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「昼だから浅めにしてみた。パナマ・ゲイシャだって。せっかくだから天蜜堂で黒糖の寒天も買ってきたよ」
「いいねえ。ちょっとおれ授業の準備してるから、勝手にやっててくれる?」
「あ、昼なんにするんだ?」
「冷蔵庫に食材入れてあるし、作業机の段ボールの中にも色々と残ってる。見繕って食べたいものがあったら言って。これだけひと段落したらおれが作るよ」
「へえ、大きな箱だな」
「こんな箱でチルド品送られたんじゃたまったもんじゃないんだが、まあ、うちの母親はそういう人なんだ。中身もチルド品だけじゃない。なんつーか、常識を突っぱねてる人っていうか」
箱を探り、八束は「本当だ、本が入ってる」と笑った。
八束は冷蔵庫と箱の中身を見比べて昼食のメニューを選び始める。私は授業の手順を確認した。今日は二年生の授業で、大きな木材を扱う。授業選択者数は八名。場合によってはチェーンソーなど大きくて凶暴な道具を使う。怪我に注意せねばならない日だ。
集中していたため、八束の手が止まっていたことに気づかなかった。
「――さて、昼にしようか。メニュー決まった?」と私は訊ねる。だが八束は箱の前から動かず、よく見れば八束が手にしていたのは実家から送られてきた食材ではなく、箱に貼付してあった配達伝票だった。そこには、S県の「鷹島燿子」から「鷹島静穏」へと荷物を送るように、住所と名前が記されている。咄嗟に、しまった、と思った。こんな形で。
「八束さ」
「……鷹島静穏」
と八束は伝票を読んだ。「宛てに、鷹島燿子から荷物が届いている。ここの住所で」
「……うん」
「なぜ?」
「それは、……」
八束は伝票から目を離し、私の目を見た。戸惑いと驚き、疑い。疑問にも怒りにも取れるため、答えるべきを探せない。
「きみの恩師の藍川先生、……も、きみをタカシマ、と」
「……ああ」
「でもきみは自分を『セノ』だと言い張った。鷹島静穏ではないのに、荷物を受け取れるのか。どうして?」
「……セイオン、じゃないからだよ」
私は観念した。八束が「まだ言うのか」とでも言いたげに眉を顰める。
「見せようか」
私は部屋の隅へ行き、ベッド下に収納してある貴重品の中からパスポートを取り出した。期限は切れていない。それを八束に渡し、「旅券のところ見て」と促す。
八束はページをめくる。いまより若く髭のない私の顔写真とともに、ローマ字表記がされている。「Seno TAKASHIMA」とあり、自著欄には私の字で「鷹島静穏」と記してあった。
「うちの兄弟は、ていうか親父の名前からもうひねくれてるんだけど、癖があるんだよ。兄貴は野原を逆さに書いて『鷹島原野』……これは普通に読むか。でも人につけるって感じの名前じゃないよな。妹は鷹島嵐。音読みでもなんでもなく女の子に『あらし』って付けちゃうような親だからさ。それでおれは、静穏。無風の穏やかな日に生まれたから静穏なんだけど、呼びやすさ重視で読みは『せの』になった。ストレートに読まれないのは昔からずっとそう。大学に入って作品を発表するようになってから、面倒だし通称でいいやと思って『せいおん』呼びを訂正しなかった。そしたら活動名みたいになってた。……それがタカシマセイオン。でも本名は、タカシマセノ。だからおれは、セノで合ってる。あなたが呼ぶセノさん、で合ってるんだよ」
「……」
「急にそんなこと言われても、だよな」
八束が混乱して絶句しているのは分かった。ちいさく息をつき、「どっちでもいいよ」と私は段ボールを漁りはじめる。
「信じてもらえなくても仕方ない。騙していたわけじゃないし、隠していたわけでもないけど、どう言っていいのか分からなくて黙っていたのは本当のことだ。憧れに憧れていたいなら、目の前の男を現実だと受け入れない方が正解かもしれない。とにかくおれはセノ、だから。……昼さ、パスタにしようと思うんだけどいいかな。パスタとソースの瓶が入ってた。トマトとバジルだって」
冷蔵庫の野菜庫を探っていると、「このパスポートじゃ偽造を疑われる」と八束は言った。背後からかかった声は、やっぱり戸惑っていながら無理に声を出している感じがした。
「そんな髭じゃ分からない。剃ったらタカシマセイオンが出てくるって言うのか?」
