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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「そうですね。あなたが渡してくれなかったら、鴇田さんとこんなふうにまた飲んでるっていう夜はなかったと思います」
「なんか、すごいすね」
「そうかな?」苦笑してしまう。
「あの、それで……国交が回復したのは分かったんですけど、また頷いて笑ったりするわけですか?」
 今度は意味がよく分からない。
「いやあ、……鴇田さんの気持ちをご存知なんでしょうから、そのー、それでも鴇田さんの気持ちに応えられない、けどこうやってふたりでいる、っていうのは、鴇田さんにとってもあなたにとってもどうなのかなー、と。ひょっとして繋げちゃいけない縁を繋ぐようなものを手渡してしまったのかなーと思っていて、」
「ああ、おれが結婚してる前提の話だね。いえ、おれはこの通り」左手を見せる。「離婚しまして」
「えっ?」
「だからという訳ではないんですけど、彼とはきちんとしたいと思うし、するための努力は惜しまないつもりです」
「……」
「なに頼みますか? 酒はまだ飲めないんでしたっけ。フードメニューもらいましょうか」
 伊丹に頼んでメニューをもらった。だが日瀧はさして目も通さず速攻で「サーロインステーキにパンつけてください」とオーダーすると、椅子を回転させて暖に向き合った。
「――鴇田さんとお付き合いしてる、ってこと、っすか」
 茶化す様子もなく、いたく真面目にそう訊かれた。誰かにそうと告げたことはなかったし、鴇田とも特に確認した訳ではなかった。だが言葉にしてみて決まる事柄もある。暖は頷いた。
「少なくとも彼はおれが好きで、おれも彼のことを大切に思っています。大事にしたい関係です」
「――」
 日瀧は噛みしめるように顔をくしゃくしゃにして、「うわ」とまた最初と同じ苦悶を漏らした。心臓を押さえている。
「すげーです」と言った。「おれ全然コドモだ。すげーな。刺激が強くてなんか、震えます」
 あまりにも真剣に悶えているので、暖は笑った。
「鴇田さんは、あなたに親しいんだね」
「あ、いや、おれがってか、おれたちが勝手になついているだけで、鴇田さんは迷惑に思っているかもしれません。でもおれがあの店に出入りしてたって話をしたら、再オープンでピアノを弾くからって声をかけてくれました。そういうところがまたなんていうか、いいんですよね。そうかあ。鴇田さん、そっかあ」
 腕を組んでしきりに頷く。それから「大人ってすげえっすね」と言って前を向いた。
「鴇田さんって、自分のことを自分から進んでは話さない人じゃないですか」と言った。
「そうかもしれないですね」初対面で喋った時のことを思い出す。暖の質問に痞え戸惑いながらも真摯に答えてくれた、という印象だった。
「それと、人と距離を遠くに取りがちっていうか」
「ああ、そうだね」
「それが、おれが見ていた三倉さんと鴇田さんだと印象が違うんです。いっつもふたりで肩並べて、なに話してんだかとにかく近い距離で酒飲んだりめし食ったりしてた。ひとりの時は存在感消すぐらい分からないのに、三倉さんと一緒だとなんていうのか、えーと、存在が生々しくなるっていうか、人間に戻るっていうか」
「へえ」面白い表現が出たな、と思って相槌を打った。日瀧にもじっくりと話を聞いてみたら面白そうだという記者としての好奇心がくすぐられて、自身に苦笑する。
「三倉さんと一緒にいる鴇田さんは、この人は音楽の神様の使者とかそういう超越的な存在じゃなくて、眠りもするし、食べるし、きっときちんと欲求のある人間なんだなって思うんです。会社に入って鴇田さんがいたのは偶然でしたけど、仕事はこなしてもそれ以上の関わりはやっぱりない人だったので、どういう人だろうってずっと考えていて、……飲み会のときに好きな人がいてしんどいっていう話をぽろっと聞いて、そっかあって思ってました。この人このまんまじゃやっぱり人間から離れそうな雰囲気だったんで、どうにか人間に戻らないかなって。心配だったんです。だからなんていうのか、安心しました。またあなたと一緒で、それもうまくいってて」
「……あなたが一端を担ってくれたんですよ」
 暖はもはやそう言うしかなかった。こんなに後輩から慕われていて、鴇田をひとりにしない人がいてくれてよかったと思う。ピアノをころころと鳴らし続けている男の方を見る。背を丸めて熱心に鍵盤に触れている男の振る舞いが愛おしい。音楽の神様の使者――でも暖といるときは人間。
 いい表現を使うなあと思って隣を改めて見ると、オーダーがやって来て若者は肉にかぶりついていた。
 暖はそれを微笑ましく思いながら音楽に耳を傾け、時折酒を飲む。目を閉じて音に浸り、鴇田を見たくて目を開ける。空腹を満たそうと食事に目一杯夢中になっていた若者は、ある程度腹がくちてふと顔を上げ、暖に「食わないんすか?」と訊いた。
