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O駅に着いた頃にスマートフォンが震えた。着信は蒼生子からだった。改札をくぐりながら暖は電話に出る。
『……暖?』電話の向こうは迷っていた。不在にはすでに気付いただろう。暖を窺って怯えた声音がことさら鋭い眩しさをもたらして、目が眩む。
「あなたはおれが浮気をしていると思ってる?」
訊ねた声の語尾が掠れた。目を固く瞑ると脳の奥がチリチリと痛んだ。蒼生子は沈黙の後、『だって』と言いかけ、迷い、また口を噤んだ。
「悪い。今日はあなたといられない……いたくない」
意思表明とともに電話を切る。電源まで落とし、ちょうどやって来た電車に乗り込んだ。
O市から電車に揺られて街まで戻る。地下鉄S線に乗り換えてK駅で降りた。K駅の改札に鴇田は立っていた。薄いウインドブレーカーも、足元のスニーカーも、濡れて色が変わっていた。
改札を抜けた暖に鴇田は軽く頭を下げる。無表情だが少し怒っている寄りの顔をしている。「目、いいんですか」と彼は発声した。
「目?」
「眼鏡してない。さっき眩しいって言ってたから、実は電車にさえ乗れるものなのか心配していました」
「ああ、忘れて来た。でももういい」
「……」
「眩しいときとそうでないときと安定しないから、やっぱり自律神経云々なんだろうな。さっきまですごく眩しかったけど電車の中でずっと目を閉じていたらマシになった。……台風、ひどいな」
そう言うと鴇田は「こっちです」と暖の先を歩く。向かった先は駅のロータリーに接続するバスターミナルで、帰宅する人で列が出来ていた。やって来たバスに無言で乗り込む。混雑する車内、鴇田の肩から腕がずっと暖に触れていた。
七つ目の停留所で降りた。ここから十分程度歩くのだと言った。傘が役に立たないほどで、最終的にかざすのを諦めて歩いた。簡素なつくりのアパートに到着する。どうぞ、と鴇田に通されたのは、LDKともう一間があるだけの、小綺麗ではあるが古びた部屋だった。
「風呂沸いてます」と鴇田はタオルを差し出しながら言った。
「なにも聞かない?」
「必要があればあとで聞きます。風呂をどうぞ。狭いですがそんなに古くはないです」
ずぶ濡れなのは鴇田も同じだった。一緒に入るかと訊こうとして、やめた。鴇田がどこまで暖に対して距離を許しているのか、許していないのか、許せないのか、――考えることが多すぎた。それはいまの暖にとってはオーバーワークで、だからなにも考えずにありがたさに甘えて風呂に浸かった。
まめに掃除をしているようで、狭くても清潔な浴室だった。内装の古さと水回りの新しさが一致しないので、おそらく水回りだけは後から整え直したのだろう。緊張にまみれていた身体がほどけかかる。目を閉じると沈みそうで、慌てて身体を起こす。鴇田も風呂に入りたいだろうと思ってそこそこの時間で上がった。着替えは鴇田のものを借りた。
浴室を出ても鴇田の姿が見えない。すりガラスのはまった戸板を引くと、LDKに隣接して板間があった。そこはある程度の広さになっていて、鴇田のベッドに衣類、作業着などが下がる。鴇田は壁に向かって据えた電子ピアノの椅子に腰かけて、かたかたと鍵盤を叩いていた。イヤフォンをつなげているので暖の耳には鍵盤に落とす指の音しか聴こえない。背後に立つと鴇田は気配で振り向いた。イヤフォンの半分を耳から抜く。
「なに弾いてるの?」
そう訊くと鴇田は無言で片方のイヤフォンを暖に寄越した。半分は鴇田の耳に収まっている。コードレスではないので身体を近づけてイヤフォンを装着する必要があった。暖がイヤフォンを嵌めると片耳に音が流れ込みはじめる。
「――美女と野獣」
と暖は思わず呟いたが、鴇田は黙ってピアノを鳴らすだけだった。ジャズのアレンジになっているが、きちんと歌詞が蘇る。
‘Just a little change, small to say the least’
‘Both a little scared, neither one prepared’
‘Beauty and the beast’
――言葉に出来ないほどの小さな変化、お互いに臆病。美女も野獣も。
耳を傾け音に聴き入った。鴇田の顔の距離が近い。余韻を残してピアノの音は止まる。そのまま電源を切ったので、接続の切れるぷつっという音がイヤフォンにちいさく響いた。
イヤフォンを外すと鴇田と目が合った。中腰だった姿勢を戻し、電子ピアノの横の壁に背中を預けてへたり込んだ。
「――鴇田さんも風呂入って来なよ」
「……僕はいいです。拭いて着替えた」
「冷えてない?」
「特には。こういう日に外へ出て作業ってのは慣れっこだし」
そっか、と暖は呟く。ピアノの音が聞こえないと、急に外からの音を意識するようになった。古いアパートには心配なぐらいに雨が叩きつけられ、窓ガラスが鳴る。暖のマンションでもいまごろは嵐に揺れているだろうか。その部屋に蒼生子がいるかどうかまでは分からない。……いまは分かることを放棄したい。
鴇田は音を出さないピアノをことことと鳴らしていた。話を聞く、とも、話せ、とも言わない。けれど「おれの話聞いてくれる?」と訊くと頷いた。
「……やっぱり鴇田さんは優しい人だね。比べなくても、おれはずるくて卑怯だ」
「誰かにそう言われたんですか?」
「いや、おれが勝手に思ってるだけ」
「ならそれはきっと事実とは異なります。僕はそう思ったことはないですから」
「……優しいね」
「優しいわけではありません。決して」
「言葉を正しく使おう。……こんなおれに対していつも丁寧でいてくれて、本当にありがとう」
そう言って鴇田を見上げる。わずかに目を細め、鴇田は「したい話をしてください」と重ねた。
「うん、……まあ元々はじめから無理があったのにごり押しして進んでいたから、いまになってこんなに軋んでるんだ、ってのが分かった」
暖は膝を立て、うつむいた。
「無理?」
「子どもを望むそもそもの話」
「……」
「蒼生子さんはおれとの子どもを欲しがったけど、あの人高校のころに妊娠したことがあったんだ。それをおろした結果が不妊だって話だった。道理で……大学で知りあったとき、同期だったけどおれより一個上だって知って、一浪でもしたのかなと思ってた。違うな。妊娠と中絶騒ぎで高校を留年してたんだ」
「……それを今日知らされた?」
「偶然知ったような話だから、このまま知らずにいたかもしれない。彼女は隠したかったのかな……」
どうでもいい話が次々と思い浮かんで、とにかく言葉にせずにはいられなかった。鴇田の反応など気にせず喋る。
「そんなこと、おれは知らなかった。知らないで、――いっぱい足掻いたなあ。とにかく嫌で疲れてそれでも応えようって頑張ったんだよ、おれはね。まあ彼女も頑張ってたし。ふたりで頑張ってたらつり合いは取れていいのか」
「……」
「でもさ、おれはもう彼女とセックスしたいと思わない。子どもも欲しくない。彼女もそうかな? そうだといいよな。おれは浮気してるんだって思うぐらいだから」
「浮気?」鴇田が反応した。「浮気したんですか?」
「してない。そう思われてたんだってことも今日分かった。……事実はどこにもないんだけどね」
「事実にないことを、疑われたんですね」
「……うん」
「それが、眩しくなるぐらいしんどいことですか?」
鴇田は立ちあがった。床に座る暖に目線を合わせて彼も床に座る。
「それもある。もう全部がなんていうか……辛い、」
「全部。一個いっこ、言えますか」
「……自律神経の乱れ」
「はい」
「羞明」
「はい」
「カレンダーの星マークの日に妻とセックスしなきゃいけないこと」
「はい」
「義父が同居を迫ってくること」
「はい」
「……おれは浮気をしているんだと、疑われたこと」
「……はい」
「黙秘で隠されていた事実のこと……」
語尾が情けなく震えた。きつく目を閉じる。膝に頭を乗せて呻いた。苦しくて背中が震えた。
蒼生子は黙っていた。ずっと暖には言わなかった。十年も連れ添った夫婦だというのに。事実を晒されても、暖はきっと蒼生子をきちんと理解する努力をしたのに。
信頼も信用もどこにもなかった。もしくは怖がられていた。侮られていた。理解されていなかった。
「二十八歳のときに」
顔を上げられないままに喋る。近い位置で鴇田が「はい」と掠れた声を出した。
