×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
――ミサトの背中は綺麗だね。
耳元で囁かれてぞくぞくした。ぎゅ、と目を瞑るも、それは男の声をかえって意識せざるを得なくなる。指が背中を這い、舌が背中をなぞる。尾てい骨まで下りた手は、そのまま尻たぶを割り、窄まりに沈んだ。
――綺麗で、いやらしいね。こんなになって。
ぶんぶんと首を振って抵抗する。前にも手が伸びて、健康な直立を刺激される。
――あ、あ、
――欲しいだろう? 欲しいって言ってごらん。
――あ、欲しいっ……。
――どこに、なにが?
卑猥な要求を口にしろと迫られる。嫌でたまらなかったが、言わないといつまでもとろ火で煮やされ続ける。前に拒み続けたらもっとひどい格好でひどいことをされたので、こういうのは素直に口にする方がいい、と学んでいた。だから望むように口にする。あたかもそうされたいと思っているかのように。
――いい子だね。いまあげるよ。
言うなり一気に貫かれた。剛直が内壁を押し上げて、刺激で軽く射精する。またあられもない台詞を囁かれ、腰を使って打ち込まれる。
――ミサト、かわいいよ。
ミサトじゃない、ミサトじゃないよ、と心の中で唱える。おれはミサトじゃない。
――僕のかわいいミサト。
――せ、先生っ、
――先生。陣内先生。
いつの間にか大人の身体になっていて、下腹の下に叢もあった。いま自分の背後に重なっているのが誰だかわからない。なんだ、誰だ、誰? 腰を掴んでいる手は、まだ幼い。
それが大きくなったり小さくなったりする。自分も年齢があやふやで、縮んだり膨らんだりを繰り返す。遠近感が麻痺する。でも身体は触れている。
背後の熱が、ぷつりと消える。引き抜かれたのではなく、消失した。振り返ると背中を向けてシャツを羽織る男がいた。大人のような、子どものような。
左肩に入れ墨がある。それがシャツで隠されていく。これ、知ってる、と思って肩を掴んだ。掴む自分の手は大人で、振り返る男は、少年だった。目だけが光っている。
――藤見。
そこで目が覚める。汗をかいていて、夢精は免れていたが、しっかりと下着に染みを作っていた。時間、真夜中。くそったれ、と性器に手を伸ばす。
誰をあてにしたんだかわけがわからないまま、興奮を擦って射精した。
職員室よりも進路指導室にいる時間の方が、長くなっていた。藤見の話を聞きながらノートの添削をするようになったり、書類を作成するようになったり。藤見は藤見で、こちらにはわけのわからない参考書を解いていたり、学校のタブレット端末を使って囲碁のソフトで遊んでいた。交わす会話の中で、ある日、「先生の字ってすごく綺麗ですね」と褒められた。ちょうど生徒の漢字書き取り帳を添削しているところだった。
職員室よりも進路指導室にいる時間の方が、長くなっていた。藤見の話を聞きながらノートの添削をするようになったり、書類を作成するようになったり。藤見は藤見で、こちらにはわけのわからない参考書を解いていたり、学校のタブレット端末を使って囲碁のソフトで遊んでいた。交わす会話の中で、ある日、「先生の字ってすごく綺麗ですね」と褒められた。ちょうど生徒の漢字書き取り帳を添削しているところだった。
「先生の板書ってすごく見やすそう。先生の授業受けたかったな」
「そういや三年間なかったな、受け持ち」
「あ、そうか。国語って習字の時間もありましたよね。なんか冬休みの課題で出されてた気がする。今年もあるんですか?」
「この学校はあるよ。ちなみにこの学校の書写は、基本的にはおれが全部の字を見てる」
「え、そうなの?」
「手本書いてるのもそう」
「嘘?」
「嘘つくかよ。だっておれ、高校書道の免許状も持ってるし、親父は書道家で書道教室もやってるし、おれも芸術院に毎年出品してるし」
「うぉおおお?」
「なんだその反応は」
面白いぐらいに素直な反応だった。それから「おれはすごく字が下手だから」とまじまじこちらの手元を見る。
「ていうかなんか、手先を動かすのが苦手らしくて。美術とか、音楽の授業の器楽とか、技術家庭科もあんま」
「そういうのはそういうので別にコツや感性や技術があるんだろうけど、……そうだな、おれも美術はちょっとかじったかな。レタリングとか、デザインの分野は面白かった。構図の話とか参考になる」
「美術、……いま授業で、三年間の集大成とかって言って、水彩絵の具でクラスメイトの絵を描かされてるんですけど」
「うん」
「椅子に座ってる友達、っていうテーマで。それが難しくて嫌になります。椅子、がすごく難しい。美術の神農先生に、『それじゃ展開図だよ』って言われましたけど、意味がわからない」
「椅子かあ。そういう写生的なところはおれも分からんなあ」
「なんだっけ、遠近法、ってのがあるんだと言われました。きみの椅子は実際に組み立てたら椅子の形になるんだろうけど、美術には表し方がある、とか」
「うーん、わかんね」
笑ってから、藤見に「おまえ、なんでもいいから紙を出せ」と指示した。
