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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「おじさん、すみません」
「四季ちゃん、無事だな? とりあえず安全な場所へ避難できたんだから上出来だよ。ええと、この方が店子の方で、大学のセンセ?」
「はい、セノくんはあっちこっちの大学で教えてて。大丈夫です、信頼できる人だから。うちのヤツカくんなんかね、セノくんと仲良くて、誰よりも大好きなんです」
「こんな倉庫にお住まいの方がいるとはなあ」
 三人で喋っているあいだに私は改めて新村父のためにコーヒーを入れた。カップが足りなくて、自分が飲みさして冷えていたコーヒーのカップを洗った。そのうち間もなく八束もやって来て、場は一気に賑やかになった。
 保護者同士の話が背後から響く。南波家の近くに停まる不審な車に関して、八束は全く気づかなかったという。あまり無理もない話だとは思った。車がどういう行動を取っているかはまだ不明だが、八束は仕事帰りにまっすぐ家に帰ることをあまりしなくなっていたし、休日は逆に家からほとんど出ないからだ。本に没頭するあまり。
「気づいてやれず、姪の話も聞いておらず、保護者として情けない有様で」と八束は新村父に謝罪したが、新村父は「息子が四季ちゃんを構いすぎとるだけですわ」と軽く笑った。
「それより南波さんが気づかれてないとなると、やはり四季ちゃんを狙ってのことかな」と彼は言った。
「四季ちゃんかわいいもんなあ。スタイルが良くて美人だ。なんでうちの正敬とつるんでるんだかさっぱりわかんねえもんなあ」
「親父、うるせえよ」
「まあ、こうなるとひとりで登下校はあまりさせない方がいいでしょう。四季、明日からは僕も車で通勤することにする。朝は送って行こう。ただ、問題は帰りだな」
「そんなのうちに任せてくださいよ。うちは自営ですから、なんなら南波さんがお帰りになるまでうちで預かってもいいです。あ、おじいさんがおひとりになるんでしたか」
「それはありがたいです。父に関しては元気な老人ですし、父ひとりの方が実は人の往来はあるんです。父の友人ですとか、店子の面倒ですとか」
「問題がないようならそうしましょう。あ、すみません電話だ。女房です――もしもし」
 新村父は電話に出て、しばらく喋っていた。八束は四季やえっちゃんに不審な車や人物への心当たりがないか再確認している。私がこの場にいる必要性を感じることはなかったが、八束がたまに私の方をちらりと目線だけ投げよこすので、私はそのたびにそっと目を閉じてただ頷いた。なにを了解しているわけではないが、状況への理解を示す、という意味だ。
 通話途中の新村父が「四季ちゃん、これから学校の先生が話を伺いにうちへ来るそうだ」と言った。
「南波さんにもお話したいそうです。ですので、ひとまずうちへ移動しましょうか。帰りは南波さんのご自宅まで私が送りましょう」
「ありがとうございます。なにからなにまで、」
「じゃあセノさん、一時的な避難場所をありがとうございました。私ら、行きますね」
「この倉庫は学校との中間にありますから、避難場所にならいつでも頼ってください。大学の授業さえ終われば大概はここで作業してますし」と告げた。
「いやあ、ありがたいですね。ま、これからです、これからこれから。じゃあみんな、車乗って」
 車に乗り込む前、八束は私にビニール袋を差し出した。中身はコンビニで購入した弁当やお茶が入っている。
「どうせきみ、食べてないんだろう。こんなんですまない。後日ちゃんと礼はする」
「そんなのはいい。ただ、この先のことは気になるから、連絡をくれると安心する」
「それはする。するけど、しばらくここには」
 私はそっと八束の背に触れた。
「これから大変だと思う。時間がなければそれでいい。おれはここにいる」
「……ああ」
 新村父の車に四人収まる。ウインドウを下げ、四季は「ごめんね、セノくん」と申し訳なさそうな顔をした。
