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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「修繕、ありがとうございました。おかげでずいぶんと綺麗になったし堅牢になりました。後世にまで残るでしょうよ」
 二月の最初の週、ミナミ倉庫にやって来たのは寺の僧侶だった。この辺りではわりと大きな寺の副住職を務める、柏木斎風(かしわぎさいふう)という男だ。私の元へしょっちゅう仏像彫刻だの欄間だのの修繕の依頼に来るのはこの男だ。同い年だからだというわけではないが、本人は僧侶らしからぬ気楽さで依頼以外にも顔を出すことがある。
「次に依頼がある?」と私は訊ねる。
「まあ、ちょこまかとはあるがね。他の寺社からの依頼もあるし。でも、私が期待しているのは、」
 柏木は倉庫の隅に掛布をかけられて安置されている木材に目を向けた。
「言わずもがな。――まだ手はつかないか」
「……期限があることは分かってる」
「おまえさんのことだから毎日あの木を気にかけているのは分かる。それでも制作に至れない。法要まではあと三年ある。おまえさんの集中力さえあれば充分すぎるほどの時間でないか?」
「十年近くなにひとつ作品の完成に至れていないのに、三年あれば充分とは言えないよ」
「うーん、もっと自分を信じてあげていい」
 柏木はからからと笑った。
「ま、こればかりは。芸術家という方々に繊細さが我々より遥かに多く備わっていることは分かる。締め切りはあくまでも目標だけど、締め切りのない作品ほど熱意の備わらないものはないとおまえさんは前に言ってたからな。楽しみにしているよ。とにかく私は鷹島静穏のファンであるし」
 茶をず、と飲み、「どら」と柏木は立ちあがった。立ちあがり、倉庫の隅へと歩いていく。
 そこには石膏で作られたマケットがあった。マケットなのでスケールは小さい。立ち姿の女性のマケットを見て、柏木は「おまえさんの出現が待ち遠しいよ」と崇拝するかのように手を合わせた。
 柏木はここまで原付で来ていると言う。こんな雪道で寒い中のバイクの運転は平気なのかと訊くと、柏木は「坊主はそれぐらいふてぶてしくないといけねえ」と分からぬ理屈で答えた。
「また寺に顔を出してくれ。修繕依頼を用意しとく」
「なんかすっかりおれのマネジメント事務所になったよな」
「坊主はビジネスも得意なんだ」
 そう言って柏木は去った。
 私は倉庫に戻り、柏木に出していた茶のカップなどを片付ける。片付けてから改めて倉庫の資材置き場へと向かった。隅に、ひと際大きな資材が安置してある。白い布をかけられ、埃から守られている。私はそれにそっと近づき、布をそろそろとめくった。樹皮を剥いだなめらかな木肌があらわになる。
 ずいぶんな巨木を、柏木の依頼でこの倉庫へ持ち込んで四年になる。ずっと手をつけられていないかわいそうな材木だ。切り出された時は、それはそれは神聖な儀式で倒されたというのに。
 そっと触れる。頭の中でイメージが走る。走って走って、いつもなににも結び付かずに混乱する。
 私の業のかたまりは、静かに倉庫の隅に鎮座している。


 窓の外では風が強かった。冷たくよく乾いた北風は、室内の温度を下げる。刃物をいじる指先に集中するもかじかんだ。手を口元に当ててぼんやりしていると、倉庫の出入り口のアルミの引き戸がこんこん、と控えめに鳴らされた。
 風のいたずらともつかないような大人しさは、怯えを孕んでいるかのようだった。それでも再び鳴らされる。私は立ちあがり、引き戸を引いた。強い風が流れ込んでくる。そこには誰もいなかったが、引き戸の横の壁にもたれてコートにマフラーを巻いた八束が立っているのを認めた。
