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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 夢を見ていた。夢の中で暖のいる場所は、浅く遠い海の広がる浜辺だった。曇天で時折雨粒の吹き流れる砂浜をひとりで歩いている。こうやって海辺を歩いた経験はなかったので、これは夢なんだと分かった。
 海上に舟が浮かんでいた。実は笹の葉で作りましたと言っても疑えないような、小さくて頼りない舟だった。舟の上には電子ピアノと鴇田が乗っている。鴇田は縋るように背を丸め、熱心にピアノを弾いている。
 音は聴こえなかった。海から流れる風とさざなむ波の音だけが全てだった。鴇田を乗せた舟は沖へ沖へと流れていく。見えない海流が鴇田を流していく様を暖は砂浜から動けず見ていた。
 海のはるか向こうは明るかった。雲間からは光ではなく、虹が棒のように差し込んでいる。鴇田の舟はそこを目指している。暖はあがく。あがいて砂を蹴り、ざぶりと海に浸かった。ぬるい水が暖の行く手を阻む。
 鴇田は行く。ピアノに夢中になって、陸から離れていくことにまるで気づいていない。暖にすら気づかない。行くな、嫌だと暖は進もうとする。そっちは眩しいから、行ってほしくない。
 ガン、という大きな音で身体が引き攣り、暖は目を開けた。とっさに身体を起こしていた。部屋の中は暗く、輪郭が曖昧だ。まだ真夜中なんだと認識する。先ほど寝入ってからあまり時間が経っていないようだ。
 ベッド下には寝袋があったが、中身はなかった。脱皮したみたいにくしゃりと形を歪めている。鴇田がいない。音への反応よりも、そちらへの焦りで心臓が冷えた。さっきまで見ていた夢が蘇る。ピアノだけに夢中になって、ひとりで行ってしまう鴇田。
 ベッドを抜けてすりガラスの引き戸を引くと、LDKのベランダの外を、窓の内側から鴇田は見ていた。生き物の気配がちゃんと伝わった。その姿は暖をひどく安心させた。振り返った鴇田は「起きちゃいましたね」と静かに言った。
「すごい風で寝らんないですね」
「さっき……物音が、」
「ああ、ベランダにバケツが飛んできたみたいで」と、鴇田は回収したと思われるバケツを片手で示した。あひるをかたどった、幼児が使うちいさなバケツだった。
「うかうかしてるとガラスが割れそうです。980hPaって言ってるんで、さっきよりはだいぶ気圧は上がってるんですけど」
 よく見れば鴇田の片耳にはイヤフォンが繋がっていた。スマートフォンでインターネットラジオを聴いているという。
「もしかしておれを起こさないようにイヤフォンでラジオ聞いてた?」
「いや、……単純に眠れなかっただけなので」
「……どこでも眠れるんじゃなかったの」
「別に、寝袋だったから眠れてなかったってわけじゃないですよ。――この部屋に人がいるな、と思って」
「……」
「親でさえ泊めたことはないんです。こんなに僕の近いところに来る人がいたんだな、と思ったらそれが、なんか、……」
 鴇田は黙った。暖も黙る。鴇田の言葉を待ったが、鴇田は「なんでもないです、休んでください」と会話を切った。
 暖は急にふてた気分になり、「目が覚めた」と主張した。
「鴇田さん、寝かして」
「ピアノ弾きましょうか」
「うん」と同意しかけ、先ほどの夢を瞬時に思い返して首を振った。「やっぱり嫌だ。ピアノは、いい」
「子どもみたいな駄々こねないでください。ピアノならいくらでも弾きます。それで寝てください」
「いやだ。だって鴇田さん、ピアノに夢中になるから」
「言ってる意味が分かんないです」
 LDKから隣室へ移る。鴇田は電子ピアノにイヤフォンを差し込み椅子に座ろうとしたが、その肘をついとつまんで引っ張った。
「ピアノは嫌だ」
「……確かにこのピアノは店のピアノよりはるかに音質は悪いですけどね。……ならCDでも流しますか?」
「嫌だ」
「三倉さん」
 どうしたいの、と呆れる口調だった。
「そういうことじゃない。……あなたのピアノ、好きですよ。でもいまは嫌ですね。あなたはピアノにしか興味ないみたいで」
「言ってる意味が」
「ピアノとふたりきりだったらいつまでも遊んでられるでしょう? 見てるこっちはひやひやしてるのに、……それが嫌だって言ってるんです。――いいです、寝ます」
「ええ?」
「寝るから」
 暖はむきになって鴇田のベッドに潜りこんだ。しばらく布団をかぶってじっとして、観念してもぞもぞと起き上がる。なんだ、と思った。なんだ。要するにピアノに妬いている。
 人には触れられないと言っている鴇田がピアノには距離を許す。それが暖には許せない。
 鴇田はぼんやりと立ちすくんでいた。どうしていいのか戸惑っているのだ。暖だってこんな気分になるのは想定外だった。布団をかぶったまま手を伸ばす。「――一緒に寝よう」
 暗い室内でも、鴇田が目をきつくしたのがなんだか分かった気がした。
「一緒に、寝られる?」
「……三倉さん、」
「鴇田さん、おれにどこまで許せますか? 触れない? 触りたくはない? おれが触っていいよって言っても、あなたは逃げる?」
