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「鷹島燿子」から荷物が届いたのは、次の週末だった。やけに重いと思ったら、中身は本だの、実家宛に私へ届いた郵便だの、食材だの、色々だった。これがいいかな、と品をいくつか選び出し、紙袋に納め直す。それとKでの土産と家賃を携えて、南波家へと車を走らせた。あと数日で七月、という時期だ。梅雨の真っ最中、よく降る雨で川は増水していた。車の後方、バックミラーに一台の軽自動車が映る。そっとため息をつき、わざと遠まわりして路地をちょこちょこ走った。
南波家にいたのは、大家と四季だった。大家が出掛けていないことはちょっと珍しい。「すこし早いのですが来月の家賃を持って来ました」と告げると、大家は「お上がりなさい」と屋内へ私を招いてくれた。
「あ、セノくん」
「四季ちゃん久しぶり」
四季は、居間の広いテーブルに勉強道具を広げて学習の真っ最中だった。英単語帳や数学の予習ノート、歴史の資料集など、見たところ五教科をまんべんなく学習している様子だ。「四季」と大家が声をかける。「セノくんから家賃を受け取ったら私は出かけるから、ご飯をご馳走してやんなさい」と言う。
「セノくんも食べて行けるだろう。今夜は八束の戻りが遅れるようだからいてくれるとありがたいんだ」
「私は構いませんし、こちらこそありがたいですけど、……お出かけはどちらに?」
「集合郵便受けが壊れているからと店子から連絡があってね。様子見と、場合によっては修理の手配」
「そうでしたか。あの、お気をつけて行かれてください」
「なにかあるかな?」
「いえ、……なんとなく」
家賃を渡し、領収の判子が封筒に押される。大家は用件だけ済ませるとさっと出掛けてしまった。四季は勉強に集中していたが、南波家の戸棚と冷蔵庫を勝手に探って冷たい麦茶を出すと、ようやく顔をあげた。
「ありがと。セノくんと夕飯は久しぶりだね」
「キッチン借りていいならおれが作ろうか。実家から送られて来た食材を持って来たんだ。いつかの弁当のお礼。土産もあるよ」
「あー、そうそう。ヤツカくんが『セノさんところでご飯食べるからお弁当作って』って言い出した日ね。セノくんいないから勝手に家入っちゃった。お弁当どうだった?」
「美味しかったよ。嬉しかった。ありがとな。あの後不審者はどうなった?」
「見かけない。ヤツカくんもおじいちゃんも警戒して見ててくれたけど、学校や警察に話してからはさっぱり」
「そうか」
ならば、と私はうっすら思う。ターゲットを変えたか。
「お土産ってなに?」
「あのお弁当の日ね。おれはKに行ってたから。車内販売で買ったお菓子で悪いけど」
「え、そうだったの? ひとりで?」
「いや、同行者がいた。いろんな寺院まわってとにかくたくさん仏像彫刻を見て来たよ」
「そうだったんだ。Kってことはセノくん帰省してたの?」
「いや、してない。実家から荷物が来たのはまた別の話だ。たまに送ってくるんだよね。野菜とか米とか。今日持って来たのはチルド品で」紙袋を見せる。
「えっ、コロッケ?」
「あっちの特産の牛肉を使ったコロッケだね。揚げればいいだけ。八束さんと大家さんにはあっちのお酒もあるよ」
「えー、そんなの私とセノくんだけじゃだめだよ。すぐヤツカくんに電話しよーよ」
四季はさっと立ち上がり、家に備え付けの電話機を手にした。登録ナンバーにコールするも、八束は出なかったらしい。「やっぱ仕事中かあ」と頬を膨らませた。
「ヤツカくんにLINE打って。コロッケとセノくんあるから早く帰って来て、って」
「いや、打つのおれなんだけど」
「いいなー、スマホ。私も持ちたいなー」
「そういえば四季ちゃんもえっちゃんもスマホは持ってないよな。学校で禁止されてるんだっけ?」