 私が渡したマフラーを巻き、仕事帰りと思しき身なりだった。けれど闇に紛れた顔の半分には、赤黒い痕が閃光のように走っていた。眼鏡で守られて目は無事だったようだが、頬から唇の端に殴打症と分かる傷がある。
 八束は笑うかのように口元を上げたが、私の身体の中には一気に北風が暴れ込んで巻いた気がした。
「別れて来た」と八束は言った。
「仕事帰りにさっと済ますつもりだったのに、激昂されて殴られた。殴られたから殴り返した。人に暴力をふるったのははじめてだ。まだ手がふるえて、」
 八束はポケットから手を取り出した。ここにも傷があった。
「こんな顔で帰ったら親父と四季になにを言われるか分からないから。ふたりが寝た後に帰ろうと思って。……それまで、いさせてくれないか」
「……手当するよ」
 入って、と八束の背にそっと手を当て、倉庫内に入れる。作業場から続く居住スペースのソファへ八束を招いた。八束はずっとがちがちと膝や歯を鳴らしてふるえていた。ストーブの設定温度を最大に上げる。


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 一月の最終日、盛大な寒波がやって来て雪が降った。私の実家や大学時代を過ごしたFはどちらかといえば豪雪で有名であったため、これぐらいの雪ならかわいらしいものだと思っていた。それでもこの町にすればかなりの降雪量だったらしい。融雪剤が撒かれ、家々は除雪作業に追われる。川に雪を捨てに来る軽トラックもあった。
 倉庫の窓から、川面が見える。雪はしんしんと水面に吸い込まれるように降った。川べりに茂る枯れた葦草にも細やかに雪は積もり、どんどん白く覆い隠されていく。私は雪が好きだが、この町へ来てからはもっと特別なものになったような気がする。私を私だと告げなくてよい安心感というのか。滅多に降らないせいかもしれない。
 静かな夜を過ごした翌日、家まわりの雪だけ掻き、除雪対策を施しておいた車を発進させて南波家へ向かった。
 庭で八束が雪を片付けていた。平日だからいないだろうと思っていたのに、長靴を履いて雪を寄せている。私に気づくと目をきつくした。白い吐息が風に流れる。
「大家さんは? 今月分を持ってきたんですけど」
「いま昼寝してるかな。僕が受け取ります」
 玄関先で八束は封筒の中身を改めた。その白い髪を見て、私は「今日は仕事じゃないの?」と訊いた。
 八束は私を見ないまま「いま冬季休館中だからね」と答える。
「仕事はあるけれど、通常みたいな働き方はしなくていいから。雪で通勤が困難な職員は休んでいいと昨夜のうちに通達があった。僕は大変なわけではなかったけど、雪で店子に色々問題が出たときの対処要員で休みを取った。セノさんのところは大丈夫?」
「ああ、大丈夫。これでも雪国育ちで慣れてるから。ありがとうございます」
 それから間が出来た。八束は家に戻り、封筒に領収印を押して戻ってきた。
「じゃあ、今月分はこれで。ご苦労様」
「……はい」
 頷き、私は南波家を去ろうとする。お互いにぎこちなく、気まずく、上辺でしか話せない。もっともこれが通常の距離間だろうか。
 背を向けた私の背中に、ばしっとなにかが当たった。なにかを投げられた。振り向いて確認すると、コートの背に雪がべったりとついている。その向こうに、こちらを睨んで八束が立っている。手に雪玉を作っていた。
「簡単に帰るな、ばか」
 雪を投げつけられる。ばしん、と私の肩にヒットした。
「あれから全然、来ないし」
 また投げられた。それはコートの裾に当たる。
「ひとりでいる主義とか言って」
 私は雪まみれのコートを払い、数歩近寄る。八束は後退り、こわばった表情を見せた。
「……セノ先生は、隠し事が多い……」
「あのラブホ街の傍のコンビニで一緒だった女性なら、そういう関係ではないよ」
