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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 友臣(ともみ)のバイト先の画塾で事務員を勤めている志摩(しま)の口癖は、「あまいお菓子はいかが」だ。
 年齢はおそらく三十代から四十代ほど。痩せ型で、背が高い。結婚はしていないらしく、高校の同級生であったという塾長からよく「いいパートナー見つけろよ」と言われているのを、耳にする。低く穏やかな声をしているが、実は声量がとてもあり、たまに笑い声などで、その片鱗を垣間見る。趣味があって、確か仲間内とゴスペルサークルを結成していて、そこではいちばん下のパートを担当しているそうだ。
 友臣は四年制の美大を卒業したものの、就職口がなかったので美大の院に進んで、それでも就職口がなかったので、教授の口利きで大学近くにある画塾にバイトとして入った。子どもらに絵を教えたり、美大進学希望者に実技対策をしたり、趣味で絵を極めたいという人に指導したりと、ちいさいながらも幅広くやっている塾で、友臣はそこで子ども向けの絵画クラスを担当している。子どもと言っても幼稚園生から中学生と幅広い。クラス自体は友臣とベテランの女性指導員のふたり体制で、言ってみれば友臣は、アシスタントだ。子ども相手なので、時に体力をつかう。そんな折にぐったりとしながら事務室へコーヒーをもらいにゆけば、そこには志摩がいて、友臣を見てにこりと笑い、「あまいお菓子はいかが?」と訊く。
 出てくるお菓子はその時々で様々だ。まるい大缶のクッキー詰めあわせだったり、近所の和菓子屋の大福だったり、奮発して買ったという高級アイスクリームだったり。大抵はポットに保温しっぱなしのコーヒーがお供なのだけれど、時間がある時には、志摩はわざわざ湯を沸かして、丁寧に中国茶を入れてくれる。志摩のルーツが中国にあるとか、そういう訳じゃない。ただ、若い頃に旅行先で飲んで中国茶にはまり、以来、日常的に飲んでいるんだ、お菓子にも食事にもなんでも合うし、と志摩は言っていた。
 その日も、志摩に「あまいお菓子はいかが」と声をかけられ、友臣は「いただきます」と応じた。先ほどまで子どものクラスの面倒を見ていたが、今日はこの後すぐ、受験生向けクラスに向かわなければならない。シーズンだから人手が足りないと言って、応援要請を受けたのだ。「じゃあ手っ取り早い方がいいね」と志摩は言い、紙のパッケージを封切って大きくてまるいビスケットを取り出した。海外旅行に行った友人からの土産だと言い、パッケージには「ginger & chocolate」と書かれていた。齧ると確かにジンジャーの味がして、なかなかスパイシーなビスケットだった。
 コーヒーと交互に齧ると、美味しかった。疲れた身体に沁みるようだった。ほう、と身体を緩ませる。普段はふたりいる事務員のひとりが今日は風邪で休んでおり、事務室には、志摩と友臣しかいなかった。年上といえども、志摩は緊張感を強いる性格の男ではなく、むしろ逆だと言える。心地よい、と感じた。
 志摩が「そういえば友臣くんはどんな絵を描くの、」と訊いた。にこにこしている。友臣は「抽象画です」と苦笑まじりに答えた。
「具体的なものを描くよりも、線とか点とかをひっぱったり配置したり、色で遊んだりする方が好きなんです。――あ、去年の展覧会のDM持ってます。見ます?」
「見たい、見たい」
 志摩が興味津々に答えるので、手帳に挟みっぱなしになっていたDMを取り出して、志摩に渡した。大学の修了展のときにつくったものだ。はがきサイズのDMに印刷されているのは、こってりと塗ったカラフルな下地にあらゆる線が乗っている、というもので、実寸は二メートルもある巨大な絵だ。友臣としてはここに自分なりの哲学があり、宇宙があり、存在意義が込められているのだが、それをなかなか汲み取る人間はいない。ただ、ポップでカラフルで綺麗、そういう感想が多かった。
 志摩もまた、うーんと唸り、「友臣くんらしい色あいだね」と言った。
「カラフルで賑やかだ」
「そうですね。よくそう言われました」
「でもちょっと淋しい?」
「え?」
「いやさ、心理学なんかで、携帯電話や鞄や車のキーなんかにマスコットやキーホルダーをじゃらじゃらつけている人たちは、淋しいんだ、とか言うじゃないか。なんだかそういう色あいであるような気がしたから」
「そんなに考えて描いてないですよ。おれにとって心地いい色あいだから、」
「うん。あかるくていい色あいだと思うよ。きみらしい」
 と志摩は言い、コーヒーを口にする。友臣は、なんだか自分の気持ちを言いあてあられたようで、ひやひやしていた。しばらく考え込み、それから「――まあ、そうなんですよ」と答えた。
「おれ、淋しいです。この淋しさは一体なんだろう? っていつも考えます。それはひょっとしたら、恋人でも出来たら解消する淋しさなのかもしれないけれど、でもちょっと、違う感じがして、」
「……そうだね、分かる気がする。淋しさと人恋しさって、きっと決して、イコールではないよね」
「うん、かも。……あの、歳を取ればうすれていくものなんですかね、これは」
「俺の経験から言えば、うすれないよ。躱し方を覚えるだけ。仕事に打ち込むとか、趣味に走って発散するとか」
「……そう、ですか、」
「でも、友臣くんくらいの年齢のころは、俺も淋しかった。淋しさから、無茶もけっこうやった。そういう衝動を伴うよね、淋しさ、ってのは」
「無茶、やったんですか?」
「そりゃあ、まあ、ね」
 志摩は苦笑してみせた。同時に予鈴が鳴り、次の講義へと、友臣を立ちあがらせる。「じゃあおれ行きます。ご馳走様でした」と言って事務室を出て行こうとすると、志摩に「友臣くん、」と呼び止められた。
「いま恋人いない、ってさっきの発言を受け止めていいんだよね」
「うん、……いない、です」
「淋しい、とも言ったね」
「言いました」
「じゃあ、ちょっと考えてほしいことがあるんだ。俺と付きあって。――どうかな、」
 唐突な告白は、きちんと意図が汲めた。近所の散歩に付きあってとか、そんな意味ではないということが分かる。面食らった友臣はぽかんと口をあけたまま、立ちつくした。志摩は頭をかりかりと掻く。
「……その、ね、友臣くん。きみが淋しいなら、俺が話し相手になろう。深夜までだって電話に付きあうし、こうやってお茶したりして、その、きみにとってわるい話じゃないと思う。飽きたり、嫌になったり、煩わしくなったりすれば、その場でポイ、で構わない。なかなか、きみにとって有利な話だと思うよ。ま、……俺は男、っていう最大の難関はあるけれども」
「……志摩さん、」
「その、きみさえよければ、考えておいてよ。引き止めてわるかったね、」
 そう言われて時計を確認すれば、実技の開始時間まであと一分しかなかった。友臣は慌てて事務室を出て、階段を駆けあがる。こんな時に限って、三階の一室で実技などやるのだ。
 走ったせいなのか、志摩の思わぬ告白のせいなのか、心臓がどきどきと痛んだ。
(なんだあ、ありゃ……)
 言葉の余裕さとは裏腹に、すがるような、頼りない目をしていた。大人があんな顔をするんだな、とも思った。嫌だとは思わなかったが、気持ちが暴れている。整理をするにも、場所や、時間や、状況や、色んなことの余裕がほしいと思った。
(心臓、痛い)
 講義中も不意に志摩の表情や言葉がフラッシュバックされて息が詰まるのだから、参った。


