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6.平林
暮れてゆく空がとても綺麗で、ああこんなの忘れていたなあと思った。こんな風に、空を見上げたのは学生ぶりかもしれない。
普段、この時間は建物の中にいるから空の色など気付かないで過ごす。商店街の書店経営は、夕方の客が重要だ。従業員だけでは対応しきれないのを手伝い、諸々の業務をこなす。空なんか見上げる暇がない。
それにしても見事だった。青からオレンジ、オレンジから黄色。青の隅には紫も混ざる。何色と言えない色が頭上いっぱいに広がっていると、確かにドキドキする。いつか従業員の時田が「夕方の空見ると怖くて好きです」と言っていたことを思い出す。
――いや、思考を止めている場合ではないのだ。頭をぶるぶると振る。この状況からどうやって脱出するか、いい加減に肚を決めなくては。
高校の屋上に閉め出されてから、一時間が過ぎた。
◇
県立F高校は、平林の経営する書店のある商店街のすぐ裏手にある。駅の東口を出て北へ進み、十五分ほど歩いた先の比較的大規模な商店街だ。高校に近いため、教科書も扱っている。春には大量の在庫をバンに積んで高校を訪ね教科書販売を行うし、その他参考書や辞書、学校図書館の注文も電話を寄越されればハイと対応する。高校があるから潰れずに成り立っている。
今日は電子辞書の販売に来ていた。あらかじめ受けていた注文数を持参して、生徒昇降口前の指定された場所で販売した。午後三時からの販売に生徒は列を作り、連れてきた時田と二人では手が足りず、学校職員にまで手伝ってもらった。
母親ひとりでやっている店のことが心配で、忙しさの波が引いた後は時田を一足先に店へ帰した。後片付けをし、煙草を吸いたくて屋上へ上がった。ぼんやりと壁に寄りかかって考え事に暮れていると、左後方で鉄の扉が突然締まった。警備員か巡回の職員が屋上の扉を閉め、鍵をかけてしまった。
とっさに大声をだし、扉を叩いて自分を知らせることも考えたが、しなかった。なんだかとても面倒なことに思えた。このまま閉め出されても、死ぬようなことはない。どんなに閉じ込められていたくても、明日になればまた職員や生徒が登校して扉は開く。そこまで辛抱しなくても、携帯電話でいつでも助けが呼べる。
そう考えたら、あと一時間ぐらいはここでぼんやりしていてもいい気がしたのだ。
フェンスの方へ歩いて行って、校庭を覗き込んでみた。高いフェンスは先が内側に折れている造りで、越えられないようになっている。フェンスの向こうにもまだ1mほど屋根が続いている。ここは四階だ。地上15mほどの高さから見る校庭には、野球やサッカー、陸上に打ち込む生徒が小さく這いずっていた。声も届いている。
どこかで吹奏楽部がぴろぴろと音を鳴らしている。歌も聞こえるか。下校する生徒の笑い声も響き、典型的な学校の放課後を、もう何十年も昔に学校を卒業したただの中年親父が、多少の危機的状況の中で眺めている。
一時間ぐらいは、と高をくくっていたが、実際は三十分で限界だった。店はどうなっている。時田と母親だけで大丈夫か。トイレに行きたくなったらどうする。本気でここで夜を明かすつもりか。雨が降ったら、気温が急に下がったら。どうするつもりだと焦りが募る。
さっさと携帯電話で職員を呼び出せばよかったのに、逡巡があって、それでもボタンを押せなかった。その矢先に暮れる空を見た。怯えるほど美しい空だ。現実から逃げ出したい気持ちがもくもくと湧き、脱出し損ねていることを可とも不可とも思う。
厄介事からは、死んでしまえば解放されるだろうか。屋上でこのままくたばれないか、だって明日も明後日も今日と同じ退屈な一日だと考えていると、鍵のまわる音がして扉が開いた。屋上へ教師が一人やって来た。
眼鏡のかかった几帳面な横顔を見て、誰だっけ、と記憶を呼び起こす。よく世話になっている教師だ。確か、理科か数学の。いや、生物だ。生物科の七嶋――思い出した。
声をかけるより先に、七嶋は電話を始めた。一直線に向かい側のフェンスへ歩きながら、耳元に当てた携帯電話でなにか喋っている。少しだけ笑っていた。「まだ学校、」と言ってフェンスにもたれた。「準備室は生徒がいるから、屋上」
誰と喋っているのか、ずいぶんと親しげだった。七嶋は平林よりも五つか六つ若かったが、結婚しているかどうかは知らない。話相手が家族か恋人か友人かは判別がつかなかった。
いつの間にか生徒は帰宅し、声が途絶えている。夕暮れの涼しい風が吹き、思わず身震いした。屋外で一時間以上も身体を動かしていないと、緊張しっぱなしで肩が痛い。
「――うん、きみは?」優しい声が響く。
「――良かった。なら、週末はそっちに行くよ」
「うん、――うん、」
「――そう、この間引率に行ったときに、」
普段よりはるかに穏やかな語り口に、恋人ではないかと思った。だったら聞いていてはいけない。人のロマンスを盗み聞きしたい下世話な根性はあるが、自分に返って来るかと思うと冗談ではない。(もっとも語って聞かせられるような経験はないのだが。)
七嶋の目を盗んでとっとと屋上を出てしまおうと考えたのに、七嶋はずっと入口の方を向いているから、出来なかった。のこのこと出て行ったのでは「何をしていたんだ」と思われかねない。だが、それも出来ないと帰るタイミングを逃し続ける。七嶋がこちらへ気付かないせいで七嶋の電話の内容を聞く羽目にもなっており、それがまた落ち着かなかった。
それにしても、その歳でまだ恋に現を抜かせるだろうか、と考える。
いま平林が誰かと恋が出来たとして、あんな風に電話は出来ない。きっともっと時間と周囲を気にして、つまらない返事しか出来ないのだろう。セックスは、心底どうでもいい。平林の乏しい経験では、自分でするのと恋人とするのと金でどうにかしてもらうのとはそう大差ない。
七嶋をこっそりと眺めた。電話は続いているが、七嶋の表情が険しくなってきているのに気付いた。
ふう、と分かるように大きく息をつく。そして目を閉じる。顔をきつく歪め、「そんなわけないだろ清己」と呻いた。
「――生徒なんて、興味ない。きみが、――きみがいるのに、きみ以外に興味なんかない。なんでそんなこと、言うんだ、―――……ただでさえきみは遠いのに」
逼迫した声に、身体の芯が緊張した。
遠距離恋愛だろうか。そんな恋なんか、したことがない。電話口に愛を囁いたことだってない。ああいう顔をするのは恥だとさえ思った。そしてこの先もすることはないと思うし、なくても構わない人生だ。
疲れるだけではないだろうか。面倒で、いつかきっと重たくなる。いまだけだ。心の中で反論する。誰に責められたわけでもない自分の恋愛観を、七嶋の声が真っ向から否定している気がして、言い返す。
電話はまだ続いている。七嶋は「ああ」とか「うん」ばかりでほとんど喋らない。沈黙で、一体なにが分かり合えると言うのか。
早く喋って欲しかった。喋って、電話を終えて、平林の存在に気付く前に去って欲しい。
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