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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 眼鏡屋で試着までしたがなにがいいのかさっぱり分からなかった。とにかくこれでいいや、程度で眼鏡を作ってもらい、その足で店へ向かう。防音の店内からはちいさく音が洩れている。その軽やかな音を聞いて塞がりきっている心がすこし呼吸をした。重い木製のドアを押して店内に入ると、信じられない速度でピアノがころころ鳴っていた。「Tea For Two」だ。鳴らしている本人は相変わらずピアノに身も心も捧げきっていて、あんな体躯をした大人の男がな、と思うと胸が絞られた。まるでピアノにだけは甘えられる子どものようになる。
 相変わらず彼の周囲は静かで、友人らの姿を見ない。カウンター席へ歩き、ジャケットを脱ぐとカウンターの中からはおしぼりではなくタオルが出て来た。
 寡黙なバーテンダーが目だけでほんのりと微笑む。それで自分が濡れていることに気付いた。
「――雨降ってたのに傘忘れて。ありがとうございます。ええと、ピルスナーを。それとつまめるもの適当にお願いします」
 オーダーをして、受け取ったタオルで髪や衣類や鞄を拭いた。眼鏡のレンズからも雫を拭おうとして、こういうので拭くと傷になるんだっけ、と思い当たった。眼鏡をかけないのでこういうものへの手入れがよく分からない。眼鏡屋から受け取った紙袋の中には眼鏡ケースも入っており、その中に眼鏡拭きがあったのでそれでレンズを拭った。だが雫の跡が残る。面倒になってそのままかけた。
 慣れない眼鏡は耳と鼻に重たく感じた。樹脂フレームだから軽量なはずなのに、予想以上に重いと感じる。慣れていないせいだと思う。眼鏡の内側から見る普段は暖色のはずの店内は、水の中に沈んだみたいにぼんやりと薄暗い。だがこれくらいだといい。
 演奏に夢中になる男を眺めながらビールを飲む。ぱらぱらと拍手が聞こえ、演奏が終わったのだと気づいた。暖も拍手をする。店内はレコードに切り替わった。ピアノの椅子からどいた男は、スタッフと一言二言交わすとこちらへやって来た。
 暖の顔を改めて正面から見たらしい。途端に眉間にしわを寄せた。
 隣へ座り、またジントニックを頼んでいる。それから「流行ってますね」とコメントした。
「え?」
「そういう色付きレンズの眼鏡。サングラスよりは薄い感じの。かけてる人を街でたまに見るので」
「ああ、そうだね。でもこれそういうんじゃないんだ。医療目的」
「医療?」鴇田は怪訝な顔を向けて来た。
「羞明、って言うんだって」今日医者からされた言葉をそのまま復唱した。
「シュウメイ?」
「やたらと眩しく感じる症状のこと。目を開けてらんないぐらい眩しく感じるときがあってさ、こないだ眼科にかかって紹介状もらって、今日いちんちかけて大きな病院で精密検査してきたんだ」
 鴇田は身じろぎもせず、険しい顔でこちらを見た。
「羞明が出る症状の病気って色々あるらしくてさ。もー片っ端から検査検査。病院内ぐるぐるしたよ。視力とか、眼圧とか。眼底写真撮ったり。視野の検査がきつかったな。視神経に異常がないか確かめるとか言って脳外科もまわされた」
「……結果は、」
「わかんない」
「わかんない? 結果が出なかったってことですか?」
「いや、医者もわかんなかったってこと。どこにも異常がなかったんだ。羞明の症状の出る条件がばらついてるから、多分だけど、自律神経の乱れですねっていう結論。心療内科紹介されたけどとりあえず保留にしてきた。自律神経乱れると、目の瞳孔の調節がうまくいかなくなることもあるんだと。なにかストレスが溜まったりしていませんかと言われたから、ここじゃ言えないけどありますよ、って答えた」
「……」
「自律神経障害とかな、おれには関係ない話だと思ってた。おれも意外と繊細だったらしい。タフで図太いやつだと思ってたんだけど。……とりあえず点眼薬処方されたよ。あと色付きの眼鏡をかけると軽減されますよって言われたから、試してるわけ」
 ちょんちょん、と眼鏡の端を指す。鴇田は口元を引き結んだままうつむき、息をついた。
「おれ視力はいいからさ。てっきり老眼が来たんだと思って焦った」
「それにしたってその症状も焦りますよ。眩しいんですか?」
「うん。最近のおれ、目つき悪くなかった?」
「あんまり気にしなかったですけど、疲れていそうだなって思っていました。だとしたら僕のせいですか」
「なにが?」
「シュウメイの原因。……僕が好きだと言って、困らせているのかと」
 それを聞いて自分が情けなくなった。慌てて否定する。「違うよ。てか、それはおれの方でしょう」
「なにがですか?」
「おれの方こそあなたを困らせているでしょう? あなたは会いたくないと言っているのに、こうやって強引に押しかけて付きあわせて、を繰り返している」
 そう言うと、鴇田は「自覚はあったんですね」と答えた。
「あります。ごめんなさい。でも付きあいをやめる気はなくて、……あなたには酷なことをしていると分かっていて身勝手で、ごめん」
「いえ、……もう僕は仕方がないんです。だからいい。……羞明、ええと、ストレスの原因の話。僕じゃなければどこに?」
 訊かれて言うか黙すかは迷った。けれど鴇田に言わなければ誰にも言わないのだと思う。せめて話せる人には話したいと思うのは甘えなんだろうか。自分を壊さないために過去の自分が覚えた工夫なのだろうか。
