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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 店に入りがけ、日瀧の姿を見かけた。相手も気づいたので軽く手を挙げて挨拶をする。また来てんだな、と暖は嫉妬混じりの微笑ましさを奥歯で噛みしめる。よっぽど店が好きか、ピアノが好きか、音楽が好きか、鴇田が好きか。――そのどれもか。
 だが日瀧の方は慌てていた。連れがいたようだと分かったのは日瀧が傍にいた長髪の男になにやらひと言ふた言断ってこちらへ小走りにやって来たときだった。
「――いまはまずいです。おれも店にと思って来たんですが、さっきそこで会社の同期にたまたま出くわしちゃって」
「あ、鴇田さんのピアノのこと知らない人?」
「そうです。悪いやつじゃないんですけど、やかましいやつなんで、鴇田さんのことは内緒にしておくべきなんです。……今夜出番ありますよね、鴇田さん」
「うん」だから仕事帰りに来たのだ。
「おれ今夜はこの店諦めてあいつをなんとか撒きます。三倉さんは知らないふりで」
「あなたもなかなか苦労人だな」
 苦笑しつつ暖はそれじゃあと店に単独で入ろうとする。が、日瀧と離れるより先に「ヒタキくんのお知り合いですかー?」と長髪の男が人懐こく近寄って来た。
 日瀧がしどろもどろになるのが分かった。暖はとっさに笑みを作る。
「ええ、というよりは鴇田さんとプライベートで仲良くしてます。三倉と申します」
「あー、鴇田さんのお友達なんですね。鴇田さんにはお世話になっています。会社の後輩の西川と言います」
 西川、という人物については以前すこし言及があったように記憶している。日瀧は慌てながらも「いいから行こうぜ、西川さん」と言う。
「いいじゃん。おひとりならよければご一緒しませんか? これからどっかで飲もうかって思ってて、――ああ、この店。ジャズバーなんだっけ? いいじゃーん。こういうところで飲んでみたかったんだよね」
「いや、ここだめだから!」店に入れば鴇田がピアノを弾いていることは一発で分かる。日瀧は懸命に水際対策を試みる。
「なんで?」
「ここ料理まずいし、わりに高いし、店員の態度も悪いし」
 おいおいと思ったが、曖昧な顔で黙っていた。
「あ、そうなの? でも三倉さんは?」
「あー」もう腹を括った。鴇田には申し訳ないが、行けたら行くぐらいの約束で必ずしも果たさなくていい。「よければ駅前出ませんか? 創作和食のいい飲み屋があるんですよ。旬の魚が美味くてね」
「へえ、いいな。一緒でいいですか?」
「いや、三倉さんは付きあう必要ありませんよ」と日瀧が庇ってくれる。
「鴇田さんいまアパートかなあ。呼んでみる? どうせならみんなで」と西川。
「いえね、予定があるみたいで僕も振られちゃったんですよ。ひとりでどうしようか考えあぐねていたところです。面識のない部外者で構わなければ、こういう縁もあるということで飲みませんか?」
 日瀧はそれでも申し訳なさそうな顔でこちらを見たが、西川は気づかないようで「わー僕そういうの大歓迎」と屈託なく笑った。
「ぜひ今夜はご一緒に」
「では移動しましょうか」
「西川さん、鴇田さんの……知り合い相手に失礼こくなよ。ぜってー調子乗んなよ」
「わーヒタキくんこわーい。緊張してんの?」
 やいのやいのと若者ふたりは賑やかだった。ぞろぞろと駅前まで移動し、あたりをつけていた店に入る。賑やかな雰囲気のよくある居酒屋で、日本酒の揃えがいいのと海鮮を出すわりに安いのが自慢だ。テーブル席に暖と向かいで日瀧と西川が座る。西川はメニューの豊富さに嬉しそうで、とりあえずと言ってビールを注文した。飲めない日瀧だけ烏龍茶だ。
「鴇田さんのプライベートってどんな感じなんですか?」と適当に食事と会話をこなしたころに西川に訊ねられた。西川の隣で日瀧が目だけきつくする。余計なことは喋らない方がいい、の合図だと受け取る。
「仕事と変わらないんじゃないかな。寡黙がちだけど、きちんと受け応えしてくれる。ひとつひとつに誠意があるっていうか」
「あー分かります。鴇田さんってそーなんですよねえ。真面目っていうか、ちゃんとしてるっていうか、ないがしろにしないっていうか。おせっかいとか世話焼きとはまた全然違うんですよね。でもよく見ててくれてるなあって思うんですよ。あと反射神経のよさ」
「へえ?」
