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「酒くさっ!」の声で目が覚めた。覚めた途端に後頭部にずきっと痛みを感じて顔をしかめる。もそもそと起きあがると四季が「換気するからね」と言って部屋の扉をあけ放していた。廊下の窓ガラスの外はとっぷりと暗い。
「もー、どんだけ飲んだの」と四季は散らかったビール缶を拾う。私はまだぼんやりとしながら辺りを見る。八束はしっかりと寝入っていた。図録を引っ張ると簡単に離れる。
「いま何時?」と顔をこすりながら四季に訊ねる。
「七時過ぎたところ。セノくん、ここに布団敷くから今夜は泊まってくといいよ」
「ありがと。……布団は自分で敷くよ。片付けるし。……八束さんも寝かしちゃおうか」
「あ、仲直りできた?」
「うーん」
のろのろと起きあがり、テーブルの食器を下げる。四季も片付けを手伝ってくれた。八束は目覚めず、深い寝息で完全に沈没していた。
「ヤツカくん、ほらちょっとは起きて自分で動いて、」
と四季が八束をこたつから引きずり出す。それを手伝ってこたつの代わりに布団を敷いた。四季は八束のベルトを引き抜き、ニットを脱がせた。寒さを感じたのか八束は身体を縮こめたが、起きなかった。
「代わろう。布団に入れるから」
膝をつき、八束の背と膝裏を抱えた。簡単に持ちあがる。これじゃちょっと体力自慢の女性なら縛ることも可能だろう、と考え、あ、男だっけ? なんだっけ、と混乱した。八束を布団に移動させると、四季がすぐに掛け布団を載せてくれた。眼鏡を外して枕元にそっと置く。若い顔立ちがあらわになる。
「――あ、またこんなの見てたんだ。ホント好きだなぁ〜、鷹島静穏」
本を拾った四季がそう言って私を見た。
「酔っぱらうと絶対にこの人の話するもんね」
四季は図録をパラパラとめくり、「ふふ」と笑った。
「私もこの作品好き。いつか実物を見に行きたい」
「……常設じゃないから、タイミングをきちんと図らないと難しいだろうね」
私は頭の後ろを掻く。
「作品の傷みも激しいみたいだし」
「傷んでるの?」
「乾燥で裂け目が広がってるらしい」
「修復は? しないの?」
「んん、まあ、……Kは遠いしね」
「ヤツカくんに言わないの?」
図録を手に、四季が射抜く目でこちらを見た。
「……言わないだろうね」
「どうして」
「彼が大ファンと公言するから」
すうすうと寝息を立てる男の髪にそっと触れた。やっぱり冷たいじゃないか、と思う。
「言えるわけないよ。……洗い物やっちゃうね」
「黙ってても、いつか分かると思うよ」
「それならそれでいい」
「投げやりなの? 臆病なの?」
「おれもねみーの」
私はわざと大きなあくびをしながら立ちあがる。居間から続く台所へ向かう。
南波家の店子の入金状況が記してある帳簿には、私は「セノ」と書かれているらしい。だから八束は鵜呑みにして私をそう呼ぶ。けれど店子の詳細な情報が記された個人情報簿を見れば一目瞭然だ。八束はそれを見ていない。けれど四季は見た。
彫刻家・鷹島静穏(たかしませいおん)。大学在学中から木彫を中心に作品発表をはじめ、その技術力と世界観で各美術賞を総なめにしてきた。先ほど四季が見ていた図録のコンペでは、グランプリの副賞として一年間の渡欧留学が与えられている。だが彼はそれを蹴ってその賞金で世界中を旅行した。その経験をまた作品に落とし込み、さらなるファンを増やした。
だが彼の作品発表は、その後数年で途切れる。ここ七・八年ほどは新しい作品発表が一切ない。メディアに顔を出さない人間で、SNSの類も行っていない。活動状況を知る人間は多くない。
鷹島静穏がなぜ作品発表をやめてしまったか。私ははっきりと答えられる。彼は結婚したからだ。家庭を持ったから、正確に言えば作品制作に至れなくなった。大事なものを守ろうとしすぎるあまりに。
タカシマセイオンという読みは、活動名だ。一見するとそうとしか読めないため、本人は諦めてそう名乗っている。だが本名のよみは違う。「静穏」と書いて「せの」と読む。