「いいからさ。早く解決するといいね。いまは不安だろうけど、きみには信頼できる大人も恋人もいる。大丈夫だから」
「うん。……ありがとう」
「それじゃあいいかな? セノさん、お世話になりました」
 車は鋭くクラクションを鳴らし、来た道を戻って行った。まだ今夜は長いだろう。だが私は外部の人間であるので、これ以上は関われない。
 パソコンの元へ戻り、電源を入れ直す。今度はメールをひらいた。
 私は外部の人間で、私には私の生活がある。いくら八束が恋人だったとしても。
 メールの最後に記されている番号を、スマートフォンでプッシュする。数コールで相手が出た。
「――夜分にすみません、鷹島です。メール、拝読しました」
 いまよろしいですかと訊ねると、相手はひっそりと喜びを滲ませた声で『待ってたよ』と答えた。

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 無事を安堵した。「南波、います?」と訊ねる。私はあえて微笑み、「きみを待ってたよ」と部屋に招き入れた。
「四季ちゃんから話を聞いてたところ。不審な車があるそうだね」
「あ、そうっす。おれも機動力があるわけじゃないんで、ちょっと遠目に見てただけなんすけど……今日は親父からデジカメ借りてたんす。それで遠くから写真撮りました」
「お手柄。だけど危ないな。こっちおいで。なにか飲み物出そう」
 私と共にやって来たえっちゃんを見て、四季は泣きそうな顔で立ち上がった。
「えっちゃん」
「南波、ここまで大丈夫だったか?」
「多分大丈夫……」
 会話をぽつぽつと交わす中学生らを横目に、私はグラスに炭酸水を注いだ。八束のアドレスに「四季ちゃんとえっちゃんを預かるから仕事が終わったら連絡して」と短くメッセージを送る。それからふたりの元へ戻った。
 四季には八束に連絡をした旨を告げ、えっちゃんには「きみもご家族には連絡した方がいいんだけど」と言う。
「あ、おれんち今日のことは知ってます。南波に相談されたとき、親には言ってあるんで」
「きみがデジカメを借りた理由も?」
「はい。本当はスマホ渡したかったらしいんですけど、学校はスマホだめだから」
「じゃあとりあえずおれのを貸すから。ご家族には一報入れよう。もっとも、おれはきみらの保護者ではないから充分に得体のしれないおじさんだ。帰りはふたりとも送ってくつもりがあるけど、ご家族が疑うようなら迎えを頼んでみて」
「分かりました。ありがとうございます」
 えっちゃんは私が差し出したスマートフォンを受け取り、家族のナンバーを記してあるメモを取り出してその場で連絡をした。途中、替わってくれと言われて電話を替わる。えっちゃんの母親だという女性が「正敬がお世話になっております」と電話口で告げた。
『私がこれから迎えに行きますし、四季ちゃんもおうちに送り届けたいと思います。ただ、自宅に送っていいのかが分からず……』
「先ほど四季さんのご家族には連絡を入れました。折り返して連絡が来ると思います。それまでひとまず、私の元で預かっているか、もしくは公共の施設……人目があるような図書館ですとか、駅のカフェとか、そういう場所で待機するのはどうでしょうか。新村さんさえ良ければ、新村さんのお宅に避難するのも手です」
 色々と相談しあった結果、四季とえっちゃんは八束かえっちゃんの家族の到着を待つまで私の倉庫に待機となった。改めてふたりを見ると、四季は不安と緊張でぐったりしており、えっちゃんがその背をさすっていた。作業場のガラス窓は大きいためブラインドがあっても外から目につきやすい。私の居住スペースのソファにふたりを座らせた。
「えっちゃん、カメラ見せてくれる? 画像、確認してみようか」
「あ、ハイ」
 えっちゃんに渡されたデジカメのコネクターの口を確かめ、このタイプならケーブルがあったはず、とパソコン周辺機器を収めてある箱を探る。接続はうまくいき、複数の画像がパソコンのモニターに表示された。薄暮の時間でもフラッシュを焚かずにうまく隠し撮りがされていた。画像の編集ソフトを開き、色あいを調節して画面を明るくする。