 そう言うと、八束は「肩を抱いてあんなコーナーをうろついてた」と反論した。
「彼女の靴が壊れたから、修理に使えそうなものを見繕ってた。あの人はね、おれの奥さんだった人です。離婚した元妻。いまは結婚して海外に住んでるけど、あの日は帰国ついでに会ってあの近くで食事をしてた。誕生日だったから、祝ってくれたんだ」
「……」
「離婚して全く関係がなくなるカップルもいれば、交流が続くケースもある。彼女とは大学で知り合っているから、おれたちとしてはサークル仲間とか、同期とか、そういう感じが続いてる。旧友を暖める、っていうのかな。それに頻繁に会うわけでもない」
 私は頭を掻いた。
「おれに訊きたいことは、それだけ?」
 八束は目を逸らす。
「おれにも訊きたいことはあるんだけど」
「……まさかあんな場所のあんな場面で遭遇すると思わなかったから」
「そうだね、お互いに。……別れたんじゃなかったの、」
「……」
「また酷い痣ができてないといいな、と思ったけどそれを確かめることまではしなかった。そこまで踏み込むべきではないと思ったし、」
 八束はそっぽを向いて黙っていたが、やがて白い息を盛大に吐き出した。
「難航してるだけ。じきに別れる」
「すぐ別れる相手とは、積極的な肉体関係には及ばないと思うよ」
「言っただろ、身体の相性はいいんだよ。求めが一致してる」
 八束はうつむいた。「全く忌々しい」と呟く。
「僕は自分の身体が嫌いだ」
「だからって傷つけていい理由にはならない」
 私はマフラーを外した。いつでもなにも隠さない八束の首元を、温めてやりたいと思っている。八束の傍に寄ると、今度は逃げなかった。
「もっと言えば、おれは自分の精神が大嫌いだ。弱くて、女々しくて、臆病で、そのくせ気が大きい。とてもじゃないが自信なんて持てない」
 マフラーを八束の首にかけた。
「いつでも殺してやりたいと思っているのに、でもどこかでそういう自分を愛しているんだよ。自分を殺さないためかな。嫌になるね」
 私は背を向ける。背後から「セノさん」と声がかかったが手を挙げるだけで振り向かなかった。
「せめて風邪は引かないように」
 南波家の門扉をくぐって車の元へ戻る。


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「一緒に鍋をつつくあてならあるし。この正月にも鍋やったよ。寄せ鍋だったけど」
「あら、じゃあ私と誕生日を過ごしてる場合じゃないわね?」
「友人で、という意味で」
「そう。そうか。そうね、……それがいいんだろうね、セノは」
 夏衣はキャベツをしゃくしゃくと咀嚼して、焼酎で息をついた。
「人と近過ぎてはいけない。あなたの場合はね」
「ああ」
「いま制作に至れていないのは、なぜ?」
「……」
「小品でもいいから発表してくれないと、私は困っちゃう。浮気して離婚切り出した私が言うことじゃないけど、でもこの離婚は間違ってもいなかったって証明してくれないと」
「過呼吸の症状が出なくなったんだから、間違いでなかったことは証明されてるよ」
「髭で誰だか全然分かんなくなっちゃったね」
「……」
「誰だか知られたくないの? それともこれも自分だって言いたいの?」
 私は答えない。ただ目を伏せる。
 一時間半ほど食事をして、店を出た。誕生日祝いだと言って夏衣が支払いを済ませた。歩きたいと言ったのでコインパーキングに車を置いたままホテルまで歩く。途中、隣を歩く彼女がかくっと膝を折った。てっきり酔っ払ったのだと思いそちらを向くと、「折れちゃった」と夏衣はブーツのかかとを上げた。ヒールがぷらぷらとぶら下がっている。
「おおっと」
「やだもう、気に入ってたのに。ちょっとセノ、肩貸して」
「歩ける?」
「なんか痛いなって思ってたのよね」