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今日の一曲(別窓)
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「もちろん家はこのままってわけじゃない。二世帯住宅として、新築なりリフォームなりすればいい。資金は心配するな。庭が広いから犬三匹でも問題ないぞ。そうやって新しい環境にして新しい気分になれば、ほれ、子どももポロっとできるかもしれん」
暖はやはり苦笑しつつ黙っていた。この家は仲がいいから、蒼生子が子どもを欲しがっていることも、不妊治療を継続していることも義両親は知っている。ひょっとすると前回の夜、暖が夫としての務めを果たせなかったことさえも知られているかもしれない。蒼生子は特になにも言わなかったが、不満を吐露する先に実家を選ぶのはあり得そうな話だった。
「仕事が忙しくて家庭が多少おろそかになってもな? 同居している家族がいたらその分フォローもしてやれるだろう。まあきみにもね。いつまでも嫁にばっかり盛ってろなんて酷なことは言わん。蒼生子はあの通りたいした美人でもないからな。だが子どもさえ出来ればあの子も満足するし、ちょっとの火遊びぐらいは目を瞑る。だからなあ、考えてくれんかと思ってなあ」
話の先が見えなくなってきた。火遊びとはどういうことだろうか。同居の相談をしに来たのではなかったのか、この義父は。
「……あの、僕と蒼生子は、」
「まあ、全部言わんでもいい。分かってる。仕事の他に通う先があるんだろう? 男はそういう部分があってもいい。全部を家庭に求めるのは出来ない話だ。俺はよく分かる。暖君にはね、蒼生子の望みさえ叶えてやれたらそれでいい」
「仰っていることが分かりません。僕は彼女を大事に思っています。――僕がまるで浮気でもしているかのような仰り様ですが、それは誰が言い出したことですか? 蒼生子が?」
「とぼけんでいい」義父の声にいら立ちが滲む。
「とぼけるもなにも、事実がないのにとぼけようがないです。――蒼生子が言っていましたか?」
再度訊ねると、義父は「そうだ、蒼生子が言っていた」と不快をあらわにした。
「蒼生子が、僕が浮気していると?」
「仕事が忙しいっていうのは嘘だとな。まあよくある話じゃないか。偽って家庭をおろそかにする話はな。だがそういうことにも俺は目を瞑ると言っている。男なんだから、仕方がないじゃないか。目を瞑っててやるからとにかく、頼むよ」
「お義父さん、明らかにそれは違うと断言できます。異なっている事実を認めて諾とはうなずけません。僕は」
「浮気ぐらいどこにでもある話だ。俺の前で取り繕う必要もないし、俺はそういう部分を分かっている」
「ですから僕は蒼生子を」
「いいから黙って言うことを聞きなさい! 言い訳ばかりで話の通じない男だな。蒼生子が可哀想だから同居しろと言っているんだ! 夫ならそれぐらいの責任を果たしなさい!」
怒りで顔を真っ赤にして、義父は部屋を出て行った。閉められた扉を前に呆然と立ち尽くす。可哀想? 蒼生子がか。浮気をされて可哀想だって意味だ。……可哀想なのはおれではない。事実ではないことを一方的に言いつけられ、理解もされないが、それはなんでもないことだ。疲労も、羞明も、誤解も、……誰よりも可哀想なのは子どもも出来ず夫には浮気をされている蒼生子の方だから。暖のストレスなんか、誰も汲まない。
不意に、辛いですね、と暖に心から同情した男の顔がよぎった。滅多に表情を変えないけれど、不器用だけれど、優しい男。彼にも暖の苦しみの本当のところは分からないのかもしれない。理解しがたいだろう。けれど暖の味方でいてくれる。彼は誠実だ。眠ってほしいと願ってピアノを弾いてくれた。暖の目に手を当ててくれた。
眩しさは治ると言い切ってくれた。
見遣った窓の外は、曇天だった。嵐が近い。カーテンをずらす。窓の外に白い煙が微かに流れているのを見て、暖は窓を開けた。隣の部屋とつながるベランダに義母がいて、煙草をふかしていた。
「――うちのくそ爺が悪かったわね。あんなやつと同居なんてごめんでしょう? 気にしなくていいから」と彼女は言った。会話は聞こえていたようだ。
「いえ、……言いますが、僕は浮気をしていません。これまでただの一度も」
「やだ、疑っているわけじゃないわ。ただちょっと暖くんの帰りが遅いっていう蒼生子の愚痴を聞いて勝手な解釈をしているだけよ。でも一応、あんなのでも夫だからね。非礼をお詫びします。私には夢があってね」
「夢?」
「あいつは肝臓の数値が悪いの。酒の飲みすぎね。私より先に死ぬわ。そのときに言ってやるの。人生が台無しになるとっておきのひとことを」
「……怖いですね」
「だから、同居の話は聞き流していいってことよ」
義母のくゆらす煙草の煙が、曇天の空の下で流れて消える。風が出て来たように思う。低気圧の通過が近い。
「そもそも、蒼生子に子どもが出来ないのは暖くんのせいじゃなくて、自分のせいなんだから」と義母は空を見ながら言う。
「自分? お義父さんのせいですか?」
「そう。あの子ほら、流産してるじゃない」
「ああ、」思い当たる節と言えば、人工授精を試みて受精卵が着床しなかった例だった。あれは流産と呼ぶのだろうか。だが心当たりがないと言えば嘘になる。
「あれは表向き流産ってことにしているだけで、本当は体裁の悪い子どもだから出産を認めない、って無理におろさせたのよね、あの人が。あのとき産ませてあげていれば、中絶なんかしていなければ、子宮を変にいじらずに済んで、ふたり目ぐらいはあっという間に出来たと思うのよ」
吸いきった煙草を灰皿に潰し、義母は二本目の煙草に火をつけた。体裁の悪い子ども? 中絶? ――そんな話は知らない。聞いたこともない。
「僕の子どもを中絶、ですか?」と訊いた。思っていたより低い声が出た。義母がぎくりと身体をこわばらせる。暖に向けた顔は先ほどとは打って変わって、青ざめていた。
煙草を吸う義母に構わず顔を近づける。「どういうことですか?」
「どういうことって、蒼生子から聞いていないの?」
「少なくともいまお義母さんが口にしたことに関しては」
「ごめんなさい――蒼生子はあなたには話したんだと思い込んでいた。忘れてちょうだい。もしくは蒼生子から訊いて」
「忘れませんし、蒼生子からではなく、まずお義母さんの口から聞きます。蒼生子は――僕の子どもを中絶させられたんですか?」
「違う。……それは違うわ、暖くん、」
「ならどういうことですか?」
「本当に知らないの……?」
「とぼけて忘れるような性格はしていないんです。蒼生子は僕の子どもを中絶させられたんですか?」
「あなたじゃない……」
「では、誰の?」
追及の手を緩めない暖に対し、義母は明らかに狼狽えていた。煙草をしきりにふかす。そしてあっという間に新しい一本を吸いきってしまうと、観念したように喋った。
「――あの子が高校のころよ。付きあってた先輩とのあいだに子どもが出来た。でも夫はあの通りの人だから、未成年同士でなんて体裁の悪い子どもだと罵って、結局中絶させた。それも、誰にも知られないようなクリニックを選んだから、結果的に蒼生子の身体を傷つけることになってしまって……あの子があなたとの子どもが出来ないと落ち込むたびに、私はあのときのことがよぎるわ。産ませてあげられたら違ってた、きっと、」
「……」
「ごめんなさい、蒼生子は話していたんだと思ってた。……とんだ家の嫁をもらっただなんて思わないでね。子どもが出来ても出来なくても、私はその道での幸せがあると思うわ」
なにも言えないまま、暖は黙ってベランダの窓を閉めた。マットレスに寝転がり、窓の外に見える曇天を見上げる。眩しかった。眼鏡をかけているのに眩しくてたまらず、目を閉じる。今日はこんな曇天なのにな。
先ほど押し入れに仕舞いこんだ鞄の中に紛れていた母子手帳。あれは蒼生子が、暖に出会う前に暖ではない誰かと恋をした蒼生子が、ひっそりと用意したものだ。どんな気分だっただろう。嬉しくて用意したのか、辛くて用意したのか。分からない。……全く分からなくなってしまった。妻に添おうとしていた自分が虚しくなる。蒼生子の味方であることが夫の務めだと思っていたが、じゃあ暖には誰がいる?