鷹島静穏(たかしませの)。苗字だか名前だか分からないこの名前が、私の本名だ。風の全くない冬に生まれた。もうすこしで三十五歳になる。三つの大学で非常勤講師の口を持つが、非常勤であるのは、いつでも辞められるようにという目論見だった。
もう何年も発表に至れていないが、再び彫刻家として活動したいと思っている。ずっと思っている。
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南波家の風呂を使っているあいだに八束が灯油の買い出しに行ってくれた。ガソリンスタンドの営業時間がどうのこうの、という話だ。大家権限で合鍵を使って配達までしてくれたのだから本当にありがたかった。「きみはあれだな」と戻って来て八束は言った。「手先は器用なのに生活能力は備わっていないんだな」
「いや、そんなことない」
「説得力がない」
「集中力との両立ができないだけで、集中する用事がなければまともに暮らせるよ」
タオルでわしわしと髪や髭を拭っていると、「ドライヤー使えよ」と示される。
「すぐ乾くよ」
「セノさんの髭の量だとちゃんと乾かさないと凍る」
「初詣、四季ちゃんはどこ行ったの?」
「N社。この辺りで一番大きいから」
「おれたちもそこ行く?」
「いや、すぐ裏の天神さんに行こう」
「お、いいね。菅原道真なんて本の虫の八束さんらしいな」
タオルを外して乾き具合を確かめていると、「きみだろ」と言われた。
「道真公は芸事にも通じてるんだ」
「……おれのこと考えてくれたの、」
訊ねると、八束はそっぽを向いた。
「……あんまり自分の職業をいい風に捉えてないようだったから」
「……暮れの話のことなんか、気にしてない」
「……あんなものを彫れるのだから、自信を持っていい。羨ましいよ。僕は不器用だから」
照れ臭く褒められて、素直な言葉に私はコメント出来なかった。嬉しかった。嬉しくて情けなかった。それでも私は私に満足していないのだ。してはいけないという呪を自分に授けている。満ちたら私は止まる。
それを言いたかった。けれど八束には言えない。
「行こう。髪は乾いたから」パンパン、と八束の肩をはたく。「乾けばおれの冬は最大にあったかいんだ」と髭を撫でた。
「……確かにあんな部屋で作業してられるんだからな。冬眠を忘れた熊みたいだ」
「白髪の方が寒そうに見える。見た目かな」
「寒くはないよ。……親父の家系。姉貴は白髪知らずだった。おふくろに似たんだ」
近い距離で、八束がこちらを見た。眼鏡越しの瞳の深さを見てしまって、瞬時にうろたえた。
「……早死になところまで似たな」
八束はニットを拾った。私もコートを着込む。
「病気、だったんだっけ。それも遺伝?」
「いや、……おふくろと姉貴の死因は違う。おふくろの方が長生きしてるし」
「じゃあ大丈夫だよ。うまく言えないけど、四季ちゃんは大丈夫」
八束を追い越して玄関へ向かった。八束が後ろからちいさく「ああ」と頷いた。
南波家の裏手にまわる。小さな天満宮でも人出はあるらしい。神社の入り口で手と口を清め、八束と揃って参拝した。おみくじはスルー、でもなんとなく授与所で鈴を買った。甘酒が振る舞われていたのでもらって焚き火の近くで飲んだ。近所の人か店子がいたらしく、八束は挨拶を交わしていた。
参道をくだり、そのまま近所の商店街で買い物をした。野菜の類はあるというから、生鮮と酒。剥き身ではあったが牡蠣を買った。さっさと用を済ませて南波の家に戻る。
鍋の準備は、私がした。具材を切って鍋に放り込むだけだ。居間のこたつで飲むことにして、八束は座卓の準備を担当した。
とっておきの酒器、というものを八束は出して来た。本当は親父のものだがいいんだ、と笑う。酒はまだ入れていないのに気分が綻んでいた。支度を整えてあっという間にはじまった。
「すず」とだいぶ酒が進んだ頃に八束が言った。「なんで買ったの」
「梅の花の柄のピンクの鈴なんか、自分用じゃないだろ」
「ジェンダーレスの時代、そんなのわかんないよ」
「連れ込む予定もないとか言って」