 南波家の近所、路肩に寄せた黒い軽自動車のバックから撮られた写真だった。ナンバーも読める。乗車している人物の詳細は分からない。ただひとりであること、おそらくはニット帽をかぶった男性であることは分かった。
 不安そうにモニターを覗く中学生らに、「このナンバーや車や、ここに乗ってる人に見覚えあるかな」と訊いてみる。
「んん……ない、かな」
「学校とかで不審者情報を聞いたことは?」
「それもないです」
「そうか」
 画像をカチカチと拡大してみたが、乗っている人物ははっきりしなかった。
「――まあ、冷静に判断すれば、これはまず学校に報告した方がいい。目的がはっきりしないけど、四季ちゃんか南波家を狙ってつけまわしているようなら、警察にも相談すべきだ。えっちゃんが六時で切り上げるまで、この車は動かずにあった?」
「いました。じっと動かずって感じで……通り過ぎるフリで顔でも見えねーかなーとか思ったんすけど、やめました」
「うん、やめた方がいい。隠し撮りだけで充分危険だ。四季ちゃん、今日大家さんは?」
「あ、社交ダンスに行ってると思う……」
「帰りは同じサークルの人に送ってもらえてるんだっけ」
「うん」
「なら大丈夫かな。南波家はわりとばらつきやすい家庭環境だ。家族同士じゃなくても、ひとりにはならない方がいいな」
「え、じゃあヤツカくんも?」
「あの人こそ、……噂したら本人かな」
 私のスマートフォンが鳴動する。仕事を終えた八束からだった。電話に出ると八束は「何が起こってる?」と単刀直入に訊いた。
『新村さんのお宅からも連絡が入ってたんだ。折り返して事情は聞いた。不審者?』
「なんだと思う。いま四季ちゃんもえっちゃんもミナミ倉庫にいるよ。来られる? あなたもあまりひとりで動かない方がいいと思う」
『僕も危ないのか? 中学生目当てじゃなくて、』
「相手の目的が判明しない以上はね」
 八束はいま駅のロータリーでバス待ちだと言う。行き先をミナミ倉庫に変更し、ここへ直接来てもらうようにした。立て続けに着信が入る。こちらはえっちゃんの父親からだった。近くまで来たと言うので電話を持ったまま外へ出る。ちょうど川沿いの道を乗用車が上って来るところで、私は手を挙げた。
「セノさん? ですか?」私とそう年齢も変わらないのではないか、という見た目の男性が車のウインドウを下げて訊ねる。目元も肩の感じもえっちゃんそっくりだった。
「はい、新村さんですね。息子さんたちいますのでそちらに車停めてください。四季さんの保護者の方もじきに来るそうです」
「いや、えらいことに巻き込んでしまって。いま女房に学校の担任に相談させてます」
「ひとまず中でお話ししましょう」
 新村父は器用に車を反転させ、ガレージの空きスペースに車を停めた。彼は私に対して多少警戒していたようだが、息子とそのガールフレンドの姿を認めてほっと息を吐き、「無茶はしてないだろうなあ?」と息子の肩をぱんぱんと叩いた。



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四.


『藍川です/近況と依頼について
 鷹島静穏様
 先月は展覧会に足を運んでいただきありがとうございました。話したいこともあって招待券を送った節もあるので来てもらえて本当に嬉しかった。
 僕はいま大学を退官し、大学勤務時代の片付けを少しずつやりながらとある依頼に取り掛かろうとしているところです。その件で鷹島に話をしたかった。
 N県にあるK大寺から、僕が退官したら制作に取り掛かってもらいたい、という依頼がある。それは大昔の著名な僧侶が構想していながら実現しなかった大日如来の制作をお願いしたい、というもの。規模が大きく、時間も金もかかる大きなプロジェクトだ。アシスタントを探している。それに鷹島を、と僕はこの依頼を持ち込まれた時から考えていた。
 いま鷹島の制作状況がどうなっているのかは分からないが、こちらの話と含めて一度話し合いの機会を設けられないかと思う。鷹島の都合はどうだろうか?