端から――暖との子どもはいないも同然だったのではないか。
眼鏡を外し、腕で目元を覆った。喉の奥から苦味がこみあげる。眠りたいほど疲労しているが、冴えて眠れない。思考がぐるぐるめぐる。気分がわるい。最悪に。
不意に頭の横に置いていたスマートフォンが鳴動した。メッセージの着信を告げたのだ。暖はそれを操作する。鴇田からのメッセージだった。暖に恋心を打ち明けて以降、鴇田からメッセージが来ることはなかったので、意外に思った。
縋るようにアプリをひらく。鴇田からのメッセージには、写真が添付されていた。広くどこまでも浅い海の上には鈍色の雲が垂れ込め、そのはるか彼方では虹が海上へ落ちている、そういう写真だった。構図も露出もでたらめで、決して上手いとは言えない写真。続くメッセージにこうあった。
『眠れましたか』
ぐ、と喉の奥が痛んでとっさに奥歯を噛み締める。
『オーストラリアを旅行したときに撮った写真が出て来たので送ります。僕の滞在した町は海が近くてこんな感じでした。旅行したときは冬で、雨ばっかり降ってた。世界中の虹がここに集中してるんじゃないかと思うぐらい、当たり前にあちこち虹がかかってました』
それを読んで、暖はたまらなくなった。暖がいつか見た虹が嬉しかったから。それを鴇田は覚えていたから。すぐさま鴇田のナンバーにコールした。数コールで鴇田は出た。
『――はい』
「……」
『三倉さん?』
なにを言うつもりだっただろう。なにも出てこない。でも電話したかった。声を聞きたいと思った。
「しんどいな」
暖に同情して、暖を可哀想だと認めてほしかった。
「鴇田さん、眩しいよ。ここは眩しくてたまんない。ここに……いるのが辛い、」
『――いまどこにいますか?』
「蒼生子さんの実家。……O市」
『電車?』
「ああ」
『じゃあ一時間ちょっとぐらいで着きますね。S線です。S線K駅』
それが鴇田のアパートの最寄り駅だと理解するのに、少し時間を要した。
『僕は駅で待ってます。あんたが来ても来なくても』
「……これからすぐ出る」
『風呂、沸かしておきます。こっちはだいぶ雨風がひどい。きっと濡れるから』
「うん」
通話を切って、暖は誰にも告げずに妻の実家を出た。
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暖はやはり苦笑しつつ黙っていた。この家は仲がいいから、蒼生子が子どもを欲しがっていることも、不妊治療を継続していることも義両親は知っている。ひょっとすると前回の夜、暖が夫としての務めを果たせなかったことさえも知られているかもしれない。蒼生子は特になにも言わなかったが、不満を吐露する先に実家を選ぶのはあり得そうな話だった。
「仕事が忙しくて家庭が多少おろそかになってもな? 同居している家族がいたらその分フォローもしてやれるだろう。まあきみにもね。いつまでも嫁にばっかり盛ってろなんて酷なことは言わん。蒼生子はあの通りたいした美人でもないからな。だが子どもさえ出来ればあの子も満足するし、ちょっとの火遊びぐらいは目を瞑る。だからなあ、考えてくれんかと思ってなあ」
話の先が見えなくなってきた。火遊びとはどういうことだろうか。同居の相談をしに来たのではなかったのか、この義父は。
「……あの、僕と蒼生子は、」
「まあ、全部言わんでもいい。分かってる。仕事の他に通う先があるんだろう? 男はそういう部分があってもいい。全部を家庭に求めるのは出来ない話だ。俺はよく分かる。暖君にはね、蒼生子の望みさえ叶えてやれたらそれでいい」
「仰っていることが分かりません。僕は彼女を大事に思っています。――僕がまるで浮気でもしているかのような仰り様ですが、それは誰が言い出したことですか? 蒼生子が?」
「とぼけんでいい」義父の声にいら立ちが滲む。
「とぼけるもなにも、事実がないのにとぼけようがないです。――蒼生子が言っていましたか?」
再度訊ねると、義父は「そうだ、蒼生子が言っていた」と不快をあらわにした。
「蒼生子が、僕が浮気していると?」
「仕事が忙しいっていうのは嘘だとな。まあよくある話じゃないか。偽って家庭をおろそかにする話はな。だがそういうことにも俺は目を瞑ると言っている。男なんだから、仕方がないじゃないか。目を瞑っててやるからとにかく、頼むよ」
「お義父さん、明らかにそれは違うと断言できます。異なっている事実を認めて諾とはうなずけません。僕は」
「浮気ぐらいどこにでもある話だ。俺の前で取り繕う必要もないし、俺はそういう部分を分かっている」
「ですから僕は蒼生子を」
「いいから黙って言うことを聞きなさい! 言い訳ばかりで話の通じない男だな。蒼生子が可哀想だから同居しろと言っているんだ! 夫ならそれぐらいの責任を果たしなさい!」
怒りで顔を真っ赤にして、義父は部屋を出て行った。閉められた扉を前に呆然と立ち尽くす。可哀想? 蒼生子がか。浮気をされて可哀想だって意味だ。……可哀想なのはおれではない。事実ではないことを一方的に言いつけられ、理解もされないが、それはなんでもないことだ。疲労も、羞明も、誤解も、……誰よりも可哀想なのは子どもも出来ず夫には浮気をされている蒼生子の方だから。暖のストレスなんか、誰も汲まない。
不意に、辛いですね、と暖に心から同情した男の顔がよぎった。滅多に表情を変えないけれど、不器用だけれど、優しい男。彼にも暖の苦しみの本当のところは分からないのかもしれない。理解しがたいだろう。けれど暖の味方でいてくれる。彼は誠実だ。眠ってほしいと願ってピアノを弾いてくれた。暖の目に手を当ててくれた。
眩しさは治ると言い切ってくれた。
見遣った窓の外は、曇天だった。嵐が近い。カーテンをずらす。窓の外に白い煙が微かに流れているのを見て、暖は窓を開けた。隣の部屋とつながるベランダに義母がいて、煙草をふかしていた。
「――うちのくそ爺が悪かったわね。あんなやつと同居なんてごめんでしょう? 気にしなくていいから」と彼女は言った。会話は聞こえていたようだ。
「いえ、……言いますが、僕は浮気をしていません。これまでただの一度も」
「やだ、疑っているわけじゃないわ。ただちょっと暖くんの帰りが遅いっていう蒼生子の愚痴を聞いて勝手な解釈をしているだけよ。でも一応、あんなのでも夫だからね。非礼をお詫びします。私には夢があってね」
「夢?」
「あいつは肝臓の数値が悪いの。酒の飲みすぎね。私より先に死ぬわ。そのときに言ってやるの。人生が台無しになるとっておきのひとことを」
「……怖いですね」
「だから、同居の話は聞き流していいってことよ」
義母のくゆらす煙草の煙が、曇天の空の下で流れて消える。風が出て来たように思う。低気圧の通過が近い。
「そもそも、蒼生子に子どもが出来ないのは暖くんのせいじゃなくて、自分のせいなんだから」と義母は空を見ながら言う。
「自分? お義父さんのせいですか?」
「そう。あの子ほら、流産してるじゃない」
「ああ、」思い当たる節と言えば、人工授精を試みて受精卵が着床しなかった例だった。あれは流産と呼ぶのだろうか。だが心当たりがないと言えば嘘になる。
「あれは表向き流産ってことにしているだけで、本当は体裁の悪い子どもだから出産を認めない、って無理におろさせたのよね、あの人が。あのとき産ませてあげていれば、中絶なんかしていなければ、子宮を変にいじらずに済んで、ふたり目ぐらいはあっという間に出来たと思うのよ」
吸いきった煙草を灰皿に潰し、義母は二本目の煙草に火をつけた。体裁の悪い子ども? 中絶? ――そんな話は知らない。聞いたこともない。
「僕の子どもを中絶、ですか?」と訊いた。思っていたより低い声が出た。義母がぎくりと身体をこわばらせる。暖に向けた顔は先ほどとは打って変わって、青ざめていた。
煙草を吸う義母に構わず顔を近づける。「どういうことですか?」
「どういうことって、蒼生子から聞いていないの?」
「少なくともいまお義母さんが口にしたことに関しては」
「ごめんなさい――蒼生子はあなたには話したんだと思い込んでいた。忘れてちょうだい。もしくは蒼生子から訊いて」
「忘れませんし、蒼生子からではなく、まずお義母さんの口から聞きます。蒼生子は――僕の子どもを中絶させられたんですか?」
「違う。……それは違うわ、暖くん、」
「ならどういうことですか?」
「本当に知らないの……?」
「とぼけて忘れるような性格はしていないんです。蒼生子は僕の子どもを中絶させられたんですか?」
「あなたじゃない……」
「では、誰の?」
追及の手を緩めない暖に対し、義母は明らかに狼狽えていた。煙草をしきりにふかす。そしてあっという間に新しい一本を吸いきってしまうと、観念したように喋った。
「――あの子が高校のころよ。付きあってた先輩とのあいだに子どもが出来た。でも夫はあの通りの人だから、未成年同士でなんて体裁の悪い子どもだと罵って、結局中絶させた。それも、誰にも知られないようなクリニックを選んだから、結果的に蒼生子の身体を傷つけることになってしまって……あの子があなたとの子どもが出来ないと落ち込むたびに、私はあのときのことがよぎるわ。産ませてあげられたら違ってた、きっと、」
「……」
「ごめんなさい、蒼生子は話していたんだと思ってた。……とんだ家の嫁をもらっただなんて思わないでね。子どもが出来ても出来なくても、私はその道での幸せがあると思うわ」
なにも言えないまま、暖は黙ってベランダの窓を閉めた。マットレスに寝転がり、窓の外に見える曇天を見上げる。眩しかった。眼鏡をかけているのに眩しくてたまらず、目を閉じる。今日はこんな曇天なのにな。
先ほど押し入れに仕舞いこんだ鞄の中に紛れていた母子手帳。あれは蒼生子が、暖に出会う前に暖ではない誰かと恋をした蒼生子が、ひっそりと用意したものだ。どんな気分だっただろう。嬉しくて用意したのか、辛くて用意したのか。分からない。……全く分からなくなってしまった。妻に添おうとしていた自分が虚しくなる。蒼生子の味方であることが夫の務めだと思っていたが、じゃあ暖には誰がいる?