「酒とオリーブだけで足ります? 腹」
「この後約束をしてるから、そんなにはいいんだ」
 今夜の演奏が済んだら鴇田が暖の部屋に来ることになっている。はじめて暖が手料理を振る舞う日だ。部屋に戻ってすぐに食べられるよう、あらかたの仕込みはしてきた。
「約束?」日瀧は怪訝な顔をした。
「約束の中身までは申し上げません。ご想像でどうぞ」
 そう答えると日瀧は察したか想像したか、落ち着かない様子を見せた。
「やっぱ大人っすね」と言う。なにか激しく勘違いをされているような気がしなくもないが、「そのうちあなたもね」と言うにとどめる。
「そーいえば鴇田さん明日の仕事休みだ」とグラスの水を飲み干して呟く。
「あー、そうか。いや、なんかまあ、大人っていいすね」
「日瀧くんに恋人はいないの?」
「いないです。いたこともないので、遅いんですかね、おれは」
「いや、こういうのは人それぞれです。あなたの場合はこれからなんです、きっと」
「欲しいと思ったこともないんですけど、なんかいま無性に恋をしてみたいです。出会いたいなあ」
「出会える出会える。まだこれから充分」
「説得力が違いますよね。とりあえず早く飲酒年齢に達したいです。それでこの店で飲んでみたい」
「いい目標だと思うよ」
「そのときは付きあってくださいよ。鴇田さんと」
「そのときはあなたのいい人と一緒がいいんじゃないかな」
 やがてピアノが止まり、店内でぱらぱらと拍手が湧いた。


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 次に目を開けたとき、部屋は明るく眩しかった。朝日どころではない光がだいぶ高くのぼっている。昨夜の雨雲はすっかり流されてしまったようだ。
 フローリングにじかに敷いた布団の上でしばらくぼんやりして頭を掻く。スマートフォンで時刻を確認すると、正午に近かった。
 そのスマートフォンにメッセージが入っていた。ここにいない鴇田からだ。「仕事なので行きます」とある。鴇田の仕事は朝が早いことを知っている。昨夜あんな演奏をして、あれから暖の部屋へ連れ込んで、話をして、眠ったのは何時だっただろうか。ろくに寝ていないんじゃないかと思い、無理をして身体を動かしていそうな男の元へメッセージを送り返した。
『仕事が終わったら電話をください』
 暖は伸びをして、シャワーを浴びる。今日が休日でよかった。鴇田は出かけて行ったが、若いから無理もきくのだろうかと思った。洗濯機をまわしながら遅い朝食兼昼食を取り、新聞やネットニュースをくまなくチェックして洗濯物を干し終えるころ、電話が鳴った。
「――終わりましたか?」と訊ねる。電話の向こうで男は「はい」と答えた。
『三倉さんは起きましたか』
「起きた起きた。あのさ、今夜。まあ今夜じゃなくてもいいんだけど、めし食いに来ません?」
『三倉さんのところに?』
「鴇田さんのとこに作りに行ってもいいけど」
『食いに出掛けるんじゃなくて?』
 男の台詞に思わず笑みがこぼれた。そうだよなと納得してしまう。いままで暖と鴇田が過ごして来た日々は、そういう時間が多かった。
「おれが料理上手なの、知らないでしょう」
『……知らないですね』
「そういう話をさ、しないで昨夜は寝ちゃったことが惜しかった。全部話そうと思ったら夜が明けても足りないだろうから無理ない話なんですけどね。でも考えてみればいまゴールデンウィーク真っ最中なのに、連休の予定すら知らないなあって」
 連休中はなにかとイベントが多いので、取材に出掛けることが増える。だから暖は通常通りだ。鴇田はどうなのだろうと訊ねると、やはり通常通りだと答えた。そりゃそうだ。遊んでいても働いていてもごみは出る。
『でも、祝日出勤扱いにはなるんです。特別手当がつきます。その分あとで休みも取れるし』
「そうなんだ。じゃあおれもそのころに合わせて休暇申請してみようかな」
『一緒に休みを取る?』どうして? という疑問が付加されている。
「どっか行ってもいいし、行かなくてもいいけど、一緒にいられるからですね」
 そう言うと電話はしばらく沈黙した。ややあって絶句した男が慌てて息を吸う音が聞こえた。
『いや、なんか、その』
「どうしたの?」
『僕はいままで散々ひとりでいたので、……誰か特定の人と予定をすり合わせて一緒の時間を作るとか、お互いの部屋に行き来をするとかの、発想がなくて』
「ああ。鴇田さんに抵抗があるなら、外飲みぐらいからじわじわやりますか? 急いても仕方ないですしね」
『……じわじわ、の先になにがあるんですか?』
「わかんないけど、気持ちがよくて楽しいことだといいですよねえ」
 電話の向こうはまた絶句していた。沈黙の中でどんな考えが巡っているんだろうなと想像するのは楽しかった。