 近くのベンチに彼女を引っ張り込み、靴を脱がせた。ヒールが根本からぽっきりと外れており、釘が飛び出ていた。この釘が中敷きを圧迫して彼女のかかとを刺激していたようだ。このままでは中敷きを貫通して刺さる。
「これじゃ歩けないな。車取ってくるからここで待ってられるか? ホテルまで送るから」
「これしか履く靴がないの。直して」
「道具がない」
「応急処置でいいわ。明日、空港のリペアに持ち込めるまで保てばいいから」
「おれ靴の専門家じゃないんだけどな」
 私は笑った。それから辺りを見渡す。何十メートルか先にコンビニエンスストアが煌々と明かりを灯して営業していた。なにかあるかもしれないな、と思う。
「ここで待ってろよ。ちょっとコンビニ見てくるから」
「えー、こんなところでひとりで待たせるの?」
「こんなところって」
「そっちの路地、いきなり繁華街よ」
 指をさされた方向を見る。確かに狭い路地にネオンが光っている。肩を抱いて歩くカップルも見る。なるほどネオン街、と思う。
「分かったよ。肩こっち」
 夏衣を抱き抱えるように支え、つっかえつっかえ歩き出す。コンビニだったら生活雑貨のコーナーが有効だろうと思ってその棚を見たが、見た途端にぐらぐらした。さすがネオン街近くのコンビニ。性行用のラテックスが種類豊富に揃っていた。
 それでも私は、この隣の女とセックスしようとは思わない。むしろラテックスも修理素材として使えるか、なんてことを現実的に考えた。コンドームを巻きつけたらさすがに猥褻になるのかな。そういうコンセプトアートがあって、作者が訴えられて表現の自由と論争になりそうだ。
「あ、これ使えそうじゃない?」と夏衣が手を伸ばした先、別の方向から伸びた手とぶつかった。ごめんなさい、と夏衣は口にする。手を伸ばした男は無言で頭を下げた。その頭がきらっと白く光って私は咄嗟に男を見た。
 八束だった。八束も私に気づく。視線が一瞬絡んで、お互いを認識する。
 八束の背後にいた若い男が、「ぼけっとしてんじゃねえよ、おっさん」と八束に耳打ちした。八束は私を見ないままスキンをひと箱取って、足早にレジへと向かった。
「セノ?」
 夏衣が私を覗き込む。いや、と私は頭を打ち振って夏衣の手にした絆創膏を受け取った。
「つかえそう」
 他にもものを買い足し、レジを通して店を出た。夏衣を引きずるようにしてコインパーキングまで戻り、座席に彼女を座らせて、後部座席に押し込んだ工具箱を漁って靴を直す。
「さっきのコンビニ、知りあいでもいた?」と彼女は私の手元を見ながら訊ねた。
「どうして」
「あれから黙ってるから」
「いや、」釘の部分に私はコットンを貼る。「知人に似てた気がしたけど、気のせいだった」
「そう」
「こんなもんでどうだ」
 テープとクッション材でいったん仮止めした靴を夏衣に履かせる。彼女は「良さそう」と言った。しっかりと固定すべくビニールテープを取り出してぐるぐると巻く。
「見てくれ悪いけどいまはこんなもんだ。修理店まで保てばいいけど、明日朝イチで靴屋に飛び込んだ方がいいと思うけどな」
「いいの。ありがと。こういうところはさすがだね。ウィルじゃできない」
「彼、苦手?」
「アイディアマンだけど、手先はぶきっちょ。セノの器用さには敵わない。まあ、敵ってる人見たことないけどね」
「ホテルまでこのまま送る」
 車を走らせ、ホテルで彼女を降ろした。歩けていそうなので中まで付き添うことはやめた。あっさりと別れ、私は家路へ着く。脳裏に浮かぶのは先ほどの八束だった。
 先日の正月、彼は酔っ払って私に性癖を打ち明けた。彼は乱暴な男と付きあっているという。情はなく、別れる、と言っていたが、酔いの席での発言の真意は怪しい。
 あの後ろにいた男。蛇みたいに細い目と身体の印象が残っている。若い男だ。ホストか黒服でもやっていそうな印象だ。まともな職業ではないように思う。