八束はビールを煽り、空だと気づいて新しい缶を開けた。
「ないってば」
「セノ先生は隠し事が多い」
「八束先生もなかなかですよ。恋人とはどうするんですかー」
「あいつは、……僕に未練はないんだけど、」
八束は言い詰まった。
「――あんまり人の趣味にとやかく言いたくないけど、生活に支障の出るような遊びはやめた方がいい。縛るような遊びはね」
「遊び、」
「いや、遊びでいてください、っていうおれの願望が含まれてるな。本気だとしたら」
「――なぜ縛られたと分かった?」
八束の硬い声が入った。ぎくりとする。
「喧嘩だと言ったじゃないか……」
八束はうなだれる。唇を噛みしめるかのような響きに、私は観念した。
「……見れば分かる、殴打の痕じゃないよ」
「見たのか」
「見えた」
八束は黙った。
「言ったろ、観察結果だって。観察は得意なんだ」
「……」
「もっと言えば、相手は女性じゃない。女性ならもっと簡単に力を込めずに束縛できる道具を使うだろ。手錠、結束バンドとか。……綺麗な痕じゃなかった。なら力づくだ。成人男性を力づくで縛り付けられる女性はそうはいないよ。……あんまり合意でもなさそうだけど、……」
そうだとしたら辛い、ということは黙った。なぜ八束が恋人に縛られていると辛いのか説明できない。黙っていると八束はゆっくりと顔をあげた。
「そうだよ。……乱暴者の男と遊んでる。……情はないけど性癖は一致するんだ。嫌になるよね」
そうしてまた顔を伏せた。
「……性欲なんて消えればいい。どうせ僕は子孫を残さない。姉貴が四季を残してくれた。南波家はこれでもう安泰だ」
「……あまり無理に話さなくていい」
くつくつと煮える鍋の、カセットコンロの火を止めた。
「話さなくていいけど、……あなたがそう感じているなら別れた方がいいとは思う。人の身体を自分のものみたいに扱うやつは自分の身体や人生も大切にしない。ろくでなしだ」
「実感がこもってるね」
「反省があるんだ」
「セノさんが言うなら別れる」
「いや、八束さんの意思だけど」
「セノさんはなんで奥さんと別れたの……」
語尾はふるえたが、ストレートに撃ち込まれて私は目を閉じた。
「おれは、」正直に話すべきか迷う。「不器用すぎて」
「セノさんは器用でしょ?」
「手先はね、そうだと思うよ。でも誇らしいとは思わない。……ひとりになるべきだ、と言われた。言われたし、思った」
「意味がわからない」
「彼女には彼女を支える人が出来たから、こっちはもういいよって」
「それは」
言いかけた八束を制するように、私もごちっと音を立ててこたつの天板に突っ伏した。
「うまく説明できない上に惨めになるから、勘弁して」
「……色々あるな、お互い」
「パーッと旅にでも出てしまいたい」
「温泉旅行でカニしゃぶ?」
「グルメはいいや。なんか、心臓に迫るような綺麗なものを見たいな……」
そう言うと、突っ伏していた八束は起きあがった。立ちあがり、ふらふらと居間を出ていく。しばらくして戻ってきた手には冊子があった。展覧会の図録だった。
「感動するものなら僕は断然これだ。ようやく手に入れたんだ。古書店で探して……高くはなかったけど苦労した。『鷹島静穏(たかしませいおん)』」
またこたつに潜り、八束は図録をめくった。K県の県立美術館で行われていた若手アーティストのコンペティションの図録だと言った。発行部数が少ないため、入手が困難だったと。
「旅行に行くならこの美術館でこの作品を見たい。いまも見られるのかわかんないけど、」
「……好きだねえ、タカシマセイオン」
「うん、好きだ。大ファンなんだ。はじめて美術館で見たときにもう心臓鷲掴みだったよ、ってもう何度も話したな」
「聞いた」
「……この図録、鷹島静穏の初期作品が載ってるんだ。珍しいんだよ。これの実物をまた見たい。『私を突き抜ける風』」
もはやひとりごとのように八束は語った。図録には一体の彫刻作品が掲載されていた。木彫作品で、青年の半身である。まるで生きているかのように精緻で、木材とは思えぬ彫刻である。そしてこの彫刻の最大の特徴として、青年の胸から背中を突き抜けるように様々なものが彫り込まれている。花、本、鳥、幾何学の立方体。それらは風を模したと思しき流動的な形状になっている。
