忍者ブログ
ADMIN]  [WRITE
成人女性を対象とした自作小説を置いています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「たまご?」
「明日の朝の分がなかったから。スーパーいくつも回ってみたけどなくて、ようやく一パック買えたの。でも割れちゃった」
 中身を確認し、また歩き出す。別に玉子ぐらい食べなくても生活に差し支えはない。こんな非常時に玉子を探して町から町を歩くことがまともな行動だとは思えなかった。蒼生子がなにかと玉子を重ねて見ているような気がしてならない。この感覚は前に――二十八歳のころに、味わっている。なにもかもに理由を見つけては泣き暮らしていたころの妻がちらつく。
 けれどあのときは、暖自身はちっとも傷ついていなかったから、平気だった。少なくとも自身のストレスのことは気づかなかったし、気づいていたとして、どうにかやり過ごすことが出来た。疲れた、とは思わなかった。どうしたら彼女の気を晴らせるか、この状況を脱することが出来るか、それを考えていた。
 共倒れしないぐらい、暖は健康だった。いまはと思う。また眩しさが蘇ったのは蒼生子を追い続けてようやくたどり着いたマンションだった。蒼生子がつけた照明に耐えられない。こんなに眩しい。暖も傷ついている。だからって妻を攻撃していい理由には決してならないが、添えるかどうかはもう分からない。夫婦間の信頼は削げてしまい、傷を負ったまま走って、いろんな人を巻き込んでしまった。
 蒼生子がつけた照明を暗くすれば火に油を注ぎそうだと思ったので、眼鏡をかけることで誤魔化した。それでも蒼生子はそれにさえ理由をつけて泣くかもしれない。視界が薄いブルーに包まれても心がざわざわと落ち着かない。
 片付いたローテーブルの上に新規マンションの購入情報や住宅のカタログが乗っているのを目にして、驚いた。
「暖、ごはんどうする?」
「蒼生子さん、これは?」
 冷蔵庫を覗き込む妻の肩を掴んで振り向かせ、パンフレットを見せた。
「――ああ、お父さんが同居ってうるさいから、もういっそ家を買うのもいいかなって思ったの」
「……分かるように話してくれないか」
「……実家と同居のことはいいの。お母さんも言ってたでしょう? 暖とお父さんってあんまり合わないみたいだし、いいの。でもこのマンションは暮らして長いから。新婚からずっと住んでて手狭になってきたし。いつまでも賃貸で暮らすよりもいっそ買うのはどうかなって思っていくつか資料請求してみただけ。ここよりもっと広くていい部屋に住めたら、犬も飼えたりして、気分も変わって、いまより楽しくなって、……それで」
 冷蔵庫の前で、ついに妻はへたり込んだ。静かに涙を流している。いっそ嗚咽でも漏らされればかえって醒めるのに、この精神の頑なさをどうしても見放すことは出来ない。それは十年連れ添った仲だからそう思うのか、と考える。彼女が辛かったときのことがよぎるからか。身のうちに暴れ回る怒りや悲しみや理不尽を昇華出来なくて泣くしかなかった、あの日々の反省なのか。
「だっていま、全然じゃない……」
 背に手を当てると、彼女ははらはらと泣きながらそう言った。
「全然楽しくない。あなたは帰ってこない。友達はみんな子育てや仕事に忙しくて話が合わないし。暖のシャツばっかり縫いあがっていくのが淋しいの。こういうとき子どもがいたら楽しいのかなって。一緒にごはん食べたり、休んだり、世話してあげたり、その子のために服を縫ったり洗ったり着せてあげたりして、って――思ったらやりきれなくて……」
「……ひとまずソファに行こうか」
「暖ってそうやって自分は冷静ですって顔と態度で、肝心なことを喋らず済ますよね……」
 ただ泣いていた彼女の態勢は、暖への攻撃に転じる。
「私に言っていないこと、たくさんあるでしょう」
「――あるよ」
 さすがにもう、これ以上は無理だと思った。暖自身が壊れてしまう。「でも、あなたにもずっとおれに言わなかったことがあった」
「お互い様って言いたいの?」
「少なくともさっき鴇田さんに迫ったこと、あれはおれにとって許せないことだ。彼はなんにもわるくない。あんな風に人を追い詰めるものじゃない。おれたちは色んな危機を乗り越えてきたと言ったね。これからもそうする、と。でも色んな危機ってなに? 危機なんてひとつの由来からしかなかったよ。子どもが出来ないこと、それだけ」
「それだけ? それだけのことなんかじゃないよ?」
「うん、大きな問題だ。でも根本からはき違えていることがあるようだからきちんと訊く。あなたが欲しいのはおれとの子ども? あなた自身の子ども?」
「……」
「おれは、おれとの子どもがそんなに欲しいのだと思っていた。望みをかなえてやれなくて申し訳ないという罪悪感がずっとあった。けれどそれはおそらく違うのだと気付いた。あなたは高校時代に産んであげられなかった命に対してずっと謝っている――それはおれとの子どもじゃなくて、あなたの子ども、と言う意味だ」
「違うわ……」
