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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 だからこそ余計に、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないかと、急に一歩踏み出した足のことを、怖く思った。
「――どしたの、イズミくん。なんだかぼうっとしてるわね」
 日野辺と別れ、常盤果樹園に戻り、社長一家とともにとる夕飯の席で、奥さんにそう指摘された。
「今日、日野辺先生と出かけてたんでしょ? K高原の方まで行ったって。あっちはどうだった?」
「あ、……牛がいました」
「そりゃいるわよお。観光牧場で賑わってるところだし」
「ソフトクリーム美味しいよね。食べました?」若奥さんにも訊かれる。
「いえ、……今日ちょっと涼しかったし」
「ああ、あっちはね。標高もここいらよりあるしねえ。食べたらお風呂入ってあったまって、寝ちゃいなさい」
 はい、と頷いて、茶碗の飯をくちにする。もごもごと食べて、風呂はシャワーだけにとどめて早々に貸与されている部屋に下がった。丸めて隅に寄せておいた布団を引っ張り出し、横になる。どうしてこんな気持ちになるのか。いっそ量販店の安いメッキの指輪の方が良かったんじゃないかと、今更になって雲が黒々と立ちこめる。
 日野辺は楽しんでいるふうだった。素直に指輪を楽しみにしている様子が、直裁的な言葉にはなくても窺えた。ひねくれは承知、日野辺やあのふわふわデザイナーが力を入れてしまえばしまうほど、逃げたくなるんだとわかって息をつきながら寝返りを打った。それを二・三度繰り返し、諦めて起きあがり、着替えてヘルメットとカブのキーを引っ張り出す。
「ちょっと日野辺先生のところ、出かけてきます」と居間でテレビを見ている奥さんたちにひと声かけた。
「戻って来なくても、明日の仕事までには戻りますので」
「気をつけるのよ。イズミくんは前科持ちだからね」
 はい、と頷いて、車庫からバイクを引っ張り出して日野辺医院に向かう。
 出迎えてくれた日野辺は、きょとんとした顔で現を家に入れてくれた。居間に寝そべって半分いびきをかいていた大先生に「親父、風呂ちゃんと入れよ」と言い、二階にある自室に連れて行かれる。
 なにをどう言葉にしていいのか、自分でもわからない。黙り込んでいると、日野辺は頭をかりかりと掻いて、「やっぱり指輪、やめるか?」と訊いた。
 はっとして顔を上げると、日野辺はんーっと上を向いてから、腕組をして、ずいっと顔を寄せた。「エニグマって知ってる?」
「エニグマ? ……いや、わかんねぇ。熊か?」
「そういう連想するよな。……こういう表現が適切かは置いて、第二次世界大戦中にナチスドイツ軍が使っていた暗号解析機のことを言うんだと。ナチスの司令部が、命令や戦況を暗号にして流す。それをエニグマに打ち込むと、暗号が解析されて情報が出てくる。そうやって軍全体に伝わる、そういう仕組みらしい。これを解読できなかった連合軍は最初は苦戦を強いられたんだけど、イギリスの数学者が解析に成功して、戦争終結を早めた、と言われている」
「……それは、どう解釈していいのか、わかんねえんだけど、……なんの話?」
「戦争で使われた暗号機だからって、悪い意味で取るなよ。単語を借りるなら、の話だ。現の中に、言葉にもできないような、暗号がある。でもおれは現のエニグマだから、態度や、空気や、ちょっとした息遣いを入力されれば、それを解析できる。現の暗号解析機なんだ、おれは」
「……」
「試しになんか言ってみろよ。解読してやるから」
 日野辺はすこし俯いたが、湖面みたいにしんと深い双眸でこちらを見つめた。
「……義兄さんがよぎるんだ」
 日野辺には悪いと思いながら、くちにした。
「姉貴を裏切るとわかっていてやめられなかったみたいに、……なしくずしでずっとやってきた。ろくでもない人間のおれが、こんなにあっさりと、送みたいにまっとうな人間相手に指輪なんか作っていいのかって。また逃げたら、どうすんだよ、おれ……」
 あんなに熱心に時間も値段もかけて指輪を作ってしまったら、もう道を誤れない。現はこれまで、逃げることでものごとを回避してきた。起こしたことの責任を負わず、のらくらとかわしてうやむやにしてしまう。義兄のことでもその嫌な癖が出た。逃げた結果こんな町へ来て、日野辺に出会ってこうなっているけれど、果たしていままでの過ちを反省して正せるのか。反省していたら、日野辺に甘えていてはいけないのではないか。
