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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 鴇田のアパートからいったんマンションへ戻って着替え、会社へ向かった。さすがにこんな災害の後なので被害の確認はすべきだった。蒼生子が心配だから、という頭はなかった。
 マンションに戻ると蒼生子がいて、だが彼女は普段通りをふるまった。夫の外泊についてなにもコメントされない。どういうつもりなのか図りかねる。暖としてははっきりと「一緒にいたくない」と妻を拒み、帰らなかったのだ。
 いつもの口調いつもの声音で「濡れたの?」と訊かれた。暖が着ていた蒼生子手製のシャツは濡れたのをかけておいただけだったので、再び着るときにはしわくちゃになっていたのだ。うん、とだけ暖は答えた。被害はなにもなく、夫婦の亀裂などなにも感じさせない完璧に整ったマンションの一室。塵ひとつない暖たち夫婦が暮らす家。寝室で着替えながらようやくスマートフォンの電源を入れたが、会社からの業務連絡と災害喚起情報が入っていただけだった。蒼生子は暖に対してなんのアクションも行っていなかった。
「暖、もう行く?」
 と寝室から出て来た暖に妻は訊ねた。
「ああ、行く。この辺の被害は大丈夫みたいだから」
「ならテーブルの上にお弁当置いといたから、持ってってね。サンドイッチだけど。あとボトルにコーヒー淹れたから、それも」
「……ありがとう。蒼生子さん、今日は?」
「先生のお宅の被害がひどいみたいだから、様子を見に行って、手伝えることがあればお手伝いしてこようと思って」
「……そう。気を付けて」
「待って、暖。これ忘れて困らなかった?」
 背を向けかけた暖に蒼生子が寄越したのは羞明対策で買った眼鏡だった。これがないと眩しくて困っていたというのに、その存在のことはまるで思い出さなかった。羞明の症状が蘇り、眩しいのはまさしくいまだ、と思う。
「ありがとう」
 眼鏡を受け取り、マンションを出た。眼鏡はそのまま鞄の内ポケットに収まる。確実に夫婦の間になにかが挟まったのに、こんなにとりとめもない話をしている自分たちを滑稽に思った。このまま暖があの部屋に戻ることをやめても妻は部屋を綺麗に保ち続けるのだろうか。歪んだはずなのに、見なかったふりをされている。
 前回の台風に続けての台風だったため、台風自体は前回よりも小規模だったとはいえ、被害があちこちで報告されていた。暖の暮らす街や取材地域も例外ではなかった。今回被害がとりわけ大きかったのは同僚の受け持つ地域で、そこは河川の増水で浸水した。増水の報を聞いたときから同僚は会社に泊まり、情報を拾い続けていたという。
 暖が記者をしている新聞社は地元ローカル紙であり、規模も小さいため、社会記事も生活記事もその地域を担当する記者が取材を行う。大抵はふたりで各地域を担当するが、小さな自治体の場合はいくつか範囲をまとめて担当する。暖の片割れの地域担当者は、保育園が浸水したおかげで子どもの預け先がないと言って今日は休暇を取っている。災害を理由に出勤できない社員は何人もいた。出勤出来た内勤社員も手伝って、あちこちで被害の確認と取材を行った。暖自身の取材をようやく終え、社用車で戻って社内を確認する。まだ出ている社員がちらほらいて、空のデスクが目立つ。
 取材と記事構成の合間、思い立って鴇田にメッセージを送った。鴇田のアパートは無事だったが、職場や収集エリアはどうだったのだろうか。ごみが散乱すれば鴇田たちも対応に追われることになるだろう。もしくは浸水被害で使えなくなったものをごみとして排出する必要に迫られれば、鴇田たち清掃会社の人間はもろに影響を受ける。
 深夜になって届いたメッセージには『大丈夫です』とあった。
『でもこれからもっと忙しくなると思う。水が引いて自治体が消毒作業を終了すればみんな片づけをするだろうから』
『そうだよね。おれも忙しいけど、鴇田さんも安全と衛生には気を付けて』
