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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「――おれも会いたかったよ」と答える。
「あなたが辛いときに会えてよかったと思う」
「やめてください。……あんたの言葉ひとつでいくらでも僕は喜ぶし、傷つくんだ」
 鴇田は目を伏せ、ゆっくりと開いた。
「あんたが言ってた『情』を調べたんです」
「……意味、分かった?」
「こころ、とありました。人間の生まれながらのこころだって。『おもむき』とか『なさけ』という意味もあったけど、あのときあんたが使ったのは前者で合ってますか?」
「うん」
 暖は頷く。
「愛しいも、辛いも、悲しいも、淋しいも、全ての感情を生み出す海みたいな部分のことを指すんだと思って使った。人に芽生える感情の原始的な部分だ」
「だとしたら、……ますます分からなくなりました。そこまで深い部分で交流があったことが信じられない。僕はまだあんたの言う『情』をしっかりと理解できないんです。すごく分かりたいと思うのに」
「……おれもそんなもんだよ。まだ正体をしっかりと確かめ切ったわけじゃない」
「僕は……三倉さんには奥さんと別れてほしいと思う。自分がそれを望んでいいみたいな人間に思ってしまう。……自分が自分じゃなくなる。誰かに触れることが怖かったはずの僕はいまこうやってあんたに触れていて、」
 鴇田はしっかりと暖の目を見た。
「あんたにずっと触れていたくてたまらない。一度触れたら、離れる方が怖いと思ってしまう」
「……」
「でもあんたは家に帰る。ひとりじゃないところです。だから、……僕はこういう感情とか、肉のひっ迫感を、早く忘れたい。僕は僕に戻りたい」
「おれがいま触れているのは鴇田さんでしょう」
「……」
「はじめからずっと鴇田さんは鴇田さんだ。ものすごく怖がりで、」
 鴇田の手を身体から剥がし、指に触れた。
「繊細で誠実。勘がよくて器用。ごみを回収した手から信じられない音色を出して、映画館の雰囲気が好きで、表情のバリエーションは少ないけどとても豊かな人です」
「……そう映るんですね」
「こういう仕事なので、観察眼はあると自負しています。……なにか食って帰りませんか。店がやっていればですけど」
 鴇田と身体を離し、髪の生え際を軽く引っ張ってから店の外に出た。伊丹とバースタッフに挨拶をし、駅までの遠い道のりを歩く。交わす言葉はなかった。けれどこうしてずっと歩いていられる、と不思議な確信がある。
 駅前まで出たが、さすがにやっている店もあまりなかった。もう少し移動すればあるのかもしれない。チェーンのコーヒーショップが営業していたのでテイクアウトでコーヒーを買い、駅前の広場に腰掛けて飲んだ。温かな飲み物でほっと息をついた。嵐がいろんなものを連れ去って空気は澄んだし、だいぶ冷え込むようにもなった。
「これから、どこかでピアノを弾けるあてはあるの?」と鴇田に訊ねる。鴇田は首を横に振った。
「家の電子ピアノにイヤフォン差し込んで鳴らすのが精一杯です。それに僕は伊丹さんの店だから気持ちよく弾けた。伊丹さんが店を再開出来なければ、もう人前で弾くことはないかもしれません」
「そうか。もったいないな……」
「あのピアノで弾きたい曲がまだたくさんありました」
「うん……おれも聴きたかった」
「でも、紗羽もケントも戻らないし。そもそも僕は清掃作業員が本職です。そういう意味ではいいころ合いなのかもしれない」
「ピアノをやめるってこと?」
「人前で弾かない、個人的な趣味に留める、ってだけですよ。別にピアノが弾けなかったからって死んだりはしない」
 ず、と音を立てて鴇田はコーヒーを口にした。
「――でも」と暖は異を唱えた。
「あなたにとってあの店のピアノはそんな存在じゃなかったはずだ」
「……」
「出来ることなら弾いて欲しい。ピアノにのめり込むあなたの演奏も、スタイルも、おれは好きなんです。悔しいことにピアノに妬いたことさえある」
「おれがピアノを弾いたらあんたは嬉しいんですね」
「そう。でもおれのために鳴らす音色が、って意味ではないです。あなたが気持ちいいと思って鳴らしているピアノが、です」
「……じゃあ、僕のための演奏は忘れないようにします」
「うん。そうしてほしい」
 コーヒーを飲み、ぼんやりと空を見上げた。月は細かったが、冴え冴えと光を反射して濃い夜に光を放っている。
「これからどうしよう」と鴇田は言った。
「いろんなことが目まぐるしく変わっていく。仕事は多忙を極めてる。店も、ピアノも、……あんたを好きなまんまの僕にも、決着をつけなきゃいけない」
「……鴇田さんひとりで答えを出すことではないよ」
「いえ、僕の問題です。僕さえ収まれば」
「なかったことにはならない」