『――再来週、またピアノを弾きに行くんです』と男は答えた。
『そのあとで、あなたの部屋に行きたい。――って、言っていいんですよね』
「ええ、もちろん」と暖は笑って答えた。
「店にはおれも行こうかな。仕事だろうから、片づき次第だけど」
『じゃあセットリストはとっておきにします』
「じゃあおれもその晩は腕によりをかけた料理にします」
『あ、でも再来週まで会えないって意味じゃないですよ』
「分かるよ」
 暖は笑い、名残惜しみながら通話を切る。こういう感覚はひょっとしたら学生時代以来だろうか。鴇田の言うように、特定の誰かと予定をすり合わせて一緒にいる時間を作ること。その人とはまだ、当たり前に傍にいられる距離感ではなくて。
 もちろんここに至るまでの経緯はある。全てがよかったわけではなかった。経験を積んだ分もっとうまくやれる部分もあるし、そうは行かないこともあるのも充分承知だ。
 鴇田と足並みを揃えて歩こうとしているんだ、と思った。



「うわ」と背後から声がした。鴇田とともにバーのカウンターで軽く飲んでいたさなかだったので、ふたり揃って後ろを振り返る。いつかの夜、暖が伝言を託した若者がなんともいえない顔で立っていた。あの晩ははっきりと見なかったからそうと思わなかったが、こうして改めて見ると、格好も、肌の感じも、若いなと思った。鴇田も暖からすれば充分に若いのだけど。もっと世慣れずいきがった雰囲気を感じる、とでも言うのか。青臭さ、とでも言うのか。
 名前を思い出す前に、鴇田が「日瀧」と若者を呼んだ。声が普段よりやや低いことで若者を歓迎していないことが分かる。面倒くさそうだ。
「あ、すみません。お邪魔するつもりはないです。おれはあっちのテーブル行きますんで」
「ああ、そんな気を遣わなくて大丈夫ですよ。というか、自己紹介と先日のお礼をしないといけませんから、よければこちらどうぞ」
 そう言って隣の席を勧めると、日瀧と呼ばれた若者は申し訳なさそうに「でも」と言う。ちらりと鴇田を窺ったが、彼はそれ以上なにもリアクションしなかった。ただジントニックを飲んでいる。
「ピアノ聴きに来たんですか?」と椅子を引いて訊ねる。戸惑いながらも日瀧は「そうです、ピアノ」とやはり鴇田を窺う。
「西川なんかに喋ったりしてないよね」と鴇田はカウンターの正面から目を離さないまま言った。
「言わないです。やつに知れたらおそろしいことですよ。誰にもここのことを喋ったりはしていません」
「ならいいよ。僕はそろそろ出番だから、よければ座ってなにか頼んで」
 日瀧にはそう言い、暖にはちらりと目配せだけして鴇田は席を立った。カウンター内にいた伊丹が空になったタンブラーを下げ、さっとテーブルを拭いて席を準備してくれる。当惑しつつ日瀧は鴇田が座っていた席に腰を据えた。
「ご挨拶が遅くなってしまいました。三倉、と申します。新聞記者をしています」
「あ、日瀧です」日瀧はやけに硬い調子を崩さない。
「改めまして、先日はありがとうございました。鴇田さんに渡していただいて」
「はい、えーと……おれが渡したことで、こうなってる、んすか」
 ピアノに再び向かい、音を鳴らしはじめた鴇田と暖を交互に見て言う。なにを言わんとするのか、はっきりと口にされずとも分かった。


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「ん?」
「この封筒の中身」
「ああ」先ほど若者に渡してもらった殴り書きの草稿だった。
「テナガザルとかいろんなメモが書いてありましたけど、僕にはよく意味が分からないんです。あなたがなにか……いろんな思考をして、いろんなことを考えているってことは分かります。そしてそれは僕に関することだってことも伝わりました。ただ……やっぱり僕には分からなくて、」
「そうですよね」
 暖は息を吐く。
「取材でこの近くの動物園に行ったんです」
「はい」
「いろんな動物の中にテナガザルがいてね。解説文を読んで知ったんですけど、一夫一妻制の動物だとありました。基本的には家族で行動します。核家族です。雄がハーレムを作るような一夫多妻の群れにはならないそうで」
「はい」
「歌で群れを分けます。歌でテリトリーを守りあっている、と言うんでしょうか。歌う動物は他にもたくさんいますけどね。なんだかあなたがピアノを弾いている姿を、というか、あなたはずっとひとつの音を飽きずに鳴らし続けているときがあって、あれを連想したんです」
「……僕は縄張りを主張したくて鳴らしている訳ではないです。あの音が好きなだけで、」
「分かりますよ。そういうことじゃないんですけど……気になって、なんとなく調べてみたんです。図書館とか会社のデータベース使って。そしたら仮説を立てている作家に行き着きました。その作家は発達障害があって、電車にも乗れないぐらい怖がりで臆病で敏感。でも奥さんと子どもがいます。ある一定のテリトリーから出られず、けれどテリトリーの中で核家族を築く。僕はチンパンジーの類人ではなくてテナガザルから進化した、とありました」
