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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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life goes on




『宇宙の果ては何色かと少年は質問した。偶然ラジオで耳にした。少年は白だと思うと述べた。私も漠然と同じ想像をした▼専門家は「赤い」と答えた。色は電磁波の一種であり、波長が短ければ青く、長ければ赤く映る。遠い果てまで届くような色は波長が引き延ばされている。すなわち赤いのだ▼宇宙はビッグバンで誕生した。それまでは何もなかった。「無い」状態がどう言う状態を指すのか想像し難い。私達は皆「有る」のであり、「無い」状態からは生まれていない。私達を分子のレベルまで分解したとしても分子が「有る」。それすらも「無い」のだから果たして生命とは何かと頭を捻る▼仏教には「畢竟無」(ひっきょうむ)と言う言葉がある。過去にも現在にも未来にも存在し得ないと言う意味だ。宇宙の外側や果てはこのような状態だったのかもしれない。ただし宇宙はもはや「有る」。無かった物から突如生まれる事がある▼観測上は赤い果ても、実際に目にするならば違うのかもしれない。宇宙が膨張するように少年の好奇心の芽も育って欲しい。私達は日々存在し、それはなかった事にはならない。〈暖〉』


 何度読んでも難解で、よくこんなものをコラムとして載せたなと感心する。子どもから老人まで地域の人間なら誰の目にも触れるローカル紙でこの内容。それでも強く惹かれるのは三倉が書いたものだからだ。もはや遠海にはこれしか三倉との接点がない。接点と呼べるのか――単なる読者だ。ただ三倉が変わらずあの新聞社に勤めていることは喜んでいいのだと思う。
 なかったことにはならない、と呟き、切り抜きを折りたたんで社員証を入れているケースの内側に仕舞った。いつでも眺めたいと思うときに読めるようにと考えた結果、そこに落ち着いた。最後に記された〈暖〉の文字にそっと指を這わせる癖が出来た。何度もそこだけ触れているので、印刷が剥がれている。
 昼休憩の際に休憩室の隅っこでそれを眺めるのが日課になっている。窓の外を見遣ると、よく晴れた空の下に桜の新緑が眩しかった。花はとうに散って終わった。時間が経ちます、と心の中で呟く。三倉さん。あんたに会えないまま、時間がどんどん経つ。
 それでいいのだろう、と思う。三倉の妻とそう約束した。それに遠海自身もこの状態を望んだはずだ。距離も時間も離れれば忘れる。忘れたらなかったことと同じだ。
 昨年秋のひどい災害のあとから、三倉とは音信が途絶えた。遠海からは絶対に連絡をしてはいけないと思い、どんなに声が聞きたくなっても電話をしないように我慢した。それでも三倉へ連絡をしたいと思う夜が何度もあり、もしくは三倉からの連絡を常に待つ自分がいた。耐えられない、と思ったのは自己防衛だったのだろう。遠海はスマートフォンを替え、全く新しいナンバーを入手した。データの同期は行わず、全て新規。だからもう三倉には連絡の取りようがないと分かったとき、安心への手応えを得た。少なくとも胸を常に覆う暗い雲は僅かに取り払われた。
 店でピアノを弾くこともないので、不意に出くわすこともない。そうやって離れ、なかったことになる。なかったことにしている。だが突如やって来る三倉との交流の日々への追想はどうしようもなかった。傍にいて三倉が笑う。興味深いと言って好奇心を隠さない目を向ける。遠海の言葉や行動に頷き、音に聴き入る。自身について語るときの指先の遊ばせ方の癖。目を見て、好きですと計算もなにもなく告げる。目を細める困った笑い顔。
 三倉の目の緩み、あるいは険しさ。たった一度重なった嵐の夜のこと。いつも身体にぴったりのシャツを着ていたから勘違いしていたが、衣類を剥ぎ取ってしまえば三倉の身体つきは意外と痩せ型だった。シャツを纏うことで見かけに説得力を持たせるようにと、三倉の妻にそんな思惑があったのかもしれない。その痩せた肌にはぴっちりと皮膚が張り付いていて、頬をつけると心地よかった。三倉の腹に頬を乗せ、右手は絡めたまま腹の上で音楽を奏でた時間は遠かったな、と思う。あれ以上の喜びをこれまでの人生で感じたことはなかった。触れることを望めなかった遠海には衝撃で、心臓は弾けて機能を失っていた。歓喜に貫かれ、神がかった音楽が身体に満ちる。こんな経験をしていいのかと背中がひやひやして、快楽は恐怖と裏表だと知った。
 その思い出だけでこの先生きていこうと思った。記憶だけ大事にして、たまに思い返して過ごせばいい。だがそんな甘いものではなかった。声や、手や、肌の温もりや湿り気、重さを感じたくてたまらなくなる。焦燥感だけはどうしようもなく、時間が経過したいまもこうやって不用意に襲われる。
 三倉は元気だろうか。そうでなくては困る。妻と仲直りしてうまくやれているといい。遠海とのことは一時の気の迷いで、忘れてほしい。なかったことになっていればいい。……本当は忘れてほしくない。表側の遠海と裏側の遠海が交錯する。本当の自分はどちらだろう。
 盛大についたつもりはなかったが、ため息を拾って「お疲れですか? お悩みですか?」と声をかけて来た人間がいた。さらりと艶のある黒髪をひとまとめにして結んだ男と、不愛想に笑わない男。四月からの新入社員のうちのふたりで、現在遠海と同じ配属で働く。長髪の方を西川(にしかわ)、不愛想な方を日瀧(ひたき)と言う。
