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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「月?」
「月が綺麗ですって言ったって」
「ああ、春先? あんまりちゃんと覚えてないですけど、言ったと思います。けど、それ以上の意味はないですよ」
「ないの?」
「なんですか……」
 含んだ口ぶりで言われて、意味が分からず困惑する。
「夏目漱石が英語の教師をしていたころ、『I love you』を『月が綺麗ですね』に訳しなさい、って学生に指導したエピソードがあるの、知らない?」と赤城が言った。
 さすがに驚き、赤城を二度見してしまった。
「知らなかったんだ」
「……全然、」
「まあ、そう指導した、っていう文献が残っているわけじゃないから、都市伝説みたいな話なんだけどね。奥ゆかしく、そう表現したって、わりと有名だよ」
「……」
「アヤね、きみのこと結構話してくれるんだ。それでそう言われたって話してくれたときは、こう言ってたよ。『あれは久々に心臓に悪かった』って」
 心臓に悪かった。それは学生から好意を寄せられて気持ち悪くてひやひやした、という意味だろうか。思わず「すみません」と謝ってしまう。
「あ、違うよ。んー、あいつは口が悪いから。国語力に乏しいんだ。そういうふうにしか言えなかっただけでたぶん本当は」
「赤城」
 気づけば隣の部屋から柾木が移動して背後に立っていた。見あげると柾木は慈朗を一瞥して、「その辺にしろ、ばか」と赤城に言った。
「教員辞めたからって調子に乗んな。こっちはまだ公務員やってんだよ」
「アヤ、ごはん食べれた?」赤城は気にも留めない。
「ちょっと、でも、だいぶ。ありがとな」
 ふう、と苦しそうに息を吐き、柾木も空いている椅子に座った。すぐだるそうに机に突っ伏す。赤城は立ちあがり、柾木の食べさしの盆を下げた。
「赤城、最後まで悪いな」と柾木はようやく顔を上げて言う。
「ん、別に全然構いやしないけどね。僕が押しかけているようなものだし」
「もう、そろそろ時間だろ」
「うん。そう、……。湿っぽくなるかと思ったのに、意外と楽しかった。雨森がいてくれたからかな」
 食器をざっと流し終え、赤城は調理台を背にこちらに体を向けた。柾木と数秒、目を合わせる。
「連絡は寄越せよ」
「まあ、気が向いたら」
「偏食ばっかして体調崩すんじゃねえぞ。甘いもんはほどほどに、ちゃんと野菜も食っとけ」
「そうする。僕らもそろそろ若くないね」
「……また絵を描いて。スケッチでいいから、」
「……そうだね、……そうだといいな」
 ありがとう、と言葉を交わし、赤城は深く頭を下げる。柾木も下げた。一体どういうことだと目の前の展開に追いつけずにいる。赤城は床に下ろしていたかばんを持った。
「じゃあ、またな」
「先生?」
「雨森も元気でね。きみの進路、心から応援している」
「どういうことですか? ねえ、赤城せんせ」
 玄関へと向かう赤城を追いかけようと椅子から立ちあがったが、柾木に強い力で手首を掴まれ、振り払えなかった。病人のはずなのに柾木は力強い。ただ、その手はとても熱かった。
 玄関先から「おじゃましました」と声がして、扉の閉まる音が続いた。不意に静けさに包まれる。柾木の手は離されない。ただ呆然と背中を見送ったが、我に返り「どういうことですか?」と柾木に訊ねた。
 柾木は再び机に突っ伏した。
「あいつの車、乗って来たんだろ。だったら分かるだろ。えらく荷物が載ってたの」
「そうですけど」
「これから遠いとこ行くんだよ。ここじゃないところへ行くんだ、赤城は」
「ここじゃないところ?」
「アパート引き払ってな。とりあえず旅がしたいなって言ってた。行先は聞いてない。まあ、所属を嫌うのは昔からで、ちょっと時間が出来ればふらふら旅に出るようなやつだった。今回も、そんなもんだろ」
「……そんな、だって」
 ――だって。
「青沼は?」
「知らねえよ、そんなところまで。あいつらの問題なんだからあいつらが決めるだろ」
「いまの話じゃ、戻って来る気、ないんでしょ?」
「それも知らねえ」
「そんなの、そんなのは、青沼がかわいそうだ」
「そうだな」
「――先生は?」
「え?」
「先生だって、……好きな人が遠く行くんですよ?」
「……」
「なんでそんなに、諦めたって顔で、平気で見送っちゃうんですか?」
 喋っているうちに、辛くなってきた。柾木の前では強がっていたい気持ちがあるのに、溢れてくる涙はもうどうしようもない。止められない。
「先生と赤城先生のことなんか、詳しくは知らないですよ。でも、……こんなの、ないじゃないですか。青沼だってみんな、どこもかしこも痛んでばっかりで、そんなのおれは、嫌だ」
「雨森、」
「嫌だ……」
 情けないと思いつつ、ぼろぼろ涙が出てくる。「ちきしょ」と悔しがりながら目元を押さえ、押さえながら泣いた。どうしてみな、痛みを伴うことばかりだ。どうして好きな人とは一緒にいられないのだろうか。
 単純なことなのに。たったそれだけがこんなに難しいことが、悲しい。
 制服のシャツで涙を拭っていると、不意に柾木の手が頭に伸びた。子どもみたいにあやされるのは嫌だと思った。抗おうとして、だが柾木に抱き寄せられるように、肩先へ頭を持ってこられ、柾木の体温やにおいを意識した途端に抗う気が失せた。
 あり得ないほど近い場所に柾木がいる。大人の男の異常に発熱した体臭が濃く香る。
「巻き込んで悪かった」
 柾木が囁くように、力のない声で言う。
「でも、おまえが今日ここに来てくれて、よかった。――赤城にも、おれにも」
 それを聞いたら、体の力が抜けた。抜けて、保っていられなくなる。
 腕を動かし、柾木の胸に縋りついた。信じられないほどいくらでも涙が出てくる。自分の恋が叶わなかったこと以上に、赤城が去ること、それを見送る柾木のことが、痛くて、淋しくて、辛かった。


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沙羅さま(拍手・コメント)
いつもありがとうございます。
慈朗は当初は女の子の予定でしたので、キャラクターを変える際にもっと男らしく、というのを意識はしました。けれどその後実生活で関わった青年を見ていて意識をまた変えて、出来たのが慈朗です。ですのでかわいくて仕方がない、と読んでくださった方が思ってくださったら、それは私にとって嬉しいことです。
美術館や博物館、植物園、動物園等々、私も好きです。しょっちゅう行くわけではありませんが、それを目的に出かける機会は多いです。9月の平日でしたらきっと人も落ち着きますから、ぜひ足を運ばれてください。
私はわりと若い方が小さなギャラリーで展覧会をしているところを見に行くのが好きで、もう何年も前になりますが写真家の森栄喜さんと川島小鳥さんともう一方でなさっていた展覧会はとてもよかったことを覚えています。その後何年かして森栄喜さんも川島小鳥さんも木村伊兵衛賞を受賞されましたので、貴重な機会だったなと思います。漫画家の今日マチコさんの原画展にも足を運びましたがこれもよかった。こういうのはタイミングや出会いですが、よい機会に恵まれるといいですね。
拍手・コメントありがとうございました。いつも励まされております。
粟津原栗子 2019/08/13(Tue)07:05:50 編集
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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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