 つまり自分は、
「現は、自分が覚悟を決められないことを、もしくは覚悟をしたつもりで迷いが生じてしまったことに、罪悪感があるんだな」
 あっさりと日野辺はそう言った。現が喉元までつかえて言葉にできなかったことを、丁寧に端的に表されて、日野辺の顔を真正面から見た。
「指輪を作ると決めたら、簡単には作れないことがわかった。そこには気持ちや覚悟が込められることを、あらためて実感してしまった。その重圧が、自分に信用が持てない分だけ、現には重く感じる。それを感じてしまったことを、おれへの裏切りだと思えて、自身を苛んでいる……と、おれの現解析機は言っている」
「……」
「当たってる?」
「……そ、う、……」
「な、言ってみるもんだろ。ちゃんと解読した。褒めてくれよ」
 褒章をねだって現の手を自身の頭に乗せる。だから現はほっと息をついて、その髪を混ぜた。
 撫でられながら、日野辺は「覚悟なんてものはさ、おれにも確かなものとしては、ないよ」と言った。
「そんな重いものは、おれも分からない。でもおれは医者だから、わりと頻繁に重たいものを乗っけられる。他人の生命のあずかりだ。ああいうときは、結果が第一で、かつ悩んでいる時間はないから、ほぼ即決に近い。瞬時に判断して、淡々と覚悟する。でもおれと現の場合は違うじゃん。かけられる時間や、ものそのものが。だからさ、指輪は作ろうよ」
「でも、送、」
「それで、現がさ。ああ、嵌めてみてもいいかなって思えたら、そのとき交換すればいいじゃん。そういう自然さでいいよ。焦らなくても、ゆっくりで。そもそもおれたち、出会ってまだ一年過ぎたぐらいなわけで」
 そう言われてみれば、確かにそうだった。この間にいろんなことがあったから、もっとたくさんの時間が流れたような気になっていたが。
「だからお義兄さんとの傷がまだ生傷なのは当然。ゆっくりでいい。勢いだけで作って交換して、後悔するよりも。もしかすると一生箱に収まったままの指輪かもしれなくなるけど、そこにあるっていう存在は、現が逃げてしまうという結果を、もたらすことはないと思うな」
「どうすんの、そんなにのんびりして、信用して、おれがやっぱりやだってなって、重たいな、逃げてえな、なかったことにしてえな、」
「現、それ、自分をわざと信用しないために言ってるだろ」
「……」
「お姉さんの伴侶と不貞を犯した自分を、許さないためにくちにしている。そんなに自分を責めなくていいんじゃないか? おれにとっては、現がここでおれの傍にいてくれることの方が大事だ。前にも言っただろ。現は、てめえなにやってんだよ医者のくせにって、くだんねえよって、おれを軽く笑ってくれる。現に正されることが、おれには必要なんだ。おれが現の暗号解析機なら、現は天秤だ。おれの抱える重さを正しく測って、裁いてくれる」
 だから指輪はさ、と言って、日野辺はその場に寝ころんだ。
「……正直、もしかしたら……現に手放しで指輪を喜んで受け入れられることの方が、おれには疑わしかったのかもしれない。これはおれが見た都合のいい夢かもしれない、って」
「――そっか」
 うん、と現は頷いた。いたく納得して、頷いて、再び「そうだな」と笑った。
「――あんたとは時間をかけていいんだな」
 そう言うと、日野辺は「ん?」と起きあがりかけた、その身体にまたがって、上に重なる。
「変なこと言い出して悪かった。でも、話せてよかった」
「そうだろ。大体現はさ、生意気言ってるぐらいじゃないとおさまらない。うじうじしてんのは、おれぐらいでいいよ――ごめんな」
「なんで?」
「指輪は、結局のところ、おれが急いたんだ。現と違っておれは確かで即物的なものが欲しかった……焦ってたんだよ。現がもし『帰る』って言いだしたら、立ち直れないと思っちゃったら」
「帰らないんでいいと言ったのはあんただろ」
「くちでは大人ぶってな。本当のところの肝はちいさい男だから、おれは」
 日野辺は笑う。情けないな、と笑う。現も笑って、「知ってる」と答えた。
 日野辺の耳横に手をついて、額と額を合わせた。日野辺の目がうっすらと弧を描く。
 ここにはなんでもある。仕事があり、住む場所があり、誰にも臆さず隠さなくていい恋人の存在があり、やがて家族に至っていいのだという許容がある。
 自分が手にできないと思い込んでいたものがある。
 居場所と理解。偏見と可能性。噂と本心と確証。大胆と臆病。そのなにもかも。
 指輪、楽しみだな。そのとき現は素直に思えた。するっと腹に落ちた覚悟を、喜ばしいと歓迎して、日野辺にそういうキスをした。解析機にはそれで分かっただろう。


