈夫です』とあった。
『でもこれからもっと忙しくなると思う。水が引いて自治体が消毒作業を終了すればみんな片づけをするだろうから』
『そうだよね。おれも忙しいけど、鴇田さんも安全と衛生には気を付けて』
既読になったが、返事はなかった。パソコンの画面とにらめっこして仕事を続けていると着信がある。鴇田からだった。慌ててフォンブースに駆け込んだ。
「どうした?」
『いえ、メッセージの続きです。僕もあなたも忙しくなってよかったな、と思って』
「どうして?」
『現実を見ないで済むから。向き合う時間が出来たら、僕はあなたに会いたくてたまらなくなる』
「……」
『もう会いたい。あんたがひと晩泊まってった、それだけの部屋なのに帰るのが辛い。あんたを思い出す。……恋がこういうものだと分かっていたら絶対に人なんか好きにならないのに、』
「……そう言わせたいわけじゃなかった。また会いに行く」
『いやです』
「鴇田さん」
『会ったら離れるのが辛い。奥さんいる人を好きになったからこうだって思い知る。だから会いたくないです』
「……それでも会おう」
『いやです。いまだって電話を切りたくないと思ってる。早く切らなきゃって思ってる。どっちもいやです。……会いたい』
「うん……」
男の辛い気持ちがストレートに伝わる。惜しんで暖から通話を切った。
結局、暖がまともに帰宅できるようになるまで四日かかった。マンションに帰るのは着替えやシャワーの一瞬だけという場合が多く、他は会社と取材先をまわって過ごした。蒼生子とまともに話をしていないし、鴇田のことはもっと外側にあった。常に気にかけているのに、会えないことがもどかしいくせに、片付けるべき事柄が山積していてたどり着けない。
被害の全容が把握できるようになり、子どもの保育園に困っていた同僚も出勤するようになって、暖はその日ようやく帰宅することにした。蒼生子と話そうという固い決意を抱いていた。ふと会社のエントランスで立ち止まる。ニュースは連日連夜台風被害の報告ばかりだが、打って変わってその後は清々しい晴れ間が続いていることを、傾きかけた日差しの中で知った。澄んだ空は秋が深い。空を見上げるなんていつぶりだろうか。斜陽は眩しかったが、眼鏡に手は伸びない。光をいいものだと思った。
夕日をぼんやりと浴びていると「三倉さん」と内勤社員から呼び止められた。
「すみません、お帰りになる前に確認が」
「いいよ。どしたの?」
「明日の紙面に載せる情報の再確認です。災害掲示板の連絡先一覧ですね。三倉さんのまとめで今日掲載したM地区の被害相談窓口に誤りがあったみたいで。ていうか、窓口が変更になったのかな? 電話をかけたけど違うみたいだって問い合わせがあって」
「うわ、まじか。確認しよう。戻るよ」
「すみません」
内勤社員とともにエレベーターに乗ってまた自分のデスクへと戻る。暖が役所や公民館へ電話で取材した地区の被害相談窓口の連絡先は、改めて確認を取ると暖が教えられた方から変更になったと判明した。役所でも情報が錯綜しており、混乱が起きているのだ。繰り返し確認を取り、こちらで間違いないですと確約を取って、内勤社員に正しい情報の記事を渡した。明日には訂正の旨が掲載される。このまま載らなくて済んでよかった、と胸をなでおろす。
息をついて社内に目を向ける。同僚のデスクに乗ったメモ書きに目がいった。走り書きで書かれたそれには「浸水被害地域(10/13まとめ)」とある。同僚の取材エリアは暖とは違う地域だ。そしてそこは鴇田がピアノを弾くあのバーのある地域だと思いついた途端、そのメモ書きから目が離せなくなった。食い入るように字を追う。確かあのバーの地区は、と地区名を思い浮かべると同時に、その名を一覧の中で発見出来た。あのバーは地下にある。被災しないわけがない。――ぐらりと身体が傾いだ気がした。
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「なに……」
「ピアノみたいに触ればいいって言われたから」
そっけなく言って、鴇田は左手を動かした。指がばらばらと暖の腹の上で跳ねる。なめらかに滑る。小指に思わぬ力強さを感じて驚いた。
「――なんの曲?」
「Ribbon In The Sky」
「知らないな」
「有名な曲です。イントロとボーカル聴いたらきっと分かりますよ。僕らの愛のため――」
「え?」
「愛のためのリボンが空にかかってるよ、っていう歌詞です」
「……ずいぶん口説くね」
「三倉さんがはじめて弾くピアノだったとしたら、はじめはこの曲を弾きたい」
暖に絡んでいるはずの右手も、いつの間にか連動して動いている。音はしないのに、ゆったりとメロディーが流れているかのような錯覚があった。こんな嵐の日に、こんなに充足して満ち足りている。
なにかトリルめいた指遣いで、鴇田の音楽は止まった。深いため息が肌に触れる。
「今度店で弾いてよ」
「うん」
「ん?」
「ここ、」とん、と鴇田は小指の腹で脇腹に触れた。かすった、という程度だったが、暖は息を詰めた。「――に触ると、身体がかたくなる」
「……くすぐったいんだよ」
「ここは?」反対側の脇腹だった。
「……くすぐったい」
「ここ」
「うん」
「ここ」
転々と指で身体のかたちを辿られた。くすぐったさに奥歯を噛んで口を閉ざしていると、指で触れた場所を舐められた。息が詰まり、つい力が入る。鴇田はもう迷わなかった。こわばりが緊張や萎縮からではないと、本能で分かりはじめている。
鴇田が触れたいと思う場所へ、手や舌はあちこちに這った。いつか暖のことを好奇心のかたまりと表現していたが、いま鴇田がまさにそうなのだと思う。暖の身体に全身で耳をすまして、反応を窺い、痛覚には一切触れない手加減で、暖の身体をまさぐった。いつの間にか暖は汗を浮かせ、鴇田に性器や周辺を刺激されている。
「――っ、ん……」
性器に直接触れられるよりも、太腿の付け根の内側を舐められる方が感じた。身体の内側の皮膚を裏返して外気に触れさせたような、寒気に似た過敏な快楽が走る。その方が暖が興奮するのだと分かってから、鴇田はなかなか性器へと触れなかった。骨盤の浮き出た皮膚や、臀部に近い腰、硬く張る腿や、そういう弱いところばかり弄られた。足首を取られふくらはぎの終わりを吸われたときは、背筋に走った微弱な電流が確かに回路をつなげた、と自覚した。
「……前に田代が、鴇田さんは勘がいいんだって、言ってて」
くるぶしに唇をつけられて震えた。
「よく分からないですけど、機械操作の覚えは早い方です」
「……なんかそういうの、理解した気分、」
「三倉さんはマシンではありませんよ」
抗議のようにふくらはぎを舐め上げられ、終わりに歯を立てられた。
「――ん、うん、」
膝の内側にも舌が這わされる。もう声を抑えることは難しかった。妻と一緒に断ち切ってしまったコードが、瞬時につなぎ直される。それでも一向に性器に触れられないことに焦れて自らそこに触れると、自分のものだと思えないぐらいに熱く漲って硬く、あろうことか先走りで濡れていた。
その手の上から、鴇田の手が巻きつく。自慰と同じリズムで、しかし違う力強さでしごかれ、念願の刺激に暖は観念して目をきつく閉じた。
「あ、……あぁ……っ」