端から――暖との子どもはいないも同然だったのではないか。
眼鏡を外し、腕で目元を覆った。喉の奥から苦味がこみあげる。眠りたいほど疲労しているが、冴えて眠れない。思考がぐるぐるめぐる。気分がわるい。最悪に。
不意に頭の横に置いていたスマートフォンが鳴動した。メッセージの着信を告げたのだ。暖はそれを操作する。鴇田からのメッセージだった。暖に恋心を打ち明けて以降、鴇田からメッセージが来ることはなかったので、意外に思った。
縋るようにアプリをひらく。鴇田からのメッセージには、写真が添付されていた。広くどこまでも浅い海の上には鈍色の雲が垂れ込め、そのはるか彼方では虹が海上へ落ちている、そういう写真だった。構図も露出もでたらめで、決して上手いとは言えない写真。続くメッセージにこうあった。
『眠れましたか』
ぐ、と喉の奥が痛んでとっさに奥歯を噛み締める。
『オーストラリアを旅行したときに撮った写真が出て来たので送ります。僕の滞在した町は海が近くてこんな感じでした。旅行したときは冬で、雨ばっかり降ってた。世界中の虹がここに集中してるんじゃないかと思うぐらい、当たり前にあちこち虹がかかってました』
それを読んで、暖はたまらなくなった。暖がいつか見た虹が嬉しかったから。それを鴇田は覚えていたから。すぐさま鴇田のナンバーにコールした。数コールで鴇田は出た。
『――はい』
「……」
『三倉さん?』
なにを言うつもりだっただろう。なにも出てこない。でも電話したかった。声を聞きたいと思った。
「しんどいな」
暖に同情して、暖を可哀想だと認めてほしかった。
「鴇田さん、眩しいよ。ここは眩しくてたまんない。ここに……いるのが辛い、」
『――いまどこにいますか?』
「蒼生子さんの実家。……O市」
『電車?』
「ああ」
『じゃあ一時間ちょっとぐらいで着きますね。S線です。S線K駅』
それが鴇田のアパートの最寄り駅だと理解するのに、少し時間を要した。
『僕は駅で待ってます。あんたが来ても来なくても』
「……これからすぐ出る」
『風呂、沸かしておきます。こっちはだいぶ雨風がひどい。きっと濡れるから』
「うん」
通話を切って、暖は誰にも告げずに妻の実家を出た。
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生まれた子犬は全部で四匹、雄雌それぞれ二匹ずつだ。そのうち雄の一匹と雌の一匹には貰い手がつき、すでにこの家にはいない。残った子犬の二匹はころころと庭を転げまわり、母犬にじゃれついてはまた駆けていく。
「どっちか一匹飼わないか?」と子犬を見守りながら義父が言った。
「んー、かわいいけど、いまのマンションじゃ飼えないし」
「ならおまえたちがここに越してくればいい。ここなら飼える」
「またその話? 私たちは夫婦ふたりで楽しくやってるんだから水差さないでよ」
蒼生子が子犬の一匹を抱き上げて言う。同居の話は結婚当初から出ている話だった。次男坊の暖と、ひとり娘の蒼生子。暖の実家は兄が残って嫁を取った。だからほとんど婿のようなもので、子どもが生まれたらきっと同居の方が色々とやりやすいだろうから、ゆくゆくは二世帯で。それまでは夫婦ふたりで仲良く暮らそうよ、と新婚当初は甘く笑いあっていたものだった。
それがいまはこの有様だ。一向に同居どころの話ではない。暖はふ、と息をついて眼鏡を押し上げた。後日再度眼鏡屋へ行って弦の間隔を調節してもらったら、慣れもあっていまは前ほど違和感を思わなくなった。
羞明については、蒼生子には「スマートフォンやパソコン画面の見過ぎによるドライアイから来るもの」と説明してあった。本当のことは話していない。話す気にはなれなかったが、近いうちに向き合わなければならないだろうとは思う。あの夜以降蒼生子からの誘いはなく、荒れていた海が突如凪いだかのような静けさは、かえって暖をぞっとさせている。彼女としてはひょっとすれば「男としてのプライドが傷ついた夫」という見方で、特に反応することを控えている、という風にも取れる。いずれにせよ夫婦生活のない現在、羞明の症状については良からずとも悪くなく、という状態だ。時折突如眩しいのが辛い。
「いつまで夫婦ふたりで仲良くやってるつもりなんだかな」と義父はたっぷりとため息を吐いた。典型的な「昭和のお父さん」という人で、男は偉いと思っている節があるし、だから子どもを産まず夫婦ふたりで暮らしている暖と蒼生子について理解をあまり示さない。
「ちょっとー、いつまで庭で遊んでるのー? 上がってお茶ぐらい飲みなさいよ」と屋内から義母が顔を出した。はあい、と蒼生子は子犬を縁側に据えた大きなゲージに戻す。義父は縁側から直接家に入ろうとして、義母に「犬触ったら手ぐらい洗ってちょうだいって何度言ったら分かるの?」とたしなめられた。
「おまえだって俺が何度言っても煙草やめねぇじゃねぇか」
「え、お母さんまた煙草はじまっちゃったの?」
「口が淋しくなるのよ」
仲の良い親子を脇に見ながら、暖も屋内に入り手洗いに向かった。
石鹸で手を洗いながら、犬を飼うのは説得さえ出来ればいいかもしれないけれどやはり難しい、と考えていた。蒼生子の子どもを欲しがる気持ちを紛らわすことが出来るかもしれない。ただ「動物を新生児のいる家で飼ってはいけない」と思い込んでいる彼女にとって、犬を飼うことはイコール子どもを諦めると決意することだ。そうやすやすと犬を飼うと説得されてくれないとは思う。じゃああなたは諦めるのね、私たちの赤ちゃん。蒼生子がそう言ったわけでもないのに、ぐらりと目眩を感じた。
「はるー? お茶飲もうよー」居間に移動した蒼生子から声がかかった。石鹸を流し、手を拭ってついでに洗面台の鏡を見る。薄いブルーの色のついた眼鏡姿は、それでも鏡を見るたびにぎくりとする。知っているはずの人間のことを実はよく知らないでいて、緊張感が走るような心地。
居間で茶を飲んでいる三人に、暖は「悪いんだけど寝てていいかな?」と申し出た。
「あ、眠い?」
「うん」
「あらどうしたのよ?」そう訊ねる義母の手には煙草があった。
「暖ね、最近夜が遅いんだよ。朝も早いし。仕事が忙しいんだって。ほら、こないだの台風被害。だいぶあちこちの家や建物がさ」
「ああ、そっちはひどかったのよね。いいわ、蒼生子の部屋で休んでなさいよ。マットレスしかないから布団敷いてあげる。ちょっと待ってて」
「いえ、お構いなく。勝手にやりますから」
「男の仕事が忙しいのはいいことだ。なあ?」
と義父に同意を求められたが、苦笑するだけで特になにもコメントしなかった。確かにここ最近は仕事が忙しかった。台風被害だけでいくらでも記事にすることが出てくる。とりわけ暖が日ごろ取材している地域がひどくやられたので、連日の取材スケジュールは混乱を極めていた。しかも台風はまだこれからやって来る、と注意喚起されている。
二階に蒼生子の部屋がある。幼いころから洋裁が好きで、小学生のころには手製のスカートを穿いて学校に通っていたほどだという蒼生子の少女時代を見守って来た部屋だ。扉を開けると少し埃っぽかった。時が止まったかのように蒼生子のあれこれが仕舞われもせず置かれている。蒼生子が好きだったアイドルのポスターは日に焼け、端切れを縫い合わせて作られた手製のカーテンが窓にかかる。畳敷きの部屋に無理やり置いた木製のベッドにはマットレスだけが乗っていた。毛布だけ取り出せばいいかと思い、押し入れを開けるも、そこからも蒼生子のあれこれが飛び出してきて暖は苦笑した。擦り切れるほど抱いたうさぎのぬいぐるみ、お菓子の瓶に詰め込んだ色とりどりのボタンやリボン。フェルトの切れ端を詰めた箱。
ピンクの水玉模様の毛布を見つけ出したが、それを引っ張り出すにも苦労した。端を引っ掛けて学生鞄を落としてしまう。茶色い革製の鞄の中身は健在で、教科書やらノートやらペンやらが出てくる。毛布をマットレスの上に置き、それらを拾った。教科の段階から言って高校時代のものだろう。この教科書おれも使ってたな、と思いながら戻していると、その隙間に母子手帳が挟まっていることに気付いた。