 声をかけてきたのは西川だ。おしゃべりな西川は誰にでも明るく愛想がよく、社内のマスコットキャラクター的な存在になりつつあった。その西川の傍には大抵日瀧がいる。日瀧は遠海と同じレベルで無表情で、思考をトレースしにくい。傍にいても西川のお喋りのフォローにまわるわけではないが、突っ込むべきところには容赦ない突っ込みを入れる。話はきちんと聞いているのだ。要するに仲がいいんだなと思う。
 西川は会社で頼んでいる宅配弁当を手にしていた。日瀧はコンビニ弁当のようだ。「ここ失礼しまーす」と遠海の向かいに腰かける。こういう距離感の詰め方をする人間は世間に案外多いのかもしれない、と思った。
「あれ? 鴇田さんお昼は?」
「食べたよ」手元に残ったゼリー飲料の空を示す。
「それじゃ食べたって言わないですよ。ただでさえ体力勝負の仕事なのに。僕のお弁当分けましょうか? 途中でおなかすいたときのためにおにぎりあるんですよ」
 はい、と有名絵画がプリントされた巾着袋からちいさめに握ったおにぎりを渡された。食べる気はなかったが、ありがとう、と受け取っておく。
「さっきのため息は大丈夫ですか? 悩み事でもありますか?」
「たいしたことじゃないよ。いいから食べなよ。お昼終わるよ」
「だって鴇田さんって仕事してないときは大体難しい顔してため息ついてますもん。もしかして僕たちのことで悩んでますか? 使えない新人来たなーとか。ねえヒタキくん?」
「おれは違うけど西川さんはそうかもな」日瀧はようやくコメントした。
「使えないと思ってても本人に言える話じゃないしな」
「あ、ひどい。そりゃ確かに僕は非力の部類だけど、愛嬌はあるんだからね。ヒタキくんこそ少しは笑ったら? 笑顔でイチコロは基本だよ」
「笑いながらごみ収集する必要もないんだからほっとけ」
「あーひどーい。あらお兄さんいい笑顔で仕事するのねえって、集合住宅の大家のおばあちゃんに言わせた男だよ、僕は」
「いい男なら黙って飯食っとけよ」
 やいのやいのと新人ふたりは言葉を交わす。それをしながら食事もきちんととっている辺りがすごいと思う。遠海には難しい芸当だ。また窓の外を見る。風が吹いているようで葉が揺れた。
「今週末来ますよね」と急に話題が変わって、遠海は「え?」と訊き返してしまった。
「歓送迎会です。僕たち新人も、異動しちゃった人も、退職した方も、みなさん来るんですよね。焼肉だって。鴇田さんも参加しますよね?」
「あー」そうだったな、と思い出した。ここのところ仕事でしか予定が埋まらないのでスケジュールを考えることすらしていなかった。「そうだね、行くよ」
「やった。やっぱり焼肉にはビールですよね。これからの仕事も頑張れそう。ヒタキくんは飲めないねー。かわいそうだねー」
「うるせぇな」日瀧は高卒採用で、飲酒年齢には達していなかった。
「鴇田さんは飲める人ですか?」
「そうだね」と答えると、西川は「えー、苦手そうなのに意外ー」と答えた。
「でも歓送迎会では飲まないかな」
「なんで飲まないんですか?」
「健診の結果が悪くて禁酒してるんだ」
「そんなに大酒飲みなんですか?」
「そうかもしれないね」
 それだけ言って席を立つ。健診の結果云々は嘘だった。数値に異常はない。
 ただ、あの店が再開したらあの店で飲む。そう決めているだけだ。




→ 2







拍手[7回]

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「今夜はおれがリビングのソファで寝るよ。先にシャワー使う」
 そう言って距離を取ろうとしたが、悲鳴に似た抗議が背中にかぶさる。
「もの分かりのいいふりなんかしないで!」
「してないよ」
 冷蔵庫の下から動けないでいる蒼生子を振り向いた。
「ものが分かって言ってるわけじゃない。ものすごく怒っているから、冷静になりたいんだ」
「私に怒ってるの? なら言ってよ、ちゃんと」
「あなたに怒ってるんじゃない。自分に、……怒りを取り除いて、考えたいだけだ」
 蒼生子を振り切って浴室に向かった。ひどい夜だと思う。熱いシャワーを浴びられることが不思議でならなかった。頭を空っぽに出来るけど、断水地域でこれが出来ない人が大勢いる。
 嵐の夜がずっと続いている。低気圧に次ぐ低気圧。雲が湧き、雨を降らせ、地面に水が浸み込み、川から海へ流れ、それがまた上空にのぼって降る。繰り返し繰り返す。この循環を断つことは出来ないのだろうか。これこそが生命のリレーたるものなのだろうか。……どこかで綺麗に晴れたらすっきりするのに、と思う。自分も、蒼生子も、……鴇田も。
 鴇田にはあんな風に言って、あんな風に別れてしまった。連絡を取りたいが状況の悪化を招くだけだろう。今夜はどうしているのだろうか。ピアノを失った日に、辛い夜に、近くにいたかったと思う。
 シャワーを済ませてリビングに戻ると、暖のスマートフォンを蒼生子は手にしていた。マナーモードのままになっていたスマートフォンが断続的に震えている。
「電話? 貸して」
「……鴇田さんから?」
「そこに表示されている名前が鴇田さんならそうだけど、違うだろう?」
 蒼生子の手元を覗き込むと会社の名前とナンバーが表示されていた。
「……会社の名前で登録してる」
「鴇田さんのナンバーを? 見たんだろ、おれのスマホ。鴇田さんのナンバーは鴇田さんで登録してるよ。返してくれ。会社からだから」
「……」
 納得しない蒼生子からスマートフォンを受け取り、電話に応答した。疑いのまなざしを向ける妻のために、内容が聞こえるようにスピーカーにした。