「とっさに身体を動かせるって意味だけじゃなくて、判断の早さとか? 正確って感じ。ヒタキくんの方が仕事よく組んでるから分かるっしょ」
「西川さんに比べりゃ誰だって反射神経いいよ。おれだっていいもん」
「ひどいなー。あのねえ、いまは僕の話でもなくてキミの話でもなくて鴇田さんの話したいの!」
 ぐびぐびと早いピッチで西川は飲みながら答える。隣の日瀧ははらはらしっぱなしのようで、必死で話題をそらそうとしている。ちょっと気の毒なぐらいだった。
「三倉さんは鴇田さんの好きな人の話とか、聞いてます?」
 竜田揚げを頬張って、西川は質問をやめない。日瀧が小さな声で「やめとけよ」と制したが、「だあってさー」と西川は気にしない。
「いえ、知らないこともないですけど、詳しくはねえ」と笑みを張り付けて答える。まさか関係者ですとは言えない。
「あー、じゃあ一応はご存知なんですね。あのあとどうなったかは知ってるんですか?」
「あのあと?」
「鴇田さんの好きな人は結婚してて、好きで辛いって何度も伝えてる、のあと。進展? 後退なのかな。分かんないんですけど」
「なあ、本人いないところで話すんのやめよーぜ。探ってるみたいでなんか嫌だ」と日瀧は気が気でない。
「だって鴇田さん飲みに誘ってくんないし。誘っても断られるし。最近ささっと帰るようになったから、なにかあんのかな?」
「そりゃ仕事終わればプライベートで色々あんだろ。あとは西川さんが疎ましがられてるだけなんじゃね?」
「うるさいなあ。なに自分だけいい後輩ぶってんの?」
 あれこれ言いあうふたりを見て、あーなるほどな、と思っていた。聞いた話を照らしあわせるなら彼らの年齢差は四歳ほど。それでもくだけた口調で遠慮なく話す若者らは、やはり「気があう」のだろうと察した。
「鴇田さんの恋は鴇田さんが決着つけるんだろうから、おれらには関係ないだろ? ほっといてやれよ」
「こういうときは関係のない第三者の存在が染みたりすんだよ。あーあ、これだから恋愛経験値のないDTくんは」
「ちょっとそれ言う? こういうところで言うあんたって本当に無神経だからな!」
 それでまたちょっとした言いあいになり、結局のところ日瀧は西川を許すし(呆れているのだと思うが)、西川も日瀧に甘える。不思議な関係だなと思って眺めていると、いきなり西川はふんぞりかえって「カバンの中に三枚」と言った。
「とっておきを見繕って来たから、これでお勉強しなさい」
「ここでやんのやめろよ、三倉さん引いてるだろ」
「いや、引くっていうか、話についていってないんだけど、……なにが三枚?」
「アダルトビデオです。AV。男女、レズ、ゲイと、あらゆる想定を網羅しています。初心者のヒタキくんのために、ソフトなイチャラブにしといたよ」
 にっこりと笑いながら西川はカバンからそれらを取り出そうとするので、日瀧が止めた。
 苦笑しつつ、ゲイビデオを持っている辺りに反応せざるを得なかった。先日来まさに暖が気になって真剣に検討しているもの。「なんでそんなの持ってるんだ」と軽く流しつつ、情報を引き出そうと格闘する。
「ヒタキくんのお勉強用AVです。僕のコレクションの中から厳選したのを貸しますよ、っていう約束で」
「言っとくけどそれ無理やりの押し付けだからな! そもそも相手がいねーんだから放っておけよ!」日瀧が恥ずかしさで顔を赤くしながら西川に抗議する。
「コレクションって、同性愛のものまで個人所有で?」
「あー、僕はどっちもいけるので」
 西川のその告白には暖よりも日瀧の方が驚いていた。初耳だったらしい。
「あれ? 高校の頃に好きだった先生の話したよね?」
「聞いてる。風紀顧問の先生の話だろ。でもあれ、女の先生なんじゃ」
「いや、男オトコ。そうだなー、感じとしては三倉さんぐらいの年齢の人でした」
 懐かしんでいるのか、西川は清々しく笑った。
「女の子とも付きあったし、どっちもいいんだよね。男女とか性差関係なく気持ちよさそうなセックスしてるの見るのが好きなんです――あ、ふたりで見るのがね。だから厳選DVDなら揃ってますよ」
「いまそういう相手がいるんだ?」
「いえ、残念なことにいないんですよー。高校のころの初恋もそうだったけど、なんていうか僕はあんまり恋が報われたことがなくて。お付きあいはそれなりにしてるんですけど、本当に好きな人とじゃなかった、みたいな」
 一変、今度は淋しそうに笑う。「聞かせてよ」と言うと、西川は照れ臭そうに日本酒を口にした。


