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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ――いいの?
 ――もうはじまってるからいつでもいいよ。

「これ、伊丹さんか」
「うん。子どもの方が僕です。変声期前っぽいので、小学校の低学年か中学年ぐらいかな」
 やがてピアノが鳴りはじめる。聴こえて来たメロディーはとても耳馴染みのある、よく知ったものだった。たどたどしく、でも一音一音を誤魔化さずに確実に鳴らす。
「亜麻色の髪の乙女」
「そうです。このころはなに弾いてみたい? って訊かれて、これがいいとかあれがいいとか、技量なんて考えずに聴いてみて弾きたいものを教えてもらっていて。ドビュッシーばっかり弾きたいって言ってた頃です」
「ころころした音でかわいいな。あ、止まった」
「うまく弾けなくてここで拗ねるんです。子どもの指ですぐに弾ける曲じゃないんですけど、分かってないから。――恥ずかしいですね」
「ピアノの練習に限らないけど、習い事とか技術の習得ってやっぱり最初はこれ、みたいな教本からやったりするんじゃないの? ピアノだとええと、バイエルだっけ?」
「ああ、もちろんそういう楽譜もさらいました。でもはじめのうちだけでしたね。なんか伊丹さんがそういうのを嫌がってて。自由に弾かせるもんだっていう意見で母親とは一致してたみたいです。自分は散々基礎練習をやってきて多分基本の大切さを分かってる人のはずなんですけど、最終的に自分の鳴らしたい音が鳴らせればいいんだからとアプローチを探ってたみたいで」
「それは伊丹さんにもいつか話を聞いてみたいなあ」
 耳元で少年は名を呼ばれている。拗ねて黙っていたが、何度目かで応えた。

 ――ここおじちゃんの音と違うんだ。おんなじにならない。
 ――おんなじピアノの音だよ。
 ――タタタタン、タタタ、って弾きたいんだけどつまづく。おじちゃんの音はもっと滑るの。
 ――一緒にやってみようか。僕がここで弾いてるから、真似してね。