「八束さんの解釈でいい。でも、黙ってはいたけど嘘はついていない。嘘をついていないっていう嘘だと言われても仕方がないけど」
「なら嘘だ」
「本当」
眼鏡の下に手を滑らせ、顔を両手で覆う。信じない意思かもしれない。私はキッチンでふたり分の昼食を作りはじめた。コンロがひと口しかないのでパスタを茹でてからマッシュルームとベーコンを炒める。パスタとソースを絡めて火を入れて終わり。ラディッシュをパスタの端に添えた。食事の支度は整ったが、八束はソファに沈んで動かない。
「八束さん、食べようよ」
反応はない。
「時間があまりないから、おれはもらうよ」
そう言っても、やはり八束は動かなかった。
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鳥の声で目を覚ましたので、早起きだったのだと思う。カッコウだった。托卵の話を聞くといい鳥ではないかのように思えるが、私はこの時期この鳥の声で目覚めるのが気持ちいい。夢か現実か、よくわからぬ場所で鳴く鳥だなと思う。鶏のような鳴き方をする鳥では、ひと息に現実へ蹴り転がされて、朝の清々しさを痛感して涙が出そうだ。
身じろいで隣を見ると、眼鏡こそ外していたが八束の目はあいていた。「今日、なにするの」と私から訊いた。言葉の発声のはじめがかすれた。
「四季を学校に送ってって……本読んだり」
「昨日借りてきた本?」
「それも読みたいね。……セノさんは?」
「おれ? 授業だよ」
「午後からだろう。午前中は?」
「んー、これで南波家をお暇したら、授業の準備とかメールの返信とか。洗濯もしないと」
「僕がやろうか、それ」
「授業?」と言うが、違うと分かっている。八束は目を閉じたまま笑う。
「洗濯ぐらい。今日は天気があまり良くないみたいだから、コインランドリー使うだろう? あ、倉庫内にロープ張るのか?」
「いいの、本読まなくて」
「洗濯しながら本が読める。あの時間が僕はわりと好きだ」
んん、と考えた。だが八束がやってくれると言うなら、その分雑多なことに充てられる。
「お願いしようかな」
「四季送ってうちの片付けを済ませたらセノさんとこ行くよ。昼までいる?」
「うん、昼飯食ってから授業行く」
「じゃあ惣菜もなにか買って行こうか?」
「うちいま食材あるから。あるもので済まそうかと」
「ああそっか、実家から荷物届いてんだっけ」
「コーヒー豆買ってきてよ。美味いコーヒー飲んで仕事に行きたい」
「分かった」
そこで目を閉じていた八束はそっと目をあけた。起きあがり、眼鏡をかける。
「朝食食べて行ける?」
「なんか南波家には食費を納めないといけない気がしてきたな。いただきます」
「簡単なものしか出ない。じきに親父も散歩から戻って、四季も起きてくる。シャワー浴びてくるよ」
そう言いながら八束は横になっている私の肩に目元を押し付け、「起きたくないな」と静かに笑った。吐息がシャツに染みて熱い。
その身体を抱きしめ、しばらくじっとしていた。
人はひとりの方がよいと考える私と人はひとりにならぬ方がよいと考える八束。
その思考の発生に、あまり差はないのかもしれないと思った。つまり互いに臆病なのだ。
朝食をおさめ、厚く礼を述べて南波の家を後にした。倉庫の辺りを窺いつつ車を停め、周囲を一周してから鍵をあけて入った。変化は特にない。だがこんな場所に、と思う箇所に泥の跡があった。梅雨時のいま、地面はぬかるんでいる。道ゆく何ものの足裏に泥はつく。だがそれは明らかにヒトの足跡だった。先だって危惧していた事柄が次第に輪郭をあらわす。じっとりと表出を窺っているような。
耳をすます。なんとなく感覚を研ぎ澄ませておく必要があると思った。カッコウの声も雨音もしないが、川の音はする。この倉庫に住みだして五年の月日が経とうとしているが、初年に八束から言われたことを私は忘れてはいない。八束は、「ここに住むなら川の音には注意して」と言った。
――近年で堤が切れたことはないけれど、昭和の記録には災害の記録が残っている。増水した川からゴツゴツと大きな石が動くような音がしたらすぐ避難してください。大量の水が動いている証拠です。音に注意を。むやみに見に行くようなことはなさらないで。