蒼生子のものだろうか。学生鞄の中に入る母子手帳、というのがちぐはぐな感じがした。蒼生子のものだとしたら三十六年前のものになるのだが、そのわりには新しい気もする。中身をめくってみたがそこにはなにも記されてはいなかった。
母子手帳を鞄に戻し、押し入れを閉めると「おやすみのところ失礼するよ」と義父が部屋に入って来た。
「すまんね、疲れてるだろうに」
「いえ、どうしました?」
「いや、同居の話。真剣に考えてくれないか、と思ってね」
義父がひとりで現れたとき、そんな話をされる気がしていた。長くなりそうな予感に心中でため息をつく。
この家は暖たちが暮らす街から電車で一時間ほどの郊外にある一軒家だ。義父の両親がかつてはここで洋裁店を経営していたと言い、店舗兼住宅なので、敷地含め家は広い。義父と義母はその職を継がなかったが、蒼生子が離れて暮らすいま、広すぎる家は淋しいのだとよく口にしていた。暖の職場へも一時間程度で通えるのだからどうだ、と最近は少々ことが強引に進む気配があった。
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眼鏡屋で試着までしたがなにがいいのかさっぱり分からなかった。とにかくこれでいいや、程度で眼鏡を作ってもらい、その足で店へ向かう。防音の店内からはちいさく音が洩れている。その軽やかな音を聞いて塞がりきっている心がすこし呼吸をした。重い木製のドアを押して店内に入ると、信じられない速度でピアノがころころ鳴っていた。「Tea For Two」だ。鳴らしている本人は相変わらずピアノに身も心も捧げきっていて、あんな体躯をした大人の男がな、と思うと胸が絞られた。まるでピアノにだけは甘えられる子どものようになる。
相変わらず彼の周囲は静かで、友人らの姿を見ない。カウンター席へ歩き、ジャケットを脱ぐとカウンターの中からはおしぼりではなくタオルが出て来た。
寡黙なバーテンダーが目だけでほんのりと微笑む。それで自分が濡れていることに気付いた。
「――雨降ってたのに傘忘れて。ありがとうございます。ええと、ピルスナーを。それとつまめるもの適当にお願いします」
オーダーをして、受け取ったタオルで髪や衣類や鞄を拭いた。眼鏡のレンズからも雫を拭おうとして、こういうので拭くと傷になるんだっけ、と思い当たった。眼鏡をかけないのでこういうものへの手入れがよく分からない。眼鏡屋から受け取った紙袋の中には眼鏡ケースも入っており、その中に眼鏡拭きがあったのでそれでレンズを拭った。だが雫の跡が残る。面倒になってそのままかけた。
慣れない眼鏡は耳と鼻に重たく感じた。樹脂フレームだから軽量なはずなのに、予想以上に重いと感じる。慣れていないせいだと思う。眼鏡の内側から見る普段は暖色のはずの店内は、水の中に沈んだみたいにぼんやりと薄暗い。だがこれくらいだといい。
演奏に夢中になる男を眺めながらビールを飲む。ぱらぱらと拍手が聞こえ、演奏が終わったのだと気づいた。暖も拍手をする。店内はレコードに切り替わった。ピアノの椅子からどいた男は、スタッフと一言二言交わすとこちらへやって来た。
暖の顔を改めて正面から見たらしい。途端に眉間にしわを寄せた。
隣へ座り、またジントニックを頼んでいる。それから「流行ってますね」とコメントした。
「え?」
「そういう色付きレンズの眼鏡。サングラスよりは薄い感じの。かけてる人を街でたまに見るので」
「ああ、そうだね。でもこれそういうんじゃないんだ。医療目的」
「医療?」鴇田は怪訝な顔を向けて来た。
「羞明、って言うんだって」今日医者からされた言葉をそのまま復唱した。
「シュウメイ?」
「やたらと眩しく感じる症状のこと。目を開けてらんないぐらい眩しく感じるときがあってさ、こないだ眼科にかかって紹介状もらって、今日いちんちかけて大きな病院で精密検査してきたんだ」
鴇田は身じろぎもせず、険しい顔でこちらを見た。
「羞明が出る症状の病気って色々あるらしくてさ。もー片っ端から検査検査。病院内ぐるぐるしたよ。視力とか、眼圧とか。眼底写真撮ったり。視野の検査がきつかったな。視神経に異常がないか確かめるとか言って脳外科もまわされた」
「……結果は、」
「わかんない」
「わかんない? 結果が出なかったってことですか?」
「いや、医者もわかんなかったってこと。どこにも異常がなかったんだ。羞明の症状の出る条件がばらついてるから、多分だけど、自律神経の乱れですねっていう結論。心療内科紹介されたけどとりあえず保留にしてきた。自律神経乱れると、目の瞳孔の調節がうまくいかなくなることもあるんだと。なにかストレスが溜まったりしていませんかと言われたから、ここじゃ言えないけどありますよ、って答えた」
「……」
「自律神経障害とかな、おれには関係ない話だと思ってた。おれも意外と繊細だったらしい。タフで図太いやつだと思ってたんだけど。……とりあえず点眼薬処方されたよ。あと色付きの眼鏡をかけると軽減されますよって言われたから、試してるわけ」
ちょんちょん、と眼鏡の端を指す。鴇田は口元を引き結んだままうつむき、息をついた。
「おれ視力はいいからさ。てっきり老眼が来たんだと思って焦った」
「それにしたってその症状も焦りますよ。眩しいんですか?」
「うん。最近のおれ、目つき悪くなかった?」
「あんまり気にしなかったですけど、疲れていそうだなって思っていました。だとしたら僕のせいですか」
「なにが?」
「シュウメイの原因。……僕が好きだと言って、困らせているのかと」
それを聞いて自分が情けなくなった。慌てて否定する。「違うよ。てか、それはおれの方でしょう」
「なにがですか?」
「おれの方こそあなたを困らせているでしょう? あなたは会いたくないと言っているのに、こうやって強引に押しかけて付きあわせて、を繰り返している」
そう言うと、鴇田は「自覚はあったんですね」と答えた。
「あります。ごめんなさい。でも付きあいをやめる気はなくて、……あなたには酷なことをしていると分かっていて身勝手で、ごめん」
「いえ、……もう僕は仕方がないんです。だからいい。……羞明、ええと、ストレスの原因の話。僕じゃなければどこに?」
訊かれて言うか黙すかは迷った。けれど鴇田に言わなければ誰にも言わないのだと思う。せめて話せる人には話したいと思うのは甘えなんだろうか。自分を壊さないために過去の自分が覚えた工夫なのだろうか。
「……あなたに話すのは酷いことだと思いながら話す。……蒼生子さんを苦痛に思ってる」
「……」
「というより、妊活ってやつ」
ビールを飲もうとしたがグラスは空だった。鴇田を真似て暖もジントニックをオーダーする。
鴇田は喋らなかった。一心に暖の一挙手一投足を見つめている。
「とても……あなたには酷な話をします。真面目に聞かなくていい。寝てたっていいから、傍にいて話をさせてください」
「話してください」
「……パートナーが子どもを欲しいって望んでいて、それを分からない、とは言わない。おれたちは結婚したんだし、おれぐらいは彼女の味方にならないと誰が守ってやるんだ、と思う。子どもはひとりじゃ作れないから、もちろん協力する。おれが代わりに産んでやれたらもっと選択肢が広がるんだろうけど、産めないからね。だから彼女に従う。でも、疲れた。疲れてしまった。……少なくともおれはこんなに疲労している。けど、クリニックも、蒼生子さんも、おれの味方にはならない。疲れたって言ったらきっと、旦那さんもっと頑張らないとって言われるんです。奥さん頑張ってるんだからって。だからおれの『疲れた』は、一般から見たら全然疲れることじゃないんだ。その程度」
「……」
「でもおれは疲れたな……義務でするセックス。なんか、楽になりたい」
子ども、子ども、と言う蒼生子。彼女も楽しいと思ってセックスなんかしていないだろう。楽しいと思うように努力している、という辺りがむなしい。気持ちいいと思えるセックスってなんだっけな、と昔のことをどうやっても思い出せない。クリニックの採取室でとうの昔に切れてしまった暖の回路は、いまだに電流の流れ方を思い出せない。