→ 後編


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 メールアドレスを交換した後、はじめて届いたメールが「たすけて」だったので、驚いた、というよりは怖くなった。助けを求めなければならないなにかがあの人に発生している、という事実に。気が急いて、即座に電話をかけた。電話に出た元貴(もとたか)はごくシンプルに「めし、食いに行こう」と言った。
 朝の七時半である。こんなに早く営業している店のことは、すぐには思い浮かばなかった。元貴はS駅構内にあるベーカリーカフェを指定し、「すぐ来て」と言った。平静と変わらぬ声で言われたから一瞬わけがわからなくなったが、言葉の内容はメールの「たすけて」と変わらぬように思えて、ますます焦った。いてもたってもいられず、部屋の最寄駅からの移動は、苛々した。絶対に電車をつかった方が早いと分かる距離でも、走っていきたい気持ちだった。
 もどかしい三十分を経てカフェに着くと、元貴はいなかった。店は早朝なのに混んでいて、この中のどこかにいるんじゃないかと必死に視線をめぐらせたが、どれも違う。電話をしても出なかった。からかわれたか、本当に「たすけて」と言わせるなにかが元貴の身に起こっているのか。半々の気持ちの決着もつかずただ混乱していた十分後、元貴は悠々と現れて「おはよう」と笑った。
 まぼろしを見ているかと思うぐらい、さっぱりと落ち着いた笑みだった。見た途端にからかわれていたことに気付き、「なんだよ、あんた」と首を折ってうなだれた。
「……なにかあったかと思って、焦ったじゃんかよ、」
「電車が遅れたんだ。線路に人が立ち入ったとかで」
「すぐ来て、って言ったくせに。メールぐらい寄越せよ」
「時間の指定はしていないよ」
 言われて、むっとした。確かにその通りだが、はいそうですか、と納得はできない。黙ったまま怒った表情でいると、元貴は軽く笑ってから「ごめん、つい」と悪びれなく言う。
「からかいたくなる。――めし、食おう。まだだろう?」
 このまま置いて帰ろうかと思ったが、そんなことができないぐらいに、元貴のことが好きだった。朝食を共にする日がこんなに早く来るなんて、信じていなかった。元貴に促され、二人でレジカウンターへ向かう。当店おすすめ、と書かれた、イングリッシュマフィンとコーヒーの、少ししゃれた(でもしっかりとした腹の足しにはならなそうな)モーニングセットを頼み、狭い店内に無理やり立ち食いのスペースを見つけて食べ始める。
 出されたコーヒーを、元貴は「まずい」と言ったが、横顔は楽しそうだった。一口つけて「美味い」と口にした。本当に沁み入る味のコーヒーだった。


 ◇


 「この後いいか」と訊かれ、朝食後も元貴に同行した。本当はアルバイトが十時から入っていてあまりよくはなかったのだが、それまでの少しの時間でもいいから元貴といたくて、頷いた。駅を出て、周辺をうろついた。まだ街のほとんどは朝を始めていない。スクリーンの下りた本屋に、電飾の消えたレンタルビデオショップ。どこへ行くのか車と人の行き交いだけはあって、しかしみな朝の空気の清々しさに後ろめたさを感じているかのように、重く口を閉ざしている。
 ずっと元貴の言った「たすけて」の意味を考えていたが、さっぱり分からなかった。
 なにをたすけて? なにからたすけて? いま隣を歩く元貴はひょうひょうと機嫌よく、なにかに困っているようには見えなかった。大体、初対面の時から元貴の態度はこうだ。なにを考えているのかいまいちよく分からない。気分にも行動にも一貫性がなく、自分よりも五歳年上だと言うが、落ち着きがない。
 ふと元貴が足を止めた。雑居ビルの案内を眺めている。
「なに?」
「ここ、入ろうか。こんなところにギャラリーが入っている」
 元貴の指差した先には、各階ごとに入っている店舗名が記された看板がある。その中の四階に、確かに「ギャラリー・K」と書かれていた。なにを展示しているギャラリーなのかまでは不案内に書かれていない。
「まだ早いんじゃねえの?」スマートフォンで時間を確認する。朝の九時から営業しているギャラリーであるのなら、行っても構わないが。
「なにが展示してあるんだろうな」
 聞いちゃいない。ビルのエレベーターは時間外だからか使うことが出来ず、わざわざ内階段をのぼった。案の定、「十時半からのご案内です」と受付嬢に言われた。中はまだ準備中で、それを眺めながら、開くのを待った。アルバイトのことは心底どうでもよくなっていた。
 たっぷり一時間半待って、入った先にあったのは写真の展示だった。
 全体的に青と白のトーンで、若い男ばかり写っていた。引き伸ばされたプリントは案外に大きくて、写真ってこんなサイズにもなるんだなと思った。写真の展示数はさほど多くないが、人気なのか有名なのか、開廊直後でも次々と人が入った。いかにも写真に興味ありそうな初老の男性から、主婦とおぼしき女性の二人組まで、様々だ。写真に興味を持てず、やって来る人間に気を取られていると、元貴が「あ」と写真の前で声を出した。
「これ知ってる」
「作者のこと?」
「じゃなくて、この構図とまったく同じ写真を見たことがある。写真集がうちにある」
 元貴が眺めていたのは、手が写しとられたものだった。誰かの腰に(多分、先ほどから写っている若い男の)、撮影者の手が当てられている。やさしく触れた、ごつごつと骨ばった男の左手。これになんの意図があるのかさっぱり汲めず、芸術って退屈だと、思った。それを元貴は興味津々に眺めている。
「面白いな。オマージュ、ってやつかな」
「有名なの?」
「見に来る?」
「え?」
「これからうちに来いよ。見せてやるから」
 元貴は嬉しそうに笑った。ちいさく舌打ちをする。元貴の家に行きたくは、なかった。


