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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ここのところは晴天続きだが、この先も好天が続くとは言えないでしょうと気象予報士は喋っていた。週間予報では月末の連休あたりが怪しいらしい。「春の嵐となるかもしれません」と中年の予報士は語った。また嵐か。荒れてばっかりだなと思いながらぼんやりとキーボードを鳴らす。テレビを点けているので電子ピアノから伸びるイヤフォンは片耳にしか差し込んでいない。ただ指を動かす程度に音を鳴らす。ちっとも面白くなくて、指は動かなくなった。
 子どものころ、はじめて伊丹の家でピアノを弾かせてもらった日のことを思い出す。伊丹の家には何度も通っていたが、弟が生まれて以降の母親は幼い弟の手を引くことに一生懸命で、遠海の手は引いてくれなかった。淋しかったわけでもなく、遠海もひとりで充分歩ける年齢だった。その先、そこを曲がるんだよ、と母親と弟が後ろからついて指示を出してくれたが、道の大体は覚えていた。
 当時の伊丹は楽器店に勤めていた。母親とは音楽大学時代の先輩と後輩という間柄で、音大のピアノ科卒業という出身ながら家にピアノを置けなかった母親は、伊丹を頼って時折ピアノを弾きに行っていた。子どもがいようがいまいが構わず、自分の楽しみのために弾いた。伊丹の家には立派なグランドピアノがあった。それが後に自身がひらくジャズバーに置かれることになるわけだが、当時は「あまり弾いてくれる人もいないから」と母を含め遠海たちを歓迎してくれた。
 ーー今日はこの子に触らせようと思うんです。
 と母は言い、伊丹はにこりと笑って遠海を傍に呼んだ。
 椅子を調節してもらって、ピアノの前に座る。どうしていいのか分からなかったが、隣の伊丹が指を一本すっと出して、単音を鳴らした。それがはじまりだったと思う。白と黒の板を押したら音が鳴る。その音はとても魅力的で、いつまでも聴いていたいと思った。すぐに夢中になり、めちゃくちゃに音を試した。ここは高い音がする。こっちは低い。この黒いところはあいだの音。こことここの板を同時に押すと気持ちがいい。そうやって八十八鍵をひとつひとつ確かめていると、あっという間に日は暮れて、だがピアノに触れられなかったはずの母親も伊丹もなぜか嬉しそうにしていた。
 ――とおみもそれ好き?
 と母親はにこにこして訊ねた。普段は家事と育児とパートとで疲れ切っている印象の母親だったので、そのやわらかさは、慣れなくてドキドキした。
 ――うん。すき。
 ――じゃああのおじちゃんにご挨拶して。ここでピアノを弾かせてくださいって言うんだよ。
 おじちゃんかあ、と伊丹は苦笑していた。当時の伊丹は三十代前半だったと思う。まださほど言われ馴れない呼び名だったのだろう。
 ――ここでぴあのをひかせてください。
 ピアノ、がなにを指すのかも理解出来ていなかった。ただ絵本やアニメで観る鯨みたいに真っ黒で大きなあれを、そう言うんだろうと思って言った。あれをもっと鳴らしてみたいと思った。
 ――大歓迎だ。改めてきみの名前を聞かせてくれる?
 ――ときたとおみです。
 ――いい名前をつけてもらったね。海の曲を弾くから、聴いてくれる?
 そう言って伊丹は遠海が座っていた椅子にさっと腰かけ、魔法のように鍵盤を掻いた。次々とまろび出る音が本当にこの鯨から鳴っているのが不思議でならなくて、遠海は伊丹の手元を一心に眺めながら音に聴き入っていた。
 五分少ししかない曲で、終わるのがとても惜しかった。母親は久々に先輩のピアノを聴いた、と拍手をし、弟もまねして手を叩いていた。
 ――ラヴェルの、海原の小舟っていう曲だよ。
 ――ぼくもできる?