「紙? ルーズリーフとかでいいですか?」
「いいよ、なんでも。書ければ」
鞄を探って藤見が差し出した紙切れに、「見てろよ」と言ってから、添削用の朱色の筆ペンで字を書いた。
『めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子』
「めをほそめ、みるものなべて、あやうきか。あやうし緋色の、一脚の、椅子」
『めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子』
「めをほそめ、みるものなべて、あやうきか。あやうし緋色の、一脚の、椅子」
あえて手本のように美しい文字ではなく、緩急つけた書体でくたくたに書いた。書いたものを藤見はそのまま呟き、なぞって飲み込むように再びそれを読んだ。
「村木道彦っていう歌人の短歌だよ。いまおまえが椅子って言ったから思い出した。おれが書ける椅子は残念ながらこっちだ」
「……すごい、すごいね、先生」
藤見はルーズリーフをじっくりと眺め、しばらく黙り、続けて「すごいね」と繰り返した。
「村木道彦の短歌、おれはハマったなあ。歌集を古本屋で買ったもん。あやしいだろ、その歌」
「まだしっかり意味を読み切れてないですけど、……なんかみぞおちのあたりがひやっとします」
「な、なんかそんな感じなんだよな、この人の歌って。若い時に作ったものらしいけど、若さがそのままっていうか。不安定で、怖くて、無我夢中であがいていて、激しくて、苦しみながら惹かれるみたいな、そういう若い人の蠱惑的でただならないあやしさがたったこれだけの文字にされている。すごい才能だと思う。これもなんか、ハマったな」
もう一枚取り、また別の書体で歌を書いた。
『するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら』
「――この、さ、ひらがなとカタカナの絶妙な選び方もいいんだ」
『するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら』
「――この、さ、ひらがなとカタカナの絶妙な選び方もいいんだ」
二枚の紙切れを手にして、藤見は黙っていた。
「よけりゃやるよ。あー、だいぶ暗いな。もう最終下校時刻になるから、そろそろ帰れよ」
「――先生、」
呼ばれて顔を上げると、そこには相変わらず燃え盛るような強い目をした少年がいた。目を細めても、緋色の椅子が怪しいように、その目の強さはひどく印象に残る。
「先生は、誰に捨てられたんですか?」
「――……」
「こんなのに感情移入できたら、辛いですよ」
「……そうだな。おまえは、しないか」
立ちあがり、ぽん、と藤見の頭をはたいた。
「しないほうがいい。知らん方がいいだろう」
「先生、おれは、」
二枚の紙を机に丁寧に並べ、藤見はうなだれて胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「先生のことを考えると、ここがすごく痛いです」
「……」
「これをあんまり味わってたら壊れる、けど考えてしまう。……この人の歌集、図書館にありますか?」
「あ。……どうだろう。古い本だしな。うちに歌集があるかもしれない。読むか?」
「知らずにいたい感情の、蓋、が、開く。……というか、名付けられてしまう気がします。でも、読みたいです」
「……分かった。探す」
PR
それから数日、テストを返却し終えたり勉強したり教えたりの日々の中で、職員室に藤見がやって来た。陣内先生に用事があって来ました、と職員室前で堂々と宣言して入室してくる。
「なん? どしたの」
「タトゥーの件って、あれからどうなったのかなって思ったので」
「どうなったもなにも。上原先生からお聞きしてないの?」
「特になにも言われていません」
「じゃあそういうことなんだよ。今回のことで特になにか言う必要はない、というのが学校側の判断」
「でも、おれ、本当は」
「なんだか長くなりそうだな。場所変えるか」
ちょっと外します、と隣の席の同僚に言い置いて、校舎の隅にある生徒指導室に入った。
生徒指導室にある椅子にそれぞれ腰かけて、「本当はシールなんかじゃない、んだろ」と単刀直入に切り出した。
「……」
「未成年相手にどこで入れてもらったかはさすがに怖くて訊けねーな。ま、知らない体で訊いとくか。頼むから問題は起こしてほしくないんだけど、どこで、誰に入れてもらった?」
「……いとこが絡んでるのは本当なんです。いま大学生なんですけど。いとこのバイト先がライブハウス? クラブ? なんか、そういうところで。そこに来るお客さん相手に商売している彫り師の人がいて。若い兄さんでしたけど、……その人のスタジオで、入れてもらいました」
「胡散くせーな。いまも連絡取ったりしてる?」
「いえ、単純に店と客、って感じなんで。入れてもらってからは、全然」
「じゃあもう絶対に連絡とるなよ。いとこってのも怪しいもんだけど親戚だと難しいな。……てことはそれ、簡単には消えねえわけな」