目蓋の裏がちかちかと明滅している。じっとりと汗ばんだ肌を恥ずかしいと思った。ふたりの手の間から漏れる卑猥な水音がいたたまれず、身を捩ってこらえるも無駄な足掻きで、やたらとシーツを蹴るだけだった。
「ん、……もう、出る、」
坂を駆け下っているみたいだった。自分の手でしごいているのに、鴇田の手が絡むから別物で刺激されている。子どもみたいに無邪気な一途さで、鴇田の手をたっぷりと汚して吐精する。ただ出しただけなのに全身ぐったりして、充実感と疲労感で動けなかった。
「う……」
汚れた暖と自身の手を、鴇田は舐めた。熱心に精液を取り込む。指の股まで舐められて奥歯ががちがち鳴った。まだ冷めない熱が渦巻いていて、それを見透かした鴇田は、思い切り身体をずらして暖の腰を抱えた。
放出でやわらかくなった性器の裏に、鴇田の性器があてがわれる。硬く反り返り、熱をともして、暖の性器とひとまとめにまた握り込まれた。
「待って鴇田さん、」
「待たない。……もっと出来る」
鴇田が腰を揺すった。裏側に当たる熱で力をなくしていた性器がみるみる膨らんだ。出したからもういじりたくないのに、回路の繋がった身体は貪欲に快楽を貪ろうとする。鴇田の長い性器に合わせて扱かれるから、自分でするのと違うストロークがたまらなかった。先端の小さな穴をにじられて、また喉から悲鳴が漏れる。
「あ、だめだ、……また、――鴇田さん、」
「うん……」
鴇田の手のスピードが早まる。ぐちぐちとふたり分の先走りで濡れて、臀部に力が入る。鴇田が低く呻き、ほぼ同時に暖もうすく精を吐いた。全身でわななき、整わないうちに鴇田が倒れてきた。
「はっ……」
ひときわ大きく吸い、吐き、荒い呼吸を整えるさなかでキスをした。唾液がこぼれても気にしない。唇を吸い、目を合わせて見合い、鴇田はがくりと首を折って暖の肩に顔を落とした。
「――気持ちよかったですか」
声に含まれた湿度に胸が絞られた。返事の代わりに背をぽんぽんと叩く。鴇田は苦しげに呻き、「気持ちがよかった」と言った。
「……嫌じゃなかった?」
「いえ、全然。……あんなに誰かに触れることは怖いことだったんですが」
「克服かな」
「違うと思う……離れればまた怖くなる気がします」
鴇田は目元を暖の肩口に押し付けた。指を絡ませ、嵌まったままの指輪をなぞる。
「あんたを帰さなきゃいけない」
「……」
「分かってても、どこにも行ってほしくない」
「……うん、」
「ずっと嵐だったらいい……あんたの言う通りだ。後悔はないのに、もう辛い」
轟々とやまない風の音は、だがすこしずつ収まりつつあった。震え出した鴇田を強く抱きしめる。蒼生子への罪悪感はなかった。彼女と長年構築してきた愛情とは全く別の「情」で鴇田に触れたことを全く後悔せず、身体の中に矛盾もない。震える男が哀れでいとしくて暖は唇を寄せた。
暖はもう苦しんでいない。心から澄んでいる。だから鴇田にも苦しんでほしくはなかったがそれは勝手な思いであることも承知していた。ひと晩の宿を幾晩も頼むわけにはいかない。いまはかりそめで、暖にもまた羞明をもたらす朝が降りてくる。逃げても日は昇る。
「あんたが好きです」
至近距離で目を見て、鴇田はそう言った。
「僕はもう、それしか言えない」
返事の代わりにまた唇を寄せる。短いキスで目を閉じた。狭いベッドで身を寄せ合って眠り、夜明け前に台風は去った。
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今日の一曲(別窓)
「ピアノみたいに触ればいいって言われたから」
そっけなく言って、鴇田は左手を動かした。指がばらばらと暖の腹の上で跳ねる。なめらかに滑る。小指に思わぬ力強さを感じて驚いた。
「――なんの曲?」
「Ribbon In The Sky」
「知らないな」
「有名な曲です。イントロとボーカル聴いたらきっと分かりますよ。僕らの愛のため――」
「え?」
「愛のためのリボンが空にかかってるよ、っていう歌詞です」
「……ずいぶん口説くね」
「三倉さんがはじめて弾くピアノだったとしたら、はじめはこの曲を弾きたい」
暖に絡んでいるはずの右手も、いつの間にか連動して動いている。音はしないのに、ゆったりとメロディーが流れているかのような錯覚があった。こんな嵐の日に、こんなに充足して満ち足りている。
なにかトリルめいた指遣いで、鴇田の音楽は止まった。深いため息が肌に触れる。
「今度店で弾いてよ」
「うん」
「ん?」
「ここ、」とん、と鴇田は小指の腹で脇腹に触れた。かすった、という程度だったが、暖は息を詰めた。「――に触ると、身体がかたくなる」
「……くすぐったいんだよ」
「ここは?」反対側の脇腹だった。
「……くすぐったい」
「ここ」
「うん」
「ここ」
転々と指で身体のかたちを辿られた。くすぐったさに奥歯を噛んで口を閉ざしていると、指で触れた場所を舐められた。息が詰まり、つい力が入る。鴇田はもう迷わなかった。こわばりが緊張や萎縮からではないと、本能で分かりはじめている。
鴇田が触れたいと思う場所へ、手や舌はあちこちに這った。いつか暖のことを好奇心のかたまりと表現していたが、いま鴇田がまさにそうなのだと思う。暖の身体に全身で耳をすまして、反応を窺い、痛覚には一切触れない手加減で、暖の身体をまさぐった。いつの間にか暖は汗を浮かせ、鴇田に性器や周辺を刺激されている。
「――っ、ん……」
性器に直接触れられるよりも、太腿の付け根の内側を舐められる方が感じた。身体の内側の皮膚を裏返して外気に触れさせたような、寒気に似た過敏な快楽が走る。その方が暖が興奮するのだと分かってから、鴇田はなかなか性器へと触れなかった。骨盤の浮き出た皮膚や、臀部に近い腰、硬く張る腿や、そういう弱いところばかり弄られた。足首を取られふくらはぎの終わりを吸われたときは、背筋に走った微弱な電流が確かに回路をつなげた、と自覚した。
「……前に田代が、鴇田さんは勘がいいんだって、言ってて」
くるぶしに唇をつけられて震えた。
「よく分からないですけど、機械操作の覚えは早い方です」
「……なんかそういうの、理解した気分、」
「三倉さんはマシンではありませんよ」
抗議のようにふくらはぎを舐め上げられ、終わりに歯を立てられた。
「――ん、うん、」
膝の内側にも舌が這わされる。もう声を抑えることは難しかった。妻と一緒に断ち切ってしまったコードが、瞬時につなぎ直される。それでも一向に性器に触れられないことに焦れて自らそこに触れると、自分のものだと思えないぐらいに熱く漲って硬く、あろうことか先走りで濡れていた。
その手の上から、鴇田の手が巻きつく。自慰と同じリズムで、しかし違う力強さでしごかれ、念願の刺激に暖は観念して目をきつく閉じた。
「あ、……あぁ……っ」
目蓋の裏がちかちかと明滅している。じっとりと汗ばんだ肌を恥ずかしいと思った。ふたりの手の間から漏れる卑猥な水音がいたたまれず、身を捩ってこらえるも無駄な足掻きで、やたらとシーツを蹴るだけだった。
「ん、……もう、出る、」
坂を駆け下っているみたいだった。自分の手でしごいているのに、鴇田の手が絡むから別物で刺激されている。子どもみたいに無邪気な一途さで、鴇田の手をたっぷりと汚して吐精する。ただ出しただけなのに全身ぐったりして、充実感と疲労感で動けなかった。