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拍手[7回]

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 ――いいの?
 ――もうはじまってるからいつでもいいよ。

「これ、伊丹さんか」
「うん。子どもの方が僕です。変声期前っぽいので、小学校の低学年か中学年ぐらいかな」
 やがてピアノが鳴りはじめる。聴こえて来たメロディーはとても耳馴染みのある、よく知ったものだった。たどたどしく、でも一音一音を誤魔化さずに確実に鳴らす。
「亜麻色の髪の乙女」
「そうです。このころはなに弾いてみたい? って訊かれて、これがいいとかあれがいいとか、技量なんて考えずに聴いてみて弾きたいものを教えてもらっていて。ドビュッシーばっかり弾きたいって言ってた頃です」
「ころころした音でかわいいな。あ、止まった」
「うまく弾けなくてここで拗ねるんです。子どもの指ですぐに弾ける曲じゃないんですけど、分かってないから。――恥ずかしいですね」
「ピアノの練習に限らないけど、習い事とか技術の習得ってやっぱり最初はこれ、みたいな教本からやったりするんじゃないの? ピアノだとええと、バイエルだっけ?」
「ああ、もちろんそういう楽譜もさらいました。でもはじめのうちだけでしたね。なんか伊丹さんがそういうのを嫌がってて。自由に弾かせるもんだっていう意見で母親とは一致してたみたいです。自分は散々基礎練習をやってきて多分基本の大切さを分かってる人のはずなんですけど、最終的に自分の鳴らしたい音が鳴らせればいいんだからとアプローチを探ってたみたいで」
「それは伊丹さんにもいつか話を聞いてみたいなあ」
 耳元で少年は名を呼ばれている。拗ねて黙っていたが、何度目かで応えた。

 ――ここおじちゃんの音と違うんだ。おんなじにならない。
 ――おんなじピアノの音だよ。
 ――タタタタン、タタタ、って弾きたいんだけどつまづく。おじちゃんの音はもっと滑るの。
 ――一緒にやってみようか。僕がここで弾いてるから、真似してね。

 オクターブ低い音階で音が鳴らされる。滑らかに、ゆっくりと。その音階の上で同じリズムを少年は試みる。ゆっくり、何度も弾く。同じところを何度も。

 ――あ、

 ゆっくりとだが、オクターブ違う指の動きが一致しはじめた。

 ――ほら、出来る。あとちょっとだよ。もう一回ここから右手だけ弾いてごらん。
 ――うん。

 少年はメロディーを奏でる。そこに低い音で和音が加わった。左手の和音を伊丹が鳴らしているのだろう。右手はかなりはっきりとリズムを持ってメロディーを奏でるようになった。
「なんでこんなの録ったのかな、伊丹さん」ともはや少年ではない男が隣で呟く。身体のこわばりはかなり解けたようで、暖はそっと手を動かし、男の指を取る。
 その手が動いて暖の手にしっかりと絡まったので、安心した。
「どんな理由でもいいよ。すごく貴重な音源だから」
「せめて発表会とかで録ればいいんですけど、僕は教室に通っていたわけではないのでホールで弾いた経験がなくて」
「え、そうなの?」
「知ってるピアノは伊丹さんのところにあるピアノだけです」
 耳の中で少年のピアノがころころ鳴る。短い楽曲はあっという間に弾き終えたが、弾けたことが嬉しかったか、もっと鳴らしたいのか、少年は同じ音を何度も弾いた。やがて左手も加わる。そのうちどっちの手がどこを鳴らしているのか判別つかぬほど音はひとつの曲になった。飲み込みの早さは尋常ではなく、少年の技量よりは持ち前のセンスを感じた。
「……ひとつの経験しかないって、あんまりよくないですよね」と鴇田が呟く。
「どうして?」
「もっといろんなピアノを弾いていればよかったのかなって思うんです。ホールで弾くとか、学校で弾くとか、いろんなピアノの、いろんな経験。僕は伊丹さんの家にあるあのピアノの音にしか興味がなくて、あればっかり弾いてあれしか知らなくて」
「うーん、ピアノからすれば冥利に尽きるんじゃないかな」
「……もっといろんな経験をしていればこんなに悩むこともなくて、あなたに触れたかもしれない……」
 そう言われて、とっさに嫌だなと思った。暖以外と経験のある鴇田。暖と違う誰かに触れてきた手。
「なんでそんなこと言うの」鴇田の手を握り返し、力を入れたり緩めたりする。骨張った手はひんやりとしていたが、熱が生じてしっとりと汗ばんできた。
「おれは鴇田さんが100%でおれに触れてくるのがすごく嬉しいのに」
「……でも、」
「おれはね、鴇田さんがどうしても無理なら、セックスはしないっていう選択肢になっても仕方ないなって思います」
 身体をずらして鴇田の肩に頭を預けた。鴇田は黙っている。
「でもその結論に至るまでには、もっとたくさんのことを一緒に足掻きたい。あなたには触れたい。セックスしたいもん。この身体と、この身体で」
 頬擦りするそぶりで肩を頬で撫でると、繋いでいない方の手が暖の頭に伸びて、やさしく髪に触れた。
「あなたが触りたくないって思うようになるなら嫌だし、そのときはそっかって受け止めるしかないんですけど、そういうわけじゃないでしょう?」
「触りたいです」
「うん。ならおれ以外の人と経験しとけばよかったとか、ましてやこれから経験してみるとか、絶対にやめてください。おれが教えること以外のこと、覚えてこないで」
「……わかりました」
「ならいいよ」
 お互いにイヤフォンを片耳に差し込んだまま、向き合って横になった。鴇田の片腕を自身の頭の下に潜らせ、暖は男の頬に触れる。額を男の顎のあたりに寄せると、首筋のにおいがこうばしく香った。
「……意外と」男の吐息が目蓋に当たる。
「ん?」
「あなたは僕を好きなんですね」と言う。
「いまになって分かったの、それ」
「いつも僕ばっかりあなたを好きだと思ってるせいかな……」
「その勘違いはもう正した方がいい。経緯が経緯なので嫌な思いをたくさんさせましたが、おれはあなたとこうなって後悔はないし、この身体とセックス出来ない結論になったら真剣に悩んで苦しむと思う」
「そうか……」
 耳からは相変わらず少年の弾くピアノが流れている。かなり技巧は上達しているが、ドビュッシーにはまっているようで、そればかり弾いている。
 今日はこれでセックスしましょうなんて流れにはならないよなあ、と内心で考える。自分の野卑な衝動をなんとか堪える。この男は肉のひっ迫感をどうやり過ごすのだろう。暖は前妻と最終的にはうまくセックスが出来なかった。いまはこんなに渇望していて、相手もいるのに、思うようにはなかなかうまくいかない。
 それでも嫌だとは思わなかった。思うようにいかないことなんて、人間が人間と向き合えば当たり前だろう。
 違う人生違う価値観で生きてきて、なぜかいまこうして寄り添って眠っていることが不思議だ。いつかそういうことをコラムに書いてみようかな、と思いながら目を閉じた。