これが、この地域の川の歴史を研究し、新旧の地形を知った八束の、そして大家としての、最初の忠告だった。
いまは大丈夫、とゆっくりと目をあける。
下着からすべて着替え、洗濯物をまとめてランドリーバッグに放り込む。授業の支度を整えていると表の扉が叩かれた。八束が顔を見せ、「豆買って来たよ」と紙袋を持ち上げて入室してきた。
「ゲージュツっておれはわかんないんすけど、引き込まれるよって南波がしきりに言うんです。いつか、見てみたいです」
「……ありがとう。大人もね、かなり頑張ってるんだよね」
苦笑まじりに笑っていると、酔いのかなりまわった八束が「なにを頑張るって」と口を挟んできた。大家は食事だけさっと済ませて自室に戻っている。
「あなただって仕事に家庭に忙しい」
「忙しいけど、必ずしも全力で全部頑張ってるわけじゃない。手抜きを覚えたり」
「手なんか抜いてないよ、八束さんは」
「セノ先生こそなんじゃないの、全てに全力なのは」
「あ、えっちゃんお迎え来たみたいだよ」
電話を受け取って四季が口を挟んだので、話題はそこで途切れた。ぐでぐでに酔っていたはずの八束はそれでもさすがで、迎えに来た新村父にはスマートに対応をしていた。
「南波、また学校でな。なんかホント、ありがとう」
「またえっちゃんちにも行くね。おばさんにも会いたい」
「四季ちゃんホントにいい子だなあ。正敬をありがとうございました」
そうしてえっちゃんは帰宅する。
「さて、飲み直しだ」と八束はひらりと身をひるがえして居間へと戻る。
「まだ飲むのぉ?」と四季。
「セノさん、もうすこし付きあってよ。今日はいいものを借りてきたんだ」
八束はいったん二階の自室に下がった。その間に四季とふたりで片付けを済ます。八束はもうすこし飲みたいと言ったが、時間や量からしても明日は一応仕事のある身としては私はやめた方がいいだろうと判断する。四季に水をもらい、ついでに「シャワー浴びなよ」と勧められたのでタオルと風呂場を借りた。
さっぱりして戻ると、八束はキッチンのテーブルに移り、本をめくりながらコップ酒をやっていた。本は、大型の厚みのあるものだった。見覚えのある表紙にぎくりとする。八束は私に気づき、「ビール? 日本酒? ハイボール?」と立ちあがりかける。それを制して水道で水を汲んだ。
「だいぶ飲んだ。おれは明日もあるから、今日はもう終わりだ」
「なんだよ」
「それ、鷹島酷夜の作品集だね」
「お、知ってる?」
向かいに腰かけると、八束は嬉しそうにコップ酒をあおった。
「僕は知らなかった。鷹島静穏のお父さんなんだって。仏師で石彫が専門だって。ていうか、鷹島静穏の一家って芸術家の一家だったんだな」
嬉しそうなまま本をめくる八束に、うん、と相槌を打つ。
「お母さんは菊池燿子。詩人でエッセイストだ。僕も本を読んだことがあったけど、あのエッセイに出てくる家族のことが鷹島静穏だとはまさか思わなかった。鷹島酷夜との間に三人子どもがいて、真ん中が鷹島静穏。お兄さんの活動は知らないけど、妹さんは画家として活動しているらしい。最近知って、今日図書館で色々と借りてきたんだ」
よく見れば八束の足元のトートバッグには菊池燿子のエッセイや詩集もあった。私はグラスの水を飲む。
「きみはどうして鷹島酷夜を知ってたの」と訊かれた。
「――ていうか、そっちの方が有名だから。鷹島酷夜の石彫なら、全国のあっちこっちの寺社で見られるし」
「そっか、きみは仏像彫刻行脚の旅に出かけたことがあったんだっけ」
「F大の学部生の頃ね。でもそれよりずっと前から知ってた」
「ああ、鷹島酷夜の石彫はS県に多いよね。工房があるんだっけ」
「――あのさ、」
食事を作る際に四季に言われた言葉がよぎる。「自分から言った方がよくない?」
「八束さん、おれは――」
「ヤツカくーん」
言うか言うべきかと迷っているうちに、四季の声が割って入った。シャワーを浴び終えて、就寝の準備といった体で歯ブラシを握っている。
「シャワー浴びる? 浴びないならボイラー切っちゃうけど」
「ああ、四季。ほら、これ鷹島静穏のお父さんの作品だよ」
「聞いちゃいねえなあ」
わざと乱暴な口調で四季は呆れている。
八束は四季にぐいぐいと本を見るように勧めた。
「ヤツカくん、シャワーすぐ浴びないならボイラー切るからね。また水浴びて風邪引きましたとかやめてよ」