 あれが乱暴者の男なのだろうか。それとも別れて、今夜新しく遊ぶ相手なのだろうか。分からないけれど、八束はコンドームの箱を購入して行った。あの路地の先の歓楽街で一夜を過ごすのだろうか。
 たどり着いた家は、冷え切っていた。ストーブを着け、湯を沸かす。大鍋にたくさん沸かした。それをたらいに入れ、足先を突っ込みながらタオルを浸し、身体を拭う。途端に鳥肌が皮膚を走る。
 乱暴者の男と、どう遊んでいるのだろう。以前は縛られた痕があった。今回もそうされるのだろうか。殴られたりしていないか。あの痩せた身体に痕がつかないか。
 ふと私は、自身を拭う手を止めて、私の腹を、腹の先にある股や性器を、腿を見た。
 浅黒く、太く、体毛の覆う、男の身体だ。八束は多少は違うだろうが、それでも同い年の男だ。若い女のやわな肌ならともかく、いい年した男の身体をどうこうして喜ぶ嗜好は私にはない。けれどあの蛇の目の男なら八束に施す気がした。サディスティック極まりない方法で。じわじわと食い締めるように。
 八束はそれを喜ぶのだろうか。望んでそうされたいとしているのだろうか。身体に施される苦痛を、愉悦と捉えてふるえるのか。性器を漲らせ射精するのか――どんな顔で、どんな声で、どんな吐息で。
「――っ」
 気づけば私のてのひらは白く汚れていた。湯でぱちゃぱちゃと流す。夜の倉庫、湯あみをしながら私は八束に興奮したのだ。自分の胸や腹が忙しなく動いているのを見るのが嫌で、タオルで拭って早々に着替えた。
 いま、なにを考えた?
 嫌悪感がこみ上げる。八束に対してではない。他ならぬ自分に対してだ。胃のあたりがひやひやとして、そこを思い切り拳で殴りつけた。
 こんな場合ではない。
 こんな場合ではないのに。


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「こっちはあったかいわね」
「寒そうだけど」
「ファッションよ。コートの下は薄いドレスだし」
「ホテル直行でいい?」
「結構よ」
 彼女のスーツケースを持ち、駐車場へと戻る。一応掃除ならした車に乗り込んだ夏衣は、ぽつっと「運転手ありがとね」と言った。
「鷹島くんも来ればよかったのに、ってみんな言ってた。だから言ってやったの。『藍川(あいかわ)先生の退官記念パーティならともかく、それ以外で受賞パーティなんて、そんなところにあいつが来ると思う?』って」
「確かにね」私は笑った。「あの教授――いまは名誉教授だっけ、におれの作品が評価されたことはなかった」
「古い人だったのよ。古い人だったけど、立ち回りは上手かったの。だから文化勲章よ」
「今回の帰国は夏衣だけ?」
「家族とはこっちで用事を済ませたら台湾で合流する予定なの。いまホリデーだから」
 車はどろどろと幹線道路を走る。指定されたホテルで夏衣を下ろし、一時間後に再び迎えに来る約束でホテルを去る。
 旧姓・灰枝夏衣(はいえだかい)。鷹島夏衣を経て再び灰枝姓に戻った彼女は、現在は再婚してカイ・ウォーレンとなった。建築事務所在籍中にウォーレン氏と知りあい、再婚に至った。六歳と四歳になる子どもがいる。ロンドン在住で、会社からは独立した。建築士のウォーレン氏と事務所を立ちあげ、多忙な日々を送っていると聞く。
 説明するまでもなく、私の妻だった人だ。結婚生活は三年。
 今回の夏衣の帰国のもっとも大きな理由が恩師を祝うパーティへの出席である。美術学部の学部長まで勤め上げ、私の作品を「安易」「未熟」「勢いだけ」と評した人物が、このたび長年の功績が認められて文化勲章を受賞した。その祝賀パーティである。都内の大きなホテルの宴会場でひらかれたらしいパーティは、私の実家にも招待状が届いたらしいが、母親に処分を依頼している。出席者は総勢何人になったのか。関わった学生すべてに招待状が送られていたとしたら恐ろしい数になったはずだ。みな第一線で活躍している人間ばかりだろう。いい思い出もなければ、自身を誇れる活動もない。行く理由はなかった。