それ、と肩の辺りを指さすと、藤見はうつむいたが、ややあって「後悔はしてないので」とはっきり答えた。また、あの目。
「なんでタトゥーなんか入れたよ? 好きなアーティストでもいたか?」
「……」
「理由は、とりあえず置くか。あのさ、海外じゃ事情は違うんだけど、ここは日本で、おまえはまだ未成年だからさ。これはすごく問題なんだよな。いますぐ思い当たる問題といえば、進路だな。まあ、背中だとそんなに滅多に目にする場所じゃないけど、機会はあるよ。人の目に触れる機会。水泳の授業なんかあれば一発だ。毎回絆創膏貼ってるわけにもいかないだろうし。この先一生隠し通せるものじゃないだろうな」
「……別に、進路はおれが希望したわけじゃ、ないし」
「ん? じゃあなんだ、それが理由か? 反抗、というやつ」
「それも違う、……」
藤見はそれきり黙った。私は息をつく。
「これからおれは生徒指導らしく、説教、というものをするぞ」
なんて言ったらいいんだか、ただでさえ最近はキャパシティからいろんなものが漏れているのに、と髪を掻いて椅子に深く腰かけた。
「まだ、未成年なんだ。それがいちばんの問題だ」
「……」
「未成年というのはつまり、親や、周りの大人に、保護される立場にある、ということだ。社会的な話でいえば、おまえの年齢ではカードローンは組めないし、飲酒も、喫煙も、車の運転もだめだ。なぜだめにされているかは、発達段階である、という身体の理由であることがいちばん大きいとおれ個人では思う。いろんな考え方の人がいるからそこは見識を広めてほしいとは思うけどね。身体も、精神も、生きてる年数も、まだまだ伸びていく段階なんだ。そこには不安や不満、憤り、怒り、悲しみ、苦しさ、不安定さ、そういうマイナス要因がついてまわる。経験不足から無茶な行動に走りがちであったり、驕りや侮りがあったり、精神の不安定さから苛々して暴言を吐いてしまったり。発達途中の身体は、おまえの将来をいとも簡単に左右する。成人してからの方が人生は長いからね。いまこの時間を適正に過ごすことが大事。そのための保護者であり、未成年、という立場だ。これ、わかるか?」
「……すごくよくわかります」
「よかった。じゃあ続ける。今回おまえが自分の身体に入れたものは、賛否両論があるけれど、この国では基本的には未成年には入れられないものだ。この地域で言えば、青少年条例に違反する。おまえに施術をした人は逮捕される可能性もあるし、これからのことを考えるなら感染症やアレルギーのリスク、就職、保険、病院で適正な検査が受けられないとか、ハードルは色々とあるんだ。入れる、入れないの判断を、未成年の段階でしてはいけないよ、という意味だな。おまえのこれからの将来に、影響する。ピアスなんかもそうだけど、それは身体に傷をつけて入れるものだろう? 一度身体に入れたら簡単には元に戻せない。その判断をおまえの年齢でするのは早い。まあこれは、入れ墨に偏見のあるうちの国に限る話かもしれないけどな。……簡単には戻らないんだ。身体ってのは、心もそうだけど、傷つけていいものじゃない。せっかく健康な身体を持っていて、数学に秀でる頭もある。おれ個人の見解だけど、今回入れたもので今後に不利益が出るならすごくもったいない話だ。あとは、せっかく綺麗な身体してるんだから、とおれなんかは思っちまう。これは背中に変な痣のある男のやっかみだけどな」
そこまで話して息をつき、「どうする?」と訊ねた。
「おれからの説教は終わりだ。『それ』を今後どうするかだよな。そのタトゥーの話は、親御さんはご存知なのか?」
「いえ、知らないはずです……」
「いま十月に入るところだから、卒業まであと五か月か。水泳の授業は終わってるし、冬になる時期だし、体育や身体測定をうまくごまかせるなら隠し通して卒業はできるだろうな。ぶっちゃけて言うとなーんにも知らない体でつるっと卒業してくれるとおれは楽だなあ。それはさ、結構、結構な大問題ですよ」
「ぶっちゃけすぎじゃないですか、先生」
「秘密ってのはさ、大人になればなるほど増える。そういうもんだ。いまから持つのは精神的にも身体的にもしんどすぎる。軽い気持ちで入れたようには思えないから、きちんとした主義や主張があってカミングアウトするなら、それを尊重するよ。だから、おれはどっちの選択をしてもおまえの味方をする。隠し通すか、公にするか。どうする?」
「……」
「自分の意思で入れた。それは、間違いないか?」
「はい」こくりと頷いた。
「それを入れて、どう思う?」
「どうって、」
「ファッションで入れたなら、格好いいと思う、とかさ。信仰で入れてたら、お守りみたいで安心するとか」
「……尊敬している人の気持ちに、なってみたかったんです」
絞るように、でも、言葉を間違えないように、藤見は語りだした。
「尊敬? 憧れの人の真似して入れたか?」
「その人、には、そういう、その、……が、ある……せめて同じようなものを入れてみれば、その人を慕う気持ちに収まりがつくんだろうかと、うまく言えないですけど、先生の言う『信仰』だと思います。お守りみたいだと、勝手に思ってる……」