「で、こっちが鷹島静穏のお母さんの詩集で」
「もー、酔っぱらいめ。セノくん、お布団敷いた?」
四季は居間を見て気にしていたが、私は「勝手がわかってきた家だから自分でやるよ」と笑う。笑っているうちに八束が席を立って私の背中に張り付いてきた。
「セノさん、これがー」
「分かった分かった、分かったから、……八束さん、手が熱いよ。眠くない?」
「眠い。でも本見たい」
「布団敷くから休もうよ。あなた明日も休みなんだろ」
「セノさん」
「なに?」
「セノさん……」
私の名を繰り返し呼び、八束は私の背中からずるっと落ちて床に転んだ。大丈夫かと慌てたが、そのまま寝入っている。四季は心底呆れ顔で、だが「こういうヤツカくんてさ」と八束の寝顔を見下ろして言う。
「セノくんが傍にいるときだけなんだよ。ヤツカくんひとりじゃあんまり飲まないし、職場の飲み会も好きじゃないって言って積極的には参加しないしね」
「……」
「お布団とヤツカくん、任せていい? 私も休みたいから、ここも全部片付けちゃうね」
「ああ……」
四季は「コロッケ美味しかったな」とはにかんだ。咥え歯ブラシのままテーブルを片付ける。私は布団を押し入れから引っ張り出し、二客居間に並べて敷いた。片方に眠る八束を横たえる。八束のスラックスのベルトを抜いてシャツのボタンも外すと、そのまま全裸に剥いてしまいたい欲に駆られて参った。
わざと乱暴に布団をかぶせ、電灯を落とす。
話さねばならない。
勇気がない。
いずれ分かることだ。
でもこの嬉々とした顔を見ていると、どうしていいのかわからなくなる。
「――……人は人といるから惑う」
「なにか言った?」
食器を戸棚に仕舞っていた四季が振り向いた。
「いや、」
私はよく眠る八束の髪に触れた。さりさりと掻くように混ぜる。
「なんでもないよ」
私が揚げ物をしている間に、四季はキャベツの千切りや白米の炊飯などを請け負ってくれた。途中、大家から電話が入る。「おじいちゃん、時間かかるみたい。これから修理に立ち会うって」とのことだ。せっかくだから大家の分のフライも別皿に取り分けておく。
八束とえっちゃんは、同時にやって来た。八束の話では「家の前うろうろしてた」。久々に会ったえっちゃんは四季の言う通りに背が伸びた。身体つきが変わったように思う。そして四季と対面すると、ぎこちなくも「これ、親父から」とビニール袋を差し出した。
「わ、さくらんぼだ」
「店で出してて廃棄直前になってたやつだけど、傷んでたやつは取り除いたし。……呼んでくれてありがとな」
「……んーん、セノくんの発案だから。……でも呼ばれてくれてありがとう」
微妙な雰囲気だったが、悪くはなかった。お互いを思いやって気遣っている風が伝わる。微笑ましい思いでいると、事情を把握していない八束が「なにかあったのか?」とこっそり耳打ちしてきた。
「いや。今日は揚げ物祭りだぜ、って話だ」
「ふうん? きみ、泊まってけるのか?」
「南波家が許すなら。明日の授業は午後からだから、時間に問題はないよ」
「なら飲んでけよ。地酒があるって聞いて楽しみにしてたし、あとは揚げ物ならビールだろうと思って瓶で買ってきたんだ」
「そりゃいい。最高だね」
こうばしいにおいと軽快な音で、次々とコロッケが揚がっていく。玉ねぎのフライの他にも、冷蔵庫にあったインゲンを素揚げする。四季にはえっちゃんの相手をさせて、私の補佐には八束が入った。出してくれた食器にフライを盛り付け、味噌汁も碗に移す。
「フライなら口がさっぱりしたものも欲しいだとろうと思って、商店街の漬物屋で福神漬けも買ってきたんだ」
「いいねえ。ほうれん草の胡麻和えも作ったよ」
「きみにそんな技があったなんて知らなかったな」
「まあ、結婚してた頃は主夫みたいなことしてた時期もあったからね」
中学生らを呼んで居間のテーブルに夕食を並べてもらった。四季は「えっちゃんのお腹鳴りまくってたね」と笑い、えっちゃんは「そういう南波の腹もな」と照れ臭そうに答えた。
大皿に盛られた大量の揚げ物がテーブルの中心にそびえ、周りを副菜や味噌汁の碗が囲む。中学生組には白米の茶碗もある。ドリンクの準備も整い「じゃあ、なんだろう。今日もお疲れ様でした」と、グラスを鳴らす。
「おつかれー」
