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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ――ミサトの背中は月面地図みたいだね。ちゃんとティコまであるじゃないか。
 その台詞が耳を掠め、盛大につきたくなったため息をこらえた。いま自分の目の前には、ワイシャツを脱いで半裸になった少年が背中を向けている。みずみずしい肌を骨肉の上にぴっちりと纏わせた若さ、その左側の肩甲骨よりやや上のあたりに、まるい月の入れ墨が入っている。親指と人差し指で作れる輪っかほどの大きさ。色はグレイ。
 背を向けてうなだれている少年に、「いいよ、シャツ着な」と言った。
「本当はこんな身体検査自体が時代錯誤で訴えられても誰も弁護できねえだろ。悪かったな。本心から苦痛で屈辱だと思ったらいくらでも親なり教育委員会なりに言ってくれ」
「……誰にも言いませんよ。悪いの、おれです。なんで怒らないんですか」
「シールなんだろ、それ」
 さきほど確認したことを、言い聞かせるように復唱した。少年にも、自分にも、言い聞かせている。
「自分でそんなところに貼れるわけないから、共犯者がいるわけだけど、それは置いといて、そのタトゥーはシールで、一か月もすれば自然に消える、と」
「……はい」
「藤見は普段から大人しい方だし、成績も上位だし。問題起こすような生徒には見えない。少なくともおれたち教員やおまえのクラスメイトからすればね。そういうやつの背中にいきなりそんなのが現れちゃったもんだから、まあ面白がられて問題化したわけだ。一応、上には報告するけどさ。受験受験の夏休みのストレスからの衝動で、ということで」
 いいよ、と再度言うと、彼は脇に畳んだシャツを羽織った。
「担任の上原先生が心配してらした。いい先生なんだから、困らすようなことすんじゃないよ」
「陣内先生」
「ん?」
 ボタンを留め終わり、椅子をくるりと回転させてこちらを向いた。
「タトゥーがあるかないかをじかに確認されたことは、別になんとも思いません。上原先生は女性の先生だから、生徒指導の陣内先生が適任だろうとした学校側の配慮も、まあ、頭固いとは思いますけど、別に、です。でもおれ、こういうことすればおれを呼び出すのは陣内先生なのかなっていう、打算がありました」
「おれと話したいならシールなんか貼らずに職員室くればいいのに。いくらでも」
「職員室じゃ訊けないでしょ。……先生の名前って、ミサト、なんですか? カイリ、なんですか?」
「そんなの訊いてどうするの」
「先生の背中に月みたいな痣があるって、本当?」
「あほな噂話が流れてるもんだね。もう遅いから帰りな。自転車気を付けてけよ」
 あっち行け、というふうに手を振る。少年は立ちあがり、鞄を背負う。
「すみませんでした。先生さようなら」
「はいはい、さようなら」
 扉をぴしりと閉めて影が遠ざかっていく。煙草を吸いたくなったが、ここは学校なので我慢する。
 ――ミサト、きみの背中はきれいだね。きみはかわいいね。
 昔の音声がこびりついて離れない。あの無茶なことをした十五歳の少年――藤見和乗(ふじみかずのり)の背中のシールが、一か月後に消えていると信じるほど、彼らのことを信用していない。
 中学校教師なんて、そんなもんだ。多感な少年少女がまっすぐに育つと信じる方が歪んでいる。自分がそう育たなかったように。


「それで藤見の件はどうなりましたかねえ」と職員用のトイレですれ違った三学年の学年主任に訊かれた。
「ああ、シールですよ。いま若い人のあいだで流行ってるやつ。これを使ったんだっていうのを見せてもらいましたから。夏休みにいとこと遊んでつけたら落ちなくなって本人は相当慌てたそうです。そのうち消えますよ」
「そうですか。いやあよかった。そうですよね、藤見はそうですよね」
 うんうん、と頷き、そのまま職員室までの移動で会話した。
「生徒に『藤見くんの背中にタトゥーがある』って夏休み明けに言われたときはどうしたものかと焦りましたわ。体育の千田先生も水泳の授業で確認されてますしね。これは教育委員会ものかと覚悟しましたけど。これなら進学にも影響なさそうですね」
「藤見の進学予定の高校はそういうところがうるさいんですか?」
「おや、ご存知ない?」