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今日の一曲(別窓)


拍手[6回]

「……キス、しませんか?」
 指を舌で押し出し、そう訴える。間近で見る鴇田の目の黒さにはいつも新鮮な驚きが湧く。瞳孔が開きすぎていて吸い込まれそうに思う。暗い中で暖よりもっといろんなものを見ていそうな、視細胞の多さを物語るかのような目。
「……あんまり強烈な台詞で誘わないでください」
「だめ? しない? 難しい?」
「いえ、……初心者なので刺激が強いと僕は困ります」
「おれだって心臓がもちませんよ。すごく焦りながら誘ってる」
「嘘つき」
「本当だってば」
 吐息が混ざり、混ざったものを飲み込むようにして唇を合わせる。久しぶりの口唇は弾力と柔らかさが気持ちよくて、うっとりと目を閉じた。舌を潜り込ませると同じ動きで鴇田も舌を差し出してきた。ざらざらとこすり合わせて歯も付け根も全部舐める。垂れた唾液はどちらのものか分からず、鴇田の顎から首筋を伝っていく。
 それを名残惜しく追いかけ、舌を這わす。暖の頬から耳を心地よく包んでいたてのひらに力がこもり、外された。
「……やっぱりだめ? 嫌?」
「なんていうか三倉さんばっかりものすごく慣れていて、僕はよく知らないので……ぞわぞわするし、落ち着きません」
「そんなに気にすることないんだけど、……いや、そういうのを気にするのが鴇田さんですね」
 鴇田に笑ってみせる。経験値の差なんて全くたいしたことではない。むしろこちらとしては鴇田のまるごとをそっくり貰っているので、同じものを返せないのが申し訳ないような気持ちだったり、やっぱり嬉しかったりするのだけど。
「ああ、分かった。確かにおれも男同士ははじめてだし、痛いような思いはしたくない。勉強しますか」
「勉強?」
「このご時世は色々と便利で学習も思い立ったときに出来ちゃうね。けしからん世の中です」
 ズボンのポケットに突っ込みっぱなしだったスマートフォンを取り出す。壁に背をもたせ、ベッドの上で鴇田と並んで座り直した。検索サイトを引っ張り出し、試しに「セックス 動画 男同士」と打ち込んで検索をかける。たちまちありとあらゆる動画サイトが示された。いかにもなタイトルのものが並ぶ。
 トップに表示されたものを開けてみる。パッと表示されたのはAVの広告だった。巨乳の女性の乳房の間にモザイクのかかった男性器があり、淫猥な文章で誘導を示す。男同士で検索しても女の子の裸なんか出てきちゃうんだなあ、と不思議な気持ちになる。
 スクロールしてもしてもアダルトな広告で、思うように学習の出来そうな動画にはなかなか行きつかなかった。無料で学ぼうとするとこうなるなと思いながら、それでもかろうじて動画を辿る。再生してみるといきなり大声で男の喘ぎ声がして慌てて音量を落とす。
 うわー、と引いてしまうような内容だった。さすが作り物、という感じ。なかなかに鍛えた体躯の男性にはレザーの首輪と手錠がかけられ、細長いおもちゃを突っ込まれ、ローションまみれの性器を刺激されてやたらと声がうるさい。
 さすがにこれはと思って隣を窺うと、鴇田は完全に身を硬くして血の気の失せた顔をしている。動画の再生を止めてスマートフォンをベッドの端に放り、男の二の腕をそっと擦った。
「いきなりごめん。大丈夫ですか?」
 鴇田は自身の手で口元を押さえた。
「うわ、大丈夫? 吐く?」
「……大丈夫です、すみません」
「大丈夫じゃないでしょう。おれの前で無理はやめてください。ええと、水持ってこようか。というか、離れた方がいいよね」
 そう言って鴇田の隣からキッチンへ向かおうとすると、手首をしっかりと掴まれた。
「大丈夫だから傍にいてください」
「……触れる距離で大丈夫?」
「隣に、」
 さっきまでいた場所を示される。大人しく座ったが、暖から触れることは躊躇われた。
 鴇田はもはや頭を抱えている。戸惑いながらも「水飲みますか?」と再び訊ねる。弱々しい声で「昔から」と返事があった。
「……むらっけがあって。人を許せるような気分になるときと、どうしても許せないとき。そういうときは、例えば相撲やラグビーの試合の映像見るだけでだめで」
「あー、……なるほど」少し分かるような気がした。裸に近いような格好で大した武装もせずに身ひとつで相手にぶつかっていく。ただしそこにあるのは闘志のはずで、いまみたいに性欲からではない。……相手を征服してやろうという気持ちはあるのかもしれなくて、そういう目で見れば鴇田のようなタイプには辛いのかもしれない。
「映画やドラマのラブシーンも辛い。両親にすら嫌悪感が湧いた時期があります」
「……そっか。安易で申し訳なかった」
「謝らないでください。思春期の妙な潔癖が長引いてるみたいな感じで、前よりはずっと楽になってるんです。それに前、あなたに触れたのは嫌なことじゃなかった。……いまのはびっくりしたし、ああいうのをあなたとしたいとは思わないんですけど」
「いや、いまのはね」暖だってめちゃくちゃ引いた。「おれだってしたくないしされたくもないですよ。したこともない」
「……すみません。触れたくないわけじゃないんです」
「いや、おれこそあなたの、触れたいけど触れられない、もしくは触れることに嫌悪があるっていう性質をちゃんと理解してるつもりで全く理解してないんだなってことを思い知った。反省してる。ごめん」
 触れてごまかすみたいなことは、近い関係ならば度々ある。慰めに背に触れたり、握手をしたり。けれどいつもきちんと距離を図らないといけないと思い知らされた。鴇田に対しては常に慎重に気遣って触れる。それがマナーなのだ。
 そっと「触りますよ」と言い、頷いてもらえたので背に手をまわして申し訳なく丸まっている背を撫でた。ただ鴇田に愛情が伝わりますようにと祈る。
 ふと視界にミュージックプレイヤーが映った。先ほどまで聴いていた音楽が停止を免れてまだ再生されている。イヤフォンを取り、鴇田に片方を渡した。片方を自分の耳に当てる。鴇田もイヤフォンを嵌めた。
「――あ、まだタンゴか」
「ループで聴いていたので。……変えましょうか」
「あなたの音源とかないの?」
「ああ、ありますよ。伊丹さんちで録ったのが」
 冗談で訊いたつもりだったので答えに驚く。「小学生のころのやつですけど」と鴇田はプレイヤーを操作する。
「これかな」
 そう言って耳からタンゴのリズムが消える。代わりに流れてきたのは小さな子どもの声だった。