「……」
「おれは鴇田さんがどういう風に触るのか、知りたいと思う」
 鴇田を見上げる。シルエットでしか分からない。もっと近くに来てほしいと思う。暖に距離を許せるのか、やっぱり無理なのか、知りたい。
「なぜ?」と鴇田は問うた。
「『情』があるから?」
「そう、……情です。そしてそれをエネルギーにして、あなたに並々ならぬ興味がある」
「……僕には分からない表現です」
「なら、おれを好きだと言ってくれるのだから、おれへの理解を試みてくれると嬉しい」
「……」
「鴇田さんの好意に、『触れたい』は含まれませんか?」
「触れたいよ」と鴇田の声がした。掠れて震えている。「触りたいに決まってる。でもどういう風に触っていいのか分からないから、怖い」
「……ピアノみたいに触ればいいんだよ」
「ピアノとあんたは同じじゃない。それにあんたは、触っていい人じゃない」
「触っていいんだよ」
「さっきの距離よりもっと近くなって、そうなれば僕は、どうしていいのか分からない」
「鴇田さん」
 また手を伸ばす。全身を使って手を差し出すと、迷いながら鴇田は暖の手に触れた。
 その手をそっと掴む。吐息から察してはいたが、冷たい身体だった。徐々に鴇田を引っ張る。鴇田は暖に促されるままにベッドに乗り上げ、暖の上に重なった。
 重さが嬉しかった。尋常ではない鴇田の鼓動が伝わって来る。どくどくと響いて、気持ちが良かった。
「――もっと下にずれて。体重かけていいから」
 鴇田はこわばりながらも、身体を言われた通りに動かす。
「そう、……腕はこっち、――うん」
 鴇田と向かいあって抱きあった。少し位置をずらして、鴇田の胸に暖の顔を置く。す、と息を吸うと鴇田のにおいがいっそう濃くかおり、ふ、と息を吐くと鴇田の着ているシャツに暖の吐息が熱く染みた。
「気持ちいい……」
「……」
「忘れてたな、……誰かに触れることは気持ちがいいことだって」
「……」
「鴇田さん、大丈夫?」
 そう訊ねた途端、腕にこもる力が強まった。こわばって震えていた身体からみなぎる力は凄まじく、暖を圧倒して飲み込む。鴇田の身体が汗ばんでくるのが分かった。ゆっくりと首を締めるように圧をかけ、ぎゅうぎゅうと一寸の隙間も許さないとばかりに、強く抱きしめられる。
 心臓や呼吸器官を握りこまれている、と思った。苦しくても息継ぎは鴇田のシャツに阻まれる。鴇田の背や肩にまわしている手で鴇田を叩いた。「痛い。鴇田さん、苦しい」
 暖の頭を抱え、鴇田は暖の髪に頬擦りするように鼻先を埋めた。「う」とくぐもったうめき声がして、この男が苦しんでいることを理解する。
 大丈夫だろうか。やっぱり暖から本能的に逃げたがっている、その反動ではないか。暖は不安でたまらなくなる。男の鼓動と体温は上昇の一途を辿っている。
 暖の頭を抱えたまま、鴇田は「僕にはいないんだと思ってた」と呟いた。
「僕が距離を許せる人は、この世の中にはいないんだと思ってた。だって、紗羽やケントにでさえ触れられることは息苦しかった。なのにあんたとはいま、こんなに近くて、」
「……うん」
「僕が、距離を許せる人はいないんだと思ってた。誰に触れても触れられても息苦しいまんま、一生自分の身体は僕が自分で抱くしかない、そういう人生だと、思っていて、」
「うん」
「好きになった人に触れられることなんか、ないと思っていた……」
「……」
「あんたとこんな距離でいられることが、……嬉しくて、辛くて、泣きそうだ」
 そのまま鴇田は暖に頬ずりするかのようにいとしさを込めて顔を傾ける。暖の方こそ泣きそうだった。いままでどうしても触れたくて触れられなかった経験が、この男にはどれだけ蓄積しているのだろう。そのたびに絶望を味わいひとりを覚悟する、そういう夜をどれだけ過ごしただろう。
 ――いま、鴇田が暖に触れられているという事実。それは一体、どれほどの喜びをもたらしているのだろう。
 身じろいで暖は顔を上げる。鴇田も暖の頭を解放した。近くで目を見合い、今度はお互いの意志で唇を重ねた。鴇田の閉じた目蓋から涙が滲む。それを指の腹で拭い、また唇を合わせる。
 鴇田が息継ぎのために唇を離す。そのタイミングを図って舌を潜り込ませた。背に回された鴇田の手に力がこもる。歯を探り、舌を突いて、口蓋の内側を舐める。垂れた唾液をまた舐めとって、鴇田の舌を絡ませる。
 技巧もなく、歯と歯がぶつかった衝撃でようやく唇を離した。額と額を合わせる。「いやだった?」と訊ねると、鴇田は目を閉じて首を振った。
 手を握り、指を絡ませる、ひとつひとつの動作が鴇田の未知なのだと分かったらどうしようもなく身体が熱くなった。指を鴇田は探る。左手薬指にはまった結婚指輪に行き当たり、辛そうに顔を歪めた。またむやみに傷つけた、と心から実感した。



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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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