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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「もちろん家はこのままってわけじゃない。二世帯住宅として、新築なりリフォームなりすればいい。資金は心配するな。庭が広いから犬三匹でも問題ないぞ。そうやって新しい環境にして新しい気分になれば、ほれ、子どももポロっとできるかもしれん」
 暖はやはり苦笑しつつ黙っていた。この家は仲がいいから、蒼生子が子どもを欲しがっていることも、不妊治療を継続していることも義両親は知っている。ひょっとすると前回の夜、暖が夫としての務めを果たせなかったことさえも知られているかもしれない。蒼生子は特になにも言わなかったが、不満を吐露する先に実家を選ぶのはあり得そうな話だった。
「仕事が忙しくて家庭が多少おろそかになってもな? 同居している家族がいたらその分フォローもしてやれるだろう。まあきみにもね。いつまでも嫁にばっかり盛ってろなんて酷なことは言わん。蒼生子はあの通りたいした美人でもないからな。だが子どもさえ出来ればあの子も満足するし、ちょっとの火遊びぐらいは目を瞑る。だからなあ、考えてくれんかと思ってなあ」
 話の先が見えなくなってきた。火遊びとはどういうことだろうか。同居の相談をしに来たのではなかったのか、この義父は。
「……あの、僕と蒼生子は、」
「まあ、全部言わんでもいい。分かってる。仕事の他に通う先があるんだろう? 男はそういう部分があってもいい。全部を家庭に求めるのは出来ない話だ。俺はよく分かる。暖君にはね、蒼生子の望みさえ叶えてやれたらそれでいい」
「仰っていることが分かりません。僕は彼女を大事に思っています。――僕がまるで浮気でもしているかのような仰り様ですが、それは誰が言い出したことですか? 蒼生子が?」
「とぼけんでいい」義父の声にいら立ちが滲む。
「とぼけるもなにも、事実がないのにとぼけようがないです。――蒼生子が言っていましたか?」
 再度訊ねると、義父は「そうだ、蒼生子が言っていた」と不快をあらわにした。
「蒼生子が、僕が浮気していると?」
「仕事が忙しいっていうのは嘘だとな。まあよくある話じゃないか。偽って家庭をおろそかにする話はな。だがそういうことにも俺は目を瞑ると言っている。男なんだから、仕方がないじゃないか。目を瞑っててやるからとにかく、頼むよ」
「お義父さん、明らかにそれは違うと断言できます。異なっている事実を認めて諾とはうなずけません。僕は」
「浮気ぐらいどこにでもある話だ。俺の前で取り繕う必要もないし、俺はそういう部分を分かっている」
「ですから僕は蒼生子を」
「いいから黙って言うことを聞きなさい! 言い訳ばかりで話の通じない男だな。蒼生子が可哀想だから同居しろと言っているんだ! 夫ならそれぐらいの責任を果たしなさい!」
 怒りで顔を真っ赤にして、義父は部屋を出て行った。閉められた扉を前に呆然と立ち尽くす。可哀想? 蒼生子がか。浮気をされて可哀想だって意味だ。……可哀想なのはおれではない。事実ではないことを一方的に言いつけられ、理解もされないが、それはなんでもないことだ。疲労も、羞明も、誤解も、……誰よりも可哀想なのは子どもも出来ず夫には浮気をされている蒼生子の方だから。暖のストレスなんか、誰も汲まない。
 不意に、辛いですね、と暖に心から同情した男の顔がよぎった。滅多に表情を変えないけれど、不器用だけれど、優しい男。彼にも暖の苦しみの本当のところは分からないのかもしれない。理解しがたいだろう。けれど暖の味方でいてくれる。彼は誠実だ。眠ってほしいと願ってピアノを弾いてくれた。暖の目に手を当ててくれた。
 眩しさは治ると言い切ってくれた。
 見遣った窓の外は、曇天だった。嵐が近い。カーテンをずらす。窓の外に白い煙が微かに流れているのを見て、暖は窓を開けた。隣の部屋とつながるベランダに義母がいて、煙草をふかしていた。
「――うちのくそ爺が悪かったわね。あんなやつと同居なんてごめんでしょう? 気にしなくていいから」と彼女は言った。会話は聞こえていたようだ。
「いえ、……言いますが、僕は浮気をしていません。これまでただの一度も」
「やだ、疑っているわけじゃないわ。ただちょっと暖くんの帰りが遅いっていう蒼生子の愚痴を聞いて勝手な解釈をしているだけよ。でも一応、あんなのでも夫だからね。非礼をお詫びします。私には夢があってね」
「夢?」
「あいつは肝臓の数値が悪いの。酒の飲みすぎね。私より先に死ぬわ。そのときに言ってやるの。人生が台無しになるとっておきのひとことを」
「……怖いですね」
「だから、同居の話は聞き流していいってことよ」
 義母のくゆらす煙草の煙が、曇天の空の下で流れて消える。風が出て来たように思う。低気圧の通過が近い。
「そもそも、蒼生子に子どもが出来ないのは暖くんのせいじゃなくて、自分のせいなんだから」と義母は空を見ながら言う。
「自分? お義父さんのせいですか?」
「そう。あの子ほら、流産してるじゃない」
「ああ、」思い当たる節と言えば、人工授精を試みて受精卵が着床しなかった例だった。あれは流産と呼ぶのだろうか。だが心当たりがないと言えば嘘になる。