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拍手[8回]

 六月の中旬にまとまって休みが取れた、と鴇田から連絡が入る。平日につらつらと四連休。本人は「去年オーストラリアなんか旅行してなきゃもっと有休が残ってたんですけど」と心なしか悔しそうだった。
「じゃあおれもそこらで申請してみます。行きたいところとかやりたいこととか、考えといて」
『どのくらい休みが取れそうですか?』
「うーん、あなたと同じ日数で取れたらかなりラッキーですので、あまり期待はしない方が」
『分かりました』
 旅行の行き先は二泊三日でIに決まった。



 インターフォンを押したが返事がなかった。本人はアパートにいると言っていたので大方イヤフォンでもして電子ピアノを鳴らしているのだろう。合鍵で部屋に入ると鴇田はベッドの上に寝転んで目を閉じていた。耳からコードが伸び、それはミュージックプレイヤーにつながっている。眠っているわけではないのは、暖に気づいてちらりと目を開けたことで分かった。
 買い込んだ食材だけ冷蔵庫に仕舞い、改めて鴇田のベッドへ近づく。「なに聴いてるの」と言いつつミュージックプレイヤーに手を伸ばすと、そこに表示されている曲名は日本語ではなく英語でもなかった。
 鴇田がうっすらと目を開けて、片耳からイヤフォンを引き抜いた。それを分けてもらって自身の片耳に差し込む。流れ込んできたのは意外な音だった。
「――え? タンゴ?」
 独特の哀愁を帯びたリズミカルな音律。けれど使われている楽器はピアノや弦楽器や管楽器だ。タンゴのエッセンスを掬いあげた交響曲、とでも言うのか。どう聴いてもジャズではない。
「ピアソラ」と答えがあった。
「こないだ店で演奏してたトランペッターがタンゴっぽいアレンジで吹いてたのが面白くて。訊いたらCDを貸してくれたんです」
「いい音だ」
「うん。このままいくらでもジャズに引っ張れちゃいそう。タンゴってバンドネオンの音がそうなんじゃないかってイメージが強いんですけど、実際はピアノもヴァイオリンも使うんですよね」
「そうなんだ」
「要するにダンスミュージックですから、大衆で奏でられればなんでもありなんです。……知ってました? タンゴってはじまりは男性同士でも踊ったそうですよ」
「へえ」
 知らなかったな、と呟きながらそっと鴇田に触れる。絡んだ視線で距離を許されたと理解した。寝転んでいる鴇田の胸の上に頭を沈めた。イヤフォンのコードで繋がっているから、少しだけ聴く分には問題なくても、ちゃんと聴こうとすると身体を接近させる必要に迫られる。いまはコードレスのイヤフォンなんかいくらでもあるけれど、こういうことが出来なくなるから新しく買わないで、と言いたいぐらいだ。
 耳からバンドネオンの音色と共に、鴇田の吐息が響く。
「移民の人たちが不満を口ずさみながら、はけ口として踊ったのが由来だそうです」
「……そういうのが文化のはじまりだったりしますね。風俗って言っちゃうと聞こえが悪いかな」
「いえ、分かります。ジャズもタンゴも戦前から日本に伝わってたそうですから、それだけなじみがいいってことですよね」
「ああ、確かに」
「ジャズって元々はセックスを指す俗語だったって説があります。タンゴでは相手が男でも娼婦でも踊ってた。みんなそういう俗の中から派生してますね。……音楽って、そういうものなんだなって、思う。熱狂したときに叩いた手のリズムとか、憩う中で聞こえた風の音とか。人が生きていく中でどれも自然に発生している。……僕はピアノのAの音が好きなのでよく鳴らすのですが」