「……あなたに話すのは酷いことだと思いながら話す。……蒼生子さんを苦痛に思ってる」
「……」
「というより、妊活ってやつ」
 ビールを飲もうとしたがグラスは空だった。鴇田を真似て暖もジントニックをオーダーする。
 鴇田は喋らなかった。一心に暖の一挙手一投足を見つめている。
「とても……あなたには酷な話をします。真面目に聞かなくていい。寝てたっていいから、傍にいて話をさせてください」
「話してください」
「……パートナーが子どもを欲しいって望んでいて、それを分からない、とは言わない。おれたちは結婚したんだし、おれぐらいは彼女の味方にならないと誰が守ってやるんだ、と思う。子どもはひとりじゃ作れないから、もちろん協力する。おれが代わりに産んでやれたらもっと選択肢が広がるんだろうけど、産めないからね。だから彼女に従う。でも、疲れた。疲れてしまった。……少なくともおれはこんなに疲労している。けど、クリニックも、蒼生子さんも、おれの味方にはならない。疲れたって言ったらきっと、旦那さんもっと頑張らないとって言われるんです。奥さん頑張ってるんだからって。だからおれの『疲れた』は、一般から見たら全然疲れることじゃないんだ。その程度」
「……」
「でもおれは疲れたな……義務でするセックス。なんか、楽になりたい」
 子ども、子ども、と言う蒼生子。彼女も楽しいと思ってセックスなんかしていないだろう。楽しいと思うように努力している、という辺りがむなしい。気持ちいいと思えるセックスってなんだっけな、と昔のことをどうやっても思い出せない。クリニックの採取室でとうの昔に切れてしまった暖の回路は、いまだに電流の流れ方を思い出せない。
 こうやって枯れて終わるのかもしれない。男の人は生涯現役だから、といつか蒼生子が言っていたけれど、相手がいなければ結ぶものはないし、相手がいても男だって枯れる。ふたりで枯れてくならそれでもいいかと思う。だが相手が足掻いているから、辛い。
 ジントニックは運ばれて来たが、飲む気になれなかった。暖は天井を仰ぎ、目を瞑る。慣れない眼鏡が重たい。頬の上に感じる重量を外して、まだ目をきつく閉じる。眩しい。楽になりたい。
「……眼鏡、いいんですか?」
「やっぱ面倒くさいね、これ。重たくて疲れて来た」
「でも眩しいでしょう」
「まぶしいね」
「眩しいのは、辛いですか」
「……眠い、と似ている感じがする。よく眠れたら眩しいなんて思わないかもしれないな」
「眠い?」
「不眠とは無縁の性格だから、やっぱり眩しいんだと思う」
「不眠症は辛い、と聞きます」
「聞くね」
「なら眩しいのも辛いはずだ」
「……」
「眩しさを感じるほど触れなきゃならないことは……――触れられないことを苦に思う僕の辛さとは違った方向だけど、ものすごく苦しいんだ」
 隣の男が動く気配がした。静かに感情のない声で「触ります」と言われた。途端、目の上にひんやりとした肌が触れた。男の手だ、と意識した途端に暖は望んでいたものを得た感覚がした。
 躊躇いがちに、怖がりながら、それでも暖に優しい手。冷たくて硬くてこわばっていて、気持ちがいい。
 誰かと肌を合わせて気持ちがいいと感じることを、もうずっと忘れている。
「……ぅ…………」
 喉の奥から絞り出すように、声が一息だけ漏れた。それを飲み下すことで必死に表出させないようにする。甘えてはいけない。そこまで荷を託してはいけない。ただ、堪えても堪え切れなかった涙は出た。それは閉じた目のあいだからじわじわと滲んで、鴇田の手を湿らす。
 格好わるい。たったこれだけのストレスで泣いている。みっともない。誰がいるか分かったもんじゃない公衆の面前で、年下の男に慰められている。
 鴇田は、手を退かさなかった。
 変に動かすこともしなかった。どうしていいのか、「触ります」と言っておいて分からなかったのだと思う。不快に思われないようにとひやひやしながら、必死で自分を戒める。堪えろと言い聞かせないと足元が覚束なかった。この男にそこまで背負わせてはいけない。甘えてはいけない。けれどどうしても手を離してほしくない。
 不意にピアノのことを羨ましいと思った。鴇田に飽きるぐらいに触れられて、暖がピアノならきっと嬉しいからあんなに音を鳴らすんだろう。猫の子みたいに。


 閉店間際、ほとんどスタッフと暖だけになった店で、鴇田は一曲だけ演奏してくれた。「Danny Boy」。静かな曲だった。
 なんでこの曲なの、と聞いたら、鴇田は相変わらず表情の変わらぬ整った顔で言った。「眠ってほしかったから」
「家に帰りたくなくて、病院からこんな店に直行して、こんな時間までぐずぐず残ってるような不良中年だよ」
「それでもあんたは帰るんです。奥さんのいる家に帰って、眠る。夢も見ないで深く。……眩しさはそれで治ります。絶対に、治ります」
 まるで鴇田のピアノが小学校の下校時刻に流れるお別れの音楽だったみたいに、さよならを言い合って別れた。



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今日の一曲(別窓)



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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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