end.


前編


拍手[6回]

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 でしたら、こういうのはいかがでしょう。そう言って、向かいに座った髪がやたらとふわふわした男は、紙とペンを取った。そこに立体的な輪っかを描く。
「この、表になる部分には、それぞれに赤いガーネット、緑のガーネットをあしらいます。そしてその反対の内側に、それぞれに緑のガーネット、赤いガーネットを嵌め込んで」
 色鉛筆でくるくるとちいさく、赤い粒と緑の粒を描く。「こうして、対になるように作られてはどうでしょう。赤と緑は補色の関係です。補い合うという意味でも、お揃いよりは殊更意味が深く感じられて素敵だと思いますよ」
 そう言われても、色味や宝飾の類になるとさっぱりなので、ふたりで顔を見あわせてしまった。
「気になるようでしたらアレルギーテストをされる方がおすすめですが、おふたりのお話を聞いた限りではおふたりとも特にアレルギーはないようですね。でしたらシルバーでも可能ですが、せっかくの指輪でしたら、ゴールドを使うと華やかです。ただ、石が嵌まりますのであまり派手になるのを好まないようでしたら、チタン、プラチナでも」
「……すみません、その、あまりよくわからないというか、僕も彼もイメージが湧いていないというのが正直なところで。質問をしても?」隣の日野辺がふわふわに言った。
「もちろんんどうぞ」
「ガーネットという石は、赤と緑があるんですね?」
「ございます。普通、思い浮かべるのは赤いものだと思います。ですがどちらもちゃんと手に入りますよ」
「ゴールドだと派手になる、というのは?」
「やはりゴールドですから、どうしてもある程度は目立ちます。ですが目立たなくする加工も可能ですし。そうですね、色をお見せしましょうか」
 そう言ってファイルを取り出し、実際に金属片の貼られたボードを見せられた。
「サンプルとなります。こちらがゴールド、それに加工したもの、槌で模様をつけたもの。同じように右へ向かって、シルバー、チタニウム、プラチナ、珍しいものだとピンクゴールドなど、ゴールドは色味が豊富です。これは下の方にお色が」
 ふわふわの指が地金を指していく。それを眺めながら「これは白っぽいな」とか「地味かな」とか、ようやく言葉が出てくる。
「でもおれならおすすめはやっぱりゴールドかプラチナだな」
 そう言ってから、やべ、という顔をして、ふわふわは照れ笑いをしながら「記念の品なんですから、私のおすすめはゴールドかプラチナです」と言い直した。
「価格も上がりますが、それだけ価値も上がります。結婚指輪はやはり多くの方が一生に一度のものでしょう。とか言って二度目三度目だったらすみません。でも、あなたがたを見ていると、私はちょっと角張ったホワイトゴールドか、プラチナに、ちいさくちいさく対になる石を嵌め込む。そういうのがお似合いになるような気がします。そして、隠れた場所にやはり対になる石を入れる。うーん、あなたがたがこのアイディアを不採用にされても、他の方に勧めちゃうようなグッドアイディアです。いやでも、他の方には似合わないような気もするから勧めないか。とにかくあなたがたにとてもふさわしい気がするんです。あ、ゴリ押しするわけじゃないですよ」
「いえ、わかりますよ」日野辺は笑い、現に「どうする?」と訊いた。
「おれ、装飾品はほぼつけないからわかんね」
「おれも」
「でもこの工房のアクセサリー全般、なんか好きだな、と思った。重たすぎないんだけど、ちょっと無骨っぽいバランス感が」
「わかる」
 アクセサリー自体は、街中のクラフトショップで見た。いくつかの工房の作品が置かれている中で、ふたり揃って目を留めた。それでショップの店員に問い合わせ、工房まで出向いたのだった。まさかこんなにふわふわした男がデザイナーをやっているとは思わなかったのだけど。
「なので、お任せします。あ、こういうのは困るんでしたっけ。丸投げ、というものは」
 日野辺がふわふわに問うと、ふわふわは「いいえ?」と笑顔で答えた。
「きちんとコンセプトを持って訪ねていらした上で、お任せしますとオーダーされれば、こちらは困ることなどなにもありません。むしろ目一杯好きにやっちゃいますけど、いいですか?」
「はい、お願いします」
「ありがとうございます。ではこれから具体的なデザインの制作に入ります。その前に見積もりをお渡しして、――ふふ、妻も喜びます、こういうおめでたいご依頼は」
「つま?」
「私たちは夫婦で工房を営んでおりますので。私が接客兼デザイナーで、実際に作るのは妻です」
 この、ふわふわなよっとした男に、妻。いたく失礼だが武士のような風貌の女性を想像してしまった。
 だが日野辺はそれも嬉しかったらしくて、隣でにこにこと「では奥様にもよろしくお願いいたします、とお伝えください」と言った。
「どれぐらいで仕上がるものなんですか?」
「いまはさほどご依頼が立て込んでいる時期でもありませんので。デザインと価格で最終的に決定されれば、そこから二週間から三週間ほどでお渡しできると思います」
「そうですか」
「メールアドレスをいただければここに足を運んでいただかなくても見積もりやデザインは添付で送れます。もちろん、FAX、郵送などでも対応いたしますが、いかがなさいますか?」
 ふわふわは「ここは辺鄙な場所の工房ですので」と付け加えた。
「いや、来ますよ、ここ」
 そう答えたのは、日野辺だった。
「いいドライブになるし。現が嫌ならおれひとりでも」
「いや来たいよおれだって。来る途中に寄ったカレー屋、また来たいし」
「ああ、『ラ・マール』ですか? あそこはおれたちもよく行くんです。うまいですよね、ナンが。まだ食べてないなら、ビリヤニも食ってみてください。おすすめです」
 と言ってから、また「やべ」と(今度は口にして)、はにかんでから表情を引き締めた。
「そういうことでしたら、直接のやり取りということで、見積もりとデザインが上がってからまたご連絡いたしますので、足をお運びください。大体一週間ほどですかね」
「そんなに早く?」
「おふたりを見ていたらなんだか燃えてしまって。すぐできそう。あ、また言っちゃった。もう、すみません。お客さま対応がどうしても上手くなくて。すぐ素が出てしまって」
「お人柄ですね。別に気にしないので、フランクでいいですよ」
「あー、じゃあとにかく連絡します。すぐ、じきに、もう明日とかでも」
 そう言ってふわふわは腕を曲げてみせた。別に腕を曲げても力こぶなどできないようななよなよしさだったが、熱意は伝わった。だからきっといいものができるんだろう。そう思いながら、工房を後にした。