 はっきり告げると、鴇田はうなだれた。その首筋の、作業着の襟から覗く脊椎の出っ張りにたまらない気分に駆られた。否定されたらそれまでと思いながら、そこに指を這わす。案の定鴇田は身体を硬くし、暖を恨めしそうな目で見てきた。
「そうやって不用意に触らないでください」
「触られて嫌な気分になりますか?」
「……あんたの場合は困る……すごく、」
「じゃあせめてこれだけ」鴇田の手を取り、指を絡ませて暖の腿の上に置いた。
 指をとんとんと動かし、遊ぶようにリズムを刻む。鴇田がピアノを弾くように器用には動かせないが、動かしているうちに鴇田のこわばりはすこしずつ解けた。
「――あんたといると、山積みの問題がどうでもよくなります」と鴇田も指を遊ばせはじめて言った。
「それがいいところなんじゃないかな」
「触れることの?」
「うん。我を忘れてしまうところが。理性とか体面とか置き去りで」
「……なら、やっぱり怖い」
「……そうだね。あなたはそうだ」
 髪にキスをしかけてやめた。人通りは少ないが往来がある場所だ。手を繋いだままコーヒーを飲んでいることだけでもう、危うい気がした。それでも離せない。今夜あのマンションに帰るのだと思うとまた眩しさを覚えるような心地がする。だが妻と話さないわけにはいかない。
「そうだね……」
 誰に言うでもなく、月を眺める。いきなり鴇田が身体をこわばらせた。繋いでいた手が離され、彼は立ち上がる。前方を向いたまま動かないので、「なに?」とそちらを見ると、ふたりの元へやって来る影があった。
 夜に紛れて顔まではっきりしないが、小柄でこまこまとした動作の歩き方で誰なのか分かった。途端、暖の心臓がはっきりと唸る。
 蒼生子だった。彼女がこんな時間にこんな場所をひとりで歩いていることに驚く。手に買い物バッグをぶら下げて、彼女はきびきびとした足取りでやって来る。ふたりの傍まで来ると、立ったままの鴇田の前で止まる。硬く険しい顔で「また暖が無理にお誘いしましたか?」と鴇田に訊ねた。
「蒼生子さん、」暖も立ちあがる。
「いえ、今夜は……偶然、」
「そうですか。先日の台風の夜は、主人がお世話になったようで」
 それを知られているのか? と驚く。あの夜の行き先は告げたことがなかった。もしかすると蒼生子の実家から鴇田に電話をかけた日、隣室の義母に聞かれていて知ったのかもしれない。もしくはひょんな隙を見て暖のスマートフォンを見た。情報を得るのは妻という立場なら難しくない。特に暖は隠す努力を全くしていないので容易いだろう。どれもあり得る話だった。
 唐突に、パン、と乾いた音が響いた。
 蒼生子が渾身の力で鴇田の頬を打ったのだ。鴇田は傾がなかったが、呆然としていた。蒼生子が手にしていた買い物バッグが地面に落ちる。ぐしゃ、と何かが潰れる音がした。
 強い目で蒼生子は鴇田を見る。そのわりに感情の読めない表情をしていた。怒っているでもなく、呆れているでもなく、悲しんでいるでもない。強いて言うなら戸惑っている、そういうニュアンスの顔だった。
「忘れてください、この人のこと。もう会わないって約束してください。そしたら私も、なかったことにします」
 鴇田の唇が震えたが、彼はなにも発しなかった。
「私たち、これでも仲良くやってる夫婦なんですよ。赤ちゃん欲しくて頑張ってる。これまでいろんな危機があったけど、それをお互いの努力とか、歩み寄りとか、工夫で乗り越えてきました。今回もそうします。あなたと主人はなにもなかったし、これからもなにもない。会わないでください。約束を、してください」
「――します」
 鴇田は棒立ちのまま、復唱するように言った。
「忘れます。もう会いません。……僕個人の感情であなたとあなたのご主人を振り回したこと、お詫びします。申し訳ございませんでした」
 そう言って鴇田は深く頭を下げる。それを蒼生子は見届けることなく、踵を返して「行こう、暖」と暖の肘を掴んだ。暖には言いたいことがたくさんあった。蒼生子に対しても、鴇田に対しても。それでも蒼生子は進むので、鴇田に「いまの謝罪は撤回してください」とだけ言って蒼生子が落とした買い物袋を拾ってあとを追った。
 追いついた暖に、蒼生子は振り向かない。名を呼び掛けても彼女は前に進むだけだった。肩に手をかけると反射的に振り向き、躊躇って、うつむいた。暖の手元から買い物バッグだけをひったくり、また足早に歩き出す。
「――蒼生子、」
 懲りずに呼びかけると、彼女はようやく足を止めて、道の途中で買い物バッグの中身を改めた。
「たまご、買ったんだよ」と言う。


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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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