思い当たる節があるようなないような、そわそわする心地で訊いた。それはさ、やっぱりおれを意識してのことだろう、と、本当は正面きって訊ねたい。訊いても彼は隠さないだろう。
「先生は、背中の痣に、コンプレックスが、ある?」
「またその話か」
「さっき言ってたから。やっかみだって。……秘密は大人になればなるほど増えるっていうのは、背中のことですか?」
「言っとくけど、おれの背中には観音様も龍も蛇も入ってないからな」
急に喉が渇いてきた。藤見の臆さない目がこちらを見ている。
「自分じゃ見えないところだから、普段はあんまり気にしない。けど、生まれつきあって、親がそれをずっと気にしてたから、気にするようにはなったかな。着替えとか人前だと本当に嫌だし、銭湯やプールも行かない。医者も決まったところにしか行かない。シャツの下には絶対にインナー着るし。女性が胸を出せないような感覚なのかな。基本的には、見せたくない。……さっき言ったけど、綺麗な肌のやつは素直に羨ましいよ。おれの場合はね、触るとちょっとざらっとしてるから。毎日見える場所にあったら本当に嫌だったと思う」
「……すみません」
「なんで謝るんだか。まあ、でもそうだな。おまえみたいに滑らかな背中――」
思い出したのは、先日確認した若い肌のことだった。熱気や湿度まで思い出せるような、生々しさが胸に湧く。こんなちいさな子どもに欲情してんじゃねえよと、やっぱりため息をつきたくなる。
この少年は、自分を明らかにしようとする。明らかにされる、それが、とても嫌だ。
「――……綺麗な肌の人は、羨ましい。でもそんなことを言ったら、若い人のことはおおむね羨ましくなっちゃうし。歳を取れば痣なんかに構ってられなくなって、しみだ皺だたるみだなんだかんだ。人の数だけ業はあるよな」
「――陣内先生、」
「なん、」
「おれ、今回のことですごく悩んでいるので、先生には話を聞いてもらいたいです。そして先生と話す内容のことは、他の先生や親や友達には、知られたくないです」
あーあ、と思った。その狡猾で優秀な頭を、こんなところで使うな、と。
こんなにひりひりして目の離せない少年のことを、自分は抱える。多分、結構望んでいる。魅力的だから。とっくに当てられて参っているから。目、が。
燃えるように綺麗に激しく透き通っていて。
あと五か月。さっさと卒業しちまえよ。
「しょーがねえなあ。おれおまえの先生だもんなあ。相手してやるよ」
「その言い方」
「個人的な面談をしている、ぐらいのことは報告せにゃならん。それは制度的な話で許してくれよな。内容は守秘しよう。そういやおまえ、そろそろ受験じゃねえの? その、特待生なんとか試験。あれ? 私立一般と同じだっけ?」
「いえ、来月ですね」
「じゃあ追い込みじゃねえか。おれと話してる時間なんかあっていいわけ?」
「言い方」
藤見は笑った。いつもの固い表情が崩されて、子どもが顔を出す。
「やることないんです。出題範囲は勉強しつくしちゃったから。もっと面白いことをやりたいので、他の勉強してます」
「すげーな、余裕じゃん。さすがだね」
「褒められてる気がしないですね」
「なんの勉強してんの?」
「いま面白いのは、和算」
――ミサトの背中は月面地図みたいだね。ちゃんとティコまであるじゃないか。
その台詞が耳を掠め、盛大につきたくなったため息をこらえた。いま自分の目の前には、ワイシャツを脱いで半裸になった少年が背中を向けている。みずみずしい肌を骨肉の上にぴっちりと纏わせた若さ、その左側の肩甲骨よりやや上のあたりに、まるい月の入れ墨が入っている。親指と人差し指で作れる輪っかほどの大きさ。色はグレイ。
背を向けてうなだれている少年に、「いいよ、シャツ着な」と言った。
「本当はこんな身体検査自体が時代錯誤で訴えられても誰も弁護できねえだろ。悪かったな。本心から苦痛で屈辱だと思ったらいくらでも親なり教育委員会なりに言ってくれ」
「……誰にも言いませんよ。悪いの、おれです。なんで怒らないんですか」
「シールなんだろ、それ」
さきほど確認したことを、言い聞かせるように復唱した。少年にも、自分にも、言い聞かせている。
「自分でそんなところに貼れるわけないから、共犯者がいるわけだけど、それは置いといて、そのタトゥーはシールで、一か月もすれば自然に消える、と」
「……はい」
「藤見は普段から大人しい方だし、成績も上位だし。問題起こすような生徒には見えない。少なくともおれたち教員やおまえのクラスメイトからすればね。そういうやつの背中にいきなりそんなのが現れちゃったもんだから、まあ面白がられて問題化したわけだ。一応、上には報告するけどさ。受験受験の夏休みのストレスからの衝動で、ということで」
いいよ、と再度言うと、彼は脇に畳んだシャツを羽織った。
「担任の上原先生が心配してらした。いい先生なんだから、困らすようなことすんじゃないよ」
「陣内先生」
「ん?」