 その本を読んだとき、鴇田もそうではないかと思った。
「生涯ただひとりに出会うためにあなたは誰にも触れられなかったんじゃないかと。別にあなたが発達障害である、と言いたいわけではないです。むしろ触れられない点を除けば、あなたはきちんと社会生活を営める自立した大人ですから。ただ、全く誰にも触れられないわけではなかったことはおれが証明しました。たったひとりのためにいままで触れて来られなかったのだとすれば、それはどれだけの愛情を持ち得る人なのだろうか、と」
「……」
「というようなことをコラムに書こうかと思考をはじめたのはいいんですけど、つまり結局のところ、どれだけあなたがおれに距離を許せたことがすごいことだったかを自らで立証するような結論になってしまって。つまり、どれだけあなたはおれが好きだったかっていう、その、……」
 暖は言い詰まる。本人を目の前に話すとなんとも音声にし辛い。
「通常では考えられないようなとてつもない愛情をもって好かれたかみたいなことを……書くことになるなって。こんなのコラムになんか出来るわけないと、」
「それで大きく『ボツ』って」
「……おれなりにあなたのことを考えた結果なんですけどね。載せられないし、照れ臭くて文章にすらしていません」
 終わりです、と宣言する。ローテーブルの上に載ったコーヒーを口にしようとすると、鴇田の指がそっと伸びた。
「……僕の気持ちは、伝わりましたか?」と、真摯な瞳で訊かれた。
「……伝わりました。ものすごく、」
「思い知りましたか」
「骨身までどっぷりと染みこみました」
 言いながら鴇田の指はまだ戸惑っている。それでも暖に触れようとする。伸びた指は暖の左手を確かめ、するりと薬指を撫でた。なにも嵌まらなくなった指はいま、なんの引っかかりもない。鴇田が目を細めた。
「……またあなたに、好きだって言っていいんですよね」
「……まだ好きでいてくれてるんなら」
「好きです。それでもう、……誰にも言い訳や嘘をつかずに、内緒にせず、傷つけずに、あなたに触れていいんですよね」
「……うん」
 鴇田の手を取って指を絡ませる。そのまま自分の頬に当てると、心地よさに身体が湧いた。
 鴇田のために離婚したわけではなかった。夫婦としてすれ違い、道を分けたから縁を解いたのだ。けれどこうして鴇田のことだけに向き合っていられる時間が出来たから、よかったのだと思う。妻に対しても鴇田に対して誠実になりたいと思っていた。いままでたくさんの喜びを与えられた分、返したいと思っていた。
「好きなだけ言って、好きなだけ触っていいんです。あなたが平気なら」
 そう言うと、頬に当てていた手で下から舐めるように撫でられてくすぐったさに笑いが洩れた。
「おれも好きな時に言いますし、あなたが大丈夫なら触ります」
「三倉さんが?」
「え?」
「僕を好きだって言ってくれるんですか?」
 鴇田が目をまるくした。暖は口元を緩める。
「おれの気持ちは伝わっていると思ったんだけど」
「『情』のことですか? それはやっぱり僕にはうまく理解しがたいんですけど、……ああそういえばそれは僕に対して誠実に受け止めたからだよって田代さんに言われました。その人なりの価値観で大切で、情ってのは慕う気持ちで心が動くことだって、……あれ? 言ったの田代さんじゃなかったかな? でもなんか、田代さん含めその辺りの人に」
「え?」驚いて身体をのけぞらせる。頬から手が離れた。「田代?」
「あ、いえ、あなたの名前は出してません。ただ僕が、パートナーのいる人を好きになってしまったという告白をしてしまったから、」
「意外だな……」そういうことを上司らにすらりと言うタイプには思えなかった。
「なんていうのか、飲みの席でほろっと」
「あなたが酔うまで飲むところは見たことがないけど」
 いつどれだけ飲んでもけろっとしていて、平常のままピアノを弾いていた。
「飲んでないんです」と言われる。
「え? 素面で?」
「だからとにかく……あんたのことになると僕はおかしくて……僕じゃなくなる感覚が嫌だったんですけど、」
 鴇田は自身の髪をくしゃくしゃに掻く。せっかく上げた前髪は、中途半端に収まりどころを失ってしまった。
 その髪に触れる。撫で、漉くように髪を引っ張ると、鴇田は猫のように目を細めた。
「……いまでも嫌だと思う?」
「出来ればあなたを好きな自分のことも好きになりたい」
 その意思は暖に好意的に映る。鴇田が自分を責めてばかりいたら嫌だったと思う。苦しみながらも自分を肯定しているところが、この人の強いところだ。