「A? いつものあれのこと?」
「はい。ドレミファソラシドの、ラの音。ラの音からABCと数えるんです。オーケストラのチューニングで最初にオーボエが吹く音です。これ、赤ん坊が生まれて最初に出す泣き声の音だって説」
「へえ」
「太鼓の音は心臓そのものだと思いますし。……身体も世界も、動きが生じれば音楽が生まれますね。細胞分裂さえも音律がありそうだ」
 その感慨のこもった台詞に、無性に泣きたいような気持ちになった。情熱的なリズムを奏でるヴァイオリンの音を耳から外して、鴇田の身体の上に重なりなおした。ぴったりと心臓の上に耳をつける。
 力強く速いテンポの、鴇田の心音が響く。これも音楽。鴇田の音楽。
 目を閉じて聞き入っていると、手が伸びて髪をまさぐられた。耳に指が這い、耳朶を親指と人差し指とで挟まれ、こすられる。勝手に呼気に熱が混ざり、体温が上昇したように思う。
「……いまおれも鴇田さんもおんなじこと思ってる」と身体を起こして鴇田の顔を覗き込む。男の目は情感にけぶって光る。
「セックスしてえなあ、って」
「……してみたい。でもやっぱりやり方がよく分かんなくて、」
「もしかしてそれで全然触って来ませんでしたか?」
「不用意に触れたら力加減間違いそうだし、あんたは隣でよく寝てるし。どうしていいのか分かんないから……」
「そういえばキスすらしてなかったんですよ」
「触りたいと思ってたのは本当。例えば……最近の三倉さんはシャツをあまり着ないから」
「ん?」裸でいた覚えはない。
「以前は奥さん手製のシャツだってのを着てましたけど、最近は着ない訳ではないにしろ仕事以外では着ませんよね。いまみたいにカットソー着たり、ポロシャツ着たり」
「元々はそういうのをよく着てたんですよ。そういう方が楽で好きなの。首もとも苦しくないし。でも彼女がシャツの方が似合うって言って作ってくれてたから」
 確かに蒼生子手製のシャツを着る機会はぐんと減った。ものがいいものを無理に処分したりはしなかったが、もう彼女が暖のシャツを縫うことはないし、縫ったとしても暖は着ないだろう。ひとりになって新しく衣類を買い足したとき、久しぶりの感覚に戸惑いながらも自由を感じたことを思い出す。なにを選ぶのも暖の自由。うっすらと寒気を感じるような開放感だった。
「うん、分かります。それで、わりと若いというか、首元の開いた服を着ているなと見ると、そこに触ってみたくなるんです。それも手で触れるよりは、頬とか、口元を当ててみたいみたいな欲求で」
「……そっか」暖にもちゃんと分かる感覚だと思った。ごく初期の症状。これからどんどん境目のない感覚にはまっていく、その手前。
「触ったら求めすぎて止まらなくなりそうで、それも怖くて」
「いいんですよ。そういう順序も、ペースも、なんでもある」
「僕のペースだと、遅いんじゃないですか」
「あなたの、というよりは、おれたちの、じゃないかな。……触ってください」
 再会して以降でまともに触れたのははじめてだった。リセットされて最初に戻ってしまったかのような鴇田のこわばりに、それでも触れたがって動く指に、暖はあやすように唇を押し付ける。感触を楽しむように指が下唇を遊ぶ。口を開けて舐め、甘噛みすると、くすぐったいのか鴇田は息を漏らした。



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拍手[7回]