『夜分にすいません。あのー、三倉さんの番だというのをお伝えしたくてー』電話の主は会社の内勤社員だった。夜勤の真っ最中らしい。
「え? なにが僕の番でしたっけ?」
『持ち回りのコラム。ほら、災害続きで順番が入れ替わったりしたでしょう。最近はコラム自体を削って紙面作ってましたけど、そろそろコラム再開しましょうかって話を昼間の会議でしましたよね』
「あー、そうだった。すいません、失念していました」
『だろうなと思ってお電話させていただきました。社内がばたばたしていましたし、三倉さんもお疲れの様子でしたから。締め切りまだ先ですけど、遠くもないですので、ご連絡だけ』
「ありがとうございます。と言って明日になったら忘れていそうだな。今夜のうちに草稿だけでも起こします」
『無理なさらないでください。疲労がそろそろピークに来る頃ですから。明日と明後日はお休みでしたね。休めるときには休んでください』
 ありがとうございます、と言って電話を切った。蒼生子は呆然と暖を見ている。暖は妻に「やることが出来た」と言った。
「今夜はリビングじゃなくて書斎にいるよ。あなたもシャワーを浴びて暖かくして休んで」
「……出て行かない?」
「書斎にいる。……不安に思ったら寝室の壁でも叩けばいい。返すから」
 暖はパソコンと書籍を置くためだけの一室に向かう。寝室は隣だから、壁を叩かれれば反応出来る。蒼生子は納得した様子ではなかったが、諦めて浴室へ向かった。
 次回のコラムになにを書こうか、思いついたネタをメモしておいた手帳をめくる。取材に使う手帳とは別に、原稿の案や気になった事柄やアイディアを記してあるノートだ。記事はほとんどをパソコンで作成しているが、草稿の段階では手で記すことも多かった。こんなこと考えていた時期もあったなと過去を思い返しながらめくると、いつか掲載になったコラムの下書きが出て来た。
「友人が出来た/勢いがいい/この年齢になると考える事/意気投合したままずっと/勢いのよいまま関係を続けることは可能か?/長く人間関係を続けるコツを覚えた年齢で」
 そんなことも書いたな、と懐かしくなった。さほど前でもないのに大昔みたいに思える。字数制限があるのでだいぶ削ったが、思考の段階ではいろんなことを考えていた。蒼生子も指摘したように、鴇田と知りあったら鴇田のことばかりだった。その勢いのまま付きあいを続けるのは難しいと自分でも分かっていて止まらなかった。――ああそうか、だからいまこうして崩れている。
「……なかったことには、しない。おれは」
 決意のように呟き、新しいページにシャープペンシルを滑らせた。アイディアやとりとめない思考を黙々と記していく。時折辞書をめくり、図鑑をめくる。この記事は誰に届くだろう。読んだ人に響くだろうか。
 報道にはときめきがあると鴇田に語った夜のことを思い出す。読んで終わる人もいれば、その記事をきっかけに思考が発芽する人もいるだろう。事実を知って今後の事象の予測につなげる人もいる。そうやって営んでほしいと思う。そういう喜びのために、暖は記者になったのだ。
 暖の書いたものが、届いてほしいと思う人がいる。
 夜半、壁がコンコンと控えめに鳴らされた。暖は顔を上げ、壁をコンコンと叩き返す。しばらくして鳴ったのは部屋の扉だった。開けると蒼生子が立っている。
 一睡もしていない様子だった。眠れるわけがないのかもしれない。目は腫れぼったく、うすい印象の顔にそれがインパクトだった。暖は「入りな」と書斎に妻を招く。
「……ごめんなさい、仕事、」
「うん、いいよ。もうだいぶ進んだからあとは明日にする」
「……」
「座って」
 デスクのスタンドのスイッチを切り、本棚に背をもたせて床に座った妻の隣に暖も座った。妻の背にはクッションを当ててやる。
「話そうか。いろんなこと」
「……」
「昨日のこと、今日のこと、明日のこと。最近気になってる音楽、食べたごはん、道ですれ違った人のこととかさ。なんでもいい。話そう。あなたの話を聞かせてくれ。おれもおれが思っていることを話す」
「……あ、」
「どうした?」
「いま思い出したの。最初から暖は聞き上手で、私の話を聞いてくれた。覚えてる? 通し矢に興味があったから弓道部に来てたはずなのに、いつの間にか私お弁当の話してたんだよ」
「ああ、覚えてる。弓道部が合宿で三十三間堂の通し矢見に行くって聞いたから話を聞きに行ったんだけど、なんだかんだで結局伊勢参りと名古屋グルメツアーになったやつだ」
「そうそれ。あの合宿のとき暖はずっと写真撮って、地元のおばあちゃんの話聞いてた」
「よく覚えてるね」
「思い出したんだよ。……でも暖の話なんかちっとも聞かなかった気がする……」
 妻はそう言い、ぽつぽつと語りはじめた。暖はきちんと話を聞く。なにも逃すまいと思いながら聞く。
 そして自身のことも話すのだ。余さず、漏らさず、丁寧に。対話をする。それできっとある種の方向性や道筋は見えて来るだろう。
 出る結論がどういうものになるのかはまだ分からない。けれど誰ひとり傷つかない選択はもうない。ここまで捩れたまま進んだことを、なかったことにしない。
 だから話す。最善を尽くしたい。興味に負けて散々勝手に振る舞ってきたが、誠実であるべきだと思った。せめて蒼生子と――鴇田には。
 暖を好いてくれた人のことを大事にしたいと心から思う。そういう自分でありたいという決意に似ていた。それは誠実な男と接した経験からなのだと、暖は噛み締めて前を向いた。
 



秋雨前線 end.