 ◇


 電車ではなく、バスをつかった。元貴の住む部屋は住宅街にあるマンションの三階で、ダークグレイのスタイリッシュな外装がいかにも最近出来たばかりのマンションらしかった。途中の家の庭に、藤の花が垂れているのを見た。うすい紫の見事な枝だ。日頃あるいているはずの元貴も一緒に足を止めて、しばらく二人で見入った。
 エレベーターを上がり、玄関を入るとまず、女物のローヒールの革靴と男物のサンダルが並んでいるのが見えて、ずきりと来た。靴箱の上には黒猫が描かれた版画が一枚、飾られている。上がってすぐ居間と台所になっていた。奥にもいくつか部屋があり、そのうちのひとつは扉が半開きになっていて、中が見えた。ベッドルーム、衣類が雑にベッドに脱ぎ捨てられている。
 部屋に着くなり居間に置かれた本棚に向かう元貴に一言断って、コーヒーを入れる準備をした。日常的に飲んでいることはよく知っていた。姉が好きだからだ。出しっぱなしの器具に豆をセットし、湯を沸かす。流しの中に沈んでいるカップをつまみあげて洗い、丁寧に拭いた。こっくりと深い茶色あるいは生成りの、色違いで揃えたマグカップ。
 新居に来たのははじめてだが、知っている人間の知っているにおいが、確かにただよっている。それから気配。揃いの食器や、壁にかけられたかばんや帽子、活けられた花に、姉のすきなオレンジ色のクッション。そのどれもが元貴のものと混在して、混ざり合って、ひとつの空間をつくっている。濃い姉の気配。
 部屋に入った瞬間から、身体中の鳥肌が止まらなかった。分かっていたことだというのに。もうなんべんも、元貴と姉が二人でいる想像をしてきたというのに。
 コーヒーを入れ終わる頃、元貴が傍へ寄って来て一冊の本をひらいた。
「見つけた。ほら、同じだろう」
 元貴の言う通り、まったく同じ構図の写真が本の中に収められていた。裸の男の胸に、撮影者と思われる男の手が当てられている。なぜこの写真を撮ろうとしたのか、いきさつは読み取れないが、濃厚な親密さは伝わって来た。古い白黒写真のタイトルは「恋人」だった。
 マグカップを持つ手がぶるぶるとふるえた。先程からずっと苦しかった胸から、酸素という酸素がすべて出て、肺がぺしゃんこになったような気分だった。ひどく気持ちが悪い。たすけて、というなら、いま自分の状況を言う。
 写真集を閉じた元貴は、静かにはっきりと、「現、」と名前を呼んだ。びん、と背筋が唸る。
 この人に名前を呼ばれるのは、二度目だ。初回は姉の紹介で、お互いに「元貴さん」「現くん」とぎこちなく呼び合っていた。
「――たすけてくれ」と元貴が言う。
「僕はずっと、女の人を愛せる男だと思って来たんだ。それで、結婚までして、……どうしていまさら」
「……」
「どうしていまさら、男と、……義弟と、恋に落ちなきゃならない」
 元貴の目は、苦しげに歪められていた。それでも恋の色に潤んでいた。おびただしい数の絵具を好きずきににぶちまけたような、極彩色の目をしている。それはきっと自分も同じで、苦しいのに、妙に煌いていたりするのだろう。
 手の中から揃いのマグカップが滑り落ちる。ごとん、と重たい音を立てて、それらは床にぶつかり、割れた。同時に元貴の肩を引き寄せて、腕の中に収める。元貴はずっとふるえていた。憐れで、悲しくて、なによりも愛おしくて、それがますます悲しかった。
「――現、」
「……なに、」
「きみを愛している。きみもそうだ。僕らは、恋に落ちたんだ。どうしようか」
「……他人事みたいに、言うな。余裕に思えて腹が立つ」
「そんなんじゃない。……僕は弱いから」
 元貴も、現も、この先は行き止まりだと気付いている。
 気付いていて、まだ行き止まるまでに少し道があることも知っている。だからそちらへ歩き出そうとしている。たとえわずかでも、なにがなんでも、この人と道を歩いてみたかった。
 まったくどうして、恋なんかに落ちるんだろう。義兄のいくつもの台詞が、頭の内側でがんがんと響き、頭痛と眩暈を引き起こす。たすけて、すぐ来て、どうしようか、愛している。
 混乱を振り払うように、元貴の頬を両手で挟んで顔を近付ける。いま、姉はいない。


End.