「おれはあなたに妊娠の経験があるとかないとかはどっちでもいい。重要なことではない。けれどその妊娠を経た不妊であるならば、怖くても言って欲しかったと思う。事実を知った上でやれることやれないことがはっきりしたはずだ。そこから組み上げていけばよかったんだ。……そして浮気はしていなかったのにそれも疑われていた。なかったことをあるんだと言われ、あったことをなかったことにすると言うあなたの思考にはおれはもう賛同できない。理想と妄執から離れるべきだ」
「正しいことばっかり言わないで! あなただってたくさん間違ってるじゃない……!」
「……元々子どもを作ろうっていう雰囲気がもうプレッシャーだったんだ。それでもあなたが欲しがるから頑張ってみようって思っていた。……あなたに添いたいと思っていたおれのことまで否定しないでほしい」
「……プレッシャーになったからって自分の行いを正当化するの? 鴇田さんとはもう他人で済ませる距離じゃないよね?」
「そんなつもりはない。……結果的におれは確かに鴇田さんと関係を持った。でも疑われていた時点では事実はなかったんだよ。――そうだな、結果は同じだったかもしれない。それは認める」
 そう言うと蒼生子は顔を歪め、「鴇田さんだったから?」と訊いた。
「……そうだ、鴇田さんだったからだ」
「男の人だよ」
「関係ない。あの人はおれを好いてくれた。でも好かれたら誰でも良かったわけじゃない」
「あの人のこと、……やけに気に入ってるんだなってはじめから思ってた。バーでピアノ弾いてるところ見たときから。あの人このあいだ話聞かせてもらった人なんだよって嬉しそうで。知り合ってしまったら急に近くなって、怖いと思った。私は暖とふたりの時間が大事だと思っていたけど、鴇田さんが映画や食事に混ざったり、飲んでくるからって言って帰ってこない日が増えたり。ひとりは淋しかった。子どもがいればいいなってますます思ってた」
 蒼生子は肩を引き攣らせ、大きくしゃくりあげた。暖はその肩を抱く。蒼生子にも鴇田にもひどいことをしているんだろうと分かっていて暖は大事な人に触れる。触れることの大切さが、いまならよく分かる。
 言葉で伝わらないことも伝わる。言葉にならない感情のことも伝わる。触れることもまた言語だ。
「鴇田さんと浮気してるかもしれないって、そうじゃなくても暖の心は鴇田さんにどんどん吸い込まれていくって、……嫌な考えばっかり浮かんだ。実家から暖がなにも言わないで出て行っちゃった日……お母さんが電話の内容を聞いてた。『トキタって人のところにいますぐ行くみたいだから追いかけなさい』って言われたけど、足が動かなかった。やっと電話したけど、怖くてなにも言えなかった。やっぱり鴇田さんだって思った。お母さんには妊娠と中絶経験があることを言ってなかったの? って責められたわ。そのせいで、……暖が鴇田さんに会いに行くなら、仕方がないって思っちゃった。男の浮気は許すものだってお父さんはずっと言ってて、お母さんはため息をついて、」
「……」
「……暖のスマホも見た。私が思ってる以上に鴇田さんにメッセージ送って、電話もしてた。この人たちのお互いの求心力はすごいんだなって思うしかなかった。……心が離れていくのを目の当たりにして、私は引き留めるより諦めたの。赤ちゃんさえ出来ればいいんだって」
「蒼生子さん、聞いて」
 妻の肩をとんとんと叩く。
「浮気を許すものだっていうお義父さんの考え方を、おれは尊重しない。……おれとあなたは子どもが欲しくて頑張ってたけど、出来ない夜がたくさんあった。いずれあなたには子どもを諦める道もあるんだっていう話をしようと思ってた」
「いや……」
「蒼生子さんはどうしたいと思うの?」
「なかったことにする……」
「……」
「浮気のことは知らない。知らなかった。だから家でも新しくして、引っ越して。気分を変えて、……子どもが欲しい……」
「……」
「ずっとあるの、喪失感が。思春期のころからずっと。なにをしても淋しくてたまらない。満たされない感じがする」
「それが子どもの存在で埋められる?」
「友達の赤ちゃん見たり育児の話を聞いて羨ましいって思ってた。私だったらどんなにかわいがるだろうって夢見てて。きっと淋しくなくて、満たされるんだろうなって。それが『お母さん』なんだろうな、って」
「そうか」
 暖は立ち上がった。そういう気持ちでいたことは、知らなかった。もっと話しあっていればよかったなと思う。それじゃだめなはずだった。暖では。
 暖では蒼生子の淋しさの穴を埋めることは出来ない。
「ならおれたちは平行線だ。おれは子どもがいない選択肢もあるんだって考える」
 ひゅ、と蒼生子の喉が鳴ったのが聞こえた。暖だって苦しい。目は相変わらず眩しさを訴えていた。眼鏡ではどうにもならないぐらい光が辛く、硬く目を瞑る。



← 19


→ 21






拍手[5回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新記事
フリーエリア
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

Template by wolke4/Photo by 0501