 ――うんと練習しにおいで。なんだって弾けるようになるから。
 それから遠海のピアノ通いの日々がはじまった。伊丹がいれば伊丹が教えてくれたし、いなければ伊丹の母親が教えてくれた。遠海の母親も時折やって来て、連弾をする日もあった。普段の母親のことをなんとなく苦手に思っていたが、一緒にピアノを弾く母親のことは好きだと思った。
 クラシックだったのがジャズになったのは伊丹と母親の趣味だったが、伊丹が言った通り、遠海はうんと練習したからなんだって弾けるようになった。学校で歌の練習のときに同級生がする伴奏を聴き、自分はもっと弾けるという確信が常にあった。でも学校では一度たりとも弾かなかった。鳴らしたいと思うのは伊丹の家にあるピアノ、それだけだった。
 高校卒業後に音大すら目指さなかったのは家庭の事情もある。そこまで金銭的な余裕のある家ではなかった。むしろ金のなさを痛感していたからこそきちんとした職に就くべきだと思い、高卒で清掃局に入局した。遠海が就職したときは市の管轄で、遠海は公務員の扱いだった。その後間もなく民間に業務委託することになり、遠海をかわいがってくれていたいまの社長に誘われて現在の会社に移った。清掃会社は人が嫌がる仕事だからかおおむね賃金がいい。伊丹の家にさえ通ってピアノを弾ければ、遠海の生活はなにも不足はなかった。
 そのピアノも、いまはない。伊丹は新たな住所地での開店を決めて準備中だが、ピアノの話は聞かなかったし、あったとしても遠海を呼んでくれるとは限らない。世の中にピアノの弾ける人間は山ほどいる。鴇田はあくまでもアマチュアであり、伊丹が望む店のことを考えると、きちんとしたプロのミュージシャンを雇って再出発の方がいいように思う。
 遠海は、伊丹があのピアノをあそこに用意したから弾いていた、それだけだ。特に個性のあるような魅力的な演奏を出来るわけではない。紗羽は帰国しているが演奏する場所がないので連絡を取りあっていないし、ケントは帰国すらしていない。このままこの部屋にある電子ピアノにかじりついて終わる。想像して、それでもいいかもしれない、と笑った。身の丈に合っている。いままでが贅沢に望みすぎたのだ。
 電子ピアノの椅子から降りて、通勤に使っている鞄を引っ張り出す。中には今日事務所からもらってきた「あおばタイムス」が入っている。会社では前々からあおばタイムスを定期購読しており、休憩中に誰でも読めるようになっていた。だが読み終われば不要になる。それを事務員に頼んでもらって帰るのがここ数カ月の遠海の日課だった。
 よれたそれをひらき、三倉が担当した記事を探す。同じ地域で担当は何人もいるし、コラムは持ち回りで掲載されない日もあるから、必ずしも三倉の文章を読めるわけではなかった。それでも探す。たまに三倉の記事が一面トップに使われていたりするとどうしようもなく嬉しかった。
 今日の掲載分で三倉は、役所の議会の様子を報告してあった。子育て支援拡充のための特別法を議会が提出、とある。議会など傍聴したこともない。ラジオで流れる国会中継だって眠くなるのに、そういうものに興味を持って取材をする人間とはどういうことだと思ってしまう。
 やっぱり自分とは遠い人間だったのだと、最近はよく思う。一時的に近い場所にいたが、やはり一時のことだった。近い場所にいる人間だと思った夜もあったけれど、例えばそれは自分の荒野と隣人の荒野の話で、密集地の近さではなかった。それに人はその荒野から出ることがある。自身の荒野に見切りをつけて街へ降りられたのなら、もういっそ関係がないと思える。
 テレビでは歌番組が始まり、悲恋を綴ったヒット曲を歌手が歌う。ばからしい、と思って消した。そんなんじゃない。そんな曲を自身と重ねるほど、遠海の恋はたいしたことではないはずだ。
 くまなく見たが三倉の記事はそれだけで、見終えた新聞紙を部屋の隅にまとめて置いて洗面所へ向かった。どうしても新聞の束を捨てられない。



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今日の一曲(別窓)






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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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