関連:「いきどまり



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 朝食は? と聞いたら「パンケーキがいい」と答えたからとびきりのものを用意した。きみがすきなパンケーキはうすっぺたく、ナッツが入っていて、バターの利いた、ベーコンエッグの添えてあるものだ。たっぷりの生クリームとメープルシロップも忘れない。「このあまいのとしょっぱいのが一度に楽しめるお得感」と嬉しそうに話すから、僕はけっこう練習したんだ。きみ好みのパンケーキを用意できるように。
 三月三十一日の学生寮の朝は不思議と静かだ。今日、残っている卒寮生はいっせいに寮を出てゆかねばならないし、明日からは入れ替わりで新寮生が入寮する。もっと慌ただしい朝であっていいはずなのに、みな眠りを貪っている。――もっとも、卒寮生のほとんどは前もってアパートを決め引越しを済ませているので、最後まで残っているのは僕ときみぐらいだけれど。
 四年間、相部屋で過ごしたきみ。寝起きが悪くて、人に「起こして」と頼んでおいて起きない。まあ今日は、ゆっくりやっていい。寮の共同炊事場で二人分の朝食を用意していると、一階一〇五号室の後輩である西野がのそりとやって来た。
 こいつは大喰らいだ。まずいやつに見つかった、と僕は苦笑する。
「いーいにおい」
「おまえのじゃないよ。俺とハルのめしだから」
「えー、超本格的じゃないすか。おれにも食わしてくださいよ」
「おまえのはナシ。今日は、だめなんだ」
 そう、今日はだめだ。「ハルさんに聞いてくるっす」と僕らの部屋三〇三号室に向かおうとする西野のジャージの裾を慌てて引っ張った。
「おまえが起こすのも、今日は、だめ」
「最後だからすか?」
「まあなー」
 朝食の準備が出来たところで僕は部屋に戻る。二段ベッドの下、ぐうすかと眠っているきみのほっぺたをべちべちと叩いて、「起きろー」と何度も言ってやる。
「お待ちかねのパンケーキだぞ」と言ってやると、きみは目をこすりながらも起き上がった。
「パンケーキ? まじで作ってくれたん?」
「おう、まじまじ」
「鷹野のパンケーキかー」
 それじゃあ起きる、とか、まだねみー、とか、ごにゃごにゃ言いながら眠りに入ろうとする、その頭をまたひっぱたく。
「西野に狙われてっからな。食われちまうぞ」
 それを聞いて、きみはようやくベッドから出た。


 食堂には西野がちゃっかり座っていて、僕らの朝食は西野と同席となった。パンケーキを羨んだ西野ではあるが、「朝から甘いもんはいいっす」と言って自分はベーコンエッグに白米を用意した。きみが、僕の用意したパンケーキにナイフを入れる。バターと、生クリームと、メープルシロップをたっぷりかけてパンケーキを口に運ぶ。なんともあまく、かわいらしい、最高の顔をした。
「んー、あま。うま」
「そうだろ」
「鷹野、店出せるんじゃねえ? パンケーキの店タカノって、」
「表参道に?」と言うと、西野が「だはは」と笑った。
「そりゃ地元に帰って家継ぐよなあ」
 きみがしみじみと言った。まあね、となんでもない風で、僕はパンケーキに目玉焼きを乗せて頬張る。
 僕の家は洋食屋で、地元じゃちょっと有名だ。三男坊だから家を継がなくともよい立場だったが、僕ら三兄弟の中でもっとも食に興味があったのが僕だし、向いているのもまた僕だった。大学は遊び半分で進学させてもらったが、卒業したら家は継ぐ。これは四年前からの約束だった。
 食堂に差し込む朝の光に透けて、きみの茶色く染めた髪がさらに赤く見える。白い肌がまばゆく発光しているように見えて、ぼくは瞬きをした。きみと暮らした四年間、朝食の係は必ず僕で、きみは僕の食事を食べてばかりだった。そのたびにいい顔をするので、きみと同室でよかった、と僕は心から思っている。もちろん、淋しい。
 ただ、この淋しさはきみが僕に抱くものとまた、違うだろう。
 一時間半ほどお喋りをしながらきみと僕と西野の三人で食事を楽しんで、後片付けをした。食器や調理器具の類は、寮の後輩に譲る約束だ。荷物は手荷物を残してすでに実家に送ってある。夕方から行われる送迎会に出席して、夜行バスで僕は生まれ故郷へ戻る。
 ふあ、ときみが大きなあくびをした。
「まだ、ねみー」
「ほんとよく寝るよな、ハルは」
「昨夜ばかみてーに遅くまで飲んで喋ってたのにさー、朝早くてもぴんぴんしてるおまえの方が不思議だよ」
「また寝る?」
「鷹野は?」
「俺はちょっと散歩しようかなって。腹ごなしに」
 荷物はまとめきっているのですることがないのだ。
「ふうん」
「ハルも行こうぜ」
「まあ、鷹野が言うなら、な」
 素直じゃない。ばかめ、と僕はきみの頭をぐしゃぐしゃにかきまわす。猫毛のやわらかな髪。


 よく晴れていてくれて嬉しかった。僕はよく散歩をするので、歩く、となればルートがいくつか候補にあがる。住宅街の中を歩いてゆくコース。これは途中に銭湯がある。川沿いを下って市立図書館で引き返すコース。花の時期や紅葉の季節はもってこいだ。繁華街の裏手を歩くコース。これは夜は少々危険だが、昼間ならけっこう楽しい。人間を観察したいならここを歩く。
 川沿いのコースにした。桜がほころびかけているからだ。きみはスマートフォンのアプリケーションを起動させて、写真をぱちぱちと撮っていた。空、花、傾いた建物。僕にも向ける。日頃はいやがってやめさせるのだが、最後だしいいかと思って、放っておいた。きみはそれを喜んで、何枚でも撮る。
 途中、小さな商店で実家への土産を買った。こちらでよく出回っている、珍しい品種のみかん。五玉がネットに入っていて、ついでに隣に並んでいたキャラメルも求めきみに渡した。
「なに、くれんの?」
「このシリーズさ、覚えてるか? ひでえ味の種類があって、入寮早々おまえが俺にくれたんだ。キャラメルいる? って、パッケージかくして」
 さも無邪気にくれたキャラメルは、たしか黒こしょう味だとかわさび味だとか、そんなのだった。
「あったあった。よく覚えてんな。先輩からもらって、困ってたんだよ俺も」
「面白がってくせに。ひどい味だった」
「鷹野とどんなふうに仲良くなれっかなーって、探ってた頃だ、きっと」
 知らない顔同士がいきなり同室で、はじめは戸惑いも大きかった。きみは僕よりもずっと人見知りが激しいから、はじめは辛かったに違いない。ふざけたキャラメルは、僕らの距離を一歩狭めてくれた。そうやって日々を重ねるうちに一歩、一歩、と、僕らは実に親密な仲になった。
 親友、と僕は思っている。ばかみたいに笑いあい、毎朝なにがあっても朝食を共にした最高の友人。だがきみは違う。相部屋になって一年後、きみは夜、泣きながら僕のことが好きだと告白した。ごめんな、気持ち悪いよな、でも好きなんだ、ごめんな、ごめん、と。
 嫌だとは思わなかったが、だからと言って付き合う方向へは向かなかった。あのことは忘れて、と朝、きみが言って、僕はこのことを胸の内に仕舞っておくことにした。恋心に気付かないふりで、親友の体で。僕はきみにひどいことをしてばかりいた。恋ではなかったけれど、きみとは本当に、一緒に暮らせて毎日がたのしかった。
「ハルは楽ちんだな」と僕はきみに言う。
「引越しがなくて、楽」
 きみは、大学に残る。大学院に進むのだ。
「でもな鷹野、俺は緊張してんだよ。明日から相部屋になるやつどんなのだー、って」
「人見知りだもんな」
「そうそう、人見知り」
「いいやつが来るさ。あ、いっそ西野と相部屋になったらどうだ?」
「ごめんだ、あんなデブ。部屋の湿度があがる」
 ちがいない、と僕らは笑い合って、桜の咲き始めた道を辿る。


