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引っ越した際にそのままにしていた段ボールを押し入れから取り出す。中身は書物だった。とりわけ重たい一冊を取り出す。それは母の代から流通していた菓子のレシピ本だった。
過去、私はこの本をめくって、様々な菓子を作ってきた。古い本なので使用されている器具は古いのだが、基本を丁寧に踏んでいてはやりすたりのものは記録されていない。貴重な本を母も使ったし、私も使った。だから本には経年劣化の他に油じみやなにかの粉が付着していたりする。
タルト、ショートケーキ、クッキー、プティング、パイ、シュークリーム、チョコレートガナッシュ、ドーナツ、アイスクリーム。
それを眺めながら先生と出会ったばかりのころを思い出した。
――男性は、僕らだけみたいですね。
――きみの作るものだとなんだか優しそうですね。きみからはそういう印象を受けます。
先生は、いまよりさらに痩せていて、でもすっきりした面立ちで、なによりまくった袖から見える肘から先の腕とか、襟足の髪のきれいな刈りあがり、一音一音を丹念に発音する話し方や、考えてじっと見るときの癖なんかをとても好きだと思った。
深夜、そっと部屋を抜け出した。ふすまを静かにあけてヒロがしっかり寝入っているのを確認する。音を立てないように廊下を進み、先生の書斎の扉をあけた。
先生は、ソファでまるくなっておられた。枕元のスタンドが消灯されていない。それを消そうと手を伸ばすと、腕を掴み返された。
「――起きていらっしゃったんですか、」
「あまり、……なんていうのか、眠りづらくて。きみは?」
「ちょっと先生の顔を見たくなったんです」
「……ここでこのまま待ってて」
先生はそうおっしゃって、私に毛布をかぶせると部屋を出ていかれた。しばらくして戻ると、トレイにカップをふたつ載せている。
「こんな夜は飲まなきゃやっていられない。きみにはホットミルクです」
「……あまいにおいがします」
「はちみつと、ラム酒をすこし入れました」
「ラム酒なんかこの家にあったんですね。先生は?」
「僕はウイスキーのお湯割りです」
ソファに並んで腰掛け、同じ毛布にふたりでくるまって、ちびちびと手の中のドリンクをすする。
「ヒロの幼なじみ、テンちゃんっていうんですけど、男の子なんですよ」
そう言うと、先生はしばらく黙り、それから「そうですか」と答えられた。
「さっき寝る前、ちょっと話をしに行ったんです。帰ったらテンちゃんとすっからかんになるまでやりまくる、と身も蓋もない返事があって苦笑しっぱなしでした」
「若いですね」
「うん、……若くて、まだまだ、これから、です」
間があいた。しばらくして先生は、「前妻との話をします」とおっしゃられた。
「嫌な話になりますので、嫌だと感じたら、すぐに言ってください」
「……先生が嫌なのではないですか?」
「いま話さないと僕は一生黙りそうなので。……学生結婚でした。学生のうちに子どもができてしまって。僕は大学を卒業しましたが彼女は結局卒業できませんでした。年子でふたりの子どもに恵まれまして、かかりっきりになってしまったんですね。妻には、そういう、鬱屈があったと思います。同じ年ごろの人間がコンパだサークルだと遊んでいる中で、自分は育児や家庭に追われている。自由になれないもどかしさ。彼女のストレスを僕はうまく逃してやれませんでした」
「……はい」
「彼女の夢は、カフェや食堂をひらくことでした。食べることが好きな人だったんです。僕はきみが見ているとおりに胃弱で食が細いので、ここは本当に趣味、というか、生活が合わなくて。付き合っているときはさほど問題でもなかったのですが、一緒に暮らすと食い違うことはこんなにもか、と、愕然とする思いでいました。……彼女のストレスの矛先は、ジャンクフードに向かいました。ファーストフード店での食事。スイーツを買い込む。大量にジャンクな食事を作る。……僕にとっては胃の痛くなる食事で、受け付けられませんでした。帰宅しても妻の作ってくれた食事、揚げ物とか、ピザとか、オムライスとか、とにかくそういうものを食べられなかったんです。バターや油のにおいを嗅いだだけで吐き気をもよおしてしまう。それが妻にはますます面白くない話になって、そのうち僕だけ別メニューになりました。帰宅すると、ごま塩とごはん、とか、買ってきた佃煮とごはん、とか」