→ 後編





拍手[6回]

 日野辺医院に戻ると、日野辺はダイニングのテーブルに子どもっぽく顎を乗っけてわかりやすくふてていた。
「……なに腐ってんだよ」
「だって、せっかく帰した患者、現が送ってくから。ひとりで飲むしかないじゃん。あかりと知り合いだっけ?」
「いや、医院に来るのを見たことがある程度だ」
 向かいには腰掛けずに、座卓のある居間の方へ進んで、そのまま寝転んだ。
「現?」
「……やっぱり送ってくんじゃなかった」
「え?」
「女は嫌いだ」
 目元を腕で覆い、上着を中途半端に脱いだまま、動けなくなった。寒さが染みている。
「なんでおれのまわりの女は、ことごとくいい女しかいねえんだろうな。自分が嫌になる」
「……あかりと、なんかあったのか」
 寝転がる現の傍に日野辺はやって来て、現の胸にぽすっと額を落とした。
「あんた、いやじゃないの、」
「なにが?」
「……おれと噂になってること」
「いやだもなんも、事実だし」
 日野辺はからからと笑った。
「現こそじゃないのか、そういうのは」
「おれは……」
 義兄と、姉の、それぞれが戸惑う表情を、まなうらに見た。
「……誰にも隠さず、ごまかさず、嘘もつかないで、……堂々としていられることは、楽だ。気持ちが、楽。こんなに気分がすがすがしいんだと呆れたぐらいだ。だからそれでからかわれたり、嫌味を言われたとしても、罪悪感はない」
「じゃあ、お互いそれでいいんじゃんね」
 飲まん? と日野辺は窺うように現の胸の上に顎を載せたが、現はその頭を掴んで、髪を引っ張った。
 天井を見あげてそれを梳いていると、日野辺はしばらくそのままにされていたが、やがて現の左手を取り、指をあま噛みした。
「……なに、」
「前から思ってたけど、現って細長いよな。あっちこっちが」
「あ?」
「都会の人ってみんなのこうなの? って思っちゃう。この辺の人にはなかなかないバランスっていうかさ。面立ちも、身長全体も、腕も、足も、あーあと、ここも」ここ、で股間に触れてからかわれた。
「うっせ」
「それで、指も。おれより細んじゃないの? おれ現より身長ないけど、指は太い気がする」
「そう見えるだけでたいして変わんねえんじゃないの」
「指輪、買うか?」
 そう言われて思わず上体を起こす。でも日野辺が腹の上で頬杖をついたから、首だけねじり起こすような格好になった。
「なんか、揃いのやつ。ちゃんとサイズ測って、宝飾店に行って。現に帰れとは言わないけど、でも、うちの親父には挨拶ぐらいしとく?」
「それ、」
「まねごとでも、じゃなくても、どっちでもいいけど。噂になってて、おれたちも別に気にしてないんだし。だったら」
「でもそれは、送、」
「嫌?」
「嫌っていうか、……またなに言われるか、わかったもんじゃないんだぞ。日野辺医院は頭いかれてるって、ますます」
「でもそれで血圧下がって卒中の心配がなくなるわけじゃないし、そもそも関係ないしな。いいじゃん。いまさら揃いの指輪ぐらい。気づく人は、気づくよ。気づいたらあーそうなんだってなるよ。思ったり言わせておけばいいことだろ。おれと現がそういう仲だって、まあ確かにこの辺は田舎で情報更新に疎いから、頭の固い人もいるけど、それはどこに住んでても、おんなじようなものなんじゃないかとおれは思うけどね」
 それだけ言うと日野辺は起きあがり、「飲もうよ」と再度誘う。だが現はその手首を取って、ちゃんと座った。ふたりで床にぺったりと座った。
 顔を見られなくて、引き留めておきながら立て膝のあいだに頭を伏せた。
「……おれ、義兄さんがどうしても指輪を外してくれないの、嫌だった」
「……そうか」
「……なんかさ、赤かみどりの石がいい」
「赤かみどり?」
「常盤さんとこのりんごみたいなやつ。あおみどりの実でも赤い実でもいいけど、ここに来て暮らしてるんだっていう実感と決意がこもるみたいな、……ちいさくて目立たないけど、赤か青りんごの石の入った指輪がいい」
「じゃあおれみどり。現が赤な」
「根拠はなんだよ」
「なんとなく? オーダーで作ってくれるような、どうせなら一点もの扱う作家さんを探そうか」
「おれ、ぜってぇ外さねえぞ」
「うん」
「それで送にも、外すなって、言うぞ」
「もちろん」
「なんなら常盤の奥さんに見せびらかす……」
「喜ぶんじゃないかな」
 背筋が粟立って、震えが止まらなかった。泣いてはいなかったけど、鼻の奥は痛かった。日野辺の手が頭に添えられ、こめかみのあたりにかりっと歯が当てられた。顔をあげてくちをあけたら、塞いでもらえた。
 息継ぎしないでしていられる時間分のキスをして、実に惜しそうに日野辺は「今夜は親父が帰って来るんだよなあ」と言った。
「とりあえず、ネットで指輪情報でも見るか」
「いや、明日どっか街に出ようぜ」
「ん?」
「そこで指輪作ってくれるところ探す。なんか、このご時世だからネットで探したくない」
「こんな田舎だし?」
「田舎だからこそ余計に」
「現って実はけっこうあれこれひねくれたこと考えてるよな」
「送は実はなんにも考えてない」
「なら、ますます足してちょうどいいってところで」
 現はそっと笑い、立ちあがった。酒の肴を作りなおして、ようやく週末の酒宴をはじめる。
 つけたテレビから、東京では桜が咲いたとニュースが流れる。ここは春が遅いからまだまだ先だと、日野辺はおおげさに言う。
「花見の約束覚えてるか?」
「え?」
「りんご。りんごの花見」
「なんだっけ? もっかい言って」
 現は笑った。しょうがねえなあ、と笑った。