ボタンを留め終わり、椅子をくるりと回転させてこちらを向いた。
「タトゥーがあるかないかをじかに確認されたことは、別になんとも思いません。上原先生は女性の先生だから、生徒指導の陣内先生が適任だろうとした学校側の配慮も、まあ、頭固いとは思いますけど、別に、です。でもおれ、こういうことすればおれを呼び出すのは陣内先生なのかなっていう、打算がありました」
「おれと話したいならシールなんか貼らずに職員室くればいいのに。いくらでも」
「職員室じゃ訊けないでしょ。……先生の名前って、ミサト、なんですか? カイリ、なんですか?」
「そんなの訊いてどうするの」
「先生の背中に月みたいな痣があるって、本当?」
「あほな噂話が流れてるもんだね。もう遅いから帰りな。自転車気を付けてけよ」
あっち行け、というふうに手を振る。少年は立ちあがり、鞄を背負う。
「すみませんでした。先生さようなら」
「はいはい、さようなら」
扉をぴしりと閉めて影が遠ざかっていく。煙草を吸いたくなったが、ここは学校なので我慢する。
――ミサト、きみの背中はきれいだね。きみはかわいいね。
昔の音声がこびりついて離れない。あの無茶なことをした十五歳の少年――藤見和乗(ふじみかずのり)の背中のシールが、一か月後に消えていると信じるほど、彼らのことを信用していない。
中学校教師なんて、そんなもんだ。多感な少年少女がまっすぐに育つと信じる方が歪んでいる。自分がそう育たなかったように。
「それで藤見の件はどうなりましたかねえ」と職員用のトイレですれ違った三学年の学年主任に訊かれた。
「それで藤見の件はどうなりましたかねえ」と職員用のトイレですれ違った三学年の学年主任に訊かれた。
「ああ、シールですよ。いま若い人のあいだで流行ってるやつ。これを使ったんだっていうのを見せてもらいましたから。夏休みにいとこと遊んでつけたら落ちなくなって本人は相当慌てたそうです。そのうち消えますよ」
「そうですか。いやあよかった。そうですよね、藤見はそうですよね」
うんうん、と頷き、そのまま職員室までの移動で会話した。
「生徒に『藤見くんの背中にタトゥーがある』って夏休み明けに言われたときはどうしたものかと焦りましたわ。体育の千田先生も水泳の授業で確認されてますしね。これは教育委員会ものかと覚悟しましたけど。これなら進学にも影響なさそうですね」
「藤見の進学予定の高校はそういうところがうるさいんですか?」
「おや、ご存知ない?」
「私はこの辺の出身ではないですので、私立となると、本当に疎くて」
ああなるほど、と職員室の扉をくぐって当たり前に給湯スペースでコーヒーを淹れた。
「有名な進学校ですよ。男子校です。私立ですからね、自然とお坊ちゃんが多くなるような学校ですね。藤見みたいに特別奨励金制度を受けて入る生徒も中にはいますけどね。当然ですが、少数です。ほとんどは裕福な家庭の優良な男子生徒ですよ」
「なるほど、それではますます入れ墨なんか入れたら内申どころの話じゃないですね」
「藤見はなあ。去年、今年と、日本数学オリンピックで代表内定まで少し、のところへ進んでますからね。まあ、ずば抜けて数学が出来る出来る。うちの学校じゃ誰も教えられないんじゃないですかね。だから進路は重要なんですよね。ミルクいります?」
「ああ、いただきます。数学なんて私には門外漢ですよ。どんな頭してればそうなるんでしょうかね」
「藤見の叔父さんという方がどこかの大学のフェローだという話です。お父さんも理数系の会社にお勤めだとかで。家系なんでしょうね」
家系、ね。コーヒーを受け取り、そのまま雑談に興じた。そのうち他の先生もやって来たのでコーヒーを持って場を離れる。席に着き、あーテストの採点終わってねえけど生徒指導がな、とか、試験だな、とか、今年の展覧会どうすっかな、とか、考えていた。つまりごっちゃごちゃなわけだ。
大学を卒業して教職に就いた。教員免許状はいくつか持っているが、この学校では国語科を受け持っている。このままこの地方で中学校教師として働いていれば、ずっと国語を教えるのだと思う。でもそうはならないと思う。
夏休み明けに背中にタトゥーを入れて登校してきた藤見に関しては、それまでは接点というものを特に持たなかった。藤見は大人しく目立った存在ではなかったからだ。少なくとも、国語科と、生徒指導という点においては。ただ、数学が抜群に出来ることで、やや奇特な方向に教師・生徒の興味関心は引いていたと思う。国語の成績も悪くないが、とりわけそちらにすぐれているようで、珠算の検定で、とか、暗算が、とか、囲碁も強くて、とか、なんだかその方面で噂を聞く。
まあでも、あれはシールなんかじゃないだろうな、という確信があるのは、藤見が自分に興味を持っているからだった。
先生の名前は、とか、先生の背中は、とか。その優秀な頭をそんな方向に使ってくれるな、と思ってしまう。藤見の興味が自分に向けられていることは、なんとなく分かっていた。授業を受け持ったことがなければ担任を持ったこともない。けれど廊下や玄関などですれ違えば藤見は必ず目を見てくる。挨拶の言葉は発さず、凄まじい熱量の視線で、黙して頭をふかく下げる。