図録には「K美術館アートコンペティショングランプリ『私を突き抜ける風』鷹島静穏」と記されていた。
「技術もすごいけど、作風もすごいんだ。ファンタジックで、でもすごくリアルで。……彼の作品をはじめて見たとき、目が離せなかった。美術品の鑑賞の快楽を知ったんだ。この作品は彼自身だとされていて、でもなんだかまるで、彼という人生の記された分厚い物語を読みこまされたような気になる。……同い年の人間がこんなにすごいものを作れるんだと、感動して。ここ数年は新作の発表はないけど、でも僕は、ずっと、ファンで……」
「八束さん、休むならここだと、……」
ずるずると八束は身体を沈ませ、やがて図録を抱えたまま寝入ってしまった。私はなんとも言えぬまま残った酒を煽る。
いつの間にか年が明けていた。様々な樹種の木片に彫り物をしていたら迎えていた新年だった。正月なのでスーパーの営業は変則的だし、食堂もあいていない。コンビニで適当に弁当を買ったりコーヒーだけで済ませているうちに過ぎる三が日の最終日、表に車が止まった。「明けましておめでとうございまーす」と明るい声が倉庫に響いた。四季と八束だった。
倉庫に入って来た四季は「わ、寒い」と室温に文句を述べた。
「待ち切れなくて押しかけ。作業してる? あ、かわいいこれ」
私が彫っていた椿だった。精巧さを諦めてデフォルメしたまるい形は、女性の髪留め辺りに加工すれば多少は売れるかな、という魂胆があった。
「あげるよ、それ」
「えー、いいの?」
「それだけだとただの飾りだからヘアゴムでも付けようかと思って」
「え、それよりもバッジにして。鞄につける」
「ああ。いいよ。貸して」
ちょこちょこと細工していると、倉庫の入り口から動かなかった八束がようやく入室して来た。
「郵便受けパンパンだな」呆れる口調は、それでも責めるものではなかった。私は手を止めぬまま「そういえばクリスマスぐらいから見てないかも」と答える。
「出来た。好きな色かオイルを塗るといいよ」とバッジになった椿の彫り物を四季に渡す。
「普通の絵具でいい?」
「アクリル絵具がいい。授業で使ってなかった?」
「レタリングの授業で使ったかも。アクリルガッシュ?」
「お、いいね」
「でもこのままでもすごくかわいいなあー」
「このままだったらオリーブオイルを塗って乾かしてあげるといい」
四季の言葉につられるように、八束が四季の手元を覗き込んだ。四季は八束にそれをかざし、「ヤツカくんも作ってもらいなよ」と作業机に散らばるモチーフを指した。
「……年末年始中これをやってたのか」
「まあ、こればっかりではないけど」
「依頼?」
「いや、手慰めみたいな。依頼はね、松の内明けてからって言われてるから」
「そう」
八束と話しているうちに姿を消したと思っていた四季が、鍋を手に戻って来た。
「これ、お雑煮の汁。お餅と一緒にあっちに置いとくから、食べてね」
「どっか出かけるの?」
「えっちゃんと初詣に行く約束してるから」
じゃね、と少女はいなくなった。八束は息をつき、「邪魔なら帰るけど」と言った。
「邪魔でなければ、掛けても?」
「……邪魔じゃない。向こう行こうか。ここは寒い」
「昼だけどなにか食べた?」
「コーヒーだけ」
「雑煮、準備するよ。お邪魔します」
八束は私が寝起きしているスペースへと歩いて行った。ここに会社があった頃、給湯室兼事務所として使われていたスペースだ。言い口はぶっきらぼうだが機嫌が悪いわけじゃないことは分かる。
私は作業をやめ、ツナギの上だけ脱いで腰元で結び、八束の元へ向かった。フライパンの中で餅がぷっくらと膨れていた。
「やっぱりコンロの口がひとつだけだとやりづらい」と文句を言われて私は微笑む。
「ストーブつけなよ。餅ぐらい焼けるよ」
「つけたよ。灯油が切れてる」
「あれ?」
「買い置きは?」
「あ、ないかもしれない」
「なにが『ここは寒い』だよ。どこも寒いじゃないか」