← 20





25日より更新再開します。









拍手[9回]

「たまご?」
「明日の朝の分がなかったから。スーパーいくつも回ってみたけどなくて、ようやく一パック買えたの。でも割れちゃった」
 中身を確認し、また歩き出す。別に玉子ぐらい食べなくても生活に差し支えはない。こんな非常時に玉子を探して町から町を歩くことがまともな行動だとは思えなかった。蒼生子がなにかと玉子を重ねて見ているような気がしてならない。この感覚は前に――二十八歳のころに、味わっている。なにもかもに理由を見つけては泣き暮らしていたころの妻がちらつく。
 けれどあのときは、暖自身はちっとも傷ついていなかったから、平気だった。少なくとも自身のストレスのことは気づかなかったし、気づいていたとして、どうにかやり過ごすことが出来た。疲れた、とは思わなかった。どうしたら彼女の気を晴らせるか、この状況を脱することが出来るか、それを考えていた。
 共倒れしないぐらい、暖は健康だった。いまはと思う。また眩しさが蘇ったのは蒼生子を追い続けてようやくたどり着いたマンションだった。蒼生子がつけた照明に耐えられない。こんなに眩しい。暖も傷ついている。だからって妻を攻撃していい理由には決してならないが、添えるかどうかはもう分からない。夫婦間の信頼は削げてしまい、傷を負ったまま走って、いろんな人を巻き込んでしまった。
 蒼生子がつけた照明を暗くすれば火に油を注ぎそうだと思ったので、眼鏡をかけることで誤魔化した。それでも蒼生子はそれにさえ理由をつけて泣くかもしれない。視界が薄いブルーに包まれても心がざわざわと落ち着かない。
 片付いたローテーブルの上に新規マンションの購入情報や住宅のカタログが乗っているのを目にして、驚いた。
「暖、ごはんどうする?」
「蒼生子さん、これは?」
 冷蔵庫を覗き込む妻の肩を掴んで振り向かせ、パンフレットを見せた。
「――ああ、お父さんが同居ってうるさいから、もういっそ家を買うのもいいかなって思ったの」
「……分かるように話してくれないか」
「……実家と同居のことはいいの。お母さんも言ってたでしょう? 暖とお父さんってあんまり合わないみたいだし、いいの。でもこのマンションは暮らして長いから。新婚からずっと住んでて手狭になってきたし。いつまでも賃貸で暮らすよりもいっそ買うのはどうかなって思っていくつか資料請求してみただけ。ここよりもっと広くていい部屋に住めたら、犬も飼えたりして、気分も変わって、いまより楽しくなって、……それで」
 冷蔵庫の前で、ついに妻はへたり込んだ。静かに涙を流している。いっそ嗚咽でも漏らされればかえって醒めるのに、この精神の頑なさをどうしても見放すことは出来ない。それは十年連れ添った仲だからそう思うのか、と考える。彼女が辛かったときのことがよぎるからか。身のうちに暴れ回る怒りや悲しみや理不尽を昇華出来なくて泣くしかなかった、あの日々の反省なのか。
「だっていま、全然じゃない……」
 背に手を当てると、彼女ははらはらと泣きながらそう言った。
「全然楽しくない。あなたは帰ってこない。友達はみんな子育てや仕事に忙しくて話が合わないし。暖のシャツばっかり縫いあがっていくのが淋しいの。こういうとき子どもがいたら楽しいのかなって。一緒にごはん食べたり、休んだり、世話してあげたり、その子のために服を縫ったり洗ったり着せてあげたりして、って――思ったらやりきれなくて……」
「……ひとまずソファに行こうか」
「暖ってそうやって自分は冷静ですって顔と態度で、肝心なことを喋らず済ますよね……」
 ただ泣いていた彼女の態勢は、暖への攻撃に転じる。
「私に言っていないこと、たくさんあるでしょう」
「――あるよ」
 さすがにもう、これ以上は無理だと思った。暖自身が壊れてしまう。「でも、あなたにもずっとおれに言わなかったことがあった」
「お互い様って言いたいの?」
「少なくともさっき鴇田さんに迫ったこと、あれはおれにとって許せないことだ。彼はなんにもわるくない。あんな風に人を追い詰めるものじゃない。おれたちは色んな危機を乗り越えてきたと言ったね。これからもそうする、と。でも色んな危機ってなに? 危機なんてひとつの由来からしかなかったよ。子どもが出来ないこと、それだけ」
「それだけ? それだけのことなんかじゃないよ?」
「うん、大きな問題だ。でも根本からはき違えていることがあるようだからきちんと訊く。あなたが欲しいのはおれとの子ども? あなた自身の子ども?」
「……」
「おれは、おれとの子どもがそんなに欲しいのだと思っていた。望みをかなえてやれなくて申し訳ないという罪悪感がずっとあった。けれどそれはおそらく違うのだと気付いた。あなたは高校時代に産んであげられなかった命に対してずっと謝っている――それはおれとの子どもじゃなくて、あなたの子ども、と言う意味だ」
「違うわ……」
「おれはあなたに妊娠の経験があるとかないとかはどっちでもいい。重要なことではない。けれどその妊娠を経た不妊であるならば、怖くても言って欲しかったと思う。事実を知った上でやれることやれないことがはっきりしたはずだ。そこから組み上げていけばよかったんだ。……そして浮気はしていなかったのにそれも疑われていた。なかったことをあるんだと言われ、あったことをなかったことにすると言うあなたの思考にはおれはもう賛同できない。理想と妄執から離れるべきだ」