end.


← 前編


関連:冬の日、林檎真っ赤に熟れて
  :フォール・オン


12月よりあれこれ更新していましたが、いったんこれにてまた潜ります。
お付き合いいただきありがとうございました。
次は夏ごろにお目にかかれるといいなあと思います。

拍手[11回]

 じゃあ今週もおつかれ。そう言ってプルタブを引きあげる直前にインターフォンが鳴った。自宅の、ではなくて、日野辺医院の方。音の鳴り方で日野辺は「おっと急患かな」と腰をあげた。
「現は飲んでて。ちょっと表見てくる」
「センセイってのは大変だな」
「こういうときに限って本当に厄介だったりするんだ。戻ってこなくても、先に休んでていいから」
 好きにしてて、と上着を羽織りながら医院の夜間口の方へ去っていく。今日は大先生もいないので(日野辺いわく、彼はもうほとんど引退なんだ、だそうだ)この付近の町民の頼みは本当に日野辺だけなんだろう。もっとも日野辺の手に負えないと判断すれば即座に救急要請をして同乗するぐらいだ。この辺りだと隣の市立病院あたりがもっとも大きく、日野辺もそこで働いていたことがあるから勝手も分かっていることもあり、そこへ搬送になる。問題なのはぎりぎり日野辺の手に負えてしまう患者。こうなるとむやみに時間を食う。
 プルタブのあげかけたビールはまた冷蔵庫に仕舞い、しばらく表の様子を窺っていた。診察室から聴こえてくるのは、日野辺と少女の声だった。少女は日野辺のことを「若ちゃん先生」と呼び、日野辺は少女を「あかり」と呼んだ。親しい様子が分かる。
 通常の会話が可能であるのなら、さほど急を要することでもないのかもしれない。そうすると長引くパターンか。前にも急患でやって来た老夫婦の、付き添いのばあさんの方のおしゃべりが止まらなくて酒宴がお流れになったことはあった。付きあう日野辺も日野辺だが、ここはそういう場所でもある。
 だからって夜間に急患のインターフォン鳴らして呼び出していいわけじゃないだろう、と思っていると日野辺が戻って来た。
「あれ? やってないのか、現」とのんきに言い放った。
「ひとりで酒飲みてえなら帰ってやるわけ。どうなの、急患」
「ああ、この時期の恒例。花粉症」
 ふ、と日野辺は医院の方へ顔を向けて笑った。
「花粉症っていうか、花粉のアレルギー。肌の過敏な子でね。よく日光とか花粉とか乾燥でも肌に蕁麻疹が出来ちゃうんだ。皮膚科で薬もらってるんだけど、切らしたみたい。処方箋書いてほしくてうちに来ただけ。もう皮膚科は時間外だからって」
「時間外って、うちも薬局もそうだろ。市立病院の夜間外来かかる方が早かったんじゃないのか?」
「中学生がひとりで行ける距離にあればそうしてるよ。母子家庭で母親が遅いんだ、いつも」
 さっき薬局には電話したんだ、と日野辺は言った。
「ギリギリOKらしいから処方箋のファックス送った。だからおれは、終わり」
「……薬局って、これからひとりで行くのか」
「まあ、そうだろうね」
「ふうん」
 だから、上着を羽織った。