 そして彼女がパーティ会場の都心からわざわざ特急でこちらへ出向いたのは、私と会うためである。食事をしましょう、と連絡が来たのだ。だってほら、あなたの誕生日だから。結婚記念日で、離婚記念日だから。
 店のチョイスは夏衣に任せてある。普通、離婚した男女が会って食事に出かけるのは不貞に値するのだろうか。私にはよく分からない。けれど彼女は私を気遣ってくれているのだ。「よき友人として」「ひとりで誕生日を過ごすであろうあなたを祝う」。
 一時間後、夏衣はラウンジでコーヒーを飲んでいたが、格好は日本に溶け込むようにゆったりめのニットにスキニータイプのジーンズに変化していた。
「西川が教えてくれたの。もつ鍋の店。セノのことだから高級な店は好みじゃないでしょう?」
「西川とまだ連絡取ってるんだ」
「わりとしょっちゅうね。日本のトレンド知るならあいつは便利だから。行きましょ」
 夏衣は極薄のダウンジャケットを羽織り、ホテルを出て車に乗り込む。夏衣のナビゲート通りに車を走らせると、店にはすぐに着いたが駐車場が空いていなかった。夏衣を先に降ろし、コインパークを探す。
「こんなことならホテルに車置かせてもらえばよかったね。歩いて来られる距離だった」と合流した彼女は言った。
「そんな靴で歩けるのか?」と私は彼女の履いているブーツを指す。ヒールの高いショートブーツは、もはやどこのブランド品なのか分からない。夏衣は完璧な笑みを作る。
「連れが来たら料理運んでくださいって頼んであるから。飲み物は?」
「烏龍茶だな。すみませーん」
「飲めばいいのに」
「日本の飲酒運転の罰則規定が強化されたの、知ってる?」
 間もなく店員がやって来て、私はソフトドリンクを頼む。夏衣には焼酎の水割りが運ばれた。料理も追加され、そっと杯を合わせる。
「Happy Birthday, Seno」
「サンクス」
「これ、プレゼント。ていうかお土産ね」
 そう言って彼女が寄越した紙袋には、王室御用達の菓子と紅茶の缶が入っていた。「ウィリアムが買って来てくれたのよ」と旦那の名前を出した。ここの夫婦はそういうところに変な感情が入り込まない。ビジネスパートナーとしての面もあるせいかもしれない。
「おれもあるんだ。お土産。てか、願掛けだな」
 コートのポケットから私は小さな紙袋を取り出す。初詣で買った鈴だった。
「あら、チープな可愛さね。梅の柄、てことは菅原道真?」
「初詣で近所の天満宮に」
「子どもよりウィルが喜ぶわ。いまなんかオリエンタルなものにハマっててさ。オークションで梨材の衝立なんか落としちゃったり」
「ああ、だからホリデーに台湾か?」
 目の前にはもつ鍋がぐつぐつと煮えていた。プリプリとした弾力と独特の油分が美味しい。店もほどほどの混みようで、苦痛がない。いい店を選んでもらったことが分かった。
「誕生日に、元妻ともつ鍋なんてね」と夏衣は漏らした。「色気はないわね」
「分相応でいいよ」
「制作、進んだ?」
「……全く」
「まだ抜け出せないのね。発作は?」
「それは起きてない。もう大丈夫なんだと思う」
「やっぱり結婚生活のストレスか」
 夏衣は呟き、焼酎の水割りをお代わりした。
 夏衣との結婚生活は、はじめは順調だった。お互いが自分のことしか見ていなかったから、単なる同居人としか認識していなかったせいもあるだろう。だが気づけば荒れ果てたデザイナーズマンションの一室を目の当たりにして、ある日突然、一気に、私は力が抜けてしまった。もしくは力んでしまった。これを結婚生活と呼べるのか? 