 そこに至るまでにはどんな苦しみがあっただろうか。どれだけ悩み、自問して、そのたびに答えを出してきたのだろう。その工程のことを考えると暖は嬉しさと同時に淋しさも思う。ひとりでそんな境地になんか行ってほしくなかった。それは触れられない人生を歩んできた鴇田なりの処世術なのだと思うと、ますます淋しい。
「じゃあ」と気を取り直して鴇田の頬に触れる。
「おれはとにかくあなたをたくさん肯定して、限度額いっぱいまで触ることにします。本当はね、離婚してもうしばらく恋愛とかどーでもいいやって思ってた。あなたとは音信不通になってしまっていたし。けれど手紙をもらって、演奏を見て、あなたを大事に思う気持ちでいっぱいになった。田代のいう『心が動く』です。鴇田さんには最初からそうだった。だから自分も含めてあなたを大事にします」
 そう告げると鴇田はうっすらと目を細めた。
「気持ちのいい関係になりたいと思います」
「テナガザルみたいな?」
「うん。まあ、おれは歌えない上に、何度目かで申し訳ないんだけど」
「いいです。僕はそういう過程を踏んできたあなたが好きです」
 鴇田は笑った。裏表のない素直な言葉が嬉しかった。嬉しい、と口に出来ることすら嬉しかった。


 軽く揺すられて目を開けた。薄いカーテンの引かれた部屋はまだ薄暗い。青っぽい部屋の中にカーテンの隙間からオレンジ色の強い光が差し込んでいた。徐々に明るくなっていくそこに男の頬が照らされ、眩しくて目を閉じる。
「三倉さん、」と呼ばれるも返事はあやふやで目を開けられない。眠りに抱きかかえられているような心地で、手足が蕩け切って意思を持って動かせない。
「……行きますね。おやすみなさい」
 うん、おやすみ、と呟く。現実で呟いたかどうかは大いに怪しい。


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「――そういうわけで、離婚したのは本当に最近なんです」
 長い話を、鴇田は黙って聞いてくれた。暖が新しく借りた部屋で、鴇田はステージ衣装の黒ずくめでいたし、暖も昼間に着ていた服をまだ着ていた。暖の淹れたコーヒーはお互いろくに手がつけられず、冷め切っている。それでもアルコールを出さなかったのは、酔いに紛らわせて話したくなかったからだ。
 急ごしらえで借りた部屋で家具の類は統一されていなかった。やたらと大きくて立派なカウチはあるのに、ベッドはない。洗濯機は最新型でも冷蔵庫は型の古い中古品だったりする。パソコンはあるが、電子レンジとテレビはない。
 しばらくして鴇田は頷き、「離婚されたとは思っていませんでした」と言った。
「というか、子どもが出来たかもしれないと思っていたし」
「事実がないから出来ようがないですよ。どうしてそう思ったの?」
「前に書いてたコラム読んでそう思いました」
 鴇田が語ったのは、宇宙の果ては何色であるか? の疑問ではじまった、時間軸としては秋に書いたコラムだった。
「あー、あれはそう取れるのか。おれとしては、存在したことっていうのはなかったことにはならないってことが言いたくて。いつか経験を忘れる日が来ても、それはあったことなんだっていう」
「でも生命云々と書いていたから。子どもが出来てそう思ったのかな、と」
「まあ、不妊治療をずっとしていたからね。『ある』ことにならない場合はどういうことだろうってのも考えた。考えている、だな。まだ答えが見つからない。……あれ、あのコラム。かなりいろんな反応があったのは知ってるんです。難しすぎるだろうとか、意味が分かりにくいとか、社内でも掲載するかどうかすごく議論になったし」
「……」
「でも掲載を強く推してくれた人が何人もいて、結果的に載りました。掲載してもらえてよかったと思ってますよ」
 カウチに沈んで、鴇田は膝を抱えて暖を見た。黙って黒い目をこちらに向けている。ようやく会えた人は突然の展開に戸惑っているようだった。静かな分だけ、彼の困惑が突き刺さる。
 困惑したまま、鴇田の方から「離婚って」と切り出された。
「簡単に出来るものですか?」
「んー」返答を考える。反射で答えるような、生半可な言葉では伝えられない。
「大学時代から十四・五年連れ添った仲だというのは田代さんから聞きました。そんなに長いあいだ傍にいた人と、そんなに簡単に離れられるものですか?」
「簡単ではないです。それは、……もちろん」
 暖は目を閉じた。これまでの日々を思い返す。
「彼女に対する愛情はあるし、だからこそあの人が抱いていた理想像を叶えたかったという後悔もあります。未だに考えてしまう。けれどそれを追い求めて結果的におれは苦しくなってしまった。彼女自身も苦しかった。だから長いこと連れ添った仲でも、離れるべき縁もあるんだと思う。なんていうかな、時期とでもいうのかな」
「時期?」
「潮時。彼女との時間はおしまい、という意味です。ひとりの人と一生を添い遂げられる人ばかりではないのは世間が証明している。理想はやっぱり一生ひとりの傍にいたいけれど、現実的ではなかった。無理をしてでも彼女といる道もあったけれど、やっぱりそれは、無理をする道だったから」