 部屋に戻ると、昼を少し回っていた。昼寝をしたい、とあくびをすると、きみは「俺のベッドつかっていーよ」と言った。僕の布団はすでに実家へ送ってしまっている。
 少し間ができる。僕は頷いて、「一緒に寝るか?」と訊いた。
 最後だから。
「腕枕でもしてやろうか」
「ふざけんなよ、ばか」
「ハルは? 寝ない?」
「俺ちょっと、買い物」
 そう言ったが、部屋を出てゆく気配がない。どうも、見られている気がする。きみのベッドを拝借したが落ち着かず、僕は「やっぱり一緒に昼寝するか?」と訊いた。
「……いや、鷹野が寝てる姿を見るのも多分これが最後だろうと思ったから、見てる」
「悪趣味だぜ、それ」
 部屋の内鍵をかけてしまえば、そうそう飛び込んでくる失礼な輩もいないだろう。「来な」と言うと、きみは数秒ためらってから、ベッドへ潜りこんできた。
「鷹野、ひでえ」
「うん」わかってる。僕のこの行動が、どれだけきみを傷つけているか。
「……俺がおまえにキスしたい、って言っても、今日は拒まねえんだろ」
「……かな、」
 途端、きみはみるみる泣きそうな顔をした。頭を掴んで、引き寄せる。「あー泣くな、泣くな」と幼い子をあやすように背中を撫でてやる。
「鷹野の、ばーか」洟をず、とすすり上げてきみは悪態をついた。
「すきだよ」
「ああ」
「鷹野、すき」
「うん」
「すきでたまんないんだ……なんで遠く行っちゃうんだよ」
 僕の胸の中で、きみは泣く。僕は背を撫で、髪に頬ずりをする。
 でも気持ちには応えてやれない。僕にとってきみはそういう対象ではなかった。ただひたすらにかわいかった。恋愛感情ととらえられなくても、愛情は、きみに対して人一倍強く感じていた。
 惜しい、けれど、今日で別れる。僕の愛情は、しょせんその程度だ。僕がそうしたいからきみを甘やかしている。僕がこうしたいから、いまこうしてきみの髪に触れている。
 きみは失恋をする。端から失恋だったのを、ずるずると今日まで先延ばしにしていた。僕は、楽しかった。ちょっと優越感もあった。そして、嬉しかった。きみに会えて。
 いつか僕にもきみにも、今日よりもっと大事な日や人が現れる。他人と感情やスペースを共有することを、自らの意思で選んで、守りたいと思う日が来る。そうしているうちにそれが当たり前になって、摩耗して、いまある純粋な感情を忘れてゆくのかもしれない。そうやって大人になって、今日のことを思い出しても、胸も痛まない日が来るのかもしれない。
 でも今日の日は、僕が生きてきた二十二年間で一番淋しいし、悲しい。きみは僕以上に感受性が豊かだから、泣いているのが、可哀想で、愛おしい。
 いま二十二歳の僕らが感じている思いをいつまでも抱えていては、大人になれない。でも僕は、忘れたくないと思う。今日を、いまを。
 だからきみ、もう泣くな。僕らは確かに共にした、時間を、感情を、こうして抱きしめあうことを。


End.





拍手[84回]