「それは、」
「いま思えば、ある意味立派な家庭内暴力を受けていた、と言えますね。ジャンクなものを子どもは喜びましたから、ますます食事が離れて、やがて妻も、子どもも、目に見えて肥えていきました。顔がむくんで血色もわるかったです。僕は僕で元々の胃弱とストレス性の胃痛でまともな食事ができなくなっていました。妻と子どもらは僕の目の前でケーキやアイスクリームをむしゃむしゃ食べます。あれは、恐怖に近かった。……せめて子どもたちの味覚は守ってやらないと、健康を害してしまうと思って懸命に妻に話しましたし、子どもたちにも注意した。そういうものを買えないように金銭的な部分で制限を設けたりもしました。けれど、止められなかった。お互いにストレスが溜まりきって、言い争いばかりするようになり、僕も妻も健康を害したこともあって、別れました。僕は親権を主張したのですが、子どもたちが妻を選んだので、そちらに。もっともいまはふたりとも成人しましたので、個々に会って話をすることが可能になりました。子どもたちとの関係は、いまは良好です。やっぱりそうは言っても僕の子どもでもあったというか、特に下の子が胃が弱くて。体型も標準に戻りました。雑で濃くて栄養過多だったよね母さんの料理は、などと笑って話します。……けれど僕はあの日々を、到底笑えない」
先生はついにカップを置き、ふうっとソファの背もたれに沈み込まれた。
「離婚してひとりになって、僕自身もようやく身軽になってなんとか健康を取り戻して、やっぱり食事は自分に合ったものをきちんと仕立てられるようになろうと思って、カルチャー講座に通うようになりました。『基本のき、から作る、家庭料理』。あの講座は女性ばかりでしたけど、そこにきみがいましたね。お互い女性に囲まれて世話を焼かれてましたけど、おかげできみに出会えた」
先生も思い出してくださったのか、と思った。出会いの場のことを。私は料理上手になることが目的ではなく、半分ぐらいは取材目的だったのだけど、駆け出しのイラストレーターに対して先生は嬉しそうに接してくださった。
「……あの講座で料理の基本もわかって、自分の味覚にそぐう食事を作れるようにもなって、きみにも出会えて、僕にとってはいいことばかりでした。妻と、……別れたことを僕は後悔をなにひとつしていません。結果的にきみとこうする現在もあります。結婚生活は、本当につらいばかりの日々でしたから。ですが、いま、僕は果たしてきみに対して誠実なのだろうかと考えてしまう。きみの優しいところに逃げて甘えているばかりではないかと」
「そんなふうには」
「今日の博高さんの話は、そういうことを僕に再び問い直すものでした。離れない身体があっても、傍にいても、すれ違うことは多分にある。人間には、感情や経験や性質がありますからね。……僕は、目隠しをして手触りの良さだけを味わっているんじゃないかと。もしかして、しなくても、自然ときみの行動を制約するような発言や、態度を、とってはいないか、と」
「……それは僕が、この家であまいものを食べないこと、ですか?」
「作りたいなら作って、食べたいなら食べて、と言えないんです。……どうしても胃がむかむかしてしまって」
「先生」
先生は、ついに膝を抱えてしまわれた。その痩せて硬い肩に手をまわし、毛布をかけ直す。
「僕は、しあわせですよ」
「……そうなんでしょうか」
「先生とお菓子とどちらを選ぶかと言われたら、絶対に先生を選ぶんです」
「……」
「ですが」
そうですね。考えていることは、まとまらなくて言葉にもならなかった。そのまま身を寄せ合って夜をまんじりと過ごす。
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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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