「……」
 鴇田はますます身体を固くし、うつむく。それでも時折、確認するかのように顔を上げ、暖を見て、また顔を隠した。
 離婚しても鴇田と会うかどうかは別の話だった。もうそんなに恋だの愛だのに身を置かなくてもいいような気さえしていた。それだけ重たい荷物をおろした気分だったのだ。指輪を外して心から息をついた自分がいた。
 鴇田に会いたくないわけではなく、むしろどうしているかを焦げ付くほど考えてはいたが、いままで散々連絡を取りあっていた連絡先はことごとく不通になっている事実を考えると、ためらった。鴇田はもうそういう覚悟でいるのだと思った。だから離婚しましたと言って不用意に会いに行けるわけもない。会社もアパートも知ってはいたけれど、そうまでして会いに行っても本人に望まぬ再会である可能性が高かった。
 離婚して数日経ったころに、会社に封書が届いた。「ご意見をお寄せください」のコーナーへの投書だったらしい。開封した内勤社員が「これは三倉さん宛てのファンレターですね」と言って封書を渡してくれた。きっちりした字で書かれたそっけない文章に、それでも暖の心は動いた。この人に伝え続けたいと思った。伝わってほしいという強い気持ちは信心に近かった。
 ほぼ同時に店の再オープンを知り、行くべきだと直感した。会えなくてもいいし話さなくてもいいから、鴇田の姿を見たいと思ったのだ。ピアノを聴きたい。否、鴇田がピアノを弾いている姿をひと目見たい。鴇田がピアノを弾くとは限らなかったので、そのときは伝言を頼むことも考え、考えた末に封筒にコラムの原案を入れて店に向かった。向かいながらずっと迷っていた。だが足は進む。
 雨天の屋外と違って店内はずいぶんと盛況で、かろうじて見つけた席にようやく座った。
 会いたかった人は店のステージで一心にピアノを鳴らしていた。こちらを一度見たけれど気づいてはいないようで、すぐにピアノに没頭してしまう。ボーカリストと目配せをして、音に音を重ねて音楽を奏でていた。あんなに背を丸めて、あんなに縋るように。けれど前と違うと思ったのは、音に喜びを感じる点だった。BGMでいいと言っていた彼のスタイルは変わらないだろう。けれどしがみつくように必死であるのにどこか投げやりにも聴こえていた音は、ピアノと遊ぶ喜びにあふれていた。
 もっと言うなら、情熱がほとばしっていた。あの場で演奏を聴いていた人たちは皆、焦燥に駆られたのではないかと思う。恋しくてたまらなくなる音。とても近しい相手に触れたくなる音。そのようにして店を出て行くカップルを何組も見た。近くにラブホテルがあったら繁盛してしまうと思ったぐらい、鴇田たちの音楽はなまめかしく、親密に秘めいて、すっきりと純粋な愛情を掻き立てた。
 たまらず名刺を取り出し、ペンで連絡先とメッセージを記す。それでもまだ、渡すかどうかに迷いがあった。店の前で待ち伏せするにも勇気が足りない。雨でくじけかかる。鴇田の音が鳴りやみ、割れる拍手で興奮する店の中から無理に出た。膝から震えが来るほど音に圧倒され、指先に痺れが残っていた。
 声をかけてきたのは少年ともとれるような年齢の男だった。鴇田の会社の後輩だと名乗る。彼も興奮していたが、「前にあなたと鴇田さんが一緒にいるところを何度も見ています」と真っ直ぐに伝えられ、暖はこの若者に託してみる気になった。
 彼は鴇田と暖との交流を見ていた。ふたりだけの記憶だと思っていた夢みたいにおぼろげな日々に、客観的な目が加えられる。どう映っていたかは分からない。けれどやはり自分の主張は正しいのだの立証された。
 あったことは、なかったことにはならない。鴇田と過ごしたたくさんの時間も、その中に触れあった夜が存在したことも。
「あなたに託します」と封筒を渡した。若者は戸惑う表情を見せる。
「鴇田さんに渡してください。あなたのタイミングで構いません。でもどうか、渡してください」
「渡せばいいんですか」
「渡せばきっと伝わるから」
 それだけ言って店に背を向けて歩き出した。あとは神頼みだな、と思った。神様だけがこのあとの展開を知っている。運を傾けてくれれば鴇田にはつながるだろう。つながらなかったらそれまで。妻との時間が終わったように、鴇田との時間も終わったのだ。
 そして神様は即座に鴇田を結びつけてくれた。電話がかかって来たとき、自分の幸運が信じられなくてやっぱり迷った。知らないナンバーだったが鴇田だと分かり、応答に時間を要した。勇気を出してボタンを押し、声を聞いて震えた。その結果こうして鴇田が暖のアパートにいる。こんなに早く展開するとは暖も想像しなかった。だから鴇田の動揺はその通りだなと思う。
「あの子」と言うと、鴇田は僅かに顔を上げた。