こうやって枯れて終わるのかもしれない。男の人は生涯現役だから、といつか蒼生子が言っていたけれど、相手がいなければ結ぶものはないし、相手がいても男だって枯れる。ふたりで枯れてくならそれでもいいかと思う。だが相手が足掻いているから、辛い。
ジントニックは運ばれて来たが、飲む気になれなかった。暖は天井を仰ぎ、目を瞑る。慣れない眼鏡が重たい。頬の上に感じる重量を外して、まだ目をきつく閉じる。眩しい。楽になりたい。
「……眼鏡、いいんですか?」
「やっぱ面倒くさいね、これ。重たくて疲れて来た」
「でも眩しいでしょう」
「まぶしいね」
「眩しいのは、辛いですか」
「……眠い、と似ている感じがする。よく眠れたら眩しいなんて思わないかもしれないな」
「眠い?」
「不眠とは無縁の性格だから、やっぱり眩しいんだと思う」
「不眠症は辛い、と聞きます」
「聞くね」
「なら眩しいのも辛いはずだ」
「……」
「眩しさを感じるほど触れなきゃならないことは……――触れられないことを苦に思う僕の辛さとは違った方向だけど、ものすごく苦しいんだ」
隣の男が動く気配がした。静かに感情のない声で「触ります」と言われた。途端、目の上にひんやりとした肌が触れた。男の手だ、と意識した途端に暖は望んでいたものを得た感覚がした。
躊躇いがちに、怖がりながら、それでも暖に優しい手。冷たくて硬くてこわばっていて、気持ちがいい。
誰かと肌を合わせて気持ちがいいと感じることを、もうずっと忘れている。
「……ぅ…………」
喉の奥から絞り出すように、声が一息だけ漏れた。それを飲み下すことで必死に表出させないようにする。甘えてはいけない。そこまで荷を託してはいけない。ただ、堪えても堪え切れなかった涙は出た。それは閉じた目のあいだからじわじわと滲んで、鴇田の手を湿らす。
格好わるい。たったこれだけのストレスで泣いている。みっともない。誰がいるか分かったもんじゃない公衆の面前で、年下の男に慰められている。
鴇田は、手を退かさなかった。
変に動かすこともしなかった。どうしていいのか、「触ります」と言っておいて分からなかったのだと思う。不快に思われないようにとひやひやしながら、必死で自分を戒める。堪えろと言い聞かせないと足元が覚束なかった。この男にそこまで背負わせてはいけない。甘えてはいけない。けれどどうしても手を離してほしくない。
不意にピアノのことを羨ましいと思った。鴇田に飽きるぐらいに触れられて、暖がピアノならきっと嬉しいからあんなに音を鳴らすんだろう。猫の子みたいに。
相変わらず彼の周囲は静かで、友人らの姿を見ない。カウンター席へ歩き、ジャケットを脱ぐとカウンターの中からはおしぼりではなくタオルが出て来た。
寡黙なバーテンダーが目だけでほんのりと微笑む。それで自分が濡れていることに気付いた。
「――雨降ってたのに傘忘れて。ありがとうございます。ええと、ピルスナーを。それとつまめるもの適当にお願いします」
オーダーをして、受け取ったタオルで髪や衣類や鞄を拭いた。眼鏡のレンズからも雫を拭おうとして、こういうので拭くと傷になるんだっけ、と思い当たった。眼鏡をかけないのでこういうものへの手入れがよく分からない。眼鏡屋から受け取った紙袋の中には眼鏡ケースも入っており、その中に眼鏡拭きがあったのでそれでレンズを拭った。だが雫の跡が残る。面倒になってそのままかけた。
慣れない眼鏡は耳と鼻に重たく感じた。樹脂フレームだから軽量なはずなのに、予想以上に重いと感じる。慣れていないせいだと思う。眼鏡の内側から見る普段は暖色のはずの店内は、水の中に沈んだみたいにぼんやりと薄暗い。だがこれくらいだといい。
演奏に夢中になる男を眺めながらビールを飲む。ぱらぱらと拍手が聞こえ、演奏が終わったのだと気づいた。暖も拍手をする。店内はレコードに切り替わった。ピアノの椅子からどいた男は、スタッフと一言二言交わすとこちらへやって来た。
暖の顔を改めて正面から見たらしい。途端に眉間にしわを寄せた。
隣へ座り、またジントニックを頼んでいる。それから「流行ってますね」とコメントした。
「え?」
「そういう色付きレンズの眼鏡。サングラスよりは薄い感じの。かけてる人を街でたまに見るので」
「ああ、そうだね。でもこれそういうんじゃないんだ。医療目的」
「医療?」鴇田は怪訝な顔を向けて来た。
「羞明、って言うんだって」今日医者からされた言葉をそのまま復唱した。
「シュウメイ?」
「やたらと眩しく感じる症状のこと。目を開けてらんないぐらい眩しく感じるときがあってさ、こないだ眼科にかかって紹介状もらって、今日いちんちかけて大きな病院で精密検査してきたんだ」
鴇田は身じろぎもせず、険しい顔でこちらを見た。
「羞明が出る症状の病気って色々あるらしくてさ。もー片っ端から検査検査。病院内ぐるぐるしたよ。視力とか、眼圧とか。眼底写真撮ったり。視野の検査がきつかったな。視神経に異常がないか確かめるとか言って脳外科もまわされた」
「……結果は、」
「わかんない」
「わかんない? 結果が出なかったってことですか?」
「いや、医者もわかんなかったってこと。どこにも異常がなかったんだ。羞明の症状の出る条件がばらついてるから、多分だけど、自律神経の乱れですねっていう結論。心療内科紹介されたけどとりあえず保留にしてきた。自律神経乱れると、目の瞳孔の調節がうまくいかなくなることもあるんだと。なにかストレスが溜まったりしていませんかと言われたから、ここじゃ言えないけどありますよ、って答えた」
「……」
「自律神経障害とかな、おれには関係ない話だと思ってた。おれも意外と繊細だったらしい。タフで図太いやつだと思ってたんだけど。……とりあえず点眼薬処方されたよ。あと色付きの眼鏡をかけると軽減されますよって言われたから、試してるわけ」
ちょんちょん、と眼鏡の端を指す。鴇田は口元を引き結んだままうつむき、息をついた。
「おれ視力はいいからさ。てっきり老眼が来たんだと思って焦った」
「それにしたってその症状も焦りますよ。眩しいんですか?」
「うん。最近のおれ、目つき悪くなかった?」
「あんまり気にしなかったですけど、疲れていそうだなって思っていました。だとしたら僕のせいですか」
「なにが?」
「シュウメイの原因。……僕が好きだと言って、困らせているのかと」
それを聞いて自分が情けなくなった。慌てて否定する。「違うよ。てか、それはおれの方でしょう」
「なにがですか?」
「おれの方こそあなたを困らせているでしょう? あなたは会いたくないと言っているのに、こうやって強引に押しかけて付きあわせて、を繰り返している」
そう言うと、鴇田は「自覚はあったんですね」と答えた。
「あります。ごめんなさい。でも付きあいをやめる気はなくて、……あなたには酷なことをしていると分かっていて身勝手で、ごめん」
「いえ、……もう僕は仕方がないんです。だからいい。……羞明、ええと、ストレスの原因の話。僕じゃなければどこに?」
訊かれて言うか黙すかは迷った。けれど鴇田に言わなければ誰にも言わないのだと思う。せめて話せる人には話したいと思うのは甘えなんだろうか。自分を壊さないために過去の自分が覚えた工夫なのだろうか。
「……あなたに話すのは酷いことだと思いながら話す。……蒼生子さんを苦痛に思ってる」
「……」
「というより、妊活ってやつ」
ビールを飲もうとしたがグラスは空だった。鴇田を真似て暖もジントニックをオーダーする。
鴇田は喋らなかった。一心に暖の一挙手一投足を見つめている。
「とても……あなたには酷な話をします。真面目に聞かなくていい。寝てたっていいから、傍にいて話をさせてください」
「話してください」
「……パートナーが子どもを欲しいって望んでいて、それを分からない、とは言わない。おれたちは結婚したんだし、おれぐらいは彼女の味方にならないと誰が守ってやるんだ、と思う。子どもはひとりじゃ作れないから、もちろん協力する。おれが代わりに産んでやれたらもっと選択肢が広がるんだろうけど、産めないからね。だから彼女に従う。でも、疲れた。疲れてしまった。……少なくともおれはこんなに疲労している。けど、クリニックも、蒼生子さんも、おれの味方にはならない。疲れたって言ったらきっと、旦那さんもっと頑張らないとって言われるんです。奥さん頑張ってるんだからって。だからおれの『疲れた』は、一般から見たら全然疲れることじゃないんだ。その程度」