「一応みたいな感じ。こっそり使ってる子もいるし。何年か前にSNSでなにかが問題になったって聞いた。写真の流出とかだったかなあ。警察入ったらしいよ。だからうちの学校は公には禁止なの」
「でも教材としてタブレットは使うだろう?」
「使うねー。でも自分のスマホでLINEやってみたーい。スタンプって楽しそう」
「おれと八束さんでスタンプ使ったことないけどね」
四季にせがまれて八束にメッセージを送った。「コロッケがあるよ」とだけ短く打つ。四季は「早く帰って来て待ってるわハート、って打たなきゃ」と冗談を言う。ふと思いつき、「えっちゃんも呼んだら?」と口にした。
「んー」と四季の返事の歯切れは悪い。
「喧嘩でもした? 彼元気でいるだろう?」
「喧嘩は……してない。えっちゃんはいま、膝が痛い」
その答えは、意図を図りかねるものだった。
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乗り換えてから少し眠った。十五分程度だったと思う。目覚めて、前の座席にぶら下げた弁当のビニール袋を見る。まだ食べる気は起きなかった。私はどうしたいのだろう。
藍川からの依頼は、率直に嬉しかった。チャンスだと直感した。この経験で、現状から抜け出せるのではないかという期待。院生時代の藍川を思い出す。いつも的確に私を救う指導をしてくれた藍川には、やはり希望を与えられる。他の教授が寄せもしなかった私への期待を、藍川はまだ持っている。それに応えたい。
応えられる力は、私にあるのだろうか。技術的な意味合いなら、持っているのだと思う。私は一スタッフに過ぎない。依頼側が欲しがっているのは藍川が制作した曼陀羅であり、であれば「私」を主張しなくてよい制作現場だ。藍川の手元や手法を院生時代よりももっと濃密に間近で見られるチャンスだ。そう、舞い込んだ幸運。あるいはひとつの試練。
試されている。立ち向かいたい。
「二、三年……五年、」
息の音だけで呟いてみる。あの町から離れるのか。大学を辞めて、藍川のいるTで数年。
その間、ミナミ倉庫は。
八束は?
答えを出せぬまま、電車を降りた。車に乗り込む。町はとっぷりと暗く、ぼんやりしたまま家に着く。暗い倉庫へと進むと人影が横切った。こんな時間にこんな場所をうろつく人間をあまり知らない。八束かと咄嗟に思ったが、暗い影はさっさと立ち去ってしまった。
改めて倉庫の鍵をあけると、私の居住スペースのテーブルの上に紙袋が載っていた。中身はふきんに包まれた弁当で、タッパーに様々なおかずと、おにぎりが三つ添えられている。紙袋の中に動物をかたどった黄色いメモ用紙が入っており、丸い字で『夏になったらそうめんやろうよ( ^ω^ ) 四季』と書いてあった。四季手製の弁当を、おそらく不在だからと合鍵を使って屋内に置いてくれたに違いなかった。まさかひとりで来てないだろうな、と忘れ去っていたスマートフォンをようやく確かめる。八束からの不在着信と、メッセージがいくつか入っていた。
〈いまどこにいる? 四季が弁当を作ってくれたからふたりでそっちへ行くよ〉
〈夕飯を一緒に〉
その後着信が二回。
〈留守の様子なので弁当だけ置いとく。勝手に入った。ごめん〉
〈また連絡する〉
メッセージを読んで、そのまま時刻を確認した。二十三時近い。まだ大丈夫だろうかと電話しかけて、手が止まった。いま八束の声を直接聞いたら、私は話してしまう気がする。
今夜、上手に黙秘していられない。
通話をやめて、メッセージを打った。
〈ごめん出掛けてていま戻った〉
〈弁当ありがとう。明日食べる〉
〈四季ちゃんにもお礼を伝えて〉
〈そのうち今日の土産を渡しに行くよ〉
〈おやすみ〉
弁当はそのまま冷蔵庫へ入れた。さっき車内で買った弁当も一緒にしまう。明日の朝食も昼食も心配がなくなった。
湯を沸かし、顔やら身体やら頭やらを洗っているとスマートフォンがメッセージの受信を告げた。
〈おやすみ〉