焼けた餅を器に取って、雑煮の鍋を強火で温めた。そういうことしてると焦がしたりやけどすんだよ、と思ったが口にすると「きみが言うか」とでも責められそうなのでやめた。案の定「あちっ」と八束は漏らし、出て来た雑煮はちょっと煮詰まってこうばしかった。
「――ま、これはこれで」
「なんだよ」睨まれる。
「いや、正月らしいものをまともに食うから。とてもありがたいし嬉しいんだ」
四季の作る雑煮はすまし汁の中に焼いた餅を入れる、この辺では当たり前のものだ。餅は買って来たパックの切り餅。八束も無言で雑煮をすすっていたが、その顔を眺めると、視線に気づいて目を合わせて来た。
口角を少しあげて、うっすらと笑みを作る。八束は睨むようにこちらを見る。お互いにポーカーフェイス、カードの切り出しは八束の方からだった。ポケットから新しい軟膏のパッケージを取り出し、こちらに寄越す。
「なんでこんなの常備してるんだ」
「打ち身が案外多いから。鑿使っててハンマーの先を誤るとか。主にはおれじゃなくて学生用だけど」
「……四季から渡された分は使い切ってしまったから、これを。返すよ」
「治った?」
「綺麗に消えた。痛みもすぐ取れて。はじめて使ったけど効くんだな」
「ならよかった。あんまり無茶をすると四季ちゃんが困る。だから遊ぶのも、ほどほどに」
「なぜ遊びだと?」
「……観察結果」
八束は顔をそっと背けた。
「……なんか、悪かった」
「なにが?」
「一方的な感情を押し付けた。なんていうか、あんまりうまくいってなくて。だからセノさんに八つ当たりみたいなことを」
「恋人?」
「……ちょっと遊ぶ程度のつもりだったんだ。はじめは。先月あたりで向こうがエスカレートして来て、喧嘩っぽく」
八束は喋ったが、慎重だった。嘘も混ぜ込まれているな、と私は直感する。本物にすこしだけ嘘を混ぜ込めば、それらしく分かりにくい。八束は「ついお互いに手が出て」と言ったが、あれは殴られて出来る痣ではないことは分かりきっていた。
「――いまは連絡してない。このまま、終わるかも」
ず、と音を立てて私は雑煮の汁を飲み干した。
「八束さん、今日の予定は?」と訊いた。
「あ、……僕はなにもない。これでお暇するよ」
「ああ、いいんだ。あのさ、おれらも行こうよ、初詣」
「……」
「それで酒でも買って、あ、灯油も買い足して、飲まないかな。その前に出かけるならおれは着替えて、待った、銭湯……やってんのかな。身体ぐらい拭きたいからお湯沸かして。……えーとちょっと準備に時間かかるな。待ってられる? 寒いけど」
あれこれ算段を口にしていると、八束は吹き出した。
「着替え持ってうち来なよ。うちの風呂使えばいい。おれが車出すから」
「……大家さんは?」
「旅行に行ってる。社交ダンスサークルの皆さんで温泉旅行カニしゃぶ付きだそうだ」
「いいなあ。カニか」
「ワタリガニならうちの冷蔵庫にあった。鍋でもしよう。決まりだな。支度して行こう」
八束は器を下げ、洗ってくれた。その間に私は着替えを選び出し、ツナギを脱いで作業靴を履き替えた。
「そういえばきみのスマホに電話したんだけどつながらなかった。バッテリー切れてるんだろう」
そう言われてその存在をようやく認識した。八束は呆れて息をつく。
「充電器も持って来い」
まるで一泊旅行かのような騒ぎになった。
「人はひとりにならない方がいいんだって。だからきっとあの人は、あまりひとりになりたくない人なんだと思う」
四季は「セノくんは違うの?」と訊いた。
「人の数だけ意見や主張がある。……おれの場合は、人は人といるからしんどい。だけど誰かといる必要性も分かる。ひとりはさ、せいせいして苦しい」
「……わかんない」
「……とにかく八束さんがどんなに本に熱中してても、夜中に飛び出してっても、ひとりにはしないで、おかえりって言ってあげて」
四季は「大人なのに」と言った。
「大人だからわがまま言えなくなってるんだ」
「セノくんもそう?」
「おれはすごくわがままだからね」
「わがままだから、お正月は帰らないの?」