「正しいことばっかり言わないで! あなただってたくさん間違ってるじゃない……!」
「……元々子どもを作ろうっていう雰囲気がもうプレッシャーだったんだ。それでもあなたが欲しがるから頑張ってみようって思っていた。……あなたに添いたいと思っていたおれのことまで否定しないでほしい」
「……プレッシャーになったからって自分の行いを正当化するの? 鴇田さんとはもう他人で済ませる距離じゃないよね?」
「そんなつもりはない。……結果的におれは確かに鴇田さんと関係を持った。でも疑われていた時点では事実はなかったんだよ。――そうだな、結果は同じだったかもしれない。それは認める」
 そう言うと蒼生子は顔を歪め、「鴇田さんだったから?」と訊いた。
「……そうだ、鴇田さんだったからだ」
「男の人だよ」
「関係ない。あの人はおれを好いてくれた。でも好かれたら誰でも良かったわけじゃない」
「あの人のこと、……やけに気に入ってるんだなってはじめから思ってた。バーでピアノ弾いてるところ見たときから。あの人このあいだ話聞かせてもらった人なんだよって嬉しそうで。知り合ってしまったら急に近くなって、怖いと思った。私は暖とふたりの時間が大事だと思っていたけど、鴇田さんが映画や食事に混ざったり、飲んでくるからって言って帰ってこない日が増えたり。ひとりは淋しかった。子どもがいればいいなってますます思ってた」
 蒼生子は肩を引き攣らせ、大きくしゃくりあげた。暖はその肩を抱く。蒼生子にも鴇田にもひどいことをしているんだろうと分かっていて暖は大事な人に触れる。触れることの大切さが、いまならよく分かる。
 言葉で伝わらないことも伝わる。言葉にならない感情のことも伝わる。触れることもまた言語だ。
「鴇田さんと浮気してるかもしれないって、そうじゃなくても暖の心は鴇田さんにどんどん吸い込まれていくって、……嫌な考えばっかり浮かんだ。実家から暖がなにも言わないで出て行っちゃった日……お母さんが電話の内容を聞いてた。『トキタって人のところにいますぐ行くみたいだから追いかけなさい』って言われたけど、足が動かなかった。やっと電話したけど、怖くてなにも言えなかった。やっぱり鴇田さんだって思った。お母さんには妊娠と中絶経験があることを言ってなかったの? って責められたわ。そのせいで、……暖が鴇田さんに会いに行くなら、仕方がないって思っちゃった。男の浮気は許すものだってお父さんはずっと言ってて、お母さんはため息をついて、」
「……」
「……暖のスマホも見た。私が思ってる以上に鴇田さんにメッセージ送って、電話もしてた。この人たちのお互いの求心力はすごいんだなって思うしかなかった。……心が離れていくのを目の当たりにして、私は引き留めるより諦めたの。赤ちゃんさえ出来ればいいんだって」
「蒼生子さん、聞いて」
 妻の肩をとんとんと叩く。
「浮気を許すものだっていうお義父さんの考え方を、おれは尊重しない。……おれとあなたは子どもが欲しくて頑張ってたけど、出来ない夜がたくさんあった。いずれあなたには子どもを諦める道もあるんだっていう話をしようと思ってた」
「いや……」
「蒼生子さんはどうしたいと思うの?」
「なかったことにする……」
「……」
「浮気のことは知らない。知らなかった。だから家でも新しくして、引っ越して。気分を変えて、……子どもが欲しい……」
「……」
「ずっとあるの、喪失感が。思春期のころからずっと。なにをしても淋しくてたまらない。満たされない感じがする」
「それが子どもの存在で埋められる?」
「友達の赤ちゃん見たり育児の話を聞いて羨ましいって思ってた。私だったらどんなにかわいがるだろうって夢見てて。きっと淋しくなくて、満たされるんだろうなって。それが『お母さん』なんだろうな、って」
「そうか」
 暖は立ち上がった。そういう気持ちでいたことは、知らなかった。もっと話しあっていればよかったなと思う。それじゃだめなはずだった。暖では。
 暖では蒼生子の淋しさの穴を埋めることは出来ない。
「ならおれたちは平行線だ。おれは子どもがいない選択肢もあるんだって考える」
 ひゅ、と蒼生子の喉が鳴ったのが聞こえた。暖だって苦しい。目は相変わらず眩しさを訴えていた。眼鏡ではどうにもならないぐらい光が辛く、硬く目を瞑る。



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拍手[5回]

「――おれも会いたかったよ」と答える。
「あなたが辛いときに会えてよかったと思う」
「やめてください。……あんたの言葉ひとつでいくらでも僕は喜ぶし、傷つくんだ」
 鴇田は目を伏せ、ゆっくりと開いた。
「あんたが言ってた『情』を調べたんです」
「……意味、分かった?」
「こころ、とありました。人間の生まれながらのこころだって。『おもむき』とか『なさけ』という意味もあったけど、あのときあんたが使ったのは前者で合ってますか?」
「うん」
 暖は頷く。
「愛しいも、辛いも、悲しいも、淋しいも、全ての感情を生み出す海みたいな部分のことを指すんだと思って使った。人に芽生える感情の原始的な部分だ」
「だとしたら、……ますます分からなくなりました。そこまで深い部分で交流があったことが信じられない。僕はまだあんたの言う『情』をしっかりと理解できないんです。すごく分かりたいと思うのに」
「……おれもそんなもんだよ。まだ正体をしっかりと確かめ切ったわけじゃない」