簡素な返事を、八束らしいと思った。この人をもっと知りたい、と指が勝手に動く。だがそれは私の芸術にとっては煩わしいことなのだと、脳がアラートを発して痛む。
考えねばならない。話さねばならない。だが私はそれを放棄して、濡れた髪のままベッドに倒れた。
「空海の構想に手を加えて現代化したものを、実現したいそうだ」
「空海?」
「数として二十一体の仏像の製作となる」
「それは――」私は絶句した。「あまりにも、規模が」
「そうだ。とても大きなプロジェクトで、おれひとりでは到底手に負えない。だからアシスタントを雇うし、おまえの他にも声をかけている作家は他にいるよ。おまえがおれを手伝ってくれるのか、どこまで手伝ってくれるのかは重要。仏像の装飾程度の関わりなら外注という形でおまえもいまの勤めを続けながらアシスタントが可能だと思う。もちろんそういう形でも構わない。けれどおれは、おまえにはおれの工房に入って、朝から晩まで制作に携わってもらいたいと思っている。ああ、ギャラは出るよ。ただし安いから、大学の非常勤は少しは続けた方がいいのかと迷う。本音は全て辞めて欲しいがな。二十一体だ、さすがにおれひとりでは難しい」
「藍川先生はいま工房を、どこに」
「退官したから単身赴任やめて実家に戻ったんだ。ようやく。工房はT。ものすごい田舎だが、だから広い工房を持てる。実家の蔵をな、倉庫とつなげて改造したんだ」
「T……」
あまりにも遠かった。このままあの川の大きな町で暮らしながら通いで手伝う、という可能性は消える。
「おまえが工房まで来てくれるなら、住居と食事は保証しよう。住み込みだな。制作スペースもやるから、どうせならいまおまえが抱えている案件も一緒に持ってきたらどうだ。柏木が電話で笑ってたぞ。『鷹島静穏のやる気を入れてやってくれ』ってな」
柏木斎風は藍川からの紹介で知りあっている僧侶だ。通じているのは当然の話だった。
「……やるとして、時期と、期間を」
「時期は、おまえの方で準備が整い次第すぐにでも。制作期間の指定は受けていないが、構想がとんでもなく大きいからな。年単位を覚悟する。一年以内に終わることはないだろう。二年、三年。それぐらいで納品できれば上出来だと先方とは話している。五年ぐらい簡単にかかってしまうようなことも視野には入れている。正直、読めない。手を抜けないから」
「……」
「おまえのいまの生活を捨てろ、とおれは言っている。いますぐ結論は出まいよ」
仁王門で阿吽がぎょろりと私を睨んでいる。その隆々とした肉体を現した彫刻に負けてしまいそうな気がして、私は足を踏ん張って阿吽を見返す。
その後、昼食も挟みながらで新幹線の時間ギリギリまで巡った。K駅では土産を買えなかったので車内販売を利用する。ついでに弁当も買う。「いや、一日だとかなり強行軍だったな」と藍川は靴を脱いで座席に足を乗せ、ふくらはぎを揉んだ。
「……せっかくKまで来たなら、おまえは実家に寄らなくても良かったか?」と訊かれた。
「いいです。明日はまた授業ですから」
弁当を食べる気が失せ、ビニール袋を前の座席にぶら下げた。それから「なぜ先生にこのような依頼があったんですか」と訊ねる。
藍川は足を揉みながら「タイミングだなあ」と答えた。
「立体曼荼羅なんて、鷹島酷夜みたいに仏師を名乗っているわけじゃないんだからおれは専門外だ。けれどおれの作品を見てくれたっていう人がね、おれに制作依頼を推してくれた。前話として関係者の会合の場を持ったんだが、そういのは仏師の仕事なのではと言ったおれに対して、『昔から仏像を彫るのは仏師だけだったんでしょうか』と問い返されてしまった。確かにそうなんだよな。鎌倉時代あたりでは僧侶の身分になって仏像を彫るっていう集団が出来た。運慶とか快慶だな。けれど近代なら高村光雲は仏師でもあるが、上野の西郷隆盛像の方がよっぽど皆に親しみが深い。彫刻家が仏像を彫って悪いことがあるわけじゃない。それに、依頼主の話じゃこうだ。『どの時代に作られた仏像も、その時代の流れで作られた仏像です。新しい時代の仏像は新しい時代に生きている人間が彫るものです』。それはさ、おまえのところに薬師如来を作って欲しいと頼んできた柏木だって思ってることだろう。人が見たいと思っているのは、おれが作った仏像で、おまえが彫った仏像なんだよ」