自分のことで生徒に噂があるのも分かっていることだった。生徒は自分のことをおおむね「陣内先生」と呼ぶが、ふざけたり愛着で「ミサトちゃん」などと呼ぶ。「陣内海里」というフルネームを、どう読んでいいのか分かりかねるらしい。そして背中の痣に関しては、授業でちらりと口にした自身のプライベートな情報を、あれやこれやと膨らませたりしぼませたり勝手に歩かせたりしているのだろうと思っている。生徒の前で裸になったことはないし、それは他の同僚の前でも、保護者の前でも同じだ。実物を見られたわけではないのだから、噂の類を出ない。そしてそういう噂が好意的な方向で歩くぐらいには、私は生徒に慕われている。
だからと言って、と考えてしまうのは、自身を省みて恥ずかしくなるからだ。私は藤見少年のように、必ずしもおりこうさんでいられる生徒ではなかった。むしろ後々にまで恥じて傷になるようなことを思春期に行っている。そういう意味で、藤見少年の姿は私には鏡のように映る。過去の恥ずべき自分を、見ろ、と突き付けられる。
あの、物怖じしない、狂気を隠さない目。のびやかな十五歳。これから上にも横にも厚みを増して説得力を持たせる、その一歩手前のあやうい魅力的な時期。大人であり子どもであり、その両方でもなく、それを歯がゆく思う時代。
さっさと卒業してくれよ。
次の日、ヒロは元気に実家へ戻っていった。「次は三月に来るよーっ」と大きな声で、先生からたくさん持たされた土産の紙袋ごとぶんぶん振って高速バスに乗って行った。
私はそのまま帰らずに、商店街に入るスーパーで買い物をした。国産のレモンがあって、嬉しくなっていくつか購入する。とてもよい香りがした。
夕方六時になって、先生が帰宅される。そのとき私は台所にいて、先生の帰宅の音を聞いて蒸し器のお湯を再沸騰させた。
先生が、あれ、という顔で台所へ入ってこられた。
「ちょっと待っててもらえますか? これからふかしますので」
「……夕飯を?」
「これは食事というか、おやつですね」
帰宅して冷えている先生には、温かなものを出して差し上げたかった。ひとまず先にほうじ茶を出して、しばらく先生と台所の机で向かいあう。先生はすこし居心地が悪そうにされていた。やがてタイマーが鳴り、私は立ちあがる。
「これなら召し上がれるかと思って作った、僕の答えです」
ほくほくと湯気を立てているのは、色とりどりにぴかぴかした蒸しパンだった。数種類作った。プレーンのもの、黒糖とくるみ、抹茶とレモン。
「甘さは控えめにしてありますし、バターや油もいっさい使っていません。基本的には粉と卵と牛乳と、はちみつです。でも、もし不快なようなら、無理に食べろとも言いません。簡単ですが、味噌汁と玄米の焼きおにぎり、ぐらいはすぐできます。どうしますか?」
「いえ、……これをいただきます」
先生は丁寧に頭を下げ、蒸しパンをひとつ手に取られる。ちぎるとほっくりと湯気が上がった。プレーンを口にして、「ああ、美味しい」とおっしゃった。
「素材の味がちゃんとしますね。こっちは?」
「抹茶とレモンです。あまりくどくしたくなかったので、これならすっきりと食べられるかな、と」
「色が綺麗ですね」
「自信作です。……蒸しパンって子どものおやつみたいな感じしますけど、子どもに食べさせられるぐらい色々と優しいってことなんですよね。僕の母も工夫して作ってくれました。その延長に、僕のお菓子作りはあったんだと思います。食べさせたい人が、食べてくれるもの、です」
先生は、三種類の蒸しパンをきちんと召し上がった。そしてお茶を飲み、ゆっくりと「大変ご馳走になりました」と頭を下げられた。
「こういう、……お菓子もあるんですね」
そうおっしゃる。
「あんまりお菓子って感じしませんけどね」
「いえ、お菓子だと思えばそうです。……こんな僕をいたわって作ってくれるお菓子ってものが、あるんだと」
「先生の場合ですと、アレルギーはありませんので、他にも色々とできますよ」
先生は驚いた顔をなさる。私はちょっと嬉しくなっていた。
「口がさっぱりしますから、果物でシャーベットを作ると美味しいと思います。その時々の季節のものが美味しいでしょうか。柑橘、りんご、桃、ぶどう、キウイとか。ゼリーもいいと思います。コンポートなら砂糖を少なめにして、その代わりちょっとリキュール多めで大人味にしましょう。和菓子なら胃にも優しいはずですから、自家製のおまんじゅうもいいですね。あずきから炊けば砂糖の量も加減できます。時間がかかるだけで難しいものではないです。あずきが炊けるなら、それを寒天で固めればようかんもできます。ただ白玉を落とし込むだけでもいいですね。時期なら草団子にしても美味しいです。それから、」
「……そんなに?」
「……先生、僕はね。あまいお菓子が作りたいんじゃなくて、手間暇かけてお菓子を作りたいんです」
先生は黙っておられる。
