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 なぜいままでその思考に至らなかったのだろう。こんなの簡単に判明しただろうに。
 家に帰るのを躊躇って、反対方向の電車に乗った。電車は不通の区域に差し掛かり、暖の目的とする駅の手前で折り返し運転となった。電車を降り、仕事でもないのに労を承知で歩きはじめる。日が暮れて家々には明かりが灯るはずだったが、目的地に近付くにつれて不穏な静けさと緊張感に浸される感覚がした。
 浸水はおおむね道路15センチメートルの辺りに来ている、というのが同僚の取材のまとめだった。確かにそのラインまで水が上がった痕が分かる。町内は断水しているという情報で、広場には水を求めて給水車に列が出来ていた。避難物資も配布しているようだ。それを横目に歩き、ようやく目的地にたどり着く。作業着を着ているから分からなかったが、地上にある店の入り口付近にたむろしていたのはバースタッフだった。作業を終えたのか休憩しているのか、店から持ち出したと思われる家具にビニールを敷いて腰掛け、菓子パンや握り飯を頬張っている。
 その中に見覚えのある顔があった。バーテンダーでオーナーの伊丹だ。日頃は粋なタイを締めた姿でしか見たことがなかったので、上下スウェットに手拭いを頭に巻いた姿を目の当たりにして衝撃を受けた。
「――おや、三倉さん」と暖に気づき、立ち上がった。
「あ、いいですいいです、座って食事を続けてください。すみません――興味本位で来てしまいました。来るなら来るでなにか差し入れ持ってくればよかったですね」
「気になさらないでください。物流が混乱していますから、差し入れの調達どころか普段の生活用品でさえ困るはずです。三倉さんはご無事でしたか?」
「僕の住むところはなんとか。ライフラインも大丈夫ですし、交通も止まってない。ちょっと手に入りにくい食材や生活物資はあるけど、ぐらいです。あの、……お店は、」
「ああ、この通り」
 と、伊丹は運び出した店の備品を指した。覆うものもなく、湿気て黒ずんでいる。砂の跡が残っていた。「これでも水が引いてだいぶ乾いた方です」と伊丹は煙草に火をつけた。地下にある店は、やはり被害が出てしまったのだ。
「贔屓にしていただいて申し訳ないのですが、店は当面休業です。開始のめども立たない。いまはとにかく片付けなければというところで」
「楽器も、ですか?」
「ええ。ミュージシャンが個人所有の楽器はともかく、店に据え付けのピアノやドラムセットはだめですね。乾かしてまた調整しなおすよりは買った方がいいでしょう。もっとも、買って据えられる場所があるなら、ですけれど」
「それは……」
 慰めの言葉すら口に出来ず噤んだ。黙っていると、地下の店内から微かに音色が届いた。ポーン、ポーンと一音だけ絶えず鳴らされている。そちらに目をやる。伊丹は目を細め「遠海くんが来ててね」と教えてくれた。
「鴇田さん?」
「店のもので廃品が出るかもしれないから、ごみの相談に来てもらったんです。あるいはリペアの相談をね。彼も忙しいのに、……ピアノのこともあったから」
「行ってもいいですか?」
「どうぞ。足元良くないですのでお気をつけて」
 店へと降りる階段を進む。流れ込んだ泥や土砂がまとめられ、あちこちに小山を作っていた。慎重に降りた先にある扉は開いていた。風通しをよくするためにあえて開けているのだろう。中からピアノが響く。近付くにつれそれはずいぶんと膨らんでぶよぶよとした、歪(ひず)んだ音を出していることが分かった。
 ほとんどの家具が運び出されていたが、機材や楽器、店のこまごまとしたものはあちこち中途半端に残されていた。飴色だった床には拭いてもぬぐいきれなかった泥が筋を残している。店の奥のステージとされているところで、背を丸めてピアノに縋り付いている鴇田がいた。鴇田自身も作業着だった。社用の灰色のつなぎだったので、仕事の帰りで着替えも惜しんでここへ来ているのだと分かった。ずっと一音を鳴らし続けている。歪んだ音にそれでも縋る鴇田の姿が痛ましく、暖は立ち尽くして見ているほかなかった。