 まず家の片付けをはじめた。整理整頓、掃除。シーツやカーテン、カバーの洗濯。取り替え。整えた部屋で私は料理をこしらえた。一般的な和食だった。仕事から帰る妻を待ち、共に食事を取った。彼女は忙しく食事を取ったが、沸かした風呂には浸かってくれた。
 以降、私は学校の仕事から帰ると作業場ではなく自宅を整えるようになった。ハウスキーピングに腐心したし、生活の改善にも努力した。彼女がストレスなく仕事に出かけられるように努め、帰宅した妻にはマッサージなども施した。それですっかり比重が変わり、気づけば私は作品に向かわなくなっていた。
 あの時の絶望や焦燥を、いまでもはっきりと思い出せる。
 こうしてこのまま家庭を守って暮らすのか。一生涯をこうやって安穏と過ごすのか。
 気の遠くなるような思いがした。大きな木にチェーンソーや鑿で向かっていた私はいまやどこにもない。この先もない。もう一生、ないのか?
 作品制作への依頼は重複してあった頃だし、出したいコンペもいくつもあった。だがそこに向かえない。作品制作へ至らない焦り、安定への満足感と反する失望。周囲からの新作への期待。プレッシャー。ついに私が発症したのはパニック発作、過呼吸の症状だった。
 心療内科にかかり、カウンセリングと投薬治療を行なった。経過はよくならず、そのうち行くのをやめた。薬のせいで身体がだるい。仕事も辞めざるを得なくなった。
 そんな私を見て、夏衣は言った。
 ――そんなに作品を作りたい?
 濁った目で私は頷いた。
 ――それはね、あなたにとって業なんだろうね。安定を手放さないと、ひとりにならないと、あなたは作品を完成させることはできないよ。セノ、別れよう。私は私で生きていける。いい人もいるのよ。ごめんね、慰謝料はふんだくっていいから。……私じゃあなたに添えない。もしかしたらあなたに添える人は誰もいてはいけないのかも、……いまあなたはひとりになるべきよ。
 それを聞いて私は――安心してしまった。確実に荷重が抜けた。喪失であり、安堵であった。
 もう彼女を大事にする安定した日々は諦める。けれど野望を追い求めていられる。
 それは彼女の言うとおり、私の業であった。
 離婚して私はしばらく旅に出た。身軽なうちに見たいと思うものを見た。そうして離婚から一年して、ミナミ倉庫に住み出した。南波家の面々と知り合ったのはこの時期だ。
 大きな川のある町で心機一転、やれると思った。けれど相変わらず作品発表には至れていない。
「前よりは楽だよ」と私は烏龍茶を口にして答えた。


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二.