「……」
「だから時間がかかってもいいと言われて、ならば真剣に打ち込めるだろう退官後でお願いした。それが今年なんだ。時期が来たからおれは作る。な、タイミングだろう」
言われて、私は神妙に頷いた。そして息をつき、窓の外を見た。最後の陽が落ちる時間帯、過ぎてゆく町には明かりが灯る。
T駅まで戻り、藍川とはそこで別れた。藍川はT駅周辺の友人宅に泊まり、明日は大学教授時代に世話になった道具屋に寄るのだという。私はここから先もう少し特急に揺られる。ターミナルまで戻れば、パーキングには自家用車を突っ込んである。旅路はもう少し。
「じゃあ鷹島。おれはこっちで用事が済めば明日には実家に戻る。先に戻っているから、――いい返事を待ってる」
それで藍川は去っていった。私は乗り換えるべく特急の到着ホームへ向かう。
「鷹島にはもう少し時間が必要なんだろうよ」
「……時間が経てば経つほど焦ってしまいます。離婚までしたのに、まだ自分を追い込み足りないというんでしょうかね」
「なにかを成すための、なにもしない時間って大事でさ」
粥の碗とは別に盛られた惣菜の類から煮卵を選び出し、口にしながら藍川は喋った。
「若い頃は、そんなのいらないってばかりに作る。とにかく技術とか感性を追い求めるために必死で集中する。それぐらいの年頃の集中力と吸収率って凄まじくて、休息なんかいらないぐらいなんだ。そしてその時期を超えると、いきなりガクッとなにもしたくなくなる。インプットもアウトプットもしたくない、という時期。多くの人間はここで制作をやめる。ちょうど人間としても熟しはじめていて、仕事を持っている人はなんらかの役職についたりするし、結婚する人もいれば、女性などは子を産む。社会的な地位が上がって来るから、そっちへシフトしてしまうんだ。でもこれを適正に過ごすことこそ重要でね」
私も藍川を真似て卵に箸をつけた。色は薄いのにしっかりと味の染みた、濃厚な煮卵だった。
「そうしている間も、実はなにかを自然にインプットしているんだ。普段聴く音楽とか、移動中の夕焼けだったり、何気なく読む本。そういうものが積み重なって、ゆっくりとアウトプットへ近づいていく。そしていきなり、でも自然に作り出すときが来るよ。これはもう神頼みに近い。いつやって来るかはわからないから、いま出来ることだけこなしてひたすら待つしかない」
「でも、大成している多くの美術家はコンスタントに制作発表をしますよ。自分から取りに行くというか、待つ姿勢ではないというか」
「そりゃそういう『型』がその人の中にもう出来上がってしまっているからだ。経験則とも言えるかな。それにそういう美術家は、やはり商業美術的な側面があることは否めない。芸術活動という仕事なんだ。そうではない美術家は、……鷹島なんかはそうだと思うんだけど、商業とか商売とか関係なしに、自分の感性だけで制作をする。この作品が売れるかどうかは考えない。職業としてはやってゆけないけれど、その分純粋な芸術に向かっていく。もちろん、売れる作家を否定して言うわけじゃないし、鷹島だって本当はそっちへ行きたいのだとは思う。そういうのも分かる」
「……」
「人の数だけ人生がある。十人似た人を束ねて形式化したとしても、そこには個性があるから本当の中身はそれぞれ違う。十あれば十違って当然。鷹島には鷹島の人生で、生活で、制作だ。鷹島はさ、自分の作りたいものを作って、かつ生活が成り立つというマジックってあると思うか? おれはさ、おまえにはあるような気がずっとしてるんだ。院生の頃から思ってて、いま対面してもまだ思う。おまえに商業美術は向かない。当たらないとゴッホのような目に遭う。けどおれは、……おまえにはあとはタイミングだけだと思うんだ」