「あれは表向き流産ってことにしているだけで、本当は体裁の悪い子どもだから出産を認めない、って無理におろさせたのよね、あの人が。あのとき産ませてあげていれば、中絶なんかしていなければ、子宮を変にいじらずに済んで、ふたり目ぐらいはあっという間に出来たと思うのよ」
 吸いきった煙草を灰皿に潰し、義母は二本目の煙草に火をつけた。体裁の悪い子ども? 中絶? ――そんな話は知らない。聞いたこともない。
「僕の子どもを中絶、ですか?」と訊いた。思っていたより低い声が出た。義母がぎくりと身体をこわばらせる。暖に向けた顔は先ほどとは打って変わって、青ざめていた。
 煙草を吸う義母に構わず顔を近づける。「どういうことですか?」
「どういうことって、蒼生子から聞いていないの?」
「少なくともいまお義母さんが口にしたことに関しては」
「ごめんなさい――蒼生子はあなたには話したんだと思い込んでいた。忘れてちょうだい。もしくは蒼生子から訊いて」
「忘れませんし、蒼生子からではなく、まずお義母さんの口から聞きます。蒼生子は――僕の子どもを中絶させられたんですか?」
「違う。……それは違うわ、暖くん、」
「ならどういうことですか?」
「本当に知らないの……?」
「とぼけて忘れるような性格はしていないんです。蒼生子は僕の子どもを中絶させられたんですか?」
「あなたじゃない……」
「では、誰の?」
 追及の手を緩めない暖に対し、義母は明らかに狼狽えていた。煙草をしきりにふかす。そしてあっという間に新しい一本を吸いきってしまうと、観念したように喋った。
「――あの子が高校のころよ。付きあってた先輩とのあいだに子どもが出来た。でも夫はあの通りの人だから、未成年同士でなんて体裁の悪い子どもだと罵って、結局中絶させた。それも、誰にも知られないようなクリニックを選んだから、結果的に蒼生子の身体を傷つけることになってしまって……あの子があなたとの子どもが出来ないと落ち込むたびに、私はあのときのことがよぎるわ。産ませてあげられたら違ってた、きっと、」
「……」
「ごめんなさい、蒼生子は話していたんだと思ってた。……とんだ家の嫁をもらっただなんて思わないでね。子どもが出来ても出来なくても、私はその道での幸せがあると思うわ」
 なにも言えないまま、暖は黙ってベランダの窓を閉めた。マットレスに寝転がり、窓の外に見える曇天を見上げる。眩しかった。眼鏡をかけているのに眩しくてたまらず、目を閉じる。今日はこんな曇天なのにな。
 先ほど押し入れに仕舞いこんだ鞄の中に紛れていた母子手帳。あれは蒼生子が、暖に出会う前に暖ではない誰かと恋をした蒼生子が、ひっそりと用意したものだ。どんな気分だっただろう。嬉しくて用意したのか、辛くて用意したのか。分からない。……全く分からなくなってしまった。妻に添おうとしていた自分が虚しくなる。蒼生子の味方であることが夫の務めだと思っていたが、じゃあ暖には誰がいる?
 端から――暖との子どもはいないも同然だったのではないか。
 眼鏡を外し、腕で目元を覆った。喉の奥から苦味がこみあげる。眠りたいほど疲労しているが、冴えて眠れない。思考がぐるぐるめぐる。気分がわるい。最悪に。
 不意に頭の横に置いていたスマートフォンが鳴動した。メッセージの着信を告げたのだ。暖はそれを操作する。鴇田からのメッセージだった。暖に恋心を打ち明けて以降、鴇田からメッセージが来ることはなかったので、意外に思った。
 縋るようにアプリをひらく。鴇田からのメッセージには、写真が添付されていた。広くどこまでも浅い海の上には鈍色の雲が垂れ込め、そのはるか彼方では虹が海上へ落ちている、そういう写真だった。構図も露出もでたらめで、決して上手いとは言えない写真。続くメッセージにこうあった。
『眠れましたか』
 ぐ、と喉の奥が痛んでとっさに奥歯を噛み締める。
『オーストラリアを旅行したときに撮った写真が出て来たので送ります。僕の滞在した町は海が近くてこんな感じでした。旅行したときは冬で、雨ばっかり降ってた。世界中の虹がここに集中してるんじゃないかと思うぐらい、当たり前にあちこち虹がかかってました』
 それを読んで、暖はたまらなくなった。暖がいつか見た虹が嬉しかったから。それを鴇田は覚えていたから。すぐさま鴇田のナンバーにコールした。数コールで鴇田は出た。
『――はい』
「……」
『三倉さん?』
 なにを言うつもりだっただろう。なにも出てこない。でも電話したかった。声を聞きたいと思った。
「しんどいな」
 暖に同情して、暖を可哀想だと認めてほしかった。
「鴇田さん、眩しいよ。ここは眩しくてたまんない。ここに……いるのが辛い、」
『――いまどこにいますか?』
「蒼生子さんの実家。……O市」
『電車?』
「ああ」
『じゃあ一時間ちょっとぐらいで着きますね。S線です。S線K駅』
 それが鴇田のアパートの最寄り駅だと理解するのに、少し時間を要した。
『僕は駅で待ってます。あんたが来ても来なくても』
「……これからすぐ出る」
『風呂、沸かしておきます。こっちはだいぶ雨風がひどい。きっと濡れるから』
「うん」
 通話を切って、暖は誰にも告げずに妻の実家を出た。



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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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