「……」
「でもおれは疲れたな……義務でするセックス。なんか、楽になりたい」
子ども、子ども、と言う蒼生子。彼女も楽しいと思ってセックスなんかしていないだろう。楽しいと思うように努力している、という辺りがむなしい。気持ちいいと思えるセックスってなんだっけな、と昔のことをどうやっても思い出せない。クリニックの採取室でとうの昔に切れてしまった暖の回路は、いまだに電流の流れ方を思い出せない。
こうやって枯れて終わるのかもしれない。男の人は生涯現役だから、といつか蒼生子が言っていたけれど、相手がいなければ結ぶものはないし、相手がいても男だって枯れる。ふたりで枯れてくならそれでもいいかと思う。だが相手が足掻いているから、辛い。
ジントニックは運ばれて来たが、飲む気になれなかった。暖は天井を仰ぎ、目を瞑る。慣れない眼鏡が重たい。頬の上に感じる重量を外して、まだ目をきつく閉じる。眩しい。楽になりたい。
「……眼鏡、いいんですか?」
「やっぱ面倒くさいね、これ。重たくて疲れて来た」
「でも眩しいでしょう」
「まぶしいね」
「眩しいのは、辛いですか」
「……眠い、と似ている感じがする。よく眠れたら眩しいなんて思わないかもしれないな」
「眠い?」
「不眠とは無縁の性格だから、やっぱり眩しいんだと思う」
「不眠症は辛い、と聞きます」
「聞くね」
「なら眩しいのも辛いはずだ」
「……」
「眩しさを感じるほど触れなきゃならないことは……――触れられないことを苦に思う僕の辛さとは違った方向だけど、ものすごく苦しいんだ」
隣の男が動く気配がした。静かに感情のない声で「触ります」と言われた。途端、目の上にひんやりとした肌が触れた。男の手だ、と意識した途端に暖は望んでいたものを得た感覚がした。
躊躇いがちに、怖がりながら、それでも暖に優しい手。冷たくて硬くてこわばっていて、気持ちがいい。
誰かと肌を合わせて気持ちがいいと感じることを、もうずっと忘れている。
「……ぅ…………」
喉の奥から絞り出すように、声が一息だけ漏れた。それを飲み下すことで必死に表出させないようにする。甘えてはいけない。そこまで荷を託してはいけない。ただ、堪えても堪え切れなかった涙は出た。それは閉じた目のあいだからじわじわと滲んで、鴇田の手を湿らす。
格好わるい。たったこれだけのストレスで泣いている。みっともない。誰がいるか分かったもんじゃない公衆の面前で、年下の男に慰められている。
鴇田は、手を退かさなかった。
変に動かすこともしなかった。どうしていいのか、「触ります」と言っておいて分からなかったのだと思う。不快に思われないようにとひやひやしながら、必死で自分を戒める。堪えろと言い聞かせないと足元が覚束なかった。この男にそこまで背負わせてはいけない。甘えてはいけない。けれどどうしても手を離してほしくない。
不意にピアノのことを羨ましいと思った。鴇田に飽きるぐらいに触れられて、暖がピアノならきっと嬉しいからあんなに音を鳴らすんだろう。猫の子みたいに。
映画館を出るころは、外は雨がひどくなっていた。
電車が止まらぬうちに帰ろうと話し、鴇田と別れた。マンションにはずぶ濡れで帰宅する。風もだいぶ強くなっていた。映画を観たあとだからか余計に視覚が調整出来ず、暖は帰るなりぐったりとソファに沈み込んだ。
「――先にシャワー浴びる?」と蒼生子が訊ねる。そうだ、まだイベントはこれからだったな、と暖は眉根を寄せて唸る。嵐で周囲はこんなに暗くなっているのに、やけに眩しくて目を開けづらい。
「はるー?」
「いいよ、蒼生子さん入りな。冷えるのもまずいんだろ」
手で目元を覆い隠すと、不快感はすこし消えた。暖が動く気がないことを察した蒼生子は、雨の中帰宅して疲れたのだと思ったのか、特になにも言わずに浴室へ消えた。
しばらく目元を覆い、浴室から水音が聞こえたのを聞いてようやく起き上がった。LEDの白すぎる照明が辛いので、設定をいじって照度を落とした。大丈夫、と言い聞かせるようにキッチンに立つ。今夜のメニューは野菜と魚がメインだ。肉ばかりで満腹になると満足なセックスが出来ないらしいから、食事はあっさりと身体によいものを。どこかで聞きかじった、本当か嘘かもわからない情報を信じている。ばかばかしいと思うが、これで子どもが出来たら彼女は積年の悩みから解放されるのだ。……多分、きっと。
子どもが生まれたら、自分は好奇心を持ってかわいがり、安全に気を配って、きちんと育てると思う。思うようにしている。けれど心のどこかで醒めた自分が「そんなに必要?」と訊ねる。もしかわいくなかったら放棄、なんてことは出来ない。育てる方がセックスの何百倍も大変のはずで、じゃあこんなにもいま足掻いている自分は、蒼生子も、この先どうなってしまうか分からない。もっと苦しい目に遭うのかもしれないのに、いまは「子どもが生まれたらゴール」に目標がすり替わっている。生まれたらスタートのはずだ。
もう、蒼生子も、暖も、決定的に間違えているのだ。それでもこの道を引き返すことを考えない。暖は考えている。自分は蒼生子ほど熱心ではないから。卑怯者だから。蒼生子は意地になっている。それは彼女自身が一番感じていると思う。だが彼女は進む。……今夜のセックスでだめだったら彼女をきちんと諭そう、と思う。このままのこの先には多分、ふたりが夢を見られるものはない。
たっぷり一時間ぐらい、蒼生子は浴室から出てこなかった。そのころには暖による手料理はあらかた準備が済んでいた。テーブルをセッティングし終えて、暖はテレビをつけた。各地の台風被害を伝えている。この付近でも交通がだいぶ麻痺しているようだった。
――鴇田さん、帰れたかな。
ある程度は濡れて帰ったと思う。彼には湯を張ってくれる妻も、食事を作ってくれる旦那もいない。オーストラリアに帰った友人らとは連絡が取れているのだろうか。とにかくこの嵐の中ひとりで凍えていないことを祈る。――いや、鴇田ならあり得そうで嫌だ。とても嫌だ。
スマートフォンに触れ、鴇田のアドレスを呼び出す。表示されたナンバーにメッセージを送る。それはすぐに既読がついた。
『無事に帰れました?』
『帰りました』
『映画観る前、鴇田さんが言いかけてたことを聞きたい』
その質問には既読はついたがなかなか返事がなかった。
やがて鴇田の返事を諦めたころ、スマートフォンが反応した。
『あのとき嘘をつきました。前に映画を観た日。本当は僕のところから虹なんか見えてなかった。虹が見えたって子どもみたいな興奮をしているあなたを好きだと思ったから、嘘をつきました。とにかくあなたに好かれたかった』
そうだよな、と当たり前に納得してしまった。好きになったのだから当然そう思うだろうに、鴇田がなかなか口にしなかった言葉だ。
『でもあなたには好かれないと分かっていたから、同時にすごく辛かった。それがあのとき僕が思ったことです』
好きになった人から好かれたいと思う。心から。
電車が止まらぬうちに帰ろうと話し、鴇田と別れた。マンションにはずぶ濡れで帰宅する。風もだいぶ強くなっていた。映画を観たあとだからか余計に視覚が調整出来ず、暖は帰るなりぐったりとソファに沈み込んだ。
「――先にシャワー浴びる?」と蒼生子が訊ねる。そうだ、まだイベントはこれからだったな、と暖は眉根を寄せて唸る。嵐で周囲はこんなに暗くなっているのに、やけに眩しくて目を開けづらい。
「はるー?」
「いいよ、蒼生子さん入りな。冷えるのもまずいんだろ」
手で目元を覆い隠すと、不快感はすこし消えた。暖が動く気がないことを察した蒼生子は、雨の中帰宅して疲れたのだと思ったのか、特になにも言わずに浴室へ消えた。