口にしたビールは、揚げ物で汗をかいた身体に染みる美味さだった。皆でまずはコロッケに箸を伸ばす。口にして「うわあ美味しい。ソースかけなくてもしっかり味ついてるやつだー」と感想を漏らしたのは四季で、えっちゃんも「美味いっす」と瞬く間に消費していった。
中年ふたりとしては、酒のアテで飲んでいるとコロッケはひとつかふたつもあれば充分である。それでもフライは消化された。中学生組が猛撃を見せている。えっちゃんは白米にコロッケを載せて食べ、さらに白米をおかわりしていた。
そのうち大家も帰宅した。思ったより修理が早く済んだといい、席を用意して配膳した。大家はえっちゃんを見て「若い人が家に増えるっていいねえ」と歓迎した。大家が来る頃には地酒もあけられ、成人連中はコロッケよりもそちらに集中するようになった。
「えっちゃん、コロッケ余るからちょっと持っていきなよ」と四季が言った。
「もうじきお迎え来るでしょ? タッパーに詰めるからさ。大人はほら、なんかもうコロッケはどうでもいいから」
「どうでもよくはないんだけど、日本酒はじまっちゃうと揚げ物よりは漬物や胡麻和えなんだよね」と私は口を挟む。
それからえっちゃんの顔を正面から見た。剣道をやっているおかげか、彼の身体には常に正中線が一本入っているような緊張を伴った正しさを感じる。細く撚りの強い糸がピーンと一本張られているかのような。
「美味しかった?」と訊いてみる。
「あ、はい。すごく。おれ五つも食っちゃって」
「いいよ、たくさん食べろ。きみの年代は食べたものみんな成長のエネルギーに使われるから。膝が痛いのは辛いだろうし、そして痛みがなくなった頃きみの身体は変化しているから戸惑うこともあると思う。でもそれは、きみが健康だからだ。膝を痛めることはして欲しくないから、ここはストレスが溜まるだろうけど、慎重に過ごして。また剣道ができるようになるから、そのための休息の期間だ。最近、おれが尊敬する人が言ってた。なにかをなすためのなにもしない期間は大事だって。そういうことでいいんじゃないのかなと、思う」
「……はい、ありがとうございます」
えっちゃんは俯いていたが、やがてこちらを射抜く眼差しで「セノさんの作品、すごいんだって南波から聞きました」と言った。
「前に言ってたやつ? 成長痛じゃなくて?」
「そういうのだと思う。実際背も伸びてる。けど、部活の練習も試合も制限されてるから。それがずっと続いててストレスが溜まってる」
「ああ、そうか」
「えっちゃんってさ、すごく身体の軽い人なんだよ。なんていうのかな、ひらひらしてる。『えっちゃん』ってあだ名がつく前は『マサル』って呼ばれてんだけど、マサタカのマサとサルをくっつけて『マサル』だったわけ。そのぐらい身軽なの。そういう身軽な人がさ、重たい防具つけて竹刀を振り回す。えっちゃんの剣道の試合ってすごいよ。相手の動きみんな読んで、すぐかわしちゃう。正面切って竹刀を受け止めたんじゃ重量で敵わないって分かってるから、とにかくすばしっこく動いて最小限の動作で相手の攻撃をかわして、最小限の力で技決めちゃうの。相手もあれ? って思っちゃうような繰り出し方。見ててすごく夢中になる。そういうえっちゃんを格好いいと思うし、私の彼氏なんだよって嬉しくなる。だからそれをやるなって言われてるいまのえっちゃんは見てて辛い。やっても身体が成長途中なのは多分、いままでと動き方が違うってことだろうから、戸惑うだろうし、苛々もすると思う。そういう人にどういう言葉かけていいのかわかんないし、私もやりたいことがあるから……最近は、ちょっと」
「ふむ」私は顎に手を当てて考える。
「このあいだの昇段試験も受けられなかったから、……どーすればいいんだろう。男の子って分かんない。私は気にすることがあったらまず喋るけど、えっちゃんもヤツカくんも黙る。セノくんもそう?」
「人による。よるけど、……そうだね。話しかけて欲しくないかも。自分の中で延々と考えるんだ。答えが出るまでは黙って手を動かすかな、おれは」
「そうだよね。喋ってるうちに忘れちゃうとか、喋ってるうちにすっきりするとか、きっと違うんだよね。……私、黙ってる時の男の人って怖いと思う」
「……」