「日瀧となに話してたんですか?」と訊かれ、暖はうすく笑った。笑うしかなかった。
「……なに、」
「知らないうちにあなたは熱心な信者を作ってたみたいだから、安心したのと妬けたのと半分ずつです」
「信者? 誰が?」
「日瀧くん」
「僕に?」
 真剣に首を捻っている。
「しきりにあなたのことを心配していたし、憧れている風だった」
「憧れるほどのものは僕にはないんですけどね。いつも日瀧とセットで西川っていう新入社員がいて、そいつといるから余計に変な憧れを抱くみたいで」
「西川くん? さん?」
「男です。大卒入社なんで日瀧より年上なんですけど、気が合うようで休憩のときは大体一緒です。でもあれであいつらが信者かと言われると、そういうもんじゃないと思うんですけど」
「あなたに懐きたくなる気持ちはおれも分かるけどね」
 食事の支度でキッチンに向かいつつ鴇田に答える。準備のあいだにゆっくり風呂にでも入ってくればいいと言ったのだが、手元を見ていたいと言って、鴇田はシャワーだけ浴びてさっさと出てきてしまった。
 前妻と暮らしたマンションは食事にこだわりを持つ暖のことを考えてアイランド型のキッチンだった。ひとりとなったいまそんなこだわりはいらないと思って壁に据え付けのキッチンの部屋を選んでしまったが、鴇田がこんなに興味を持つならもう少しこだわってもよかったな、と後悔している。
 暖の手元にあるスキレット・パンの中で、じゅわじゅわとダークブラウンのソースが煮詰まっていく。先ほどまでここで肉を焼いていた。肉汁をそのまま利用したソースは絶対に美味いと請け負える。肉に特製のソースをかけて、あとは仕込んでおいた野菜のたくさん入ったスープと合わせて出す。パンもライスも準備があるので、主食はお好みで。軽い食べ合わせでタコとサーモンのカルパッチョも冷やして準備している。
「冷蔵庫に酒があるんです。好きなの出して」
 そう言うと鴇田は暖の傍から離れ、冷蔵庫を探る。
「あ、スパークリングがある。これいいですか?」
「いいですね。今日は昼間暑かったから冷やしておいて正解だったな。栓抜けますか?」
「やったことはないんですけど、店で伊丹さんやスタッフが抜いているところは見たことがあるので、やり方は知っています」
 その言い分が面白かった。鴇田はスパークリングワインを取り出し、コルクを留めている針金を外す。暖が煮詰まったソースを肉に垂らしていると、背後で「ポン」と軽い音がした。
「あ、グラスありますか?」
「あります。買ったんですよ。そこの引き出し」
「買ったんですか?」
「うん。一脚だけね」
 暖が示したキッチンの引き出しからグラスを取り出し、鴇田は「きれい」と呟く。
「スパークリングワインなら本当はフルートなんだろうけど、タンブラーでごめんね」
「いえ、きれいです。模様が細かくてきれい」
 鴇田はしげしげとグラスを眺める。取材で訪れた骨董市で買い求めたもので、古いものだが値が張ったわけではなかった。よくあるタンブラーの形だが、底から上部三分の一までに模様の入る切り子で、骨董さながらの薄い琥珀色と、ガラスの薄さがいいなと思って買った。
「前に使ってたのはあらかた売ったり処分したりで、この家の食器ってひとり分しかなかったからさ。これを機にあなたと長く使えますようにっていう願掛けの気持ちで買ったんですよ。気に入ってもらえたなら嬉しい。さて、用意出来たよ」
 スクエアのちいさなダイニングにこれだけの皿が並ぶのはこの部屋でははじめてのことだった。鴇田が向かいに腰かけ、切り子のタンブラーにアルコールを注ぐ。
「いただきます」
「どうぞ」
 冷えた辛口のアルコールが胃に染みて美味かった。鴇田はスープを口にして、ほっと息をつく。「美味い」
「去年店で食べたスープの感じで作ってみたんです。あのころの鴇田さんって全然食事をしないイメージだったけど、いまは?」
「食ったり食わなかったりですかね。もともとそんなに規則正しく食べる方じゃなかったので。でもこれは食べます。美味しい」
「よかった」
 暖は微笑み、自身もスープから食べはじめる。肉の焼き加減がちょうどよく、二重丸だなと思いながら食べる。つい苦笑してしまったのは、蒼生子との食事を思い出したからだった。
「……なに?」と向かいの鴇田が首を傾げる。
「いやあ……前の奥さんとの話になるから、せっかくの食事なのに気をわるくしたら申し訳ない」
「気にしないです。聞きたい」
「……おれがよく作ったのは、さっぱりした和食だったんですよ。ひじきの煮付けとか、五目ごはんとか、いんげんの白和えとかね。あんまりにも作りすぎてもうどっかの寺の坊主みたいに胡麻豆腐とか自分で作れるんじゃないかと思うぐらい。だから誰かとの食事でこんな風に肉焼いたの久しぶりだなあって思ったらつい表情に出てしまいました。ごめんね」
「……それは、蒼生子さんが和食が好きだったから、ですか?」