「……機会、という意味ならおれはもう充分自分に与えているつもりです。それでも、……木材を前に手が止まるのは、どうしてなんでしょうかね」
藍川は箸を止め、正面から私を見た。
「以前は……パニック発作を起こす前までは、土なり木なり金属の中に形が見えていて、それを盛ったり叩いたり削ったりする作業に躊躇いがなかったんです。ずっと頭の中に見ている理想を作り出せていた気がする。いまは手が止まります。イメージがぶれるのか、掴めないのか、……技術がない、ということはないと思うんです。ただ、作りたい形はあるのに、雲を掴むような気分になって、そういうときは頭痛がします。自分のふがいなさを感じ入って嫌になる……それが続いています。ちょっと、思春期の頃のどうしても形に出来ないもどかしくて焦る感覚と似ているようですけど、やっぱり違うから、戸惑っています」
「要求が高いんだろうな」
端的にそう述べ、藍川は茶をすすった。
「いままでは成長していくばかりだったから、老いていくとはこういうことかとおれは自分のことを思う」
「老い、ですか」
「ああ、おまえに全てを当てはめるわけじゃないよ。年齢から言えばおまえは働き盛りで男盛りだし。ただ、若い頃――院生だった頃と同じアプローチを考えていて、その結果が現状であるなら、それはいまのおまえに符号しなくなったということだから、変えるべきだな。変化しないものごとはないからね。農耕民族の癖というか、去年収穫出来たから今年も同じようにやれば収穫できて、蓄えのある変化のない毎日を望んでしまう。明日の心配をしなくて済むのは楽だしね。けれど状況は毎分毎秒違うんだ。おまえも若い頃にはなかった過呼吸を経験してるんだから、それはわかっていると思う。変化への対応だ。また発作が起きるかもしれないと思えば辛いが、対処を知っているなら対応ができる。メンタル系の病気に詳しいわけではないから、あまり偉そうなことは言えないけど」
そして藍川は最後の粥を掬い、口にして、「朝の腹に染みる」と手を合わせて食事を終えた。私も箸を置く。
「話が長くなった。足りたか、鷹島」
「日頃のおれからはあり得ないぐらい健全な朝食をいただきました。普段はコーヒーだけか、食べてもパンとかですので」
「あ、その生活改めてもらうぞ」
「まじすか」
「粥を煮ろ。夕飯はどうでもいいから朝飯はちゃんと食え。そういう話は追々話そう」
会計は藍川が持った。店の前にはタクシーがあり、今日は夕方までこの貸し切りタクシーを利用して寺社巡りをする。
まず向かったのは、日本の中学生なら知らない生徒はいないだろう、というぐらいに有名な寺院だった。車中、藍川に「おまえはこの辺どうなの」と訊かれ、意図が分からずにクエスチョンで返した。
「どう、とは?」
「ここに来たことは?」
「ああ、ありますよ、そりゃ。保育園児の頃から来てます。おれの出身はSですからね。Kなんてご近所さんみたいなもんで」
「あ、そうか。ならもっと別の地域の寺社巡りが良かったかな」
「いえ、懐かしいです。家族でも来たし、学校の校外学習でも来たし、ひとりで来たこともありますから。おれにとっては親しいんですよね、こういう場所のこういう建物や彫刻って。Sにも寺社仏閣が多いせいかな」
「鷹島酷夜の息子だしなあ」
「親父は石彫ですから。そう、父親に連れて来てもらった記憶もあります」
「なら学術的な説明は省いていいな。さっきの『追々』の話をしながら歩こう」