「気をつけてね」と薬局の老年の主人に送り出されてきたショートカットの少女は、現を見るなり顔をこわばらせた。黙ってヘルメットを渡すと、「点数稼ぎ?」と辛辣な言葉が返ってくる。
 そこまで敵意をあらわにせんでもいいのに、と思いながら、「おまえにヘルメット貸す分おれはノーヘルで行くから、黙ってろよ」とカブのエンジンキーに手をかけた。
「道わかんねえから教えろ。ここからどう行きゃいい?」
「まっすぐ行くだけ。ずっとまっすぐだよ。……ワイナリーの看板を右に曲がって、またすぐ右折。そこに自販機がある。そこでいい」
 ワイナリーの看板、と少女は簡単に言ったが、そこまでは軽く三キロはある。とんでもない距離を徒歩移動してきた少女には舌を巻くしかなかった。現がいままで暮らしてきた街なら、電車が止まる。
 現から受け取ったヘルメットを大人しくかぶり、少女は「寒そ」とつぶやく。
「寒さと花粉で蕁麻疹出して夜間かかったのに、いやがらせじゃない?」
「うっせえな。薬ぐらい塗ってもらってんだろ。寒いならこれかぶって黙ってろ」
 ばす、と自身の上着を殴るように渡す。少女はにおいを嗅いで、それに袖を通した。
「このあたりは春が遅いんだな。しっかり掴まれよ。ちゃんと腰に手ぇまわせ」
「うん……」
 ぐ、とバイクをまたいだ身体から、腕が胴にまわる。背中にしっかりとしがみついた身体を確認して、バイクのエンジンをふかした。夜空には赤い月がのぼっていて、見張っているかのような威圧感がある。それの方向にバイクをひたすら走らせる。道は広い農道だった。周囲は広大な畑で、作物の植え付けにまだ早い今の時期はただ耕された土が舞い上がる。バイクでなくても、近くの山からおりる風は容赦なく吹きつけた。
 言われた通りの場所で右折して、また右折。言われた通りの場所にバイクを滑らせて止めた。バイクを降りた少女は「ありがとう」とは言わず、「噂になってる」と言った。
「から、知ってた。イズミさんのこと」
「なんの噂」
「若先生の恋人だって。……みんな言ってる。大先生がああいう人だから大目に見られてるけど、あの家はおかしいよっていう人もいる。いずみ姉ちゃんのことも、若ちゃんのことも」
「くだんねぇ話だな」
「でも、本当なんでしょ」
「あの家はおかしくねえよ。まともな家だ。おかしいのは、おれだろ」
「……」
「都会から訳ありで逃げてきた男が地元の医者と噂になってる。そういう話は常盤の奥さんもしてるし。でも送が気にしてねえから、おれも隠さない」
 そういうと、少女はヘルメットの金具を外しながら目線を逸らした。
「……わたし、ちっちゃいころからずっと、若ちゃんにかかってるの。大先生じゃやだ、若ちゃんじゃなきゃやだ、って駄々こねて泣いたぐらい」
 風は強く、ヘルメットを脱いだ少女の軽やかな髪をさらに荒らす。
「小学校を卒業するときに、若ちゃんに言った。若ちゃんがこのまま結婚しないならわたしがお嫁さんになるって。……そしたら若ちゃん、苦笑いして、うん、って言った」
 ――おれは女のひととは結婚しないんだ。だからあかりのその気持ちは、今後出会う大切な人に向けてあげな。
「……こんな中途半端な年齢のガキにさ。若ちゃんはちゃんと真面目に取り合ってくれた。だからわたし、イズミさんのこと、いやだって思ってる。やさしくされればされるほど、いやな気持ちになんの。今日みたいなこと、もうしないで」
「別におれは、そんなの知ったことじゃない」
 あかりからヘルメットを受け取り、そのまま煌々と明るい自販機に寄ってコーヒーを買った。
「ただ、中学生が夜道をひとりで歩くのはまずいだろうと思っただけ。少なくとも、おれが前に暮らしてた街では、場所によっちゃ成人女性でもなんでもそうだった。……送は立場上おまえを送ってはやれないだろ。それさえいやなら、薬の管理はちゃんとして、もう夜間になんかかかりにくんな」
 あかりの分の飲料は買わなかった。そこまでしてやる義理もない。あかりは上着を脱いで、現にそれを投げつけた。
「なによばか!」
「……」
「若ちゃんのにおいのする上着なんか寄越さないで。だいっきらい。だいっきらいだいっきらいだいっきらい……!」
 あかりは叫びながら涙をぽろぽろとこぼした。こうされて、思う。これは姉に、自分がされたかったことだ。だが姉は現を信じたままだったから。
 このまっすぐさが、ひねくれた自分に、どれだけ羨望として映るか。
「でもわたしは、若ちゃんが嬉しそうだから、いずみ姉ちゃんのことで塞いでないから、大先生が笑ってるから、ああこれはいいことなんだって収まりをつけるしかないんだ……!」
 あかりは泣いた。ぼろぼろ泣いて、何度も目元をこすった。現は投げつけられた上着を羽織り直して、空いた缶をダストボックスに投げる。
 いい子なんだな、と思った。まっすぐに感情をぶつけられることは、大人じゃなかなか叶わない。そして自身の感情をきちんと客観視しようとしている。とんでもなくいい女に成長するんじゃねえか、という予感は、姉を思い出したからだった。
 思春期の姉に、義兄との関係を知られていたら、きっとこうだったんじゃないかと思う。そして現と義兄はずるかったから、こんなに堂々と非難されたら、あっという間に知らない関係になっていた。
 この少女は、現が目を逸らしてきた過去を、正しさと清さで突きつける。
「ばかはおまえだ」
 ヘルメットをかぶり、カブのエンジンをかけた。
「気をつけて戻れ。じゃあな」
「うっさい、あんたにはなんだって言われたくない! 黙ればか!」
 ありったけの罵倒を背にして、来た道を戻る。