 仲間内でのあだ名は「ジェントル」、職場で「ジェントルさん」と呼ばれているのも知っている。名をよく知らぬ人が「あの紳士な人」と言うぐらい、もはや葛木の代名詞である。
 度が過ぎるおばあちゃん子で、祖母の教えを誠実に受け止めすくすく育った葛木は、誰にでも紳士的だ。座席は譲るし、ハンカチは拾って追いかけるし、おばあちゃんの手を引いて道を渡るし、エレベーターのボタンは長押しして扉をあけておいてくれる。おまけに笑顔。ごく自然で誰もがほっと息をつける無敵のスマイルを持っていて、毒気など簡単に抜かれる。
 そんなに皆に好印象、ぼくだったら絶対に疲れる、と皆川はいつも思っている。だが真正のジェントルマンである葛木にそんな疲労はありもしない。むしろ紳士にふるまえないことの方が彼のストレスになりうる。
 恋人なんだから、と隣を歩く葛木を横目に見て思う。せめて皆川に対しては、敬語ぐらい外せばいいのに。
「――どうしました?」
 と言ってそれはそれは紳士に皆川に微笑んでくれる。
「……葛木くんって、ぼくよりふたつも年下なのに、人間が出来ているなあって」
 出来すぎて、むしろこちらの体たらくに恐縮してしまうほどだ。こんな人間でも社会に存在していてすみません。葛木の恋人なんてポジションに収まってしまっていて、全世界共有の財産たるジェントルマンを占有してしまって大変申し訳ありません、と。
 コンプレックスなんかないんだろうな、と自分よりも二十センチ高い身長やシンプルに整えられた顔立ちを眺め、考え込んでしまう。皆川と言えばコンプレックスだらけだ。背が小さいこととか、声も小さいこととか、不器用なこと、取り上げるべき才能も特技もないこと、同性愛者であること等。
 平均かそれ以下。よくもまあこんなぼくに葛木が、このような分際で頂いてしまって申し訳なく、とまた誰に対してでもなく謝ってしまう。
 皆川の余計な思考など知らぬ葛木は、皆川の発言に対して「それはどうもありがとう」とにこりと笑う。言葉を真っ直ぐに受け止めるあたりもジェントルマン、見ろよこの世界遺産級の絶景スマイル。ほろりとほだされて、皆川はその笑顔を見られなくてうつむく。靴のつまさきが汚れていて、ああそろそろ手入れしてやんなきゃな、面倒だな、と思う。葛木はこんな風に思い煩うことなく、むしろ喜びとして、靴磨きもしていそうだと思えば余計に。
「あまり元気がないですね」
 笑顔で細くした目元をそっとあけて、葛木は小首をかしげる。口元に手を当て、高い背を皆川に合わせて下げた。「もしかして身体、つらいですか」耳元でささやく。
「すみません、精一杯やさしくしたつもりなんですが、加減がきかなかったのもほんとうです」
「……」
「みながわくんがかわいかったんですよ」
 ほんとうですよ、と耳に吹き込まれ、皆川は呻いてとっさにその場にしゃがみこんだ。その様子を見て葛木も慌てて皆川の背に手を添える。「やっぱりつらいんじゃ」と言って携帯電話でタクシーを呼ぼうとするので、ちがうちがうと携帯電話をひったくってやめさせた。
「違うから……そんなじゃなくて」
「どこか、座りますか?」
「だから……」
 このまま歩いて駅、でまったく問題ないのだ。けど、葛木にうまくそうと言えない。葛木に対する妙な意地と、先ほどまでされていたこととがまぜこぜになって、どういう顔をしてどういうことを言ったらいいのか、分からなくなる。
 今日ははじめて葛木の部屋に遊びに行って、はじめてセックスをした。
 葛木と付き合いはじめて二か月半、皆川からすれば「ようやっと」だった。仮に二人が婚姻を結ぶことが出来たとしたら、結婚するまでは清いおつきあいで、なんて流れになりかねないほど葛木のふるまいは「紳士的」だった。経験豊富とはいかないが、三十歳という歳に応じてこちらもそれなりに場数は踏んでいる。葛木だってそうだろう。だというのに、ここまで二カ月と半分。恋愛ってこんなに丁寧に進行したっけ? と考えたほど。
 ふたつ名通りのやり方だった。礼儀はきちんと、皆川を大切に、でも望んでいたよりずっと情熱的に。いままで皆川が経験してきたセックスは荒っぽくて自分勝手で少々雑だったから、今日のは余計に堪えた。世の中に「極上」という言葉が道理で存在するわけだ、と。
 あまやかされてとろかされて、夢との境が曖昧だ。自分が飴玉にでもなったような気がする。散々なめまわされて、温められて、いま地面に足がついている方が不思議。本当の自分は葛木の部屋のシーツの染み、ぐらいになっていそうな。
 早く帰宅してシャワーでも浴びて、自分のにおいになってリセットしたい。そうでもしないと飛んで行きそう。もしくは、明日ひどい罰が待ち受けている。
「いずれにせよここでこのままは寒いですから、どこか落ち着きましょうか」
 木々の向こう、灯かりのともる市道を見渡して葛木が言う。
「終電、まだ大丈夫みたいですし」
「……」
「みながわくん?」
 心配そうに揺れる声に、皆川はようやく立ち上がった。「大丈夫」と葛木に宣言する。こちらが近道だからと突っ切った真冬の公園は、不安になるほど人気がなかった。ぽかんとあいた広場に置かれた遊具が、風を受けてきいきいと鎖を鳴らすのが余計に寒々しい。比べれば葛木の部屋はとてもあたたかだったな、と後ろに置いてきた部屋が早くも恋しくなる。葛木が選んだ映画はとても面白かったし、合間に食べたハンバーガーはボリューミーで満足、葛木が入れてくれたコーヒーは熱く濃く、よい流れでしたキスはしっとりと、押し倒された床のカーペットの模様だって全部――ああもう、脳だけまだ夢の中。
 本当は帰りたくない。駅まで送られたくない。葛木の傍で一晩中過ごしていたい。
 帰りたくないと言えば良かったのにこんな風に歩いているのは、やっぱり葛木が紳士だからだし、皆川が自分に自信がないからだ。帰りたくないよ、だなんてとてもじゃないけど言えなかった。言ったとして、葛木は皆川を悲しませるようなふるまいは絶対に取らないだろうと予想がつく。本心や都合にかかわらず、笑って「いいよ」と言ってくれるに決まっていた。そうやって葛木を困らせる自分になるのだけは本当に嫌だった。
 それに今日は素晴らしい一日だったのだから、恋愛の欲に果てというものがないと分かっていても、これ以上を望んではいけない、と皆川は思っている。じゅうぶんだ。いやじゅうぶんすぎ、身の丈以上の日だった。これ以上スマートでジェントルな葛木の傍にいても、きっと自分を嫌いになるだけだろうし。
 いいんだ、と心の中でおさまりをつけようとしている皆川の肩にふと、葛木が軽く触れた。
「少し待っていてください」
 そう言って走り出す。公園が終わったすぐ脇にあるコンビニエンスストアへ駈け込んでゆく。軽い後ろ姿。それを見て皆川は唐突に、猛烈に淋しくなった。葛木のことだから、またジェントルの種を見つけて駆け出したのだろう。万引きを目撃してしまったとか、女性が落し物をして困っているとか、迷子の幼稚園児を見つけたとか。(ということが、過去のデートの際にあった。)それらを苦に思わず手を差し伸べてあげられるのは葛木の素晴らしいところなのだが、今夜ぐらいは、そんなもの無視して皆川に付き添ってほしかった。駅までの道のりを全部、皆川に向けてほしかった。
 皆川はすぐにコンビニから出てきた。手にビニール袋、ついでに道に落ちていたごみを拾い備え付けのくずいれに捨てる。皆川の元へ走って戻り、「どうぞ」と言ってビニール袋を差し出した。
 コンビニ限定の、缶入りのあたたかいホットチョコレートと、皆川の好きなメーカーのチョコレート菓子が入っていた。
「疲れている時や気が落ち込んでいる時は、あたたかいのとあまいものはきっと美味しいですよ」
 皆川のために走ってくれたのだ。ありがとう、と素直に言えない。
 あ、のかたちに作ったくちびるからはため息が漏れるだけで、それは白くなって空へとのぼり、消える。視線をそらしうつむく皆川に、葛木はついに長い息を吐いた。
「――やっぱり疲れますね、恋愛は」
 その一言が葛木のものとは思えなくて、びっくりして顔を上げた。同時に葛木の腕の中にすっぽりと包みこまれてしまう。
「みながわくんがなに考えているのか、僕には全然わかりません」
「……」
「今日はね、みながわくんに喜んでもらいたくて、気持ち良くなってほしくて、僕はとても緊張していたんですよ。みながわくんに少しでも嫌なそぶりをされたら立ち直れないぐらいに、です。あなたがとてもかわいくて好きで好きで、僕はとても幸せだったのに、みながわくん、全然笑いませんね。――心臓、聞こえていますか? まだこんなに緊張してる」
 手だって震えています、と葛木は皆川の背や肩にまわした手の力をさらにこめる。葛木の着ているコートの布地のつめたさが、頬にダイレクトに伝わる。火照っているから気持ちがいい。
「あなたが『帰る』って言った時の僕のショックときたら、終末がやって来たかと思えたぐらいだったのに。あいにく僕はジェントルマンがしみついてしまっていますから、帰るというあなたをこうして送ってしまう」
「……そんな、」
「いまこうしている間に、終電行っちゃえ、と思っているほど本当は卑怯者です」
 言うだけ言って葛木は皆川を放した。いつの間にやら終電に急ぐ人々が現れ、ひとりふたりと周囲を抜けてゆく。次第に人が多くなっていることで、はやく葛木と別れなければと思う。またね、と笑って手を振って。
 ――なんていう愚かな思いを実行するほどばかではない。皆川は、とても嬉しかった。そして恥ずかしかった。それでやっぱり嬉しかった。「ああ」と呻いてまた地面にしゃがみこむ。
「みながわくん、」
「――ごめん、帰りたくないよ」
 公園内とはいえ、駅への近道を塞いでいるのは確か、通行人の邪魔で迷惑だ。それでも自分の意思でうまく立ち上がれないのだから、仕方がない。
 葛木があんなことを言うから。
「ひとつ、お願いしていい?」
「なんでしょうか」
「ぼく、きみに優しくされたいけど、優しくされたくない」
「……複雑ですね」頭上で、困ったような、でも笑い出しそうな葛木の声がする。
「ぼくの前では、とびきりのジェントルマンでいてほしいし、いてほしくない」
「難しい」
「素のきみがいいんだ。素が紳士なら紳士で、そうじゃなくたって、」
 いくら紳士な心で生きているとはいえ、そんな風にふるまえない時だってあるだろう。無理をしてふるまってもほしくない。「ぼくはぼくで、なにを考えているかきみに分かるように、伝える努力をするから」
「……だいぶ複雑で厄介だけど」
「それは段々にわかってきました。そして困ったことに、みながわくんのそういう面倒くさいところ、僕は好きです」
 普段ならば回避するようなものの言い方をする。本当は毒だって含んでいるんだ、と分かってなんだか悔しくて嬉しい。葛木の助けを借りてようやく立ち上がる。
「じゃあ、戻りましょう――で、いいんですよね」
「いま帰されたら、泣く」
「良かった」
 外灯をバックにされては、葛木の笑った気配はしても細部まではしっかりと見えない。はやくちゃんと見たい。
 部屋までの道すがら、やはり声をひそめて、葛木が耳元で囁いた。
「――今日のこと。緊張に狂っていたから無我夢中だったというか、あんまり味わっていないんです。戻ったら、やり直しても?」
 顔から火が出るとはこのこと。
「……ぼく、どうなる?」
「さあ。ちなみに言っておけば、僕は肉食です。逃げるなら、いまのうち」
 逃がそうなんざ到底思っちゃいないだろう。だって葛木の手はしっかりと皆川の手を包んでいて、離さない。