 僕の方は退官したことで煩雑な事務仕事からは解放された。時間は鷹島に合わせられる。受ける・受けないは抜きに、個人的にも一度会って話を聞きたい。連絡を待っている。
 藍川岳
 Mail:takeru-aikawa@×××.com
  Phone:090-××××-××××』


 ため息をついてから、あ、これか、と思い至ってなんとなく息を止めた。妻と暮らして生活のプレッシャーから過呼吸を起こした頃、通ったクリニックで教わった。発作の気配を感じたら、まずは息を止めてください。十数えてから、鼻でゆっくりと呼吸をしてください。常日頃、発作のない時でも行ってみてください。薬を処方せずとも、それで大幅に改善できるはずです。
 それを思い出しながら、十数え、鼻でゆっくりと呼吸をした。別にパニックに陥っているわけではないが、藍川からの連絡はやはり衝撃ではある。まだ藍川は私に信頼を置いてくれているのだろうか。大学院の頃、周囲の教授陣からの批判を振り切って、私の作品を「きみはそれでいい」と肯定してくれた藍川。
 かつ、実に現実的な目線で、私の弱い部分も的確に伝え、それを強化するよう指導してくれた、紛れもない恩師。
 八束に、急激に会いたくなった。電話でもいい。話を聞いて欲しくなった。こういう依頼があるんだけど、どうするべきだと思う? おれはさ、自分の作品もろくに作れないような情けない奴なんだけど、信頼してくれている人が、いるんだよ。
 その人の期待に応えたい気持ちと、応えられるのか不安な気持ちとが、あるんだよ。
 答えは出なくてよかった、というよりも、私の中で答えはすでに出ている。
 ただ八束に話してみたかった。
 そしてそのためには私が「鷹島静穏」なのだと明らかにせねばならないことがまた、煩雑さを極めていた。


「セノくーん」と呼び鈴も鳴らさずに、倉庫のアルミ戸をあけて四季が飛び込んできた。五月の雨が過ぎ去った夕方、制服姿だ。その声音には緊張が走っている。明日の授業の準備をする手を止めて、四季を迎え入れた。
「ごめんね、作業してた?」と四季は不安と混乱を隠さぬままにこちらを窺った。
「いや、大丈夫だよ。学校帰り?」
「うん。えっちゃんと一緒に帰ってて、……じきにえっちゃんも来ると思うけど、いい?」
「いいよ。どうしたの?」
 四季の瞳には、日頃は見えぬ怯えの色が宿っていた。私は四季がやって来た方角などを注意深くめぐらし、四季を作業机の端のスツールに座らせた。
「今日、えっちゃんが言ったからはっきりしたんだけど……」
「どうした?」
「なんか最近、……家のまわりをおんなじ人が見張ってる? 見られてる? ……みたいな感じする……」
 その答えは私の脳内を一気に冷静にさせた。血液の温度が急激に下がる感覚だ。
 四季に水を汲んで渡し、注意深く外を窺いながら「話聞かせて」と言った。
「あ、……ごめんね、セノくん頼っちゃって」
「きみらの年代がそんなこと気にするな。……えっちゃんは? 一緒に帰ってたってのは、学校から?」
「あ、うん。……えっちゃんの部活終わるの図書館で待ってから、歩いて。前に最近家のまわりにおんなじ黒っぽい車を見かけるんだって話をしてて。その車、路駐でじっと停まってること多くて。……それとおんなじ車を今朝学校近くでも見かけたの。えっちゃんがぜってーひとりで帰んなって言って、」
「それはえっちゃんが正しい。いくつか質問をさせてくれ。学校の先生や、八束さんや大家さんにはそのことを言った?」
「……言ってない、」
「それに気づいたのはいつぐらいから?」
「……桜祭りの頃かな」
「車のナンバーや車種は分かる?」
「そういうのはよく、……車は黒の、ファミリーワゴンっていうの? CMでよくやってるようなやつ」
「おれが乗っているようなやつかな」
「もっと小さい。プレートが黄色くて」
「じゃあ軽自動車か。いま、えっちゃんは?」