「それを、美味しい、美味しいと言って食べてくれる人がいると、とても嬉しいんです。畑で野菜を作る理由もおんなじ。先生さえよければ食事も作っていいんですけど、あの時間は先生にとって優しいようですので、僕はやっぱり、お菓子かな。たまにでいいんです。毎日は疲れてしまうし、かえってストレスになりますから。でもたまには、僕と先生のために」
「……」
「それで先生。僕、いったん実家に帰ろうと思うんです。二・三日ぐらい。ヒロとテンちゃんが家にいるうちに、お菓子を大量に作ってきます。それでみんなで食べてこようと思うんです。僕なりのちょっとした送別会みたいなものです。なので、ちょっと留守しますけどいいですか?」
そういうと、先生はしみじみと嬉しそうに、いたく優しい顔で「きみのことが僕は大好きです」とおっしゃった。
「先生?」
「大切に思います。だからそれ、僕も一緒に行ってもいいですか?」
「え?」
「僕もきみのご実家に、一緒にお伺いします。それできみのご家族に、大変遅くなって申し訳ないけれど、きちんとご挨拶をしたいと思います。それからきみの作るお菓子をみなさんと一緒に食べたい。――どうですか? 僕は邪魔になるかな?」
とおっしゃりながら、先生は心から満足そうに笑っておられる。
「いえ、大歓迎です。家族も喜びますよ。どうせなら先生も得意の料理を振る舞ってください」
「人の家の台所を占拠してしまっていいのかな?」
「ヒロがうまいこと言うんじゃないですか? あいつに色々やらせましょう。こういうときの立ち回りが上手い子に育ったみたいなので」
「では、テンちゃんもぜひ呼んで、と伝えてください」
先生は「楽しみですね」と心底楽しげにおっしゃる。そういえば今夜からまた先生と一緒に寝られるんだ、と、とてもよこしまに嬉しかった。
引っ越した際にそのままにしていた段ボールを押し入れから取り出す。中身は書物だった。とりわけ重たい一冊を取り出す。それは母の代から流通していた菓子のレシピ本だった。
過去、私はこの本をめくって、様々な菓子を作ってきた。古い本なので使用されている器具は古いのだが、基本を丁寧に踏んでいてはやりすたりのものは記録されていない。貴重な本を母も使ったし、私も使った。だから本には経年劣化の他に油じみやなにかの粉が付着していたりする。
タルト、ショートケーキ、クッキー、プティング、パイ、シュークリーム、チョコレートガナッシュ、ドーナツ、アイスクリーム。
それを眺めながら先生と出会ったばかりのころを思い出した。
――男性は、僕らだけみたいですね。
――きみの作るものだとなんだか優しそうですね。きみからはそういう印象を受けます。
先生は、いまよりさらに痩せていて、でもすっきりした面立ちで、なによりまくった袖から見える肘から先の腕とか、襟足の髪のきれいな刈りあがり、一音一音を丹念に発音する話し方や、考えてじっと見るときの癖なんかをとても好きだと思った。
深夜、そっと部屋を抜け出した。ふすまを静かにあけてヒロがしっかり寝入っているのを確認する。音を立てないように廊下を進み、先生の書斎の扉をあけた。
先生は、ソファでまるくなっておられた。枕元のスタンドが消灯されていない。それを消そうと手を伸ばすと、腕を掴み返された。
「――起きていらっしゃったんですか、」
「あまり、……なんていうのか、眠りづらくて。きみは?」
「ちょっと先生の顔を見たくなったんです」
「……ここでこのまま待ってて」
先生はそうおっしゃって、私に毛布をかぶせると部屋を出ていかれた。しばらくして戻ると、トレイにカップをふたつ載せている。
「こんな夜は飲まなきゃやっていられない。きみにはホットミルクです」
「……あまいにおいがします」
「はちみつと、ラム酒をすこし入れました」
「ラム酒なんかこの家にあったんですね。先生は?」
「僕はウイスキーのお湯割りです」
ソファに並んで腰掛け、同じ毛布にふたりでくるまって、ちびちびと手の中のドリンクをすする。
「ヒロの幼なじみ、テンちゃんっていうんですけど、男の子なんですよ」
そう言うと、先生はしばらく黙り、それから「そうですか」と答えられた。
「さっき寝る前、ちょっと話をしに行ったんです。帰ったらテンちゃんとすっからかんになるまでやりまくる、と身も蓋もない返事があって苦笑しっぱなしでした」
「若いですね」
「うん、……若くて、まだまだ、これから、です」
間があいた。しばらくして先生は、「前妻との話をします」とおっしゃられた。
「嫌な話になりますので、嫌だと感じたら、すぐに言ってください」
「……先生が嫌なのではないですか?」
「いま話さないと僕は一生黙りそうなので。……学生結婚でした。学生のうちに子どもができてしまって。僕は大学を卒業しましたが彼女は結局卒業できませんでした。年子でふたりの子どもに恵まれまして、かかりっきりになってしまったんですね。妻には、そういう、鬱屈があったと思います。同じ年ごろの人間がコンパだサークルだと遊んでいる中で、自分は育児や家庭に追われている。自由になれないもどかしさ。彼女のストレスを僕はうまく逃してやれませんでした」