End.




拍手[99回]

 目覚ましをかけておいて、と言ったのは現(げん)の方だ。自分でかけるとどうしても起きないから、僕の方でも設定しておいてくれ、と。その時は素直に従ってかけておいたが、空調の音で目が覚めてふと隣を見て、現の規則正しい寝息や半分あいた唇や、くっと突き出た喉仏なんかを眺めていたら気が変わった。携帯電話の電源はその時点で落とした。現の使っているスマートフォンも途中でアラームが鳴ったが、僕が触ると消えてしまった。
 眠れるのも才能だ、と思う。僕の場合、時に睡眠薬が必要になるほど眠りが浅く困っている。そんな人間がいる一方で、現はアルコールも薬も使わずよく眠る。電車の中でも公園のベンチでも構わず眠れるのは素晴らしいことだと、単純に感動する。
 そうは言っても、昨夜は明け方までセックスをしていた。眠れない方がおかしい。
 現の激しいやり方に、尻たぶが擦れて痛い。股関節は軋むし、腰は鈍く重い。それでも現を眺めているとまた欲しくなった。はみ出た足を毛布の中に戻し、現の身体に擦り付け、なめらかな胸板に頭を乗せた。
 ふ、と低く呟いて、現が目を覚ました。
「――いま何時」第一声は、掠れて息の音だけだった。
「ええと、十一時半」
「じゅういちじはん!!?」
 勢いよく起き上がるので、現の身体からずり落ちてしまった。自分のスマートフォンで時間を確認した現は「うっそだろ!!」と叫ぶ。僕は転がったまま、慌てふためく現を笑った。
「っつかアラーム止めただろ! 止めんなよ!」
「寝坊したらまずいの?」しらばっくれて訊ねる。
「まずいに決まってんだろ! またバイトくびになる。アパート追い出されたらあんたのせいだからな」
「そしたらまた僕のところへくればいいよ」
 そう言ったら、現は黙った。顔をしかめ、悲しそうな顔をする。ああこういう顔させるつもりじゃなかったのにな。いつも思う。現を苦しませるつもりはないのに、つい意地の悪いことを言ってしまう。
 「どうせ遅刻なんだからもう一回しよう」と言うと、現は困った顔をした。
「ばかだろ。今からでも行くんだよ。無断欠勤はまずすぎるって」
「ええー」
「ええー、じゃないだろ」
 現は僕より五つ下だが、僕よりしっかりしていて、社会常識を知っている。いや、僕が常識を知らないのか。どっちだっていい。僕は現とセックスがしたいので、着替えようと背を向ける現に後ろから絡んだ。
「こら、おい」
「現だって、こっちの方が楽しいだろ」
 現の肌は、触っていてとても気持ちがいい。硬くてさらりと乾いていて、熱くて、撫でていると手のひらに馴染む。現の肩や腕や指をしつこく触っていると、現はくるりとこちらを向いた。困り顔は一転し、怒っているような―欲情した―顔になっている。
 ベッドに僕を押し倒し、足首を掴んで乱暴にひらく。
「あんなにしたから赤くなってる」現の指が、ためらいなく後ろへ伸びた。「痛くねぇの?」
 訊ねながらも、指は奥へ侵入する。昨夜の行為でやわらかくほぐれたそこは、現の指を三本あっという間に銜え込んだ。現が残したものがとろりと伝って、淫猥な音が響く。「痛くないから、――現、」
 ねだると、現は小さく舌打ちをした。「あんた最悪」指が引き抜かれ、別の感触のものが入口にあてがわれた。「おれがあんたのそういうところに弱いって分かってて、そんな顔でそんな声、出すんだ」
「……どうなっても知らない、」
「――どうなったっていいよ」
 告げると同時にがつんと貫かれた。衝撃で呼吸が詰まって、苦しい。でも気持ちがいい。現が眉根を寄せて覗き込んでくるのが、愛おしい。
 どうなったっていいのは本当だった。僕の方は、まったくかまわない。構うのは現の方で、それが心の底から可哀想だった。