『あれ? 出身がSってことはさ。セノくんも地元に帰ればあんな口調で喋るの?』
 正月特番も通常に差し掛かった頃、南波家でついていたテレビを観ながら四季に訊ねられた。テレビの中では四十七都道府県をあちこちめぐる旅番組が流れており、ちょうど私の地元S県の観光地に芸人が訪れていた。
『んー、あんまりならないかな。親はもともと東京の人間だしね』
『そうなんだ』
 すると黙ってみかんを剥いていた八束がこちらを見た。初詣の日以降、八束は私への視線をあまり隠さなくなった。まっすぐに抜かれて私は背筋を伸ばす。
『大学進学で東京に来たんだっけ』と彼は訊いた。
『いや、院試の時だよ。大学はFだった』
『あれ? Fってフツーの国立大だよね? てっきりセノくんは美大かなんかの出身なんだと思ってたのにな?』と四季が頭を傾げる。
『Fで先生になる勉強してた。美大に進学したのは院の時だよ。教員免許持ってるから、四季ちゃんの学校でも教えられるよ、おれ』
『えー、うっそぉ』
『めちゃくちゃ頑張ったから、美術と理科を教えられる。高校美術と工芸と書道も』
『うそでしょぉー』
『ホント。前は高校で非常勤やってたこともあるし』
『出身Sで、大学がFで、大学院が東京で、いまはこの町で』
 八束は臆さない目を向けた。これが彼の素の瞳なのだろう。
 なんて潔い、と私は見入る。
『結婚生活は、どちらで?』
『結婚は……』
 パァン、と汽笛が響いて我にかえった。目の前を特急列車が通過していく。やかましかった遮断機の警報が止まり、バーが上がる。私は慎重に安全確認をしてアクセルを踏む。
 結婚生活はこの町ではなかった。あの頃の私は高校の非常勤をして生活の糧を得ていたが、妻の仕事先の都合で非常にアーバンな場所で生活をしていた。
 妻とは大学院で知りあった。彼女は学部生だったが、歳は私よりふたつ上だった。デザイン科にいた彼女は卒業と同時に建築会社のインテリア部門に就職した。会話に長けた人でセンスは常に最先端を掴み、会社ではばりばり出世して、私よりもずっと自立していた。
 私が進んだ大学院は、国内で唯一の国立の芸術大学だった。非常に倍率が高く、浪人生がほとんどを占める。美術教育の専攻だったとはいえ美大ではない大学からの大学院進学はちょっと異例で、しかもストレートでの進学もまた異例だった。大学院では私が最年少だった。
 大学院――居心地は悪かったが、しがみついた。私の作品は「精神性が安易だ」と教授陣には酷評されたのだ。だったら院試で落とせばよかったのになんで入れたんだよ、と思いながら、とにかく集中した。すればするほど教授たちには認められなかったが、作品の人気は出た。院生でありながら多くのファンがつき、彼らのほとんどは若い世代だった。
 このままのスピードを落とさぬまま制作を続けられれば、私は彫刻家としてやってゆけるかもしれない。ひと握りの人間になりたくて、なんとしてでも掴み取ろうと必死だった。いまは非常勤でやっている仕事もやめて、ゆくゆくは作品一本で、コンスタントに発表して評価を得られれば。
 それが崩れたのは、妻と結婚してからだった。
 妻はよき理解者というわけではなかったが、お互いの利害関係は一致していたと言える。子どもは出来ればひとりかふたりぐらい、でもいまは仕事に集中したいの。家事は分担でね。お互いの活動に夢中で、無関心だった。少なくとも結婚当初は。だから結婚したのだ。
 お互いにお互いのことに熱心だったから、気づいたら家はとてつもなく荒んでいた。
 車を駅のコインパーキングに入れた。特急の止まるターミナルまで来たのは久しぶりだった。そもそも普段は電車を使わず、車移動が主だ。八束と飲みに行く際には車を置くが、近場で済ますので電車では出かけない。だから交通系のICカードも持っていない。
 ターミナルとはいえ、さびれた駅だ。車を降りて待合室への階段を上がる。喫茶店でもあればよいが、それすらもない駅だった。それでもターミナルという性質上か、様々な身なりの人間とすれ違う。
 待合室のだるまストーブの傍の座席で、夏衣(かい)はスマートフォンをいじっていた。驚くべきことに毛皮のコートを着ていた。どこそこブランドの最新だ、とでも言うだろうか。それとも蚤の市で見つけたヴィンテージのお直しだ、とでも言うだろうか。
 私に気づいた夏衣は、「やだ、まだそのコート着てるのね」とつまらなさそうな顔をした。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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