 その質問に、四季は不安そうに指をこすりあわせた。
「車、……家の近くまで帰ったらあったから。ちょっと様子見てるって」
「えっちゃんはスマホとか持ってるのかな。彼は自転車通学だったよね」
「スマホは持ってない。時間で区切って、後で合流しようって」
「その時間は?」
「六時。もう過ぎてる……」
 四季が声を詰まらせると同時に、ドアフォンが鳴った。瞬時に緊張が走る。「ここにいて」と四季に指示し、表へ出る。自転車を傍らに息を切らせていたのは、えっちゃん本人だった。



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「なんか高いところがいい」と言う。
「ん? 高級料理店ってこと?」
「違う。値段じゃなくて標高が」
「え? 山の上?」
「違う。……眺めのいいところ。この街が見渡せるとか。ああ、でもそういうところって値段もいいのか」
「いや、そうとも限らないと思うけど。……ならちょっと海にひらけた方行こうか」
 地下鉄を使い、結局川沿いの地区に建つデパートのレストラン街へ来た。眺めを重視した結果、デパートによくあるカジュアルレストランになった。ハンバーグからパフェまでなんでもいただける。窓際の席に座れた。
「あ、川」と八束が呟く。お互いにビールとチーズの盛り合わせを注文した後だった。
「ここでも川を見るなら帰って飯食っても変わんなかったかな。昇進祝いって感じじゃなかったね」
「いいんだ。誰かと遠出したのって久々だし」
 簡単な料理とドリンクはすぐに運ばれてきた。よくあるレストランだとしても、冷えたビールグラスの金色は魅力的だった。
「昇進おめでとう」
「……ありがとう」
 グラスを合わせ、ビールをひと息に飲む。渇いた喉に刺激が心地よい。店員を呼んですぐに二杯目を頼む。ついでに料理も他にオーダーした。
「……きみはさ、婿養子にでも入ってたの、」
 テーブルに置いた眼鏡をいじりながら、八束は訊いた。ようやく来た、と思った。
「さっきの藍川先生はきみのことを、タカシマと」
「……いや、」
 私は目を伏せた。顔を突きあわせて語る勇気を探っている。
「嫁をもらったよ」
「じゃあなんでタカシマなの。というか、……セノさんの本名を知らないな」
「四季ちゃんは知ってるよ」
「なんで四季が?」
「南波家の店子の個人情報簿見たからだって。大家さんがあれをめくってるところで彼女は漢字の読み方を覚えたって言ってたよ」
「なんてところで覚えてるんだ」
「タカシマセイオンだよ」
 八束は目をひらき、すぐに疑う目つきになった。
「嘘だ。からかってるんだろ、僕がタカシマセイオンのファンだって知ってるから」
「からかってないよ。からかってはないけど、……そうだね、嘘つきました」
「ばか」
「うん、……タカシマ『セイオン』ではない。セノだよ、セノ」
「だからセノの下の名前」
「お待たせいたしました。生ビールおふたつです」
 また金色の飲み物が運ばれて、あいたグラスはお下げしますとかポテトこちらに置きますとか、そんなやり取りで会話は中断された。喉の渇いた私は間髪入れずにビールを口にした。まだ二杯目なのにまわった気がした。
 向かいでふてた顔をして、八束は息をついた。
「まあいいよ。そのうちきみが寝てる隙に免許証でも盗み見するから」
「きっとすごくびっくりするよ。信じてもらえないかも」
「そんなキラキラネームなの」
「一発で読んでもらえたことはないかな」
 グラスを置き、「セノだからね」と繰り返すと、八束は「分かった分かった」と手をひらひら振る。
「そういえば、会場のお花、すごかったな」と八束は話題を変えた。
「藍川先生という方は、よっぽど人望がある人なんだね。きみだって院のこと嫌がってる風なのに、でもお土産持参してまで母校に足を運ぶんだもんな」
