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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 O駅に着いた頃にスマートフォンが震えた。着信は蒼生子からだった。改札をくぐりながら暖は電話に出る。
『……暖?』電話の向こうは迷っていた。不在にはすでに気付いただろう。暖を窺って怯えた声音がことさら鋭い眩しさをもたらして、目が眩む。
「あなたはおれが浮気をしていると思ってる?」
 訊ねた声の語尾が掠れた。目を固く瞑ると脳の奥がチリチリと痛んだ。蒼生子は沈黙の後、『だって』と言いかけ、迷い、また口を噤んだ。
「悪い。今日はあなたといられない……いたくない」
 意思表明とともに電話を切る。電源まで落とし、ちょうどやって来た電車に乗り込んだ。


 O市から電車に揺られて街まで戻る。地下鉄S線に乗り換えてK駅で降りた。K駅の改札に鴇田は立っていた。薄いウインドブレーカーも、足元のスニーカーも、濡れて色が変わっていた。
 改札を抜けた暖に鴇田は軽く頭を下げる。無表情だが少し怒っている寄りの顔をしている。「目、いいんですか」と彼は発声した。
「目?」
「眼鏡してない。さっき眩しいって言ってたから、実は電車にさえ乗れるものなのか心配していました」
「ああ、忘れて来た。でももういい」
「……」
「眩しいときとそうでないときと安定しないから、やっぱり自律神経云々なんだろうな。さっきまですごく眩しかったけど電車の中でずっと目を閉じていたらマシになった。……台風、ひどいな」
 そう言うと鴇田は「こっちです」と暖の先を歩く。向かった先は駅のロータリーに接続するバスターミナルで、帰宅する人で列が出来ていた。やって来たバスに無言で乗り込む。混雑する車内、鴇田の肩から腕がずっと暖に触れていた。
 七つ目の停留所で降りた。ここから十分程度歩くのだと言った。傘が役に立たないほどで、最終的にかざすのを諦めて歩いた。簡素なつくりのアパートに到着する。どうぞ、と鴇田に通されたのは、LDKともう一間があるだけの、小綺麗ではあるが古びた部屋だった。
「風呂沸いてます」と鴇田はタオルを差し出しながら言った。
「なにも聞かない?」
「必要があればあとで聞きます。風呂をどうぞ。狭いですがそんなに古くはないです」
 ずぶ濡れなのは鴇田も同じだった。一緒に入るかと訊こうとして、やめた。鴇田がどこまで暖に対して距離を許しているのか、許していないのか、許せないのか、――考えることが多すぎた。それはいまの暖にとってはオーバーワークで、だからなにも考えずにありがたさに甘えて風呂に浸かった。
 まめに掃除をしているようで、狭くても清潔な浴室だった。内装の古さと水回りの新しさが一致しないので、おそらく水回りだけは後から整え直したのだろう。緊張にまみれていた身体がほどけかかる。目を閉じると沈みそうで、慌てて身体を起こす。鴇田も風呂に入りたいだろうと思ってそこそこの時間で上がった。着替えは鴇田のものを借りた。
 浴室を出ても鴇田の姿が見えない。すりガラスのはまった戸板を引くと、LDKに隣接して板間があった。そこはある程度の広さになっていて、鴇田のベッドに衣類、作業着などが下がる。鴇田は壁に向かって据えた電子ピアノの椅子に腰かけて、かたかたと鍵盤を叩いていた。イヤフォンをつなげているので暖の耳には鍵盤に落とす指の音しか聴こえない。背後に立つと鴇田は気配で振り向いた。イヤフォンの半分を耳から抜く。
「なに弾いてるの?」
 そう訊くと鴇田は無言で片方のイヤフォンを暖に寄越した。半分は鴇田の耳に収まっている。コードレスではないので身体を近づけてイヤフォンを装着する必要があった。暖がイヤフォンを嵌めると片耳に音が流れ込みはじめる。
「――美女と野獣」
 と暖は思わず呟いたが、鴇田は黙ってピアノを鳴らすだけだった。ジャズのアレンジになっているが、きちんと歌詞が蘇る。

‘Just a little change, small to say the least’
‘Both a little scared, neither one prepared’
‘Beauty and the beast’