「……はい」
「彼女の夢は、カフェや食堂をひらくことでした。食べることが好きな人だったんです。僕はきみが見ているとおりに胃弱で食が細いので、ここは本当に趣味、というか、生活が合わなくて。付き合っているときはさほど問題でもなかったのですが、一緒に暮らすと食い違うことはこんなにもか、と、愕然とする思いでいました。……彼女のストレスの矛先は、ジャンクフードに向かいました。ファーストフード店での食事。スイーツを買い込む。大量にジャンクな食事を作る。……僕にとっては胃の痛くなる食事で、受け付けられませんでした。帰宅しても妻の作ってくれた食事、揚げ物とか、ピザとか、オムライスとか、とにかくそういうものを食べられなかったんです。バターや油のにおいを嗅いだだけで吐き気をもよおしてしまう。それが妻にはますます面白くない話になって、そのうち僕だけ別メニューになりました。帰宅すると、ごま塩とごはん、とか、買ってきた佃煮とごはん、とか」
「それは、」
「いま思えば、ある意味立派な家庭内暴力を受けていた、と言えますね。ジャンクなものを子どもは喜びましたから、ますます食事が離れて、やがて妻も、子どもも、目に見えて肥えていきました。顔がむくんで血色もわるかったです。僕は僕で元々の胃弱とストレス性の胃痛でまともな食事ができなくなっていました。妻と子どもらは僕の目の前でケーキやアイスクリームをむしゃむしゃ食べます。あれは、恐怖に近かった。……せめて子どもたちの味覚は守ってやらないと、健康を害してしまうと思って懸命に妻に話しましたし、子どもたちにも注意した。そういうものを買えないように金銭的な部分で制限を設けたりもしました。けれど、止められなかった。お互いにストレスが溜まりきって、言い争いばかりするようになり、僕も妻も健康を害したこともあって、別れました。僕は親権を主張したのですが、子どもたちが妻を選んだので、そちらに。もっともいまはふたりとも成人しましたので、個々に会って話をすることが可能になりました。子どもたちとの関係は、いまは良好です。やっぱりそうは言っても僕の子どもでもあったというか、特に下の子が胃が弱くて。体型も標準に戻りました。雑で濃くて栄養過多だったよね母さんの料理は、などと笑って話します。……けれど僕はあの日々を、到底笑えない」
先生はついにカップを置き、ふうっとソファの背もたれに沈み込まれた。
「離婚してひとりになって、僕自身もようやく身軽になってなんとか健康を取り戻して、やっぱり食事は自分に合ったものをきちんと仕立てられるようになろうと思って、カルチャー講座に通うようになりました。『基本のき、から作る、家庭料理』。あの講座は女性ばかりでしたけど、そこにきみがいましたね。お互い女性に囲まれて世話を焼かれてましたけど、おかげできみに出会えた」
先生も思い出してくださったのか、と思った。出会いの場のことを。私は料理上手になることが目的ではなく、半分ぐらいは取材目的だったのだけど、駆け出しのイラストレーターに対して先生は嬉しそうに接してくださった。
「……あの講座で料理の基本もわかって、自分の味覚にそぐう食事を作れるようにもなって、きみにも出会えて、僕にとってはいいことばかりでした。妻と、……別れたことを僕は後悔をなにひとつしていません。結果的にきみとこうする現在もあります。結婚生活は、本当につらいばかりの日々でしたから。ですが、いま、僕は果たしてきみに対して誠実なのだろうかと考えてしまう。きみの優しいところに逃げて甘えているばかりではないかと」
「そんなふうには」
「今日の博高さんの話は、そういうことを僕に再び問い直すものでした。離れない身体があっても、傍にいても、すれ違うことは多分にある。人間には、感情や経験や性質がありますからね。……僕は、目隠しをして手触りの良さだけを味わっているんじゃないかと。もしかして、しなくても、自然ときみの行動を制約するような発言や、態度を、とってはいないか、と」
「……それは僕が、この家であまいものを食べないこと、ですか?」
「作りたいなら作って、食べたいなら食べて、と言えないんです。……どうしても胃がむかむかしてしまって」
「先生」
先生は、ついに膝を抱えてしまわれた。その痩せて硬い肩に手をまわし、毛布をかけ直す。
「僕は、しあわせですよ」
「……そうなんでしょうか」
「先生とお菓子とどちらを選ぶかと言われたら、絶対に先生を選ぶんです」
「……」
「ですが」
そうですね。考えていることは、まとまらなくて言葉にもならなかった。そのまま身を寄せ合って夜をまんじりと過ごす。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
フリーエリア
最新コメント
[03/18 粟津原栗子]
[03/16 粟津原栗子]
[01/27 粟津原栗子]
[01/01 粟津原栗子]
[09/15 粟津原栗子]
フリーエリア
ブログ内検索