「う……」
汚れた暖と自身の手を、鴇田は舐めた。熱心に精液を取り込む。指の股まで舐められて奥歯ががちがち鳴った。まだ冷めない熱が渦巻いていて、それを見透かした鴇田は、思い切り身体をずらして暖の腰を抱えた。
放出でやわらかくなった性器の裏に、鴇田の性器があてがわれる。硬く反り返り、熱をともして、暖の性器とひとまとめにまた握り込まれた。
「待って鴇田さん、」
「待たない。……もっと出来る」
鴇田が腰を揺すった。裏側に当たる熱で力をなくしていた性器がみるみる膨らんだ。出したからもういじりたくないのに、回路の繋がった身体は貪欲に快楽を貪ろうとする。鴇田の長い性器に合わせて扱かれるから、自分でするのと違うストロークがたまらなかった。先端の小さな穴をにじられて、また喉から悲鳴が漏れる。
「あ、だめだ、……また、――鴇田さん、」
「うん……」
鴇田の手のスピードが早まる。ぐちぐちとふたり分の先走りで濡れて、臀部に力が入る。鴇田が低く呻き、ほぼ同時に暖もうすく精を吐いた。全身でわななき、整わないうちに鴇田が倒れてきた。
「はっ……」
ひときわ大きく吸い、吐き、荒い呼吸を整えるさなかでキスをした。唾液がこぼれても気にしない。唇を吸い、目を合わせて見合い、鴇田はがくりと首を折って暖の肩に顔を落とした。
「――気持ちよかったですか」
声に含まれた湿度に胸が絞られた。返事の代わりに背をぽんぽんと叩く。鴇田は苦しげに呻き、「気持ちがよかった」と言った。
「……嫌じゃなかった?」
「いえ、全然。……あんなに誰かに触れることは怖いことだったんですが」
「克服かな」
「違うと思う……離れればまた怖くなる気がします」
鴇田は目元を暖の肩口に押し付けた。指を絡ませ、嵌まったままの指輪をなぞる。
「あんたを帰さなきゃいけない」
「……」
「分かってても、どこにも行ってほしくない」
「……うん、」
「ずっと嵐だったらいい……あんたの言う通りだ。後悔はないのに、もう辛い」
轟々とやまない風の音は、だがすこしずつ収まりつつあった。震え出した鴇田を強く抱きしめる。蒼生子への罪悪感はなかった。彼女と長年構築してきた愛情とは全く別の「情」で鴇田に触れたことを全く後悔せず、身体の中に矛盾もない。震える男が哀れでいとしくて暖は唇を寄せた。
暖はもう苦しんでいない。心から澄んでいる。だから鴇田にも苦しんでほしくはなかったがそれは勝手な思いであることも承知していた。ひと晩の宿を幾晩も頼むわけにはいかない。いまはかりそめで、暖にもまた羞明をもたらす朝が降りてくる。逃げても日は昇る。
「あんたが好きです」
至近距離で目を見て、鴇田はそう言った。
「僕はもう、それしか言えない」
返事の代わりにまた唇を寄せる。短いキスで目を閉じた。狭いベッドで身を寄せ合って眠り、夜明け前に台風は去った。
← 15
→ 17
今日の一曲(別窓)
「……外そうか」
これを外したところでなんの意味もないことを承知で訊ねる。
「いえ、そのままでいいです。……僕が好きになった人は好きになっちゃいけない人なんだって、……自惚れずに済む」
「もう戻らないよ」
具体的になにを考えているだなんてものはなかったけれど、暖ははっきりとそう告げた。
「戻れない。なかったことには、ならない」
「……」
「いま鴇田さんに触って欲しいと思う」
ぐ、と喉が鳴ったが、それが暖か鴇田かは分からなかった。分からないほど距離が近い。
「……ですが、」
「きっとあとでおれもあなたも嫌な思いをする。たくさんする羽目になる。それでもいま触れない方を、おれは後悔する」
「……僕もすると思います」
「じゃあ触れたい」
「……分からないんです。どうやっていいのか。三倉さんが教えてくれなきゃ」
「……そうだな、」
身体を動かし、身体の接触を確かめる。そっと鴇田の股間に足を擦り付けた。
「……ここを自分で触ったりもしない?」
「……そんなわけない」
「うん。いいよ、正しい」
「なんかすごく、……落ち着かない感じの汗が出て来て恥ずかしいと言うか、心許ないです」
「それも正しい。……してやるよ」
「え?」
「おれこないだ蒼生子さん相手に勃たなかったから、自分の性欲には自信がない。おれのすること覚えておいて……男相手ははじめてだからまあ、おれもよく分かんないけど。多分そんなにわるくはないよ」
「三倉さん、」
「触れられて嫌だったり気持ちが悪くなったら、『やめろ』と言ってください。でも大丈夫そうなら言わない。約束してください」
「……わかりました」
布団の上掛けを剥いで、鴇田の上になる。直接的に触れると鴇田はびくりと身体を攣らす。暖にあるのは、単純な興味だった。自分の手や口でこの男がどうなるのか、ならないのか、知りたい。
スウェットの上から揉むと、正常作動で硬くなった。触れる抵抗さえ除けば鴇田は健康な肉体を備えているということだ。硬くなったものを露出させた。鴇田の体躯にふさわしい、すらりと長い性器だった。それを目の当たりにして、暖は尾てい骨のあたりが心許なくなった。久々に興奮している。男相手だったら勃たなくてもおかしなことじゃないと余計なプレッシャーがない分、かえって性に対する気持ちが若い。
ふ、と息を吹きかけてみる。鴇田が息を飲んだのが分かった。顔を手で覆って、彼は羞恥と性感に耐えているようだった。幹に触れ、先端のまるみに唇を押し当て、舐めて、咥える。
「……う……」
鴇田の呻き声に、やっぱり興奮した。男のものを咥えた経験などないが、やり方を身体は知っているような気がした。ここを刺激すればきっと気持ちがいい、と分かる。同じ性を持つからか、容易いことだった。
鴇田の腿に胸を預けて、性器を一心に刺激する。鴇田のものはどんどん量を増していく。それがなんだか気持ちがいいと思った。相手が満足していることが伝わることを、喜びとして感じている。
鴇田の手が確かな意志を持って暖の腿に触れたとき、だから、びっくりした。
「気持ち悪い? やめる?」
「いえ、……――僕も触ります。三倉さんに触りたいです」
「……気持ち悪くない?」
「思わないです」
「あー……だけど、さっきも言ったように興奮するのか自信がなくて、」
「勃たなくても僕はがっかりしないです。というか、それが普通だと思う。ただあんたにされて気持ちがいいから、僕も触ってみたい」
その気持ちはよく分かると思った。「分かった」と頷き、暖は自分からスウェットを脱いだ。
互いに横向きになり、相手の性器を手で包む。鴇田に触れられて冗談でなく体表に汗が滲んだ。触れ方がたどたどしいからかもしれない。それでも熱い口腔に含まれれば、純粋な性感でいっぱいになった。二酸化炭素の溶けた水みたいに、体内が発泡しているような気がした。
暖が鴇田の性器を舐める。鴇田も暖の性器に舌を這わす。口の中に含んで吸う。暖のそこもそうされる。
暖がすることをそっくり手本に取って、鴇田は熱心に暖の性器を愛撫した。そのうち暖は分からなくなる。鴇田を気持ちよくしたいからしているはずのことなのに、自分を気持ちよくしてほしくてしていることみたいだ。