 オクターブ低い音階で音が鳴らされる。滑らかに、ゆっくりと。その音階の上で同じリズムを少年は試みる。ゆっくり、何度も弾く。同じところを何度も。

 ――あ、

 ゆっくりとだが、オクターブ違う指の動きが一致しはじめた。

 ――ほら、出来る。あとちょっとだよ。もう一回ここから右手だけ弾いてごらん。
 ――うん。

 少年はメロディーを奏でる。そこに低い音で和音が加わった。左手の和音を伊丹が鳴らしているのだろう。右手はかなりはっきりとリズムを持ってメロディーを奏でるようになった。
「なんでこんなの録ったのかな、伊丹さん」ともはや少年ではない男が隣で呟く。身体のこわばりはかなり解けたようで、暖はそっと手を動かし、男の指を取る。
 その手が動いて暖の手にしっかりと絡まったので、安心した。
「どんな理由でもいいよ。すごく貴重な音源だから」
「せめて発表会とかで録ればいいんですけど、僕は教室に通っていたわけではないのでホールで弾いた経験がなくて」
「え、そうなの?」
「知ってるピアノは伊丹さんのところにあるピアノだけです」
 耳の中で少年のピアノがころころ鳴る。短い楽曲はあっという間に弾き終えたが、弾けたことが嬉しかったか、もっと鳴らしたいのか、少年は同じ音を何度も弾いた。やがて左手も加わる。そのうちどっちの手がどこを鳴らしているのか判別つかぬほど音はひとつの曲になった。飲み込みの早さは尋常ではなく、少年の技量よりは持ち前のセンスを感じた。
「……ひとつの経験しかないって、あんまりよくないですよね」と鴇田が呟く。
「どうして?」
「もっといろんなピアノを弾いていればよかったのかなって思うんです。ホールで弾くとか、学校で弾くとか、いろんなピアノの、いろんな経験。僕は伊丹さんの家にあるあのピアノの音にしか興味がなくて、あればっかり弾いてあれしか知らなくて」
「うーん、ピアノからすれば冥利に尽きるんじゃないかな」
「……もっといろんな経験をしていればこんなに悩むこともなくて、あなたに触れたかもしれない……」
 そう言われて、とっさに嫌だなと思った。暖以外と経験のある鴇田。暖と違う誰かに触れてきた手。
「なんでそんなこと言うの」鴇田の手を握り返し、力を入れたり緩めたりする。骨張った手はひんやりとしていたが、熱が生じてしっとりと汗ばんできた。
「おれは鴇田さんが100%でおれに触れてくるのがすごく嬉しいのに」
「……でも、」
「おれはね、鴇田さんがどうしても無理なら、セックスはしないっていう選択肢になっても仕方ないなって思います」
 身体をずらして鴇田の肩に頭を預けた。鴇田は黙っている。
「でもその結論に至るまでには、もっとたくさんのことを一緒に足掻きたい。あなたには触れたい。セックスしたいもん。この身体と、この身体で」
 頬擦りするそぶりで肩を頬で撫でると、繋いでいない方の手が暖の頭に伸びて、やさしく髪に触れた。
「あなたが触りたくないって思うようになるなら嫌だし、そのときはそっかって受け止めるしかないんですけど、そういうわけじゃないでしょう?」
「触りたいです」
「うん。ならおれ以外の人と経験しとけばよかったとか、ましてやこれから経験してみるとか、絶対にやめてください。おれが教えること以外のこと、覚えてこないで」
「……わかりました」
「ならいいよ」
 お互いにイヤフォンを片耳に差し込んだまま、向き合って横になった。鴇田の片腕を自身の頭の下に潜らせ、暖は男の頬に触れる。額を男の顎のあたりに寄せると、首筋のにおいがこうばしく香った。
「……意外と」男の吐息が目蓋に当たる。
「ん?」
「あなたは僕を好きなんですね」と言う。
「いまになって分かったの、それ」
「いつも僕ばっかりあなたを好きだと思ってるせいかな……」
「その勘違いはもう正した方がいい。経緯が経緯なので嫌な思いをたくさんさせましたが、おれはあなたとこうなって後悔はないし、この身体とセックス出来ない結論になったら真剣に悩んで苦しむと思う」
「そうか……」
 耳からは相変わらず少年の弾くピアノが流れている。かなり技巧は上達しているが、ドビュッシーにはまっているようで、そればかり弾いている。
 今日はこれでセックスしましょうなんて流れにはならないよなあ、と内心で考える。自分の野卑な衝動をなんとか堪える。この男は肉のひっ迫感をどうやり過ごすのだろう。暖は前妻と最終的にはうまくセックスが出来なかった。いまはこんなに渇望していて、相手もいるのに、思うようにはなかなかうまくいかない。
 それでも嫌だとは思わなかった。思うようにいかないことなんて、人間が人間と向き合えば当たり前だろう。
 違う人生違う価値観で生きてきて、なぜかいまこうして寄り添って眠っていることが不思議だ。いつかそういうことをコラムに書いてみようかな、と思いながら目を閉じた。


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今日の一曲(別窓)


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寒椿さま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
小6の発表会で弾かれたとは! 思い入れのある曲ですね。亜麻色の髪の乙女は私のプレイリストにいつの間にか入っているほどでしたが、これを書くに当たってドビュッシーのCDを聴きなおしました。とても素敵な曲だと思います。
コロナ禍で以前のようには演奏会に足を運べないのが悲しいところです。音楽も演劇も映画も喫茶店さえも利用しづらくなりましたね。生の音に私も飢えています。
三倉は私にとって難しい人でした。嫌な奴と思いながら書いたほどです。ただひとつ思うのは、三倉は蒼生子との思い出を遠海には隠さないだろうな、ということです。遠海も嫌がらないでしょう。私の中でこのふたりははじめからこうでした。とはいえやっぱり「嫌な奴」と思うのですが(苦笑)
まだ物語続きますので、嫌な奴でもお付き合いくださると嬉しいです。
拍手・コメント、ありがとうございました。
粟津原栗子 2020/10/19(Mon)07:28:29 編集
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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