「僕は……三倉さんには奥さんと別れてほしいと思う。自分がそれを望んでいいみたいな人間に思ってしまう。……自分が自分じゃなくなる。誰かに触れることが怖かったはずの僕はいまこうやってあんたに触れていて、」
 鴇田はしっかりと暖の目を見た。
「あんたにずっと触れていたくてたまらない。一度触れたら、離れる方が怖いと思ってしまう」
「……」
「でもあんたは家に帰る。ひとりじゃないところです。だから、……僕はこういう感情とか、肉のひっ迫感を、早く忘れたい。僕は僕に戻りたい」
「おれがいま触れているのは鴇田さんでしょう」
「……」
「はじめからずっと鴇田さんは鴇田さんだ。ものすごく怖がりで、」
 鴇田の手を身体から剥がし、指に触れた。
「繊細で誠実。勘がよくて器用。ごみを回収した手から信じられない音色を出して、映画館の雰囲気が好きで、表情のバリエーションは少ないけどとても豊かな人です」
「……そう映るんですね」
「こういう仕事なので、観察眼はあると自負しています。……なにか食って帰りませんか。店がやっていればですけど」
 鴇田と身体を離し、髪の生え際を軽く引っ張ってから店の外に出た。伊丹とバースタッフに挨拶をし、駅までの遠い道のりを歩く。交わす言葉はなかった。けれどこうしてずっと歩いていられる、と不思議な確信がある。
 駅前まで出たが、さすがにやっている店もあまりなかった。もう少し移動すればあるのかもしれない。チェーンのコーヒーショップが営業していたのでテイクアウトでコーヒーを買い、駅前の広場に腰掛けて飲んだ。温かな飲み物でほっと息をついた。嵐がいろんなものを連れ去って空気は澄んだし、だいぶ冷え込むようにもなった。
「これから、どこかでピアノを弾けるあてはあるの?」と鴇田に訊ねる。鴇田は首を横に振った。
「家の電子ピアノにイヤフォン差し込んで鳴らすのが精一杯です。それに僕は伊丹さんの店だから気持ちよく弾けた。伊丹さんが店を再開出来なければ、もう人前で弾くことはないかもしれません」
「そうか。もったいないな……」
「あのピアノで弾きたい曲がまだたくさんありました」
「うん……おれも聴きたかった」
「でも、紗羽もケントも戻らないし。そもそも僕は清掃作業員が本職です。そういう意味ではいいころ合いなのかもしれない」
「ピアノをやめるってこと?」
「人前で弾かない、個人的な趣味に留める、ってだけですよ。別にピアノが弾けなかったからって死んだりはしない」
 ず、と音を立てて鴇田はコーヒーを口にした。
「――でも」と暖は異を唱えた。
「あなたにとってあの店のピアノはそんな存在じゃなかったはずだ」
「……」
「出来ることなら弾いて欲しい。ピアノにのめり込むあなたの演奏も、スタイルも、おれは好きなんです。悔しいことにピアノに妬いたことさえある」
「おれがピアノを弾いたらあんたは嬉しいんですね」
「そう。でもおれのために鳴らす音色が、って意味ではないです。あなたが気持ちいいと思って鳴らしているピアノが、です」
「……じゃあ、僕のための演奏は忘れないようにします」
「うん。そうしてほしい」
 コーヒーを飲み、ぼんやりと空を見上げた。月は細かったが、冴え冴えと光を反射して濃い夜に光を放っている。
「これからどうしよう」と鴇田は言った。
「いろんなことが目まぐるしく変わっていく。仕事は多忙を極めてる。店も、ピアノも、……あんたを好きなまんまの僕にも、決着をつけなきゃいけない」
「……鴇田さんひとりで答えを出すことではないよ」
「いえ、僕の問題です。僕さえ収まれば」
「なかったことにはならない」
 はっきり告げると、鴇田はうなだれた。その首筋の、作業着の襟から覗く脊椎の出っ張りにたまらない気分に駆られた。否定されたらそれまでと思いながら、そこに指を這わす。案の定鴇田は身体を硬くし、暖を恨めしそうな目で見てきた。
「そうやって不用意に触らないでください」
「触られて嫌な気分になりますか?」
「……あんたの場合は困る……すごく、」
「じゃあせめてこれだけ」鴇田の手を取り、指を絡ませて暖の腿の上に置いた。
 指をとんとんと動かし、遊ぶようにリズムを刻む。鴇田がピアノを弾くように器用には動かせないが、動かしているうちに鴇田のこわばりはすこしずつ解けた。
「――あんたといると、山積みの問題がどうでもよくなります」と鴇田も指を遊ばせはじめて言った。
「それがいいところなんじゃないかな」
「触れることの?」
「うん。我を忘れてしまうところが。理性とか体面とか置き去りで」
「……なら、やっぱり怖い」
「……そうだね。あなたはそうだ」
 髪にキスをしかけてやめた。人通りは少ないが往来がある場所だ。手を繋いだままコーヒーを飲んでいることだけでもう、危うい気がした。それでも離せない。今夜あのマンションに帰るのだと思うとまた眩しさを覚えるような心地がする。だが妻と話さないわけにはいかない。
「そうだね……」
 誰に言うでもなく、月を眺める。いきなり鴇田が身体をこわばらせた。繋いでいた手が離され、彼は立ち上がる。前方を向いたまま動かないので、「なに?」とそちらを見ると、ふたりの元へやって来る影があった。
 夜に紛れて顔まではっきりしないが、小柄でこまこまとした動作の歩き方で誰なのか分かった。途端、暖の心臓がはっきりと唸る。
 蒼生子だった。彼女がこんな時間にこんな場所をひとりで歩いていることに驚く。手に買い物バッグをぶら下げて、彼女はきびきびとした足取りでやって来る。ふたりの傍まで来ると、立ったままの鴇田の前で止まる。硬く険しい顔で「また暖が無理にお誘いしましたか?」と鴇田に訊ねた。