互いの身体が汗ばみ、手が滑る。先に呻いたのは鴇田だった。太腿に力が入っているのが分かったからそろそろだと思って追い立てて、鴇田は暖の口内で弾けた。受け止めきれなかった苦味が顔中に散ったが、自分でもいかれていると思うぐらい、嫌なことではなかった。
残滓を余さず吸い取る。鴇田は身体を硬くし、ちいさな声で「すみません」と謝った。
「――気持ちよかったでしょう」
顔に散った鴇田の精液を指で掬って舐める。そうしていると鴇田が身体を起こし、暖の顔の方へ自身の顔を寄せて来た。「すみません」と再度謝り、暖の顔を指で拭った、
「――僕は案の定というか、やっぱり下手ですね。三倉さん、全然反応しない……」
「いや、わりと結構、結構だよ。充分興奮してる。ここ最近のおれからすれば、すごく」
「そうなんですか?」
「鴇田さんが気持ちいいのが、気持ちいいよ」
そう言うと、鴇田の方からキスをされた。暖はうっとりと目を閉じる。先ほど暖が教えたことだと思ったら、やっぱり身体は発泡しているようにピリピリした。鴇田の手は懲りず暖を気持ちよくさせようと中途半端な性器に伸びたが、暖はその手を取ってもっと奥へと触らせた。
鴇田の指が、戸惑うそぶりで震える。
「男同士って、ここなんだっけ」
「……」
「そういえば確認しなかったな。あなたはどっち?」
「どっち?」
「おれに挿れたいと思う? 挿れられたいと思う?」
訊ねると、鴇田は照れを誤魔化すように暖の肩先に頭を乗せた。けれど頬の発熱が伝わる。
「挿れられたいと思うって方だと、おれはちょっと自信がないから」
「考えたことすらなかったです。こうなることは僕にはないと思っていたから」
「じゃあ今日はここ使えばいい」
「……使う、て表現が嫌です」
「それは悪かった。ええと、そうだな。……挿れる方は絶対気持ちいいってことをおれは知ってる。だったら今日は鴇田さんがそっちになればいい」
「……自分は気持ちよくなくても、いい?」
「言ってるでしょ、おれはもう充分気持ちがいいんだって」
鴇田の手を取りながら、後ろに倒れた。足を広げるのは抵抗があったが、それでもひらいた。鴇田はこわごわ奥に触れて、指の腹で押した。
「あー、えーと、……慣らした方がいいんだよな、きっと。なんかジェルとか、……ないか」
「……僕は、」
「ん?」
「セックスを知らないので訊くんですけど、……セックスって、挿れて出すだけ、ですか?」
鴇田の台詞にドキリとした。挿れて出すだけ。蒼生子と試みていたのは、そういうことだった。
「いや、……もっと色々あるし、するよ。相手と一緒に気持ちよくなりたいからさ」
「じゃあ挿れないでいいです。それより触りたい」
「……」
「あんたにも気持ちよくなってほしい……」
あんまりにも切実にそう言われ、暖は参ってしまった。腕を伸ばし、「おいで」と鴇田を引き寄せる。暖の上に重なった鴇田の髪をまさぐり、存分にかきまわし、撫でた。
胸に耳や頬をぴったりとつける。鴇田がまばたきする、その睫毛の僅かな上下が肌に触れる。鴇田の呼吸も肌に落ちる。しばらくそのまま、鴇田が身じろいだ。暖以外のなにも写さないとでも覚悟の決めたようなまっすぐで黒い瞳が暖を捉え、そうされると思ったから、目を閉じた。唇に唇が触れるのを待ったが、鴇田の顔は暖の顎から首筋へ落ち、そこに鼻を押し付けてにおいを嗅ぎ、舐められてびっくりした。
「――っ、鴇田さ」
「すいません、やめます」
そう言って鴇田は瞬時に身体を離したが、残るのはうっすらとした寒さで、耐えきれずまた暖の胸に頭を乗っけて来た。
片手を絡ませる。鴇田の右手は、暖の左手薬指を気にした。迷っているそぶりが伝わる。だが男は空いている片方の手で、暖の腹をたわむれに何度か叩いた。
← 14
→ 16
これを外したところでなんの意味もないことを承知で訊ねる。
「いえ、そのままでいいです。……僕が好きになった人は好きになっちゃいけない人なんだって、……自惚れずに済む」
「もう戻らないよ」
具体的になにを考えているだなんてものはなかったけれど、暖ははっきりとそう告げた。
「戻れない。なかったことには、ならない」
「……」
「いま鴇田さんに触って欲しいと思う」
ぐ、と喉が鳴ったが、それが暖か鴇田かは分からなかった。分からないほど距離が近い。
「……ですが、」
「きっとあとでおれもあなたも嫌な思いをする。たくさんする羽目になる。それでもいま触れない方を、おれは後悔する」
「……僕もすると思います」
「じゃあ触れたい」
「……分からないんです。どうやっていいのか。三倉さんが教えてくれなきゃ」
「……そうだな、」
身体を動かし、身体の接触を確かめる。そっと鴇田の股間に足を擦り付けた。
「……ここを自分で触ったりもしない?」
「……そんなわけない」
「うん。いいよ、正しい」
「なんかすごく、……落ち着かない感じの汗が出て来て恥ずかしいと言うか、心許ないです」
「それも正しい。……してやるよ」
「え?」
「おれこないだ蒼生子さん相手に勃たなかったから、自分の性欲には自信がない。おれのすること覚えておいて……男相手ははじめてだからまあ、おれもよく分かんないけど。多分そんなにわるくはないよ」
「三倉さん、」
「触れられて嫌だったり気持ちが悪くなったら、『やめろ』と言ってください。でも大丈夫そうなら言わない。約束してください」
「……わかりました」
布団の上掛けを剥いで、鴇田の上になる。直接的に触れると鴇田はびくりと身体を攣らす。暖にあるのは、単純な興味だった。自分の手や口でこの男がどうなるのか、ならないのか、知りたい。
スウェットの上から揉むと、正常作動で硬くなった。触れる抵抗さえ除けば鴇田は健康な肉体を備えているということだ。硬くなったものを露出させた。鴇田の体躯にふさわしい、すらりと長い性器だった。それを目の当たりにして、暖は尾てい骨のあたりが心許なくなった。久々に興奮している。男相手だったら勃たなくてもおかしなことじゃないと余計なプレッシャーがない分、かえって性に対する気持ちが若い。
ふ、と息を吹きかけてみる。鴇田が息を飲んだのが分かった。顔を手で覆って、彼は羞恥と性感に耐えているようだった。幹に触れ、先端のまるみに唇を押し当て、舐めて、咥える。
「……う……」
鴇田の呻き声に、やっぱり興奮した。男のものを咥えた経験などないが、やり方を身体は知っているような気がした。ここを刺激すればきっと気持ちがいい、と分かる。同じ性を持つからか、容易いことだった。
鴇田の腿に胸を預けて、性器を一心に刺激する。鴇田のものはどんどん量を増していく。それがなんだか気持ちがいいと思った。相手が満足していることが伝わることを、喜びとして感じている。
鴇田の手が確かな意志を持って暖の腿に触れたとき、だから、びっくりした。
「気持ち悪い? やめる?」
「いえ、……――僕も触ります。三倉さんに触りたいです」
「……気持ち悪くない?」
「思わないです」
「あー……だけど、さっきも言ったように興奮するのか自信がなくて、」
「勃たなくても僕はがっかりしないです。というか、それが普通だと思う。ただあんたにされて気持ちがいいから、僕も触ってみたい」
その気持ちはよく分かると思った。「分かった」と頷き、暖は自分からスウェットを脱いだ。