 ふ、と息をついて鴇田は天井を向いた。そうして暖の姿に気づく。途端泣きそうに顔を歪め、「なんでいるんですか」と言葉を吐き出した。
「様子を見に来た。この辺りが浸水地域だと知って、」
「もう会いたくないって言ったはずです」
「会いたい、とあなたは言ったよ。会おう、とおれも言った」
 それに今日ここで会えたことは偶然に過ぎない。鴇田はピアノの椅子の上に作業靴のままの足を載せ、膝を抱いた。子どもの仕草には落ち着きのなさと不安が滲む。
「――このピアノは、僕が伊丹さんのところでピアノを教わりはじめて最初に触ったピアノなんです。伊丹さんの家に元からあった、古いけどいいピアノです。だからもう、付きあいの長い兄弟みたいなもので」
「そうか……」
「これ以外の本物のピアノを僕はよく知らないです。三倉さんの依頼で結婚式で弾きましたけど、他は部屋でいじる電子ピアノしか知らない。本当にこれしか弾いてこなかった」
 ポーンと鴇田は音を鳴らす。傍で聞けば余計に音質の悪さを理解できた。
「修理に出してもだめだろうって、伊丹さん言ってました。ちょうどこの上」鴇田は天井を指した。染みが出来て黒ずみ、壁紙が波打っていた。「ここから浸水があって、ピアノにも水が当たってしまったんだって」
「……」
「避難で手一杯だったはずだから、どうしようもなかった。避難所にこんなの運べませんし。……弦もいくつか飛んだ。水でふやけて膨らんでしまったハンマーもあります。いろんな個所がずれてしまった。こんなに音が悪い」
 鴇田は右手を鍵盤にすべらせ、音をいくつか弾いた。先ほどから鴇田が執拗に鳴らしていた一音以外の音を、リズムを持って奏でる。サスペンションのへたった車が急ブレーキをかけたような、いびつで不快な音がした。左手もリズムを刻む。鳴らず鍵盤が元に戻らない音もあった。
 リズムと指の力の込め具合で、いつか鴇田が暖の肌の上で奏でた音楽だと分かった。原曲を知らないまま、聴く音はひどいひずみ方をしている。音程は外れ、音は鳴らず、ぶつぶつと切れる。鴇田はそれでも背を丸めて一心にピアノを弾く。
 びん、といっそう不快な音がした。弦が外れたのだ。ハンマーが空回りしているのが分かる。それでも鴇田はピアノを弾こうとする。鳴らないピアノを懸命に鳴らそうとしている。もう本人もやけっぱちでやっているようで、それが心から気の毒で、暖は鴇田の背に触れ、そのままゆっくりと抱きしめた。
「もう鳴らさなくていいよ」
 暖に抗って跳ねまわる筋肉の動きを衣類の下に感じながら、封じ込めるようにじわじわと強く力を込める。
「やめよう、鴇田さん」
「僕がやめたらもう誰もこのピアノを弾く人はいません」
「ピアノも鴇田さんに弾かれてよかったと思ってる。こんなに触られて、おれがピアノなら嬉しかった」
 だから、と鴇田の腕に手をまわし、ピアノを弾き続ける腕を持ちあげた。音が止まる。指は名残惜しく空を掻いていたが、暖が自身の指を絡めると震えながら握り返してきた。
 椅子に座った鴇田が暖を見上げる。純粋に喪失の悲しみを湛えた透明な涙が頬を伝った。表情が変わらないので、セラミックの人形の肌に水滴を落としたみたいだった。
 それでも次々に涙の粒は膨れ、頬を濡らす。指の腹でそれに触れ、シャツの袖口で拭う。額同士を擦り合わせ、間近で目を覗き込んだ。触れる鼻先は相変わらず冷たかった。
「――だから、」鴇田が掠れた声を出した。
「ん?」
「あんたには会いたくなかった」
 睫毛の震えが分かる距離で、鴇田は冷たく言った。鴇田の会いたくなかったは、会いたかったと同義だ。そしてそれらは暖が思うよりずっと切実な意味を込めていることをもう理解しきっている。鴇田の腕が暖に縋った。冷え切っている身体をどうにか温めたいと思ったが、どうしようもないのも分かっていた。


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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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