 ――言葉に出来ないほどの小さな変化、お互いに臆病。美女も野獣も。

 耳を傾け音に聴き入った。鴇田の顔の距離が近い。余韻を残してピアノの音は止まる。そのまま電源を切ったので、接続の切れるぷつっという音がイヤフォンにちいさく響いた。
 イヤフォンを外すと鴇田と目が合った。中腰だった姿勢を戻し、電子ピアノの横の壁に背中を預けてへたり込んだ。
「――鴇田さんも風呂入って来なよ」
「……僕はいいです。拭いて着替えた」
「冷えてない?」
「特には。こういう日に外へ出て作業ってのは慣れっこだし」
 そっか、と暖は呟く。ピアノの音が聞こえないと、急に外からの音を意識するようになった。古いアパートには心配なぐらいに雨が叩きつけられ、窓ガラスが鳴る。暖のマンションでもいまごろは嵐に揺れているだろうか。その部屋に蒼生子がいるかどうかまでは分からない。……いまは分かることを放棄したい。
 鴇田は音を出さないピアノをことことと鳴らしていた。話を聞く、とも、話せ、とも言わない。けれど「おれの話聞いてくれる?」と訊くと頷いた。
「……やっぱり鴇田さんは優しい人だね。比べなくても、おれはずるくて卑怯だ」
「誰かにそう言われたんですか?」
「いや、おれが勝手に思ってるだけ」
「ならそれはきっと事実とは異なります。僕はそう思ったことはないですから」
「……優しいね」
「優しいわけではありません。決して」
「言葉を正しく使おう。……こんなおれに対していつも丁寧でいてくれて、本当にありがとう」
 そう言って鴇田を見上げる。わずかに目を細め、鴇田は「したい話をしてください」と重ねた。
「うん、……まあ元々はじめから無理があったのにごり押しして進んでいたから、いまになってこんなに軋んでるんだ、ってのが分かった」
 暖は膝を立て、うつむいた。
「無理?」
「子どもを望むそもそもの話」
「……」
「蒼生子さんはおれとの子どもを欲しがったけど、あの人高校のころに妊娠したことがあったんだ。それをおろした結果が不妊だって話だった。道理で……大学で知りあったとき、同期だったけどおれより一個上だって知って、一浪でもしたのかなと思ってた。違うな。妊娠と中絶騒ぎで高校を留年してたんだ」
「……それを今日知らされた?」
「偶然知ったような話だから、このまま知らずにいたかもしれない。彼女は隠したかったのかな……」
 どうでもいい話が次々と思い浮かんで、とにかく言葉にせずにはいられなかった。鴇田の反応など気にせず喋る。
「そんなこと、おれは知らなかった。知らないで、――いっぱい足掻いたなあ。とにかく嫌で疲れてそれでも応えようって頑張ったんだよ、おれはね。まあ彼女も頑張ってたし。ふたりで頑張ってたらつり合いは取れていいのか」
「……」
「でもさ、おれはもう彼女とセックスしたいと思わない。子どもも欲しくない。彼女もそうかな? そうだといいよな。おれは浮気してるんだって思うぐらいだから」
「浮気?」鴇田が反応した。「浮気したんですか?」
「してない。そう思われてたんだってことも今日分かった。……事実はどこにもないんだけどね」
「事実にないことを、疑われたんですね」
「……うん」
「それが、眩しくなるぐらいしんどいことですか?」
 鴇田は立ちあがった。床に座る暖に目線を合わせて彼も床に座る。
「それもある。もう全部がなんていうか……辛い、」
「全部。一個いっこ、言えますか」
「……自律神経の乱れ」
「はい」
「羞明」
「はい」
「カレンダーの星マークの日に妻とセックスしなきゃいけないこと」
「はい」
「義父が同居を迫ってくること」
「はい」
「……おれは浮気をしているんだと、疑われたこと」
「……はい」
「黙秘で隠されていた事実のこと……」
 語尾が情けなく震えた。きつく目を閉じる。膝に頭を乗せて呻いた。苦しくて背中が震えた。
 蒼生子は黙っていた。ずっと暖には言わなかった。十年も連れ添った夫婦だというのに。事実を晒されても、暖はきっと蒼生子をきちんと理解する努力をしたのに。
 信頼も信用もどこにもなかった。もしくは怖がられていた。侮られていた。理解されていなかった。
「二十八歳のときに」
 顔を上げられないままに喋る。近い位置で鴇田が「はい」と掠れた声を出した。



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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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