「あなたの後輩だと言ってた子。去年取材に行ったときには見かけなかった。もっとも、見かけなかった人の方が多いんだろうけど」
「ああ……日瀧って言います。今年度の新入社員ですよ」
「まだ若いですよね」
「高卒採用です。いちばん若い」
「高卒採用なら、あなたと同じか」
 境遇が同じなら話もしやすいかもしれないな、と思った。親しい雰囲気があった。鴇田はいままで変えなかった表情をようやく緩めた。
「去年までまだ高校生なのにあの店行ってたらしいです。校則で禁止されてたのにって言ってました。音楽と酒をたしなむ大人に憧れがあるみたいで」
「ああ、ありますね。大人になればどうして? って思うようなことに無性に掻き立てられて感化される時期が」
 それだけ店や鴇田の存在を羨んでいたのではないか。健全な青少年とは言わないが、そんな彼にさっきまでの演奏と周囲の様子はどう映っただろう。酷ではなかったかな、と思わず苦笑した。暖が親ならちょっと堂々とは子どもに晒せないような、ほの暗い官能が透けて見える夜だった。
 どこであんな演奏を覚えたんだか、と黒く透き通る目をした目の前の男を疑う。こんな見た目で、中身に関して言えばおそらく暖以外の人との経験もないだろうに。もしくは暖以降で覚えたぬくもりがあったか。
 それは激しく妬ける想像だった。だが暖が考えてもどうしようもないことだ。
  ぽつぽつと交わす言葉の中、鴇田の口から「あの原稿」と発せられた。



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拍手[7回]

to touch




 高校生のころに好きだった人のことを丹念に話してくれた。童顔で背はあまり高くなかったそうだが、バランスの取れた身体つきをしていたという。告白は向こうから。屈託ない笑い顔になによりも惹かれた。若かったふたりは恋を愛に変えるのに手間をかけなかった。結果、性急にあっさりと子どもが出来てしまった。
 それを若いふたりは、純粋に喜んだという。未成年かつ学生であることにうろたえることはあったが、罪悪はなく、家族になれることの喜びが強かった。いま現状でどうやって子を生み育てていくかは大きな課題であるため、これにはさすがに自分たちだけでの解決は出来ないと判断した。そして実に現実的な思考でお互いの保護者に打ち明けた。
 結果として猛反発をくらい、蒼生子は無理やり堕胎を強いられた。好きな人とも離され、双方を失った喪失感で中絶後の学業復帰に時間を要した。望まぬ中絶手術の結果、子が出来にくい身体になったと自身が知るのは、暖と結婚し再び子を望むようになった後のことだった。
 父親には過去に妊娠と中絶の経験があることを言うなと言われていた。恥であるから、と。あまりにも恥ずかしいことだと言われすぎて、蒼生子自身が「若さゆえに恥ずかしく愚かなことをしてしまった」と思い込むようになった。母親の意見は違ったようだが、それに後押しされて言おうと心に決めても、暖から軽蔑されたらどうしようと思うと言えなかった。
 だから全て知られる前に断ち切ってしまおうと離婚を切り出したのが結婚して三年目のことだった。なにも知らない夫は離婚を渋った。どころか側にいて支えようと懸命に努力し、決して蒼生子のことを投げ出したりはしなかった。いっそあのとき諦めて離婚してくれればこんなにもあなたを追い詰めることもなかったかもしれないと言われ、暖は首を横に振った。
「それは違う。おれと別れてもあなたは子どもを望んだだろうし。鴇田さんに出会っていなければおれもあなた以外の誰かと関係を持とうなんてことは思い浮かびもしなかった」
 そう答えると、妻は顔を曇らせて俯いた。
「私と別れたら、鴇田さんと一緒になる?」
「それも違う話だな。あなたがおれとのあいだに子どもを望んでいるから、それはもうやめよう、という話をしたい。鴇田さんと一緒になりたいから別れたいという話とは別なんだ」
「でも暖は鴇田さんが好きなんでしょう?」
「……それはまだ、これからおれ自身が整理をつける話だ。あなたと結婚していながら浮気をしてしまった非は認めるし、そのことであなたに苦痛をもたらしたのだから、謝罪する」
「私と結婚しているから、私に対して味方であろうとしてくれるあなたの姿勢は嬉しいと思う。けど、許せないの。だったらどうして浮気なんかしたの? って思ってしまう。浮気をするぐらいまで私が追い詰めてしまったとしても」
「……」
「それに、私にすごく正直であろうとしてくれているけど、鴇田さんの気持ちは考えないの? 鴇田さんに対してだって素直になるべきで……分かんなくなってきた。私はどっちの味方なのかな」
「あなたはあなたの主張をすればいい。おれの答えは見えている」
「答え?」
「子どもを望むなら添えないということ。別れてほしい。もちろん、人工授精にもまだ様々なやり方はあるし、養子縁組という方法もある。それらを検討してみてもいいとは思うから、あくまでも選択肢のひとつではあるけれど」