→ 後編



拍手[6回]

 藤見が顔を覗き込んでくる。赤い月なら、藤見の目にまるくあるんだと思った。
「――……十二か、十三だったかな。好きな先生がいた。担任の先生でね。おれはさ、すけべでどーしようもないやつだったから、先生が『おまえだけ居残りで身体検査やりなおし』って言って触ってきても、いや、とか、怖い、とかは、言えなかった。むしろ先生がおれを好きだと言ってくれるから、それでいいんだと思ってた」
 腕で目を覆い、蛍光灯の明るさから逃れる。藤見の隠さない赤い目からも。
「触る、は、エスカレートして、やるようになるまで時間はかかんなかった。その先生が背中を月面地図だと言ったんだ。ティコまであるって。散々やった。ひどいこともたくさんされたし、言わされた。でも、先生はおれをミサト、ミサトって呼んで、好きだと言ってくれた。おれは本当はミサトじゃなくてカイリだし、先生が『ミサト』っていう別の女子をかわいがってたのも知ってた。でも先生には抗えなかった。大好きだったんだよ」
「……」
「成長期が進むにつれて、あんまり構ってもらえなくなった。ミサトっていう女子の方もそうだったらしい。中学三年になって、その先生が別の、一年生に手を出してるのを知って、なんで、と詰め寄ったんだ。そしたら言われた。『おまえはもう大人になる身体だから、興味がない』って。……そのすぐ後、もうひとりのミサトに妊娠が発覚して、先生の淫行は表に出た。クビどころじゃなくて、逮捕だよ、逮捕。だからなんていうのか、……ちゃんと憤ることもできなかった。消化不良のまま卒業して終わり。でも覚えこまされて身体はどうしようもなくだらしなくなってるからさ。ウリとかしてた。大学入ってやめたけどね」
 目元から腕を外し、藤見をようやく見た。「ろくでもねえ大人だろう」と言ってやる。
「――……大学で教職取って中学校教師になったとき、これは同じ轍を踏む、ってやつかな、と思ってた。あいつみたいにはなりたくなかったけど、同じ道を選択してしまったってことはさ、とか。……結果的におまえに手を出したみたいになったから、間違ってなかった」
「違うよ」
 藤見ははっきりと否定した。
「そんなしょうもない先生と、陣内先生は、違うよ。全然違う。先生は、ちゃんと真剣に、必死で、一線を超えないようにすごく気を張って、遣ってた。おれに手出しなんかしなかったよ。そんな、身体測定ですぐ触ってくるような男と、先生の、どこが一緒だって言うんだ」
「……慰めでも嬉しいね。でもほんと、しょうもない話なんだよ。だらしがないおれがだらしない男を好きになった結果だから。自業自得で捨てられてんだ」
「そんなわけあるか、ばか」
 かつての教え子から、呆れ諭されるように「ばか」と言われるのは、新鮮味があって酔いがうっすらと醒めた。
「多分、おれの年齢が先生とちゃんと釣り合ってても、おれの『好き』を先生はちゃんと受け止めてから、流したと思う。言ったじゃん、先生。失恋の痛みを都合のいい大人で紛らわせているだけだって。おれの気持ちがふわふわしてたから、成人、っていうちょうどいい区切りを理由にして、時間や距離を置いたんじゃないかって思う。そんなことできるのは、先生がちゃんと大人の、ひとりの、男の、先生だったからだ。……この五年を、おれはちゃんと必要なものだったと思ってる。先生のことを考え尽くせた。煮えたけどね。考えても考えても答えが出ない感情だったり、身体の作用だったりする夜は、しんどかったし。でもそういうのすら、必要だったと思う」
 藤見は私の顔の横に手をつき、視界を藤見だけにした。「カイリ、が正解だったんだ」と目だけで笑う。
「おれ、ちゃんと先生にもっかい恋するつもりでここに来たよ。ここ、が」
 手を取られ、そのまま藤見の胸に当てられた。
「ちゃんと痛くて、熱くて、速くて、色があるなら真っ赤に腫れてると思う」
「……うん、分かる、」
「先生はいまのおれに恋できてる?」
「……」
「あのさ、先生。おれはもったいないと思うよ。先生のこと抱けなかったら、それはすごくもったいないことだと思う。先生も、いまのおれに抱かれなかったら、もったいなかったなって、思うはずだよ」
 赤い目、真剣に張り詰めた眼差しで、一心に見下ろされて愛を囁かれる。こんなこと言わせて、ともう観念するよりほかない。藤見の両の頬に手を添え、静かに引き寄せる。顔が近い。
 お互いの発熱が、お互いに感染る。
「……もったいないって思う。だから抱けよ。ちゃんと大人になったんだろう」
「いい?」
「いいよ。……おまえ、セックスの経験あんのか?」
 訊ねると、藤見は嬉しそうに顔を染めた。
「……おれ、はじめてする人は絶対に先生がいいと思ったから、童貞なんだよ……恥ずかしいね」
「童貞でおれのこと抱きたいって言ってんのか。すごいね、おまえ」
「ばかにしてる?」
「感動してる。正直おれだって、誰かとするのは大学以降でやってないから、……初心にかえる心地。リセットかかってるんじゃない? お互い初心者ってことで」
「……もういい加減にキスしていい?」
「キスはしたことあ……――ん、」
 問いかけを封じて、熱い吐息をじかにくちの中に流し込まれる。舌で押し問答をして、噛み付いて歯が当たって笑ってしまう。余裕のなさに。じっくりやりたいとこちらは思うが、藤見の若さはそれを拒んだ。まさかと思いながら用意したジェルを器用につかい、身体をひらかれ、あられもない体勢で交じる。
 藤見はすぐ果てた。いったん引き抜いてスキンを外し、付け替える。こちらはアルコールの作用で沸騰に至らない高温で炙られているから、果てても終わらない藤見の勢いが、素直な性欲から嬉しかった。
「――あっ、……ふじ、みっ」
「先生、みんなこうなの? 嘘だろ、なんて身体してんだよ、あんた、――リセットなんて全然、」
「んんっ、ん、あ、」
「こんな身体……――」
 あとで訊けば「頭の中で散々デモンストレーションはしてたから」と自身の妄想力の強さを笑っていたが、このときはそういう理性は吹っ飛び、ただ身体が心地いいようにだけ動かしていたんじゃないかと思う。そういう技巧のない無邪気な身体が、本当に心地がよかった。久しぶりすぎるセックスでちゃんと身体がひらくかと心配すらしていたのに、足のひらきかた、腰の動かしかた、中にある藤見の締め上げかた、息継ぎしながらするキスの仕方、手足の絡ませ方、そういうセックスにまつわるなにもかもが、嫌な思い出からではなく、喜びとして藤見のためだけにさらけ出せた。なにより気持ちがよかった。硬いものが中を啜る感触が。打たれる肌と肌が。混じる汗と体液の粘質が。肉の重さとしたたる水と、私を見つめる獣の目の、赤々とした発情が。
 藤見の言ったとおりに、これをしないのはもったいない、と額に浮く汗を舐めて思った。
「あっ、藤見、……いきそ、くる、あっん、あっ、――ああっ」
「おれも出る、また……っ、」
 海里、と呼ばれたような気がした。呼んでくれたのかもしれないし、そう聴こえただけだったのかもしれない。でも、ミサトでもなく、先生でもない、ひとりの男として、ひとりの身体に愛されて抱かれたんだと、その瞬間で思った。
 盛大、では済まされないほど出したような心地で、放出で硬直した身体の、目尻から流れる塩気を、目玉ごとしゃぶるかのように藤見は舐めた。