互いに横向きになり、相手の性器を手で包む。鴇田に触れられて冗談でなく体表に汗が滲んだ。触れ方がたどたどしいからかもしれない。それでも熱い口腔に含まれれば、純粋な性感でいっぱいになった。二酸化炭素の溶けた水みたいに、体内が発泡しているような気がした。
暖が鴇田の性器を舐める。鴇田も暖の性器に舌を這わす。口の中に含んで吸う。暖のそこもそうされる。
暖がすることをそっくり手本に取って、鴇田は熱心に暖の性器を愛撫した。そのうち暖は分からなくなる。鴇田を気持ちよくしたいからしているはずのことなのに、自分を気持ちよくしてほしくてしていることみたいだ。
互いの身体が汗ばみ、手が滑る。先に呻いたのは鴇田だった。太腿に力が入っているのが分かったからそろそろだと思って追い立てて、鴇田は暖の口内で弾けた。受け止めきれなかった苦味が顔中に散ったが、自分でもいかれていると思うぐらい、嫌なことではなかった。
残滓を余さず吸い取る。鴇田は身体を硬くし、ちいさな声で「すみません」と謝った。
「――気持ちよかったでしょう」
顔に散った鴇田の精液を指で掬って舐める。そうしていると鴇田が身体を起こし、暖の顔の方へ自身の顔を寄せて来た。「すみません」と再度謝り、暖の顔を指で拭った、
「――僕は案の定というか、やっぱり下手ですね。三倉さん、全然反応しない……」
「いや、わりと結構、結構だよ。充分興奮してる。ここ最近のおれからすれば、すごく」
「そうなんですか?」
「鴇田さんが気持ちいいのが、気持ちいいよ」
そう言うと、鴇田の方からキスをされた。暖はうっとりと目を閉じる。先ほど暖が教えたことだと思ったら、やっぱり身体は発泡しているようにピリピリした。鴇田の手は懲りず暖を気持ちよくさせようと中途半端な性器に伸びたが、暖はその手を取ってもっと奥へと触らせた。
鴇田の指が、戸惑うそぶりで震える。
「男同士って、ここなんだっけ」
「……」
「そういえば確認しなかったな。あなたはどっち?」
「どっち?」
「おれに挿れたいと思う? 挿れられたいと思う?」
訊ねると、鴇田は照れを誤魔化すように暖の肩先に頭を乗せた。けれど頬の発熱が伝わる。
「挿れられたいと思うって方だと、おれはちょっと自信がないから」
「考えたことすらなかったです。こうなることは僕にはないと思っていたから」
「じゃあ今日はここ使えばいい」
「……使う、て表現が嫌です」
「それは悪かった。ええと、そうだな。……挿れる方は絶対気持ちいいってことをおれは知ってる。だったら今日は鴇田さんがそっちになればいい」
「……自分は気持ちよくなくても、いい?」
「言ってるでしょ、おれはもう充分気持ちがいいんだって」
鴇田の手を取りながら、後ろに倒れた。足を広げるのは抵抗があったが、それでもひらいた。鴇田はこわごわ奥に触れて、指の腹で押した。
「あー、えーと、……慣らした方がいいんだよな、きっと。なんかジェルとか、……ないか」
「……僕は、」
「ん?」
「セックスを知らないので訊くんですけど、……セックスって、挿れて出すだけ、ですか?」
鴇田の台詞にドキリとした。挿れて出すだけ。蒼生子と試みていたのは、そういうことだった。
「いや、……もっと色々あるし、するよ。相手と一緒に気持ちよくなりたいからさ」
「じゃあ挿れないでいいです。それより触りたい」
「……」
「あんたにも気持ちよくなってほしい……」
あんまりにも切実にそう言われ、暖は参ってしまった。腕を伸ばし、「おいで」と鴇田を引き寄せる。暖の上に重なった鴇田の髪をまさぐり、存分にかきまわし、撫でた。
胸に耳や頬をぴったりとつける。鴇田がまばたきする、その睫毛の僅かな上下が肌に触れる。鴇田の呼吸も肌に落ちる。しばらくそのまま、鴇田が身じろいだ。暖以外のなにも写さないとでも覚悟の決めたようなまっすぐで黒い瞳が暖を捉え、そうされると思ったから、目を閉じた。唇に唇が触れるのを待ったが、鴇田の顔は暖の顎から首筋へ落ち、そこに鼻を押し付けてにおいを嗅ぎ、舐められてびっくりした。
「――っ、鴇田さ」
「すいません、やめます」
そう言って鴇田は瞬時に身体を離したが、残るのはうっすらとした寒さで、耐えきれずまた暖の胸に頭を乗っけて来た。
片手を絡ませる。鴇田の右手は、暖の左手薬指を気にした。迷っているそぶりが伝わる。だが男は空いている片方の手で、暖の腹をたわむれに何度か叩いた。
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夢を見ていた。夢の中で暖のいる場所は、浅く遠い海の広がる浜辺だった。曇天で時折雨粒の吹き流れる砂浜をひとりで歩いている。こうやって海辺を歩いた経験はなかったので、これは夢なんだと分かった。
海上に舟が浮かんでいた。実は笹の葉で作りましたと言っても疑えないような、小さくて頼りない舟だった。舟の上には電子ピアノと鴇田が乗っている。鴇田は縋るように背を丸め、熱心にピアノを弾いている。
音は聴こえなかった。海から流れる風とさざなむ波の音だけが全てだった。鴇田を乗せた舟は沖へ沖へと流れていく。見えない海流が鴇田を流していく様を暖は砂浜から動けず見ていた。
海のはるか向こうは明るかった。雲間からは光ではなく、虹が棒のように差し込んでいる。鴇田の舟はそこを目指している。暖はあがく。あがいて砂を蹴り、ざぶりと海に浸かった。ぬるい水が暖の行く手を阻む。
鴇田は行く。ピアノに夢中になって、陸から離れていくことにまるで気づいていない。暖にすら気づかない。行くな、嫌だと暖は進もうとする。そっちは眩しいから、行ってほしくない。
ガン、という大きな音で身体が引き攣り、暖は目を開けた。とっさに身体を起こしていた。部屋の中は暗く、輪郭が曖昧だ。まだ真夜中なんだと認識する。先ほど寝入ってからあまり時間が経っていないようだ。
ベッド下には寝袋があったが、中身はなかった。脱皮したみたいにくしゃりと形を歪めている。鴇田がいない。音への反応よりも、そちらへの焦りで心臓が冷えた。さっきまで見ていた夢が蘇る。ピアノだけに夢中になって、ひとりで行ってしまう鴇田。
ベッドを抜けてすりガラスの引き戸を引くと、LDKのベランダの外を、窓の内側から鴇田は見ていた。生き物の気配がちゃんと伝わった。その姿は暖をひどく安心させた。振り返った鴇田は「起きちゃいましたね」と静かに言った。
「すごい風で寝らんないですね」
「さっき……物音が、」
「ああ、ベランダにバケツが飛んできたみたいで」と、鴇田は回収したと思われるバケツを片手で示した。あひるをかたどった、幼児が使うちいさなバケツだった。
「うかうかしてるとガラスが割れそうです。980hPaって言ってるんで、さっきよりはだいぶ気圧は上がってるんですけど」
よく見れば鴇田の片耳にはイヤフォンが繋がっていた。スマートフォンでインターネットラジオを聴いているという。
「もしかしておれを起こさないようにイヤフォンでラジオ聞いてた?」
「いや、……単純に眠れなかっただけなので」
「……どこでも眠れるんじゃなかったの」
「別に、寝袋だったから眠れてなかったってわけじゃないですよ。――この部屋に人がいるな、と思って」
「……」
「親でさえ泊めたことはないんです。こんなに僕の近いところに来る人がいたんだな、と思ったらそれが、なんか、……」
鴇田は黙った。暖も黙る。鴇田の言葉を待ったが、鴇田は「なんでもないです、休んでください」と会話を切った。