タクシーを降り、参拝をしてから藍川が住職に話を通して寺院の中を案内してもらった。「やあ、ここの薬師如来は見事だな」と仏像をじっくりと眺める。見学の後はまた次の寺院へ、また次へ、ととにかくそこらに点在する寺院をめぐりまわった。修学旅行生でもこんなにまわらないのではないかと思う。
「大日如来とおっしゃいましたね」と私は三つ目の寺院で口をひらいた。
「大日だと密教のトップですよね。金剛と胎蔵とあったと思うんですけど、どちらに」
「お、さすが詳しいな。依頼は金剛だ。そしてその依頼の趣旨は曼陀羅の制作だ。立体曼陀羅」
それを聞いて私は驚く。曼陀羅というと、ありとあらゆる仏が配置される絵図であり、それを立体化したものが立体曼陀羅だ。曼陀羅の図は多く描かれているが、立体曼陀羅はあまり例を見ない。
その後、八束がミナミ倉庫に訪れることはなくなった。ただ連絡は密に行ったので状況の把握は出来た。八束の話だと学校側に話が行き、不審者情報として学校全体で共有されるべきと判断され、保護者に注意喚起のメールが一斉送信されたとのことだ。全校集会こそひらかれなかったものの、教員による巡回は行われるようになった。えっちゃんが入手した車のナンバーも知らされることとなり、見かけたらすぐに連絡すること、と全校に通達がされたという。
〈僕自身は車を見かけたことはない〉と八束はメッセージ上で告げた。
〈もっとも、見回りが強化したせいかも。生徒の話じゃ車の目撃情報は他にも出てきたと言うから、学校側が問題視したんだ。四季もあれきり見かけない、と言っていた〉
〈警察には?〉
〈学校から連絡したと聞いた。警察車両もたまに見るようになった〉
〈警察に情報が行ったなら、ナンバーから車の所有者が特定出来たんじゃないの?〉
〈出来なかった。偽装されたナンバーだったらしい〉
〈怪しさ百点満点じゃないか。大丈夫かな〉
〈まあ、あれから見かけなくなったし〉
〈うーん〉
〈もうしばらくは四季の送り迎えをするつもりだ。僕が難しい日は新村さんのお宅で預かってもらう。ありがたいよ〉
〈四季ちゃん元気? 悩んだりしてないかな?〉
〈自力で登下校しなくてよくなった時間を勉強に充ててる。この間進路調査があって、そのうちテスト結果見て面談もある。進路に思うことがあるらしい〉
〈おれはしばらく会ってないから、またいいって時に飯でも呼んでって伝えて。それと八束さん自身も気をつけて欲しいと思う。大家さんも〉
メッセージを送るだけ送って、私はスマートフォンを静かに仕舞った。足音がして、和室に男が入ってくる。私の向かいの座卓に腰を下ろし、「中庭に鳥籠があって見入ってしまった」と思いのほか長かった離席を詫びた。
「文鳥かな。白くてほっぺたふくふく膨らませてね」
「さっき店員さん来て、前菜の鉢だけ置いて行きましたよ。食いませんか?」
「ああ。待たせて悪かった」
卓に並んだ小鉢を見て、男――藍川は「酒が欲しいところだな」と微笑んだ。穏やかで優しい笑みは歳を経ても変わらず、むしろ以前より柔らかさが増したように思えるのは歳を経たからこそだろうか。
藍川とKに来ていた。朝一番の新幹線でやってきて、現在は藍川と朝食をとるべく老舗の料亭に来ていた。朝だと粥が食える。粥など幼少期の風邪の記憶の際にかすかにあるだけで、もう何十年も口にしていない。それをわざわざ店で食おうというのだから提案を聞いたときは少々驚いた。けれど藍川は「今日は精進料理で行こう」と言うので、それなりの決意や思惑があってのことだと理解した。
六月、朝晩は心地良くても日中はじっとりと汗ばむ陽気だった。曇天から時折覗く太陽が容赦ない。今日この朝粥の後は、そこらじゅうに存在する寺社仏閣をまわる予定だ。藍川の中でプランがあるようで、私はただ付き従うだけである。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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