「まあうちの実家も変わってるし、帰って顔見せろとは言われない」
「あの倉庫にひとりでいるの?」
「うん」
「ヤツカくんは」
「ん?」
「……自分がひとりなのが嫌なんじゃなくて、セノくんが倉庫にひとりでいるのが嫌なんじゃないかな……」
「……」
「だからえっとさ。ヤツカくんは私とおじいちゃんで大晦日も年越し蕎麦食べるし紅白見るし、初詣行って初日の出見るし、おせちもお雑煮も食べるけど、セノくんはそうじゃないから……? セノくんがそれでいいならいいんだけど、ヤツカくんはよくなくて、……よくわかんなくなってきた」
「いいよ」
私は前を見た。時間で大橋のライトアップが消灯された。
「三が日のどこかで南波家にお邪魔するから、またお雑煮でもご馳走してよ」
そういうと四季はすこし黙り、やがて「ふふ」と笑った。
「分かった。待ってるね」
「戻ろうか。さすがにこれ以上は捕まる」
「全国ニュースにセノくんのイケてる髭面が」
「髭生やした中年が未成年を夜間に連れまわしてるってだけでもう怖いよな」
車を発進させて来た道を戻る。南波家の前で四季を下ろす際、車の後部座席の下に突っ込んでいた道具箱を取り出した。中には救急キットも入れている。使いかけの塗り薬を取り出し、表示を確かめた。
「これ、八束さんに渡しといて」
「なに? 薬?」
「まあ、内出血とか打ち身とか、その辺に効くやつだから」
「どっか怪我してるの?」
怪訝な顔をしている四季の向こうに南波家の二階の明かりが見えた。人影が動き、窓へ近づいて車を見下ろした。
八束の冷えた視線に絡めとられた気がした。
「じゃあおやすみ。今日はごちそうさまでした」
四季を下ろし、車を走らせる。川の脇の道を下り、ミナミ倉庫のガレージへ戻った。
人を縛ったことがあるか。多くの人間はノーと答えるだろう。だが私はイエスと答える。
まだ若かった。いまより人の心を知らなくて、積極で、興味ある物事にはなんでも手を出した。塑像で表現できないと思ったから木彫へ向いたし、木目では足りないと思ったから金属を目指した。動物を観察し、植物を採取し、鉱物をスケッチして、水の流動力学を学んだ。そしてその興味の中には当然、人体への尽きない探究心があった。
自然な動作はなぜ生まれるのか知りたかった。骨格にどういう筋肉がついてどう動かせば生まれるフォルムかを突き詰めたかった。モデルは当時付きあっていた女性だった。彼女は根気強く、私に添い続けてくれた。
動きを知りたかった私は、不自然な動きというものも試すべきだと考えた。あり得ないフォルム、ぎこちなさを知りたかった。恋人に無茶を言って私は彼女に縄をかけた。塑像の芯棒に用いていた園芸用のシュロ縄だった。傷つけないよう布を当てて緩くかけたつもりだったが、観察とデッサンが長時間に渡ったためか、鬱血した痕が肌に現れてしまった。
痕は直後よりも一日〜二日後の方が強く出た。秋口であったため肌はかろうじて隠せたが、痣の観察を私は続けてしまった。おかげで出現から消失まで一部始終に詳しくなった。
不自然さはやはりグロテスクを伴うものだと私が結論づけた頃、恋人は私に別れを告げた。私はあなたのミューズにはなれないと言う。いま思えば酷薄な行為だと思う。芸術の名の下に下種を連ねてよいわけがなかった。
彼女の痣はきちんと消えたかどうか。それはいまでも私の脳裏に罪悪としてよぎる。
だが、あの観察を反省とするから分かる。南波八束の腕にあった痣。あれは腕を縛られたからあったものだ。後ろ手に両肘の部分を重ねて束ね、細いもので二重に巻いて固定した。ビニール紐だと私は推察する。固結びにすれば自力では解けない。
四季の話から、八束が夜中に出かけた日あたりではないだろうかと思う。なぜ縛られたか。そこまでは私には分からない。だがひとつ思い当たることがある。
南波八束には恋人がいる。私のような興味本位で縛りつける恋人かどうかは分からない。だがあの若い日、恋人についた痣を見て同じだ、と直感したものだった。サディスティックな人間がマゾヒストに施す縄での緊縛。遊びであれ芸術への下心であれ犯罪であれ、ついた痣は同じだった。