 寒いさむいと思っていたら、布団からはみ出ていた。ふたりでひとつの布団を使っているので無理からぬ話で、鳥肌をさすりながら思い切って布団を出て、押し入れからもう一枚毛布を出した。その気配ですこやかだった寝息が止まる。「先生?」と起きあがりかける身体に、ばふっと毛布を投げた。
 それをちゃんと広げて、自分も横に潜り込む。
「……寒かったの?」
「うん。おまえは?」
「寒くない。おれが布団取っちゃったんだね。ここだけつめたくなってるよ」
 ここ、と、背中に腕がまわり、横抱きにされた。
 背中の痣を、手は手繰る。綺麗だ、と言われるより、月のようだと称賛されるより、黙って癒すかのような手つきが、とても頼もしかった。有言実行するなあ、と眠りに炙られながら思う。十五歳で捨てられた私を、本当に救済しにこの青年はやって来た。
「――あ、」
「ん?」
「……そういえばおまえのタトゥー、もう一回ちゃんと見ようと思ってて、見損ねたなって」
「見たいの? 前に見せたとおりだよ、多分」
「うん。でもさ、確認したいじゃん」
「あとで……もう少し、寝よう、よ」
 もぞもぞと動き、藤見は私をしっかりと抱え込む。熱い身体に引きずられるも、いったん感じた寒さで目が冴えかかっていた。
 鼻の頭がつめたくて、藤見の首筋に押し付けるようにすり寄る。そうしながらやけに静かな外音と、それでも時折叩かれるように鳴る窓ガラスと、寒さで判断して、窓の方を見る。
 カーテンの隙間に、明け方の庭がある。そこに白いものがふっと神様にでも吹かれたように混じっていた。雪が風に舞っている。
「藤見、雪だ」
「……んー……」
「ふじみ、……」
 眠る身体は、冬そのものに思えた。今日、島はどこもかしこもしんしんと静かに鎮まるのだろう。潮騒が遠くでうっすらと聞こえる。風と、波と、藤見の寝息。
 これで、もう少しだけ眠って、目が覚めたら。
 この男と島を歩くのもいいなと思った。なにがあるわけでもない、田舎で不便な、冬の離島だけれど。
 眠る男の胸に、顔を埋める。もうしばらくは、しばらくはこのまま。黙って息をして、しばらく。
 体温を分けてもらって。
 目が覚めたら、それから。

『愛恋や憎悪やいずれともかくも激しき視線もてわれを射よ』


end.


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文中引用歌:「村木道彦歌集」(国文社)より

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