しばらく目元を覆い、浴室から水音が聞こえたのを聞いてようやく起き上がった。LEDの白すぎる照明が辛いので、設定をいじって照度を落とした。大丈夫、と言い聞かせるようにキッチンに立つ。今夜のメニューは野菜と魚がメインだ。肉ばかりで満腹になると満足なセックスが出来ないらしいから、食事はあっさりと身体によいものを。どこかで聞きかじった、本当か嘘かもわからない情報を信じている。ばかばかしいと思うが、これで子どもが出来たら彼女は積年の悩みから解放されるのだ。……多分、きっと。
子どもが生まれたら、自分は好奇心を持ってかわいがり、安全に気を配って、きちんと育てると思う。思うようにしている。けれど心のどこかで醒めた自分が「そんなに必要?」と訊ねる。もしかわいくなかったら放棄、なんてことは出来ない。育てる方がセックスの何百倍も大変のはずで、じゃあこんなにもいま足掻いている自分は、蒼生子も、この先どうなってしまうか分からない。もっと苦しい目に遭うのかもしれないのに、いまは「子どもが生まれたらゴール」に目標がすり替わっている。生まれたらスタートのはずだ。
もう、蒼生子も、暖も、決定的に間違えているのだ。それでもこの道を引き返すことを考えない。暖は考えている。自分は蒼生子ほど熱心ではないから。卑怯者だから。蒼生子は意地になっている。それは彼女自身が一番感じていると思う。だが彼女は進む。……今夜のセックスでだめだったら彼女をきちんと諭そう、と思う。このままのこの先には多分、ふたりが夢を見られるものはない。
たっぷり一時間ぐらい、蒼生子は浴室から出てこなかった。そのころには暖による手料理はあらかた準備が済んでいた。テーブルをセッティングし終えて、暖はテレビをつけた。各地の台風被害を伝えている。この付近でも交通がだいぶ麻痺しているようだった。
――鴇田さん、帰れたかな。
ある程度は濡れて帰ったと思う。彼には湯を張ってくれる妻も、食事を作ってくれる旦那もいない。オーストラリアに帰った友人らとは連絡が取れているのだろうか。とにかくこの嵐の中ひとりで凍えていないことを祈る。――いや、鴇田ならあり得そうで嫌だ。とても嫌だ。
スマートフォンに触れ、鴇田のアドレスを呼び出す。表示されたナンバーにメッセージを送る。それはすぐに既読がついた。
『無事に帰れました?』
『帰りました』
『映画観る前、鴇田さんが言いかけてたことを聞きたい』
その質問には既読はついたがなかなか返事がなかった。
やがて鴇田の返事を諦めたころ、スマートフォンが反応した。
『あのとき嘘をつきました。前に映画を観た日。本当は僕のところから虹なんか見えてなかった。虹が見えたって子どもみたいな興奮をしているあなたを好きだと思ったから、嘘をつきました。とにかくあなたに好かれたかった』
そうだよな、と当たり前に納得してしまった。好きになったのだから当然そう思うだろうに、鴇田がなかなか口にしなかった言葉だ。
『でもあなたには好かれないと分かっていたから、同時にすごく辛かった。それがあのとき僕が思ったことです』
好きになった人から好かれたいと思う。心から。
夜半、窓の外でひときわ大きく風が唸った。やわなつくりのマンションではないはずだが、窓ガラスが鳴る。自分の心臓の音の方がうるさかったので、その風の音で我に返った。気付けば裸の暖の下で蒼生子が不安そうに暖を見上げ、懸命に暖の二の腕をさすっているのだった。
「――やめようか。ね、はる」
「……ごめん」
「謝ることないでしょ。そういう日だってあるよ」
暖の下から蒼生子は抜け出て、下着とパジャマを拾って身に着けた。暖は風音がうるさい窓の外を見遣る。ブラインドが下りているので外の様子は窺えないが、雨風がひどいことだけは伝わる。
蒼生子への挿入がなかなかうまくいかなくて、ひたすらに焦っていた。落ち着け、大丈夫だ、とずっと心の中で唱えていた。目も老眼気味だし、枯れて来たのかもしれない。いや、早くないか。まだ三十五歳だぞ、おれは。勃起障害なんて無縁だと思ってたのにな。
改めてベッドに転がり、長く息を吐く。蒼生子がちいさく流していたヒーリングミュージックを止めて、そのままラジオに変えた。深夜ラジオは放送予定を変更して、淡々と台風関連のニュースを流している。この辺りは暴風圏内ぎりぎりであるらしかった。
「明日の朝までには収まるかな?」と隣へ蒼生子が潜り込んでくる。暖はそのやわらかな身体を抱えなおし、髪に鼻先を埋めた。甘ったるい花のにおいがする。
「明日は朝早いんだっけ」
「台風が過ぎたらすぐに出たいかな。被害確認しないと」
「報道が仕事だもんね」
「蒼生子さんは?」
「先生にドレスメイキングしてほしいっていうお客さんがいてね。それを手伝うから、しばらく忙しくなる予定」
「――そっか」
正直ほっとした。蒼生子が塞ぐ思いでこの家にひとりでいることだけはあってほしくないと思っていた。なにかに手間を見つけられるなら、その方がいい。
「あ。でもね、再来週は時間取れない?」
「なに?」
「実家行こうと思って。ポチに子どもが産まれたんだって。見に行きたいって言ったら、暖もたまには一緒にって言われて」
「ああ」ポチ、とは蒼生子の実家で飼っている柴犬だ。雑なネーミングのメスで、義父が同じ柴犬の相手を見つけて子どもを産ませたという。おかげさまでこちらはこんなに苦労しているのに、さすが犬は安産だ。「いいよ」
「ほんと? 日程は?」
「任せるよ」
「じゃあ再来週のどこかでお母さんに連絡しとくね。カレンダーに書き込んどくからだめなら言って」
「うん」
目を閉じる。花の香りが強くなる。風とラジオの音が響く。
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「――やめようか。ね、はる」
「……ごめん」
「謝ることないでしょ。そういう日だってあるよ」
暖の下から蒼生子は抜け出て、下着とパジャマを拾って身に着けた。暖は風音がうるさい窓の外を見遣る。ブラインドが下りているので外の様子は窺えないが、雨風がひどいことだけは伝わる。
蒼生子への挿入がなかなかうまくいかなくて、ひたすらに焦っていた。落ち着け、大丈夫だ、とずっと心の中で唱えていた。目も老眼気味だし、枯れて来たのかもしれない。いや、早くないか。まだ三十五歳だぞ、おれは。勃起障害なんて無縁だと思ってたのにな。
改めてベッドに転がり、長く息を吐く。蒼生子がちいさく流していたヒーリングミュージックを止めて、そのままラジオに変えた。深夜ラジオは放送予定を変更して、淡々と台風関連のニュースを流している。この辺りは暴風圏内ぎりぎりであるらしかった。
「明日の朝までには収まるかな?」と隣へ蒼生子が潜り込んでくる。暖はそのやわらかな身体を抱えなおし、髪に鼻先を埋めた。甘ったるい花のにおいがする。
「明日は朝早いんだっけ」
「台風が過ぎたらすぐに出たいかな。被害確認しないと」
「報道が仕事だもんね」
「蒼生子さんは?」
「先生にドレスメイキングしてほしいっていうお客さんがいてね。それを手伝うから、しばらく忙しくなる予定」
「――そっか」
正直ほっとした。蒼生子が塞ぐ思いでこの家にひとりでいることだけはあってほしくないと思っていた。なにかに手間を見つけられるなら、その方がいい。
「あ。でもね、再来週は時間取れない?」
「なに?」
「実家行こうと思って。ポチに子どもが産まれたんだって。見に行きたいって言ったら、暖もたまには一緒にって言われて」
「ああ」ポチ、とは蒼生子の実家で飼っている柴犬だ。雑なネーミングのメスで、義父が同じ柴犬の相手を見つけて子どもを産ませたという。おかげさまでこちらはこんなに苦労しているのに、さすが犬は安産だ。「いいよ」
「ほんと? 日程は?」
「任せるよ」
「じゃあ再来週のどこかでお母さんに連絡しとくね。カレンダーに書き込んどくからだめなら言って」
「うん」
目を閉じる。花の香りが強くなる。風とラジオの音が響く。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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