 二回ずつ果てて、小一時間ぐらい眠り、ホテルを出ると夕方だった。現とセックスをした後は、なんとなく甘いものを買ってやることにしている。本当は小遣いぐらい渡したいのだが、それは現が嫌がるので、こういうものを買って僕と現とのおさまりをつけている感じだ。
 現は好き嫌いをしない。八十八円のチョコレートでも千三百円のタルトでもなんでも喜ぶ。今日は時期だからと言って、コンビニで個包装されているマロン・グラッセを選んだ。時期だと言っても保存の効く菓子であるから、去年の栗だったりするんだろう。それでも現は「季節感ってやつだよ」と言ってこだわる。
 そんなの売ってんだなあ、と感心した。五つ買って三つすぐ食べて、二つは僕に寄越した。
「僕は食べないよ」
「食ってみろよ。美味いんだ」
「うーん」
 僕は苦笑した。甘いものは、あまり好きではない。付き合いでも食べない。現があまりにもあんまりな顔をするので包装をひらいてみたが、ねっとりとした甘さがどうもだめで、齧り残しを現に返した。「ごちそうさん」
「こんなのじゃ腹は満たせないよ」
「あまいもんは別腹だろ。飯替わりって言ってんじゃないぜ」
「現とやるセックスなら、飯替わりになるかな」そう言うと、現は黙った。
「そうだ、その残った一個は遥花さんにお土産にしよう」
 思いつきを、僕は口にした。
「今日はさ、僕が飯の当番なんだ。デザートだって言えば」
「やめろよ」
「良かったら現も一緒に食おう。今夜は炊き込みにしようと」
「やめろってば、」
 現は本気で嫌がった。怒る、ではなく、呆れる、でもない。悲痛、という言葉がぴったりくる表情をする。
しまった、と思っても遅い。またやってしまった。現の心を引っかく言葉ばかり口にしてしまう。自分自身で止めることが出来ない。
「悪かった。現といるとだめなんだ。…帰ろうか」
「あんた、あんまりそういうこと、言うなよ」
「悪かった」
「なあ、義兄さん、」
 僕を呼んだ現の口調は重い。関係を自分に言い聞かせているのだ。
「おれ、どうすればいい?」
 僕には答えられない。
 現は、僕の妻の弟だ。僕らは義兄弟に当たる。義兄弟で恋に落ちていることを、現はとても悲しく思っている。
「おれは姉貴のことが本当に好きなんだ。責任感があって優しくて格好良くてさ。おれには甘いところも、美人じゃないところも。姉貴に比べたら、あんた最低だろ。浮気性でふらふらしてて思い付きだけで行動して。…でも、どうしてもあんたが好きだ」
「現、」
「はじめっからもう、行き止まりだろ。どうしたらいいんだ」
 このやり取りがこんな街中ではなく二人きりの場所で行われていたら、現を抱きしめてやれたのに、と思う。
 妻とは、良くやっている。セックスレスな夫婦だが、却って友達のように暮らせている。同居人として、一生涯のパートナーとして、これ以上の人はいない。
 現とは、はじめから恋だった。弟だと紹介されて、一目見てお互いに恋に落ちた。妻には沸かない欲が、現にはいくらでも湧く。激しい情熱が渦巻いて息が出来なくなるぐらい。姉弟だからどことなく似ているのに、妻と現とでは欲の矛先がまるで違う。
 妻と別れる気はない。最高の人だからだ。
 それに妻と別れなければ、現とは兄弟でいられる。恋は恋、曖昧で不明確で、感情が一度冷めたらそれでおしまいだ。明日には嫌いになれるかもしれない関係は、しかし妻と別れなければ、確固としたつながりを持ち続ける。結果的に現が誰と連れ添っても、現の一生涯を僕は愛したい。現と血を分けない僕は、紙の上の関係が、とても重要だ。
 現はそう思っていない。姉を裏切っていると思い込み、それでいて僕以外の誰かに恋も出来ない。可哀想だ。現状を受け入れられない現が、可哀想だ。
「本当はおれ、あんたと手をつないで歩きたい」沈黙の後に、現はきっぱりとそう言った。
「姉貴のとこへなんか、帰したくない」
「うん」
「他愛もないこと喋って、飯食って、触ったり、キスしたり、……ずっと一緒にいたい――」
 言葉に詰まって、現は下を向いた。うつむいて浮き出た首の後ろの骨に、歯を当てたいと思った。
 愛しているよ、と僕は言った。心からそう思っている。誰よりも現の幸せを願っておいて、手ひどく傷つけてしまうぐらい、愛している。
「義兄さんなんか、嫌いだ」うつむいたまま現は言った。
「嘘。好きだ」
「知ってるよ、現」
「じゃあもっと思い知って。好きで好きで好きで、苦しいよ。愛してる」
 僕の上着の裾を、現はそっと掴んだ。それ以上のなにを出来ずに。


End.


 



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
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短編「さきごろのはる」
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