八束が望んで縛られているなら、遊びの範疇に納めてくれればそれでよい、と私は思う。だがそうではなかった全ての場合。
私は猛烈に怒り、悲しみ、哀れみ、嘆く。
不自然なものは歪み、淀む。堆積すればどこかで切れる。切れたら終わる場合が多い。
それだけはあって欲しくない。カードを一枚切り、現れるのは一体なにか。
手札を静かにかき集め、相手のカードを誘う。
車を停めて南波家を訪ねる。「手を洗ってこっちー」と台所から四季の声がした。居間には大家がおり、マッサージチェアに座ってラジオを聴いていた。私を見て「先日は不在で申し訳なかった」とにこにこと謝る。
「いえ、こちらこそまた図々しく」
「八束と四季がセノくんにはどうしてだか懐くんだよね。迷惑だったら言ってください。ほら、台所で待ち構えているから」
大家はそちらを指さした。エプロンを身につけた四季とワイシャツ姿の八束が餃子の皮をちまちまと包んでいる。
「セノくんも手伝って」と四季に言われ、私もそちらへ向かった。四人掛けのダイニングテーブルに餃子の具材、皮、包みかけの餃子に調理器具が並ぶ。餃子の具にはソーセージやチーズ、納豆なども用意されていた。三人で餃子を包む。四季はそこそこの手際で、八束は不器用に手を動かしていた。
「わ、さすがだね。セノくんうまーい。器用」四季が手元を覗き込む。
「慣れだよ。大学時代に仲間とよく餃子やったし」
「ヤツカくんなんかへったくそ。破れてるし」
「ひだなんか作れないよ」八束が拗ねる。
「具はすくなめの方がいい。八束さん、それ具が多いんだよ」
「いいよ、僕はもう。餃子焼くよ」
「あー、ヤツカくんそれ私の役目なんだから。餃子うまく焼く方法教わったから試したいの」
さっさと包んで、と姪に軽くあしらわれ、八束は渋々餃子を包む。それがおかしくて私は笑った。
「八束さんて料理しないよな」
私の問いかけに、八束は「食べることにあまり興味がない」と答えた。
「でもあの通り、四季が世話を焼いてくれるから食べてる、そんな感じ。僕と親父だけだったら惣菜で済ませるよ」
「分かる。おれも大学生協でばっかり済ませちゃう。夕方行くとさ、売り切りみたいに残った惣菜を安く提供してくれるんだよね。栄養いいし量もいいし。そればっかり」
「三つあるどこの大学でもそう?」
「いや、受け持ち時間の関係で夕方までいない大学もある。そういう時はそういう時で、近所の学生向けの安い食堂を使う。楽だよ」
「確かにあの倉庫じゃコンロが古いからお湯沸かすぐらいしか出来ないしな」
「炊飯器あるから米は炊けるよ」
「コンロの入れ替え、考えようか? せめて二口あってグリルのついたもの、とか」
「ありがとう。そのうち考えさせて。いまは大丈夫」
喋りながら手を動かす。そのうち八束は皮に具をのせるだけの係になった。それを私が受け取ってひだを閉じる。
「これで最後」と言った八束は、私のてのひらに餃子の皮を乗せて手を払った。作業中にずり落ちたワイシャツの袖をめくる。その肘の辺り、水筆を載せて滲ませたような痣があるのを私は認めた。腕をぐるりと囲うように荒く二本。
色の程度からしてここ最近でついたものだろう。
この形。
私の視線に気づかぬまま、八束はシンクへ向かって手を洗った。丁寧に洗い落として手を拭い、シャツのボタンを袖まできっちり留める。私は最後の餃子を包み、バットに置いた。それをコンロの前に立つ四季の元へ運ぶ。
「あーありがとう。あとは焼くだけだしせっかくだからそのままうちのお風呂入っていけば? おじいちゃん、いーい?」
「構わんよ」
火元から離れない四季の代わりに八束がタオルを出してくれた。南波家の風呂を使うのはこれがはじめてではないが、抵抗が全くないわけではない。倉庫暮らし風呂なし物件の私を気遣ってのことだとしたら尚更だ。
湯船に浸かって、爪のあいだの黒さをまじまじと見た。刃物の手入れもそうだし、日頃様々な資材に触れる。手は硬くごわついて指や爪先には汚れが染み付いている。こすってみたが落ちるわけがない。そのまま両腕を合わせて肘の辺りを見た。多分、こう。推察出来る体勢を湯船の中で取り、水面が揺れた。しばらくしてばかばかしくなり、風呂を出る。