「いままであんなに親しく喋れてたのに、急に怖くなるの。緊張する。ヤツカくんも、えっちゃんもそう。セノくんは話を聞いてくれるけど、ヤツカくんやえっちゃんに感じる親しさと違うっていうか、やっぱり他人だから、こういうことも話せるんだけど、……分かんない。うまく言えない」
「いいよ。おれはほら、所詮は南波家のイチ店子だから」
知らないおじさんだ、というと、四季は難しそうな顔を緩めてすこし笑った。
「それに日頃は四季ちゃんほどじゃないけど、若い人と接している。具体的な指導までするわけじゃないけど、こういう話し相手みたいなところは経験があるんだ。その経験から言うけど、きみの感じている『異性への怖さ』は、ざっくり言ってしまえば思春期だからなんだと思う。正常に発達している証拠だ。そしてね、多くの人はこれを経験して超えてくよ。おばちゃんまで行くと、そりゃもう怖いものなんかないようだし。男性の方がよっぽど臆病だろうね」
「……そうなの?」
「うん、きっと。だから黙ってしまう異性を怖いと思うのは、経験を積むことでいつか薄れる感覚なんだと思う」
「……」
「でも怖いのはいまだから。いま怖いのに未来の話をされても、と思うだろう。そういうときは第三者を巻き込むのはアリ。ものすごくアリ。だからさ、今日だったらおれがいるから。えっちゃんに電話してみなよ」
そう言うと、四季はパッと私の顔を見た。縋るように泣きそうだったが泣かなかった。
「コロッケあるから夕飯食べに来ない? って。もちろんおれはこの家の人間じゃないから、おれが主導するわけにはいかないけど。でも八束さんや大家さんならえっちゃんを許してくれるんじゃないかな」
四季は黙った。しばらく黙ってから、やがてぽつっと「電話してみる」と答える。
「おれ、キッチン借りるね。支度するよ。冷蔵庫も漁っちゃうけど」
「あ、キャベツあるよ。冷蔵庫の野菜室」
「オーケイ」
私は持参した食材を手に、キッチンへと向かう。背後からやがて電話の声が聞こえて来た。えっちゃんにはつながったらしい。そしてしばらくして、「えっちゃん、来るって」と私に告げた。うん、と私は頷く。
「ちょうど八束さんからも連絡あった。これから帰るって。えっちゃんの件も連絡しとこうか」
「……ありがと」
「コロッケたくさん送られて来たから、たくさん揚げるよ。他に揚げて欲しいものある?」
「あー、玉ねぎのフライが食べたい」
「分かった。あとはおれに任して勉強してる? 手伝ってくれる?」
「……手伝う」
そして四季は突然、エンジンのかかった車であるかのように身体中に力をみなぎらせた。健康な十四歳の肉体にみるみるエネルギーが巡っていくさまを目の当たりにして、私は大いに感動した。美しかった。このモーションは南波家特有だろうか。八束にも折に触れて目にする動きだ。もし中学生だった八束にもいまの四季のような瑞々しさで備わっていたとしたら、私はそれを傍で見たかった。
四季はテーブルを片付け、エプロンをつけた。このエプロンは誕生日に八束に買ってもらったのだと言う。漂白された白が美しいリネンだった。「セノくんに対抗したんだよ」と四季はフライ用の鍋の準備をしながら言った。「セノくんの私の中一の誕生日と入学祝いをようやく知って、そういう『センスのいい贈り物』をしてみたくなったんだよ。いままではテキトーなお菓子やおもちゃだったんだから」と言う。
「おれの身近なものを使って欲しかっただけだよ」
「梅雨が明けたらじきにヤツカくんは誕生日だよ」
「おっと」そうだったな、と電話機の横にかかっているカレンダーを見る。まだ六月、けれどじきに七月。終われば八月が来る。
そのころの私は一体、どこでなにをしているのだろうか。
「ヤツカくんにもセノくんのセンスのいいプレゼント、してあげてね。私じゃやっぱり、資金力がないから敵わない」
「おれも潤沢にあるわけじゃないよ。でも覚えておく」
「鷹島静穏からのプレゼントだって知ったらヤツカくんは鷹島静穏の髭にくっついてた木屑でも大切にしちゃいそうだけどね。まだ言えてないよね、名前」
「そうねえ」
「もういい加減にばれると思うよ。それより先に自分から言った方がよくない?」
「そうねえ」
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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