「蒼生子さん、」暖も立ちあがる。
「いえ、今夜は……偶然、」
「そうですか。先日の台風の夜は、主人がお世話になったようで」
 それを知られているのか? と驚く。あの夜の行き先は告げたことがなかった。もしかすると蒼生子の実家から鴇田に電話をかけた日、隣室の義母に聞かれていて知ったのかもしれない。もしくはひょんな隙を見て暖のスマートフォンを見た。情報を得るのは妻という立場なら難しくない。特に暖は隠す努力を全くしていないので容易いだろう。どれもあり得る話だった。
 唐突に、パン、と乾いた音が響いた。
 蒼生子が渾身の力で鴇田の頬を打ったのだ。鴇田は傾がなかったが、呆然としていた。蒼生子が手にしていた買い物バッグが地面に落ちる。ぐしゃ、と何かが潰れる音がした。
 強い目で蒼生子は鴇田を見る。そのわりに感情の読めない表情をしていた。怒っているでもなく、呆れているでもなく、悲しんでいるでもない。強いて言うなら戸惑っている、そういうニュアンスの顔だった。
「忘れてください、この人のこと。もう会わないって約束してください。そしたら私も、なかったことにします」
 鴇田の唇が震えたが、彼はなにも発しなかった。
「私たち、これでも仲良くやってる夫婦なんですよ。赤ちゃん欲しくて頑張ってる。これまでいろんな危機があったけど、それをお互いの努力とか、歩み寄りとか、工夫で乗り越えてきました。今回もそうします。あなたと主人はなにもなかったし、これからもなにもない。会わないでください。約束を、してください」
「――します」
 鴇田は棒立ちのまま、復唱するように言った。
「忘れます。もう会いません。……僕個人の感情であなたとあなたのご主人を振り回したこと、お詫びします。申し訳ございませんでした」
 そう言って鴇田は深く頭を下げる。それを蒼生子は見届けることなく、踵を返して「行こう、暖」と暖の肘を掴んだ。暖には言いたいことがたくさんあった。蒼生子に対しても、鴇田に対しても。それでも蒼生子は進むので、鴇田に「いまの謝罪は撤回してください」とだけ言って蒼生子が落とした買い物袋を拾ってあとを追った。
 追いついた暖に、蒼生子は振り向かない。名を呼び掛けても彼女は前に進むだけだった。肩に手をかけると反射的に振り向き、躊躇って、うつむいた。暖の手元から買い物バッグだけをひったくり、また足早に歩き出す。
「――蒼生子、」
 懲りずに呼びかけると、彼女はようやく足を止めて、道の途中で買い物バッグの中身を改めた。
「たまご、買ったんだよ」と言う。


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 なぜいままでその思考に至らなかったのだろう。こんなの簡単に判明しただろうに。
 家に帰るのを躊躇って、反対方向の電車に乗った。電車は不通の区域に差し掛かり、暖の目的とする駅の手前で折り返し運転となった。電車を降り、仕事でもないのに労を承知で歩きはじめる。日が暮れて家々には明かりが灯るはずだったが、目的地に近付くにつれて不穏な静けさと緊張感に浸される感覚がした。
 浸水はおおむね道路15センチメートルの辺りに来ている、というのが同僚の取材のまとめだった。確かにそのラインまで水が上がった痕が分かる。町内は断水しているという情報で、広場には水を求めて給水車に列が出来ていた。避難物資も配布しているようだ。それを横目に歩き、ようやく目的地にたどり着く。作業着を着ているから分からなかったが、地上にある店の入り口付近にたむろしていたのはバースタッフだった。作業を終えたのか休憩しているのか、店から持ち出したと思われる家具にビニールを敷いて腰掛け、菓子パンや握り飯を頬張っている。
 その中に見覚えのある顔があった。バーテンダーでオーナーの伊丹だ。日頃は粋なタイを締めた姿でしか見たことがなかったので、上下スウェットに手拭いを頭に巻いた姿を目の当たりにして衝撃を受けた。
「――おや、三倉さん」と暖に気づき、立ち上がった。
「あ、いいですいいです、座って食事を続けてください。すみません――興味本位で来てしまいました。来るなら来るでなにか差し入れ持ってくればよかったですね」
「気になさらないでください。物流が混乱していますから、差し入れの調達どころか普段の生活用品でさえ困るはずです。三倉さんはご無事でしたか?」
「僕の住むところはなんとか。ライフラインも大丈夫ですし、交通も止まってない。ちょっと手に入りにくい食材や生活物資はあるけど、ぐらいです。あの、……お店は、」
「ああ、この通り」
 と、伊丹は運び出した店の備品を指した。覆うものもなく、湿気て黒ずんでいる。砂の跡が残っていた。「これでも水が引いてだいぶ乾いた方です」と伊丹は煙草に火をつけた。地下にある店は、やはり被害が出てしまったのだ。
「贔屓にしていただいて申し訳ないのですが、店は当面休業です。開始のめども立たない。いまはとにかく片付けなければというところで」
「楽器も、ですか?」
「ええ。ミュージシャンが個人所有の楽器はともかく、店に据え付けのピアノやドラムセットはだめですね。乾かしてまた調整しなおすよりは買った方がいいでしょう。もっとも、買って据えられる場所があるなら、ですけれど」
「それは……」
 慰めの言葉すら口に出来ず噤んだ。黙っていると、地下の店内から微かに音色が届いた。ポーン、ポーンと一音だけ絶えず鳴らされている。そちらに目をやる。伊丹は目を細め「遠海くんが来ててね」と教えてくれた。