服を着て居間に戻ると、食卓は整っていた。スウェットに着替えた八束が食器を出し、四季が餃子の皿を置く。焼き崩れているものもあったが、私に用意された皿の餃子は焼き目よく並んでいた。
白米、スープ、常備菜と家庭的に並べられた品々。子どもの頃の食卓がよぎった。妻と暮らした日々のテーブルではなく、親や兄弟と暮らした頃の食卓。私は目を伏せる。
台所のテーブルに四人で着いて、大家は機嫌よく梅酒を飲んだ。飲みながら「ハイツ・ミナミに空きが出るんだが」と先日の八束と同じ話をした。契約の更新はするがミナミ倉庫だけでいいと私は答える。
「年末年始は?」と訊かれ、私は不意をつかれたように顔をあげた。訊いたのは八束だった。
「帰省するのかなって。セノさんの実家ってSでしょ」
「あー、まだ決めてないんだ。混雑するし、大学が春休みに入ってからでもいいかと思ってて」
「なんかそれ、去年も同じ台詞を聞いたな。そう言って実家に帰らなかった」
「そうだっけ」
「今年だけじゃなくて去年も、その前もずっと」
「バツイチ独身男には肩身が狭くて」
「僕だって独身だ」
「あなたは定職に就いてる」
「いまこのご時世で正社員がいいわけじゃない。大学の非常勤を三つも掛け持ちしながら文化財修復の依頼をこなしているセノさんこそ立派な職業だ」
「あー、確かにお正月にうちのお雑煮お裾分けに行ったよね」四季がやんわりと八束を制した。八束は不機嫌な顔で「ごちそうさま」と言い、食器を下げて自身も部屋を出ていく。フリースを羽織る際に腕を引きつらせたのを私は見逃さなかった。滑らかなモーションの中の違和感。
大家も休むと言って支度をはじめた。私は今日の礼を述べ、四季と食器を片付ける。ふたりだけになった台所で、四季は「なんかごめんね」と言った。
「このあいだからヤツカくん、機嫌悪くて。急にああなったり、ずっと本読んでると思ったら夜中に出かけたり」
「ま、この時期大人は忙しい。おれみたいなはずれものもいるけど一般的な大人は忙しいよ。八束さんも職場で色々あるんじゃない?」
「セノくん、お正月は本当に帰らない?」
四季がこちらを見た。切れ長の瞳がしんしんと濃い。
「……作業したいと思ってる。できれば」
「そっか。大事だね」
「ここの契約更新も大事だけど、大学の方もね。迷うことが多くて……」
そのまま私は黙った。四季も黙って食器を戸棚に仕舞う。
手を拭って「四季ちゃん」と声をかけた。
「餃子のお礼。これからおじさんとデートしようか」
コートを着込む私を四季はパッと見て、すぐにはにかんだ。
「デートって、もう夜遅いんだよぉー」
「橋のライトアップが綺麗かなって。クリスマスのシーズンだし。甘いもの食べない?」
「悪いおじさんだー」
「おじいさんか叔父さんにひと言言っておいで。車取りに行ってる」
持ち物を確認して南波家を後にした。駐車場まで歩き、車に乗り込む。南波家の前まで戻ると四季は門扉の前にいた。「お願いします」と言って助手席に乗り込む。
住宅街を抜けて川辺へと出た。この辺でいちばんの大橋がライトアップされている。そこを渡り、川辺の親水公園に車を停めた。閉店間際の屋台でホットチョコレートを買い、車内に戻ってイルミネーションを眺めた。
「綺麗だね」と四季が言った。「冬休みになったらえっちゃんとも来ようかな」
「……こないだ八束さんが言ってたんだけど」と私は切り出す。
プロフィール
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粟津原栗子
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非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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