暖は急にふてた気分になり、「目が覚めた」と主張した。
「鴇田さん、寝かして」
「ピアノ弾きましょうか」
「うん」と同意しかけ、先ほどの夢を瞬時に思い返して首を振った。「やっぱり嫌だ。ピアノは、いい」
「子どもみたいな駄々こねないでください。ピアノならいくらでも弾きます。それで寝てください」
「いやだ。だって鴇田さん、ピアノに夢中になるから」
「言ってる意味が分かんないです」
LDKから隣室へ移る。鴇田は電子ピアノにイヤフォンを差し込み椅子に座ろうとしたが、その肘をついとつまんで引っ張った。
「ピアノは嫌だ」
「……確かにこのピアノは店のピアノよりはるかに音質は悪いですけどね。……ならCDでも流しますか?」
「嫌だ」
「三倉さん」
どうしたいの、と呆れる口調だった。
「そういうことじゃない。……あなたのピアノ、好きですよ。でもいまは嫌ですね。あなたはピアノにしか興味ないみたいで」
「言ってる意味が」
「ピアノとふたりきりだったらいつまでも遊んでられるでしょう? 見てるこっちはひやひやしてるのに、……それが嫌だって言ってるんです。――いいです、寝ます」
「ええ?」
「寝るから」
暖はむきになって鴇田のベッドに潜りこんだ。しばらく布団をかぶってじっとして、観念してもぞもぞと起き上がる。なんだ、と思った。なんだ。要するにピアノに妬いている。
人には触れられないと言っている鴇田がピアノには距離を許す。それが暖には許せない。
鴇田はぼんやりと立ちすくんでいた。どうしていいのか戸惑っているのだ。暖だってこんな気分になるのは想定外だった。布団をかぶったまま手を伸ばす。「――一緒に寝よう」
暗い室内でも、鴇田が目をきつくしたのがなんだか分かった気がした。
「一緒に、寝られる?」
「……三倉さん、」
「鴇田さん、おれにどこまで許せますか? 触れない? 触りたくはない? おれが触っていいよって言っても、あなたは逃げる?」
「……」
「おれは鴇田さんがどういう風に触るのか、知りたいと思う」
鴇田を見上げる。シルエットでしか分からない。もっと近くに来てほしいと思う。暖に距離を許せるのか、やっぱり無理なのか、知りたい。
「なぜ?」と鴇田は問うた。
「『情』があるから?」
「そう、……情です。そしてそれをエネルギーにして、あなたに並々ならぬ興味がある」
「……僕には分からない表現です」
「なら、おれを好きだと言ってくれるのだから、おれへの理解を試みてくれると嬉しい」
「……」
「鴇田さんの好意に、『触れたい』は含まれませんか?」
「触れたいよ」と鴇田の声がした。掠れて震えている。「触りたいに決まってる。でもどういう風に触っていいのか分からないから、怖い」
「……ピアノみたいに触ればいいんだよ」
「ピアノとあんたは同じじゃない。それにあんたは、触っていい人じゃない」
「触っていいんだよ」
「さっきの距離よりもっと近くなって、そうなれば僕は、どうしていいのか分からない」
「鴇田さん」
また手を伸ばす。全身を使って手を差し出すと、迷いながら鴇田は暖の手に触れた。
その手をそっと掴む。吐息から察してはいたが、冷たい身体だった。徐々に鴇田を引っ張る。鴇田は暖に促されるままにベッドに乗り上げ、暖の上に重なった。
重さが嬉しかった。尋常ではない鴇田の鼓動が伝わって来る。どくどくと響いて、気持ちが良かった。
「――もっと下にずれて。体重かけていいから」
鴇田はこわばりながらも、身体を言われた通りに動かす。
「そう、……腕はこっち、――うん」
鴇田と向かいあって抱きあった。少し位置をずらして、鴇田の胸に暖の顔を置く。す、と息を吸うと鴇田のにおいがいっそう濃くかおり、ふ、と息を吐くと鴇田の着ているシャツに暖の吐息が熱く染みた。
「気持ちいい……」
「……」
「忘れてたな、……誰かに触れることは気持ちがいいことだって」
「……」
「鴇田さん、大丈夫?」
そう訊ねた途端、腕にこもる力が強まった。こわばって震えていた身体からみなぎる力は凄まじく、暖を圧倒して飲み込む。鴇田の身体が汗ばんでくるのが分かった。ゆっくりと首を締めるように圧をかけ、ぎゅうぎゅうと一寸の隙間も許さないとばかりに、強く抱きしめられる。
心臓や呼吸器官を握りこまれている、と思った。苦しくても息継ぎは鴇田のシャツに阻まれる。鴇田の背や肩にまわしている手で鴇田を叩いた。「痛い。鴇田さん、苦しい」
暖の頭を抱え、鴇田は暖の髪に頬擦りするように鼻先を埋めた。「う」とくぐもったうめき声がして、この男が苦しんでいることを理解する。
大丈夫だろうか。やっぱり暖から本能的に逃げたがっている、その反動ではないか。暖は不安でたまらなくなる。男の鼓動と体温は上昇の一途を辿っている。
暖の頭を抱えたまま、鴇田は「僕にはいないんだと思ってた」と呟いた。
「僕が距離を許せる人は、この世の中にはいないんだと思ってた。だって、紗羽やケントにでさえ触れられることは息苦しかった。なのにあんたとはいま、こんなに近くて、」
「……うん」
「僕が、距離を許せる人はいないんだと思ってた。誰に触れても触れられても息苦しいまんま、一生自分の身体は僕が自分で抱くしかない、そういう人生だと、思っていて、」
「うん」
「好きになった人に触れられることなんか、ないと思っていた……」
「……」
「あんたとこんな距離でいられることが、……嬉しくて、辛くて、泣きそうだ」
そのまま鴇田は暖に頬ずりするかのようにいとしさを込めて顔を傾ける。暖の方こそ泣きそうだった。いままでどうしても触れたくて触れられなかった経験が、この男にはどれだけ蓄積しているのだろう。そのたびに絶望を味わいひとりを覚悟する、そういう夜をどれだけ過ごしただろう。
――いま、鴇田が暖に触れられているという事実。それは一体、どれほどの喜びをもたらしているのだろう。
身じろいで暖は顔を上げる。鴇田も暖の頭を解放した。近くで目を見合い、今度はお互いの意志で唇を重ねた。鴇田の閉じた目蓋から涙が滲む。それを指の腹で拭い、また唇を合わせる。
鴇田が息継ぎのために唇を離す。そのタイミングを図って舌を潜り込ませた。背に回された鴇田の手に力がこもる。歯を探り、舌を突いて、口蓋の内側を舐める。垂れた唾液をまた舐めとって、鴇田の舌を絡ませる。
技巧もなく、歯と歯がぶつかった衝撃でようやく唇を離した。額と額を合わせる。「いやだった?」と訊ねると、鴇田は目を閉じて首を振った。
手を握り、指を絡ませる、ひとつひとつの動作が鴇田の未知なのだと分かったらどうしようもなく身体が熱くなった。指を鴇田は探る。左手薬指にはまった結婚指輪に行き当たり、辛そうに顔を歪めた。またむやみに傷つけた、と心から実感した。
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「人工授精を試みて、うまくいかなかった。彼女はあのとき何度も『産んであげられなくてごめんなさい』って謝りながら泣いて、それをなだめるのに本当に神経を使った。おれとの子どもをそんなに望んでくれていて、叶えられなくて申し訳ないとも思っていた。けど、違うよな。彼女は高校のころに産めなかった命に対して謝ってたんだ。おれとの受精卵がどうのこうのじゃなくてさ、……『子ども』が欲しかったんだよ。『子ども』が。……それが今日、ようやく分かって、」