「鴇田さん?」
「店のもので廃品が出るかもしれないから、ごみの相談に来てもらったんです。あるいはリペアの相談をね。彼も忙しいのに、……ピアノのこともあったから」
「行ってもいいですか?」
「どうぞ。足元良くないですのでお気をつけて」
 店へと降りる階段を進む。流れ込んだ泥や土砂がまとめられ、あちこちに小山を作っていた。慎重に降りた先にある扉は開いていた。風通しをよくするためにあえて開けているのだろう。中からピアノが響く。近付くにつれそれはずいぶんと膨らんでぶよぶよとした、歪(ひず)んだ音を出していることが分かった。
 ほとんどの家具が運び出されていたが、機材や楽器、店のこまごまとしたものはあちこち中途半端に残されていた。飴色だった床には拭いてもぬぐいきれなかった泥が筋を残している。店の奥のステージとされているところで、背を丸めてピアノに縋り付いている鴇田がいた。鴇田自身も作業着だった。社用の灰色のつなぎだったので、仕事の帰りで着替えも惜しんでここへ来ているのだと分かった。ずっと一音を鳴らし続けている。歪んだ音にそれでも縋る鴇田の姿が痛ましく、暖は立ち尽くして見ているほかなかった。
 ふ、と息をついて鴇田は天井を向いた。そうして暖の姿に気づく。途端泣きそうに顔を歪め、「なんでいるんですか」と言葉を吐き出した。
「様子を見に来た。この辺りが浸水地域だと知って、」
「もう会いたくないって言ったはずです」
「会いたい、とあなたは言ったよ。会おう、とおれも言った」
 それに今日ここで会えたことは偶然に過ぎない。鴇田はピアノの椅子の上に作業靴のままの足を載せ、膝を抱いた。子どもの仕草には落ち着きのなさと不安が滲む。
「――このピアノは、僕が伊丹さんのところでピアノを教わりはじめて最初に触ったピアノなんです。伊丹さんの家に元からあった、古いけどいいピアノです。だからもう、付きあいの長い兄弟みたいなもので」
「そうか……」
「これ以外の本物のピアノを僕はよく知らないです。三倉さんの依頼で結婚式で弾きましたけど、他は部屋でいじる電子ピアノしか知らない。本当にこれしか弾いてこなかった」
 ポーンと鴇田は音を鳴らす。傍で聞けば余計に音質の悪さを理解できた。
「修理に出してもだめだろうって、伊丹さん言ってました。ちょうどこの上」鴇田は天井を指した。染みが出来て黒ずみ、壁紙が波打っていた。「ここから浸水があって、ピアノにも水が当たってしまったんだって」
「……」
「避難で手一杯だったはずだから、どうしようもなかった。避難所にこんなの運べませんし。……弦もいくつか飛んだ。水でふやけて膨らんでしまったハンマーもあります。いろんな個所がずれてしまった。こんなに音が悪い」
 鴇田は右手を鍵盤にすべらせ、音をいくつか弾いた。先ほどから鴇田が執拗に鳴らしていた一音以外の音を、リズムを持って奏でる。サスペンションのへたった車が急ブレーキをかけたような、いびつで不快な音がした。左手もリズムを刻む。鳴らず鍵盤が元に戻らない音もあった。
 リズムと指の力の込め具合で、いつか鴇田が暖の肌の上で奏でた音楽だと分かった。原曲を知らないまま、聴く音はひどいひずみ方をしている。音程は外れ、音は鳴らず、ぶつぶつと切れる。鴇田はそれでも背を丸めて一心にピアノを弾く。
 びん、といっそう不快な音がした。弦が外れたのだ。ハンマーが空回りしているのが分かる。それでも鴇田はピアノを弾こうとする。鳴らないピアノを懸命に鳴らそうとしている。もう本人もやけっぱちでやっているようで、それが心から気の毒で、暖は鴇田の背に触れ、そのままゆっくりと抱きしめた。
「もう鳴らさなくていいよ」
 暖に抗って跳ねまわる筋肉の動きを衣類の下に感じながら、封じ込めるようにじわじわと強く力を込める。
「やめよう、鴇田さん」
「僕がやめたらもう誰もこのピアノを弾く人はいません」
「ピアノも鴇田さんに弾かれてよかったと思ってる。こんなに触られて、おれがピアノなら嬉しかった」
 だから、と鴇田の腕に手をまわし、ピアノを弾き続ける腕を持ちあげた。音が止まる。指は名残惜しく空を掻いていたが、暖が自身の指を絡めると震えながら握り返してきた。
 椅子に座った鴇田が暖を見上げる。純粋に喪失の悲しみを湛えた透明な涙が頬を伝った。表情が変わらないので、セラミックの人形の肌に水滴を落としたみたいだった。
 それでも次々に涙の粒は膨れ、頬を濡らす。指の腹でそれに触れ、シャツの袖口で拭う。額同士を擦り合わせ、間近で目を覗き込んだ。触れる鼻先は相変わらず冷たかった。
「――だから、」鴇田が掠れた声を出した。
「ん?」
「あんたには会いたくなかった」
 睫毛の震えが分かる距離で、鴇田は冷たく言った。鴇田の会いたくなかったは、会いたかったと同義だ。そしてそれらは暖が思うよりずっと切実な意味を込めていることをもう理解しきっている。鴇田の腕が暖に縋った。冷え切っている身体をどうにか温めたいと思ったが、どうしようもないのも分かっていた。


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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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