「まあ、すごくお世話になった。教わった技術はどれも無駄じゃなかったし、あの人ぐらいしかおれを評価してくれなかったしね」
「退官と聞いたからもっと歳を取った教授をイメージしていたけど、とても若々しい人だった」
「あれでも娘さんはもう結婚してお孫さんが生まれたんじゃなかったかな」
「すごくモテた?」
「大人気だった」
「やっぱりね。作品も繊細で丁寧で。なんか鷹島静穏の彫刻を連想したな」
 そりゃ直接教わってますから、と心で唱えながらチキンソテーを咀嚼する。
「鷹島静穏もあの大学に在籍してたはずなんだよ」と八束は言った。
「年齢的にきみとかぶったりしないのかな。構内ですれ違ってない?」
「……八束さんはさ、目の前の男が髭剃ったらどんな顔してるのかって、想像したことない?」
 その発言は、八束にすれば藪から棒だったらしい。「え?」と訊き返された。
「どうしたの、急に」
「きっとあなたの好みだから今日はもう鷹島静穏の話しないで」
「……言ってる意味がわかんないんだけど、もしかして面白くないの、」
「別に。いたたまれないだけ」
「妬いた?」
「別に、おれは……」
 またビールを口にする。
「鷹島静穏なんてろくな男じゃないってだけ。……あなたには面白くない話だろうけど」
 自身を省みて、どうやっても評価に値しない。そんなのに憧れを抱きファンだと言ってはばからない八束には目を覚まして欲しいと思ってしまう。だがそれは八束が私への興味をなくすことでもある。それはそれで惜しいと思う自分がふがいない。
 好きなものを否定されたにもかかわらず、八束は嬉しそうに笑った。幼さが透けて見えて、三十五歳とは思えぬ表情にずきっと来た。
「……なんで笑ってるの、」
「いや、……なんかね。セノ先生にもそんな幼さがあるんだな、と思った」
「嬉しいの?」
「いい昇進祝いだよ」
 それからうらうらと食事をして、駅に戻った。土産を選んで夕方遅くの特急で町へ戻る。
 車内で八束はずっと本を読んでいた。だがその表情は明るい。心臓が痛かった。あるいは胃痛かもしれない。そんな人間ではないし、こんなことをしている場合ではない。
 私が仕事で使用しているメールアドレスに「Takeru AIKAWA」からメールが届いたのは、五月のはじめの頃だった。


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今年もお世話になりました。良いお年をお迎えください。




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 大学附属の美術館はまんま大学の構内にある。日頃は大学に所蔵している作品の展示となるが、こういう企画展や個展も大学関係者を優先に行われる。だが大学院を修了して以降、私がこの門をくぐったことはなかった。
 八束は気後れするのか後ろにいたが、入館した際に受付横にずらずらと並んだ花を見て「これ全部贈り物なのか」と訊いた。
「んー、そうね」
「今日、その先生にはお会いするのか?」
「いや、なんにも連絡してないから。見るだけ見れれば」
 受付に菓子の紙袋を渡す。ぜひお名前のご記帳をお願いしますと言われ、私は固辞した。
「八束さん、よかったら書きなよ」
 背後に振ると、八束は怪訝な顔をした。
「書かないの、」
「おれはね」
「でもそれじゃきみが来たんだって先生にわからないんじゃないの」
「わかんなくてもいいから」
 そう言うと八束は目をきつくしたが、それ以上は諦めて記帳した。私は先に会場に入る。
 天井の高い館内に、大きな彫刻作品が適切な距離で置かれていた。日曜日で人はいたが、昼時なのでさほどでもない。人物の胸像という具象もあれば、波打つシーツを木に落とし込んだような抽象もあった。前者は若い頃の作品で、後者は最近のものだ。槌目が分からぬすべらかな作品が多い。私が教わっていた時期に発表された作品もあり、心中で挨拶をした。