「私はこの辺の出身ではないですので、私立となると、本当に疎くて」
 ああなるほど、と職員室の扉をくぐって当たり前に給湯スペースでコーヒーを淹れた。
「有名な進学校ですよ。男子校です。私立ですからね、自然とお坊ちゃんが多くなるような学校ですね。藤見みたいに特別奨励金制度を受けて入る生徒も中にはいますけどね。当然ですが、少数です。ほとんどは裕福な家庭の優良な男子生徒ですよ」
「なるほど、それではますます入れ墨なんか入れたら内申どころの話じゃないですね」
「藤見はなあ。去年、今年と、日本数学オリンピックで代表内定まで少し、のところへ進んでますからね。まあ、ずば抜けて数学が出来る出来る。うちの学校じゃ誰も教えられないんじゃないですかね。だから進路は重要なんですよね。ミルクいります?」
「ああ、いただきます。数学なんて私には門外漢ですよ。どんな頭してればそうなるんでしょうかね」
「藤見の叔父さんという方がどこかの大学のフェローだという話です。お父さんも理数系の会社にお勤めだとかで。家系なんでしょうね」
 家系、ね。コーヒーを受け取り、そのまま雑談に興じた。そのうち他の先生もやって来たのでコーヒーを持って場を離れる。席に着き、あーテストの採点終わってねえけど生徒指導がな、とか、試験だな、とか、今年の展覧会どうすっかな、とか、考えていた。つまりごっちゃごちゃなわけだ。
 大学を卒業して教職に就いた。教員免許状はいくつか持っているが、この学校では国語科を受け持っている。このままこの地方で中学校教師として働いていれば、ずっと国語を教えるのだと思う。でもそうはならないと思う。
 夏休み明けに背中にタトゥーを入れて登校してきた藤見に関しては、それまでは接点というものを特に持たなかった。藤見は大人しく目立った存在ではなかったからだ。少なくとも、国語科と、生徒指導という点においては。ただ、数学が抜群に出来ることで、やや奇特な方向に教師・生徒の興味関心は引いていたと思う。国語の成績も悪くないが、とりわけそちらにすぐれているようで、珠算の検定で、とか、暗算が、とか、囲碁も強くて、とか、なんだかその方面で噂を聞く。
 まあでも、あれはシールなんかじゃないだろうな、という確信があるのは、藤見が自分に興味を持っているからだった。
 先生の名前は、とか、先生の背中は、とか。その優秀な頭をそんな方向に使ってくれるな、と思ってしまう。藤見の興味が自分に向けられていることは、なんとなく分かっていた。授業を受け持ったことがなければ担任を持ったこともない。けれど廊下や玄関などですれ違えば藤見は必ず目を見てくる。挨拶の言葉は発さず、凄まじい熱量の視線で、黙して頭をふかく下げる。
 自分のことで生徒に噂があるのも分かっていることだった。生徒は自分のことをおおむね「陣内先生」と呼ぶが、ふざけたり愛着で「ミサトちゃん」などと呼ぶ。「陣内海里」というフルネームを、どう読んでいいのか分かりかねるらしい。そして背中の痣に関しては、授業でちらりと口にした自身のプライベートな情報を、あれやこれやと膨らませたりしぼませたり勝手に歩かせたりしているのだろうと思っている。生徒の前で裸になったことはないし、それは他の同僚の前でも、保護者の前でも同じだ。実物を見られたわけではないのだから、噂の類を出ない。そしてそういう噂が好意的な方向で歩くぐらいには、私は生徒に慕われている。
 だからと言って、と考えてしまうのは、自身を省みて恥ずかしくなるからだ。私は藤見少年のように、必ずしもおりこうさんでいられる生徒ではなかった。むしろ後々にまで恥じて傷になるようなことを思春期に行っている。そういう意味で、藤見少年の姿は私には鏡のように映る。過去の恥ずべき自分を、見ろ、と突き付けられる。
 あの、物怖じしない、狂気を隠さない目。のびやかな十五歳。これから上にも横にも厚みを増して説得力を持たせる、その一歩手前のあやうい魅力的な時期。大人であり子どもであり、その両方でもなく、それを歯がゆく思う時代。
 さっさと卒業してくれよ。


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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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