 既読になったが、返事はなかった。パソコンの画面とにらめっこして仕事を続けていると着信がある。鴇田からだった。慌ててフォンブースに駆け込んだ。
「どうした?」
『いえ、メッセージの続きです。僕もあなたも忙しくなってよかったな、と思って』
「どうして?」
『現実を見ないで済むから。向き合う時間が出来たら、僕はあなたに会いたくてたまらなくなる』
「……」
『もう会いたい。あんたがひと晩泊まってった、それだけの部屋なのに帰るのが辛い。あんたを思い出す。……恋がこういうものだと分かっていたら絶対に人なんか好きにならないのに、』
「……そう言わせたいわけじゃなかった。また会いに行く」
『いやです』
「鴇田さん」
『会ったら離れるのが辛い。奥さんいる人を好きになったからこうだって思い知る。だから会いたくないです』
「……それでも会おう」
『いやです。いまだって電話を切りたくないと思ってる。早く切らなきゃって思ってる。どっちもいやです。……会いたい』
「うん……」
 男の辛い気持ちがストレートに伝わる。惜しんで暖から通話を切った。
 結局、暖がまともに帰宅できるようになるまで四日かかった。マンションに帰るのは着替えやシャワーの一瞬だけという場合が多く、他は会社と取材先をまわって過ごした。蒼生子とまともに話をしていないし、鴇田のことはもっと外側にあった。常に気にかけているのに、会えないことがもどかしいくせに、片付けるべき事柄が山積していてたどり着けない。
 被害の全容が把握できるようになり、子どもの保育園に困っていた同僚も出勤するようになって、暖はその日ようやく帰宅することにした。蒼生子と話そうという固い決意を抱いていた。ふと会社のエントランスで立ち止まる。ニュースは連日連夜台風被害の報告ばかりだが、打って変わってその後は清々しい晴れ間が続いていることを、傾きかけた日差しの中で知った。澄んだ空は秋が深い。空を見上げるなんていつぶりだろうか。斜陽は眩しかったが、眼鏡に手は伸びない。光をいいものだと思った。
 夕日をぼんやりと浴びていると「三倉さん」と内勤社員から呼び止められた。
「すみません、お帰りになる前に確認が」
「いいよ。どしたの?」
「明日の紙面に載せる情報の再確認です。災害掲示板の連絡先一覧ですね。三倉さんのまとめで今日掲載したM地区の被害相談窓口に誤りがあったみたいで。ていうか、窓口が変更になったのかな? 電話をかけたけど違うみたいだって問い合わせがあって」
「うわ、まじか。確認しよう。戻るよ」
「すみません」
 内勤社員とともにエレベーターに乗ってまた自分のデスクへと戻る。暖が役所や公民館へ電話で取材した地区の被害相談窓口の連絡先は、改めて確認を取ると暖が教えられた方から変更になったと判明した。役所でも情報が錯綜しており、混乱が起きているのだ。繰り返し確認を取り、こちらで間違いないですと確約を取って、内勤社員に正しい情報の記事を渡した。明日には訂正の旨が掲載される。このまま載らなくて済んでよかった、と胸をなでおろす。
 息をついて社内に目を向ける。同僚のデスクに乗ったメモ書きに目がいった。走り書きで書かれたそれには「浸水被害地域(10/13まとめ)」とある。同僚の取材エリアは暖とは違う地域だ。そしてそこは鴇田がピアノを弾くあのバーのある地域だと思いついた途端、そのメモ書きから目が離せなくなった。食い入るように字を追う。確かあのバーの地区は、と地区名を思い浮かべると同時に、その名を一覧の中で発見出来た。あのバーは地下にある。被災しないわけがない。――ぐらりと身体が傾いだ気がした。



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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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