 私に追いついた八束が、「想像より大きい」と感想を述べた。
「こんなに大きな木を彫るってこと? 当然だけど素材のうちはもっと大きいだろう?」
「んー、先生は器用な方だから。これ全部が一刀彫りじゃないよ。ほら、ここで木目変わってるの分かる?」
 作品のひとつを指し、近寄った。
「あ、ほんとだ」
「ここで別の木材をつなげてるんだ」
「言われなきゃつなぎ目がわからない」
「同じ樹種を使われてるしね。薄く塗装もしてるから、あまりわからないかも」
「これ運ぶのだって大変だろうに」
「木がほとんどだから、彫刻としてさほど重たいわけじゃない。本当に重いのは野外彫刻によくあるような石彫とかブロンズとかさ」
「ああ、そうか。屋内展示できる重さってことか」
 美術館で個展と言っても、建物の規模はさほどでない。ぐるりと一周し、もう一周して、じっくり見ても一時間程度で見終わった。昼を過ぎて人も増えてきていた。八束に「そろそろ行こうか」と声をかける。
「いいの?」
「腹減らない? 店行こうよ」
「僕はいいけど……」
 八束が言いかけたとき、受付から入り口へと歩いて来る人物と目が合った。白いシャツにチノパンを履いた、白髪がぽつぽつと目立つ男。彼は私に気づき、私も彼に気づいた。咄嗟に逃げ出したい気持ちに駆られる。
「――タカシマ!」
 と呼ばれ、私は知らないふりを諦めた。
「ご無沙汰しております、藍川先生」
 それを聞いた八束が私の顔を見て、相手の顔も見たのが視界の端でも分かった。
「来てくれたんだな。ありがとう。どうだ、元気にしてるのか?」
「ぼちぼちやってます。さっき受付に預けたんですけど、お菓子召しあがってください。ご退官おめでとうございます。お疲れ様でした」
「いや、気を遣わせたな。ありがとう。よかったよ、会えて。というか見違えるなあ。そんな髭は」
「先生こそ白髪が」
「そりゃあ定年退職だからな。ゆっくり話したいんだがこれから学長と話をしなきゃならなくて――おまえ、記帳したか?」
「えーと」
「おまえと連絡を取りたかったんだが、実家の住所しか分からなくてね。話があって――名刺かなんか持ってたらくれないか。改めて連絡をするから」
「藍川センセー」
 私と藍川のあいだに学生と思しき若い声が割って入る。私は「M美大の彫刻科に問いあわせてください」と早口で濁す。
「今日は名刺持ってないんです。いまそこで非常勤やってますんで」
「M美だな。タカシマ、逃げるなよ。悪いな、また次ゆっくり話そう」
 藍川は私の肩に軽く触れ、展示室へと入っていった。展示室内に藍川を呼びながら手を振る若い集団がいて、私はそっぽを向いて出口へと進む。スーツ姿の集団ともすれ違ったが、気にせず歩いた。
 すたすた歩いて、いつの間にか大学の正門も抜けていた。院生時代の癖でそこらを確認せずに歩いていたのだ。八束を置いてきていたことに気づく。門の外側まで戻って待っていると、見慣れた白髪頭が門を抜けて来た。
「ごめん、つい院の頃の癖で歩いちゃった」
「……」
「なに食おっか。それともどっか観光する?」
「……」
「悪かったってば。……とりあえず駅まで戻ろう」
 そう言うと、八束はふっと息をついた。今度は並んで歩き出す。中華、フレンチ、イタリアン、創作、寿司、コリアン、と思いつくままに八束に提案してみる。ずっと考えている(もしくは怒っている)風だった八束がようやく口をひらいたのは、駅前だった。



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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お久しぶりです。短編長編更新。
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