「――はい、」
「おれはものすごく衝撃を受けて、だけど、納得もした。ちょっと荷が下りた気もした。彼女はおれとの子どもにこだわってるわけじゃないって。おれが頑張んなくてもいいんだって、」
「はい、」
「でも、そう思ったら、――いままで頑張ってたおれはなんだったのって、報われない気がして。徒労感って言うのかな。なんかもう、ぐちゃぐちゃで――……」
瞬間的に頭痛を感じた。喉の奥や、目の奥、頭の奥、とにかく奥という奥に力が入っていてみんな痛かった。痙攣のように肩を引き攣らせると、その肩を鴇田が力強く抑えた。壁に押し付けられるようにされて、暖は顔を上げた。この人はこんな触れ方をするのかと思った。
目の前の鴇田はうなだれていた。
「――あなたのそこまでの苦しみのことを、僕は知らなかった」
ほろっと涙が出た。ぬるく頬を伝う。
「僕はあんたが苦しんでいることは、嫌です」
「……」
「僕が苦しいだけだと思っていました。なんにも考えないであんたは僕に近づいて来るから。こっちの気も知らないで、ひどい人だと思っていた。それはあんたが本当に僕と遠いと思ったから。こんなに違うから。家庭があって、奥さんがいて、理解して触れ合える人がいてっていう、僕にはないものをなんでも持っていると、思ってて。だから僕への共感は無理な話で、ひどいことも平気なんだって、」
「……鴇田さん、大丈夫?」
鴇田の手は震えている。慣れない触れ方に戸惑っている事が伝わる。尋常でない力加減が肩に食い込む。人間に対する力加減ではなかった。
「……僕たちは、本当はものすごく近いところにいたんですね。僕は人に距離を許せないことを苦しみに思っていたけど、あんたは人に距離を許さなきゃいけないことを苦しく思っていて、それは多分そんなに、遠くない」
「……」
「遠いから惹かれるんだと思ってた……」
「……案外近かったから、嫌いになる?」
「好きです」
鴇田が顔を上げた。深々と黒い瞳が暖に向けられている。再度目を見ながら「あんたが好きです」と言った。肩を掴む指は力の込めすぎで白くなっていた。
暖は鴇田の頬に触れた。鴇田の身体に力が入ったが、逃げたり、暴力を振るわれたりはしなかった。
身体の重心を移し、鴇田に顔を近づける。鼻先が微かに触れて、全身の産毛が逆立つ感覚がした。ゆっくりと唇と唇が触れる。鴇田の吐息を冷たく感じた。人の吐いた息ではないかのような。
急な雨雲を察した時の、気温の下がった風に似ている。鴇田の身体を巡る雨雲、と思った。嵐かもしれない。轟々と唸っている。
自分は暴風雨の中を外に出ようとしている。とても愚かな行為だ。
危険は承知していた。不思議と心から納得している。
鴇田の頬から指を這わせて、至近距離でずっと暖を見ている瞳を覆った。
「――はい、」
「おれはものすごく衝撃を受けて、だけど、納得もした。ちょっと荷が下りた気もした。彼女はおれとの子どもにこだわってるわけじゃないって。おれが頑張んなくてもいいんだって、」
「はい、」
「でも、そう思ったら、――いままで頑張ってたおれはなんだったのって、報われない気がして。徒労感って言うのかな。なんかもう、ぐちゃぐちゃで――……」
瞬間的に頭痛を感じた。喉の奥や、目の奥、頭の奥、とにかく奥という奥に力が入っていてみんな痛かった。痙攣のように肩を引き攣らせると、その肩を鴇田が力強く抑えた。壁に押し付けられるようにされて、暖は顔を上げた。この人はこんな触れ方をするのかと思った。
目の前の鴇田はうなだれていた。
「――あなたのそこまでの苦しみのことを、僕は知らなかった」
ほろっと涙が出た。ぬるく頬を伝う。
「僕はあんたが苦しんでいることは、嫌です」
「……」
「僕が苦しいだけだと思っていました。なんにも考えないであんたは僕に近づいて来るから。こっちの気も知らないで、ひどい人だと思っていた。それはあんたが本当に僕と遠いと思ったから。こんなに違うから。家庭があって、奥さんがいて、理解して触れ合える人がいてっていう、僕にはないものをなんでも持っていると、思ってて。だから僕への共感は無理な話で、ひどいことも平気なんだって、」
「……鴇田さん、大丈夫?」
鴇田の手は震えている。慣れない触れ方に戸惑っている事が伝わる。尋常でない力加減が肩に食い込む。人間に対する力加減ではなかった。
「……僕たちは、本当はものすごく近いところにいたんですね。僕は人に距離を許せないことを苦しみに思っていたけど、あんたは人に距離を許さなきゃいけないことを苦しく思っていて、それは多分そんなに、遠くない」
「……」
「遠いから惹かれるんだと思ってた……」
「……案外近かったから、嫌いになる?」
「好きです」
鴇田が顔を上げた。深々と黒い瞳が暖に向けられている。再度目を見ながら「あんたが好きです」と言った。肩を掴む指は力の込めすぎで白くなっていた。
暖は鴇田の頬に触れた。鴇田の身体に力が入ったが、逃げたり、暴力を振るわれたりはしなかった。
身体の重心を移し、鴇田に顔を近づける。鼻先が微かに触れて、全身の産毛が逆立つ感覚がした。ゆっくりと唇と唇が触れる。鴇田の吐息を冷たく感じた。人の吐いた息ではないかのような。
急な雨雲を察した時の、気温の下がった風に似ている。鴇田の身体を巡る雨雲、と思った。嵐かもしれない。轟々と唸っている。
自分は暴風雨の中を外に出ようとしている。とても愚かな行為だ。
危険は承知していた。不思議と心から納得している。
鴇田の頬から指を這わせて、至近距離でずっと暖を見ている瞳を覆った。
鴇田が肩に込める手の力が緩み、暖はそっと唇を離す。目蓋に被せたてのひらを外して、鴇田の目を開けさせた。至近距離で男は衝撃を隠さない。
「……いまの、嫌だった?」
「……いいえ」
「そっか」
鴇田の手が肩から離れ、床に落ちる。どうしていいのか分からないのだろう。暖はそれ以上を求めず、鴇田の脇から抜けて立ち上がった。
「台風、ひどくなって来たな」
窓の外はとっぷりと暗い。雨風が窓ガラスを叩きつける音が響いていた。
「もう交通は完全に麻痺しているでしょうね」
「うん……」
しばらく無言でいたが、暖はあえてそれを破った。
「今夜泊まらせてほしい」
「僕が承知しなければ帰りますか?」
「いや、……行き場はない。職場にたどり着ければラッキーだ。家には帰らない」
鴇田はとても困った、もしくは嫌な顔をした。
「……こんな嵐の中、移動する方が危険ですね」
「うん……」
「キスが嫌なのは僕じゃなくてあなたの方じゃないんですか?」
鴇田の台詞は唐突で、直球だった。
「あなたは僕のことなんか好きじゃないはずだ。大切なパートナーのいる人で、」
「さっきのおれの話聞いてくれたじゃん」
「……パートナーに不信感や拒絶の気持ちがあっても、おれに触れることは、違うことのはずです」
「分かってるんなら聞くな。きちんと言っとくけど、決してやけっぱちな気分でキスをしたわけじゃないよ。性癖でいえばおれはノーマルです。そこらの男を見るたびにキスをしたいなんて絶対に思わない」
「ならなおさら、どうして」
鴇田は眉を寄せて俯いた。
「……あんたの気持ちがよく分からない……」