「どうかな? 彼女も好きだったのかは怪しいな。美味しいって食べてくれましたがね。……不妊治療してたんですね、おれたちは。彼女が読んでたハウツー本に、肉料理はなんとかっていう満腹を促すホルモンが分泌されてそれに満足しちゃって性欲が減退するからセックスの前は軽い食事程度に留めましょう、みたいなこと書いてあったんだ。それを信じてね。こういう、満腹になる食事っていう食事を作らなかった。精進料理みたいなさ……いま考えれば本当かよって疑う話です。肉食わないでどうやって力出すんだよって。ベジタリアンかって思うぐらいに食事制限してました。まあおかげで健康診断に引っかかったこともなかったんですけどね」
「……」
「小麦は身体を冷やすから良くないとか、五穀米のお粥がいいとか。突き詰めてもなんの根拠も得られない情報にばっかり左右されてたなって。こうすれば確実に子どもが出来ますっていうものはなかったから、余計に。そういう結果でいまがあって後悔しているわけじゃないけど、あの食事も苦しかったりはしたなって」
「……」
「ごめん、しょうもない話で冷めちゃうね。食べてください」
 ボトルを取り、鴇田のグラスにアルコールを注いだ。けれど鴇田は黙ったまま手が動かない。
 しばらくしてきちんと箸を置いて顔を上げた。男のまっすぐな眼差しが暖に向けられた。
「僕は、肉でも魚でもあなたが作ってくれたものなら喜んで食べます。この料理、どれも本当に美味しいし」
「……うん」
「それであなたが『こっちの方が身体にいいから今日は湯豆腐にしよう』って言っても、食べると思います。それが三日続いても、一週間続いても、あなたが信じて作るなら、食べる。……だから三倉さんもいままでそうだったんですよね。自分の大事な人が信じているから、ひじきや豆も煮る」
「……」
「そういう愛情を間違っているとは思わないです。大事な人との時間を過ごしたいがためだから。でもあんたは苦しかったんですから、やっぱりそれは感情の方向として間違っていなくても、間違いだよって、根拠ないじゃんって、声をあげるべきだったのかもしれません」
 鴇田は再び箸を取る。肉に手を伸ばした。
「だから僕はあんたが僕を思って作ってくれる料理でも、違うって思ったらちゃんとそう言いたいと思います。病気のときに無理して唐揚げ食べなくてもいいけど、健康で唐揚げ食べたいのにお粥食べさせられたらやっぱり納得いかないし。いくら僕のためだよって言われても」
 その例えは暖を苦笑させた。けれどよく分かる。散々苦しんできたから、その教訓があるなら鴇田との関係の中で生かすべきなんだろう。
「うん、あなたは正しい。鴇田さんはいいね。そういうところ、本当にいい」
 鴇田は肉を頬張り、「美味しいです」と答えた。
「唐揚げ好きなの?」と訊ねてみる。
「嫌いな人なかなかいないんじゃないですか? ハイボールと合わせてやりたい」
「ああ、それは間違いない組み合わせですね。今度は揚げるよ。おれの唐揚げはしょうがとにんにくががっつりきくよ」
「人と会えなくなるやつですね。好きですよ。三倉さんの得意料理は、やっぱり肉?」
「いや、意外と中華が上手いんですよ。中華鍋でとろみをつけるのが上手らしくて」
「はは。それもやってください」
「あとはカレーも得意。前妻の前では薬膳カレーをよく作りました。旬の食材とスパイスをふんだんに使った、身体によさそうなやつですね。でも本当は市販ルー使った牛すじカレーとかいうこだわってんだかないんだかわけわかんない方が上手に作れる」
「牛すじなんか飲み屋でしか食べたことないです。家庭でできるもの?」
「いい鍋があると簡単に」
「道具って大事ですよね。うちは母方の祖父母の家に南部鉄器があって、それでお湯沸かすんです。不思議と白湯でも不満ないんですよね」
「分かるな。鋳物はいいよ。手入れが大変だけど、その手間もなんかいいんだよね」
「さっき肉焼いてたフライパン……って言わないのか、も、鋳鉄?」
「スキレットね。そう。安かったわりにものが良くて、あれは前の家で使ってたものだけどさらってきた。彼女の方は重たいから嫌だって言って、使ってなかったし」
「僕がひとり暮らしをはじめて母親に持たされたのはテフロン加工のフライパンだったんですけど、そのうち焦げてひっつくようになっちゃって。使いにくくて、嫌になって、おかげでほとんど料理をしない人間になってしまいました」
「ありがちな話だよね。テフロンはくっつかないって言っていいんだけど、加工が剥げちゃうとだめなんだ。結局のところステンレスだからね。ステンレスは熱伝導率が極端だからすぐ焦げる。でも加工してあればくっつかないし、安く出回ってるし、みんな使いますね」
「うちの母親は猛烈なテフロン信者でしたよ。だからってわけじゃないけど、料理はあんまり上手じゃなかった。ピアノは猛烈に弾けるくせに」
「お母さんはどんなピアノを弾いてたの?」
 夜はとめどなく長い。


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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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短編「さきごろのはる」
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