「……私と暖との子どもを望まないなら、離婚しないということ?」
「そういう方がおれにとっては無理がないんだ。あなたとこの先もやっていけると思う。蒼生子さんは?」
 妻は深く考え込んだ。そのまま会話が止まり、随分と経ったあとで「私は自分のお腹を痛めて子どもが欲しい」と言った。
「だから浮気もなかったことにする。諦めたくない」
「……養子縁組すら考えない?」
「他人の子どもを育てるっていう感覚が、どうしても」
 暖はふ、と息を吐いた。
「おれは鴇田さんのことをなかったことにはしたくない。子どもが欲しいと言っていたあなたを承知で関係を持っている。なかったことにして子どもが欲しいというあなたの意見には、残念ながら添えない。……子を成したくて成せない女性の苦しみのことは、長年あなたを傍で見て分かっているはずのことだし、理解を怠りたくないと思う。けれどあなたが望むような共感へは至らない。辛いところだけれど、これがおれの本音だ」
 話せば話すほど平行線を辿る不毛な会話。それでも懲りずに対話をし、お互いの意思を伝えた。暖はいくつもの可能性を探っていた。だが蒼生子の方は「子どもが欲しいから浮気を許す、なかったことにして婚姻を継続させたい」の一点張りだった。
 絶えず根気よく話し、わだかまり、泣き、それでも冷静を努め、蒼生子が「お母さんと暮らそうと思う」と言い出したのは気分転換にと義母とふたりで温泉旅行に出かけて帰ってきたその日だった。一月、いつの間にか年が明けていた。
「お母さんね、お父さんとの離婚を決めたみたいで」
「え」
 前に話した時にも熟年離婚はあり得そうな気配ではあった。それがようやくか、意外にもなのか、とにかくそういう方向性で進んだらしい。
「お母さんは強い人だけど、このままお父さんの面倒見ながら暮らして行く選択肢はなくてもいいよって、私も思うの。そりゃふたりが別れるのは嫌だけど、私にとってお父さんはお父さんだし、お母さんはお母さんだから」
「そうだね。あなたにとってその関係性は変わらない」
「それで、私も暖と離れて暮らしたらいいのかなって思ったの」
 その意見を聞いて、暖は妻の心境の変化を悟った。ずっと対話を続けてきた成果なのだと思った。
「離れたら見えるものもあると思うから。……私は赤ちゃんが欲しい、暖はいらない。その平行線の先に交わるものがあるのか、ないのか、ちょっと距離を置いて考えてみたいと思ったの」
「……賛成するよ」
 そう言って妻は十年暮らしたマンションを出て行った。母親と部屋を借りて暮らしはじめたのだ。ひとりになった暖には、それでもまだ考えるべきたくさんのことがあった。離婚になってもならなくても、離れた方がいいという選択は肯定すべき事柄だ。
 一週間に一度ほどは蒼生子と会った。そして彼女の口から離婚を申し渡されたのが三月のこと。
「暖をね、楽にしてあげたい。私のわがままをたくさん聞いてもらったんだってようやく気づいた。やっぱり私は子どもを諦められない。諦めたくないから、ずっと子どもが欲しいって言い続けてしまう。暖はパートナーだからそれを無視することはしないでしょう? それはやっぱり、これからもあなたを苦しめるんだってことだから」
 つまり、暖以外のパートナーを見つけて子どもを望むということだ。その意図が分かってやっぱりな、とも思ったし、いままでの自分を無念にも思ったし、それでもほっとした面もあった。
「これからは離婚についての話をしましょう。暖から慰謝料をもらうことは考えてない。円満離婚がいいと思う。財産分与の話もしないといけないから、嫌な話もしないといけないけれど、最後の日は美味しいものでも食べてあー美味しかったねって笑って別れたい」
「……出来るだけ実現させよう」
「そういえばずっと前に鴇田さんを水琴窟のお店に誘ってたけど、行った?」
「いや、機会を逃しっぱなしで。秋以降は会ってないし」
 電話すら通じなくなってしまった。
「もう会わないでくださって取り乱しちゃった私が言うことじゃないかもしれないけど、……あのお店、夏には閉店しちゃうらしいよ。ご主人の高齢化でお店たたむんだって。約束をいつでも守れるわけじゃなくなっちゃう」
「――鴇田さんに会うタイミングをいまのおれひとりでは決められない」
「……そうだね。そう思う」
 離婚が成立して単身者向けのアパートに引っ越したのは、四月も下旬になるという頃だった。




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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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