「情なんだと思う」
「情?」
「感情の情。情けない、の情け。りっしんべんに亡くせば『忙しい』だけど、りっしんべんに青い方。こころそのもののことだ。詳しく知りたければ後で辞書でも引いて。……おれの気持ちを表すならこの言葉しか伝えられない。目の前の相手に情があるからキスをした。おれはいま――あなたに触れたいと思った」
鴇田は黙った。理解不能だとでも言いたげで、でも懸命に暖の言葉をかみ砕いて理解しようとしている。理解不能なら、暖だってそうだ。「情」としか言いようがなかった。愛や恋という細かな感情とは異なる。その前の、本当に根幹を支えるみなもとだ。目の前の男の存在が暖の「心」をかき立てるなにかであることがはっきりした。
そして暖はそれに納得していた。鴇田には「心」を持っていかれる。それはもう、はじめて見たときからそうだった。いま思い返せばきちんと分かる。
不明瞭だった感情の正体が見えはじめた。まだ「端」で「淵」である気がした。だが遠くの星を見るためのレンズが見つかって、ほっとしたのか不意にあくびが出た。ここのところ睡眠時間が取れず、取れないところで今日の騒ぎだったので、眠るどころかますます疲弊していた。緊張とストレスが解け、いまごろになってぐいぐいと睡魔が身体の中で水位を上げてくる。
鴇田はまだ難しい顔をしていたが、眠くだるくなった暖のことは伝わったらしい。「休みましょうか」と言ってベッドを空けてくれた。
「宿泊許可」
「ありがとう。とてもありがたいです」
「ベッド使ってください。僕は床に寝袋敷きます」
「だめでしょ、家主ほったらかしたら。寝袋はおれが使うよ」
「いいんです。使ってください」
眠いんでしょ、と言われ、抗えなかった。「鴇田さんが眠れなかったら代わるから」と言ってベッドに潜らせてもらう。
「大丈夫です。僕は意外とどこでも眠れる男です」
「……ありがとう。あ、」
「ん?」
「鴇田さんのにおいがするんだと思った。当たり前なんだけど」
遠慮なく思いきり顔を埋めた寝具から、普段の鴇田のにおいがした。ごみ収集作業員という仕事上どうしても臭くなると言って、においには気を遣い、まめに身体と衣類を清潔に保つようにしている、といつか言っていた鴇田。そういう彼のにおいはさっぱりと清潔なのだが、不意に鴇田そのものの、いろんなエッセンスを混ぜたエキゾチックなにおいがする。
鴇田はあからさまに困った顔を見せた。
「やっぱりシーツだけでも替えます」
「なんで?」
「なんでって、落ち着かないでしょう」
「どうして。なんか鴇田さんが近いと思う」
「……」
「気にならない。安心する……」
目蓋を閉じると途端に眠気が襲って来た。それを合図に、眠りに引きずり込まれる。
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「……いまの、嫌だった?」
「……いいえ」
「そっか」
鴇田の手が肩から離れ、床に落ちる。どうしていいのか分からないのだろう。暖はそれ以上を求めず、鴇田の脇から抜けて立ち上がった。
「台風、ひどくなって来たな」
窓の外はとっぷりと暗い。雨風が窓ガラスを叩きつける音が響いていた。
「もう交通は完全に麻痺しているでしょうね」
「うん……」
しばらく無言でいたが、暖はあえてそれを破った。
「今夜泊まらせてほしい」
「僕が承知しなければ帰りますか?」
「いや、……行き場はない。職場にたどり着ければラッキーだ。家には帰らない」
鴇田はとても困った、もしくは嫌な顔をした。
「……こんな嵐の中、移動する方が危険ですね」
「うん……」
「キスが嫌なのは僕じゃなくてあなたの方じゃないんですか?」
鴇田の台詞は唐突で、直球だった。
「あなたは僕のことなんか好きじゃないはずだ。大切なパートナーのいる人で、」
「さっきのおれの話聞いてくれたじゃん」
「……パートナーに不信感や拒絶の気持ちがあっても、おれに触れることは、違うことのはずです」
「分かってるんなら聞くな。きちんと言っとくけど、決してやけっぱちな気分でキスをしたわけじゃないよ。性癖でいえばおれはノーマルです。そこらの男を見るたびにキスをしたいなんて絶対に思わない」
「ならなおさら、どうして」
鴇田は眉を寄せて俯いた。
「……あんたの気持ちがよく分からない……」
「情なんだと思う」
「情?」
「感情の情。情けない、の情け。りっしんべんに亡くせば『忙しい』だけど、りっしんべんに青い方。こころそのもののことだ。詳しく知りたければ後で辞書でも引いて。……おれの気持ちを表すならこの言葉しか伝えられない。目の前の相手に情があるからキスをした。おれはいま――あなたに触れたいと思った」
鴇田は黙った。理解不能だとでも言いたげで、でも懸命に暖の言葉をかみ砕いて理解しようとしている。理解不能なら、暖だってそうだ。「情」としか言いようがなかった。愛や恋という細かな感情とは異なる。その前の、本当に根幹を支えるみなもとだ。目の前の男の存在が暖の「心」をかき立てるなにかであることがはっきりした。
そして暖はそれに納得していた。鴇田には「心」を持っていかれる。それはもう、はじめて見たときからそうだった。いま思い返せばきちんと分かる。
不明瞭だった感情の正体が見えはじめた。まだ「端」で「淵」である気がした。だが遠くの星を見るためのレンズが見つかって、ほっとしたのか不意にあくびが出た。ここのところ睡眠時間が取れず、取れないところで今日の騒ぎだったので、眠るどころかますます疲弊していた。緊張とストレスが解け、いまごろになってぐいぐいと睡魔が身体の中で水位を上げてくる。
鴇田はまだ難しい顔をしていたが、眠くだるくなった暖のことは伝わったらしい。「休みましょうか」と言ってベッドを空けてくれた。
「宿泊許可」
「ありがとう。とてもありがたいです」
「ベッド使ってください。僕は床に寝袋敷きます」
「だめでしょ、家主ほったらかしたら。寝袋はおれが使うよ」
「いいんです。使ってください」
眠いんでしょ、と言われ、抗えなかった。「鴇田さんが眠れなかったら代わるから」と言ってベッドに潜らせてもらう。
「大丈夫です。僕は意外とどこでも眠れる男です」
「……ありがとう。あ、」
「ん?」
「鴇田さんのにおいがするんだと思った。当たり前なんだけど」
遠慮なく思いきり顔を埋めた寝具から、普段の鴇田のにおいがした。ごみ収集作業員という仕事上どうしても臭くなると言って、においには気を遣い、まめに身体と衣類を清潔に保つようにしている、といつか言っていた鴇田。そういう彼のにおいはさっぱりと清潔なのだが、不意に鴇田そのものの、いろんなエッセンスを混ぜたエキゾチックなにおいがする。
鴇田はあからさまに困った顔を見せた。
「やっぱりシーツだけでも替えます」
「なんで?」
「なんでって、落ち着かないでしょう」
「どうして。なんか鴇田さんが近いと思う」
「……」
「気にならない。安心する……」
目蓋を閉じると途端に眠気が襲って来た。それを合図に、眠りに引きずり込まれる。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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