忍者ブログ
ADMIN]  [WRITE
成人女性を対象とした自作小説を置いています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 目が覚めると陽はとっくに中天にあった。明け方に発作を起こすと、たいていはこうなる。身体の動作を確認し、起きあがれる、と腹に力をこめてベッドを降りる。居間へ向かうと、ダイニングテーブルの上いっぱいに茶色い実がころころころげていて、馨は背を向けて椅子に座っていた。ちいさく流したラジオにあわせて歌をうたっている。
「えらい数の栗やな。どしたん、これ」
 栗の皮むきと歌に夢中になっている、子どもみたいな三十男に声をかける。居間を抜けてキッチンで水を汲み、馨の向かいに腰かけた。
「調子は?」
「もう平気や。栗、どないしたん」
「今朝、隣の、真島さんが持ってきてくれた。庭にあるのがたくさんなったからって」
「ああ、真島さんか。あのうち毎年くれんねん。あとでお礼に行かなあかんなあ」
「そっか、毎年くれるのか。だからこの家に栗の皮むき用のナイフなんかあるんだな」
 馨の手つきは、するするとよどみない。渋皮を残した実と、すべて剥いた実とでボウルを分けている。なぜなのかと訊くと、虫食いのない実の方は渋皮煮にしようと思うから、と答えがあった。
「ほかは栗ご飯にでもしようかなと」
「僕も手伝うわ」
「皮剥きナイフ、ひとつしかないよ」
「栗の皮なん、園芸用の剪定ばさみでも剥けるやろ」
 しばらくふたりでぺりぺりと皮を剥いていたが、僕は思い出してなんとなく笑ってしまった。
「なに?」
「いや、高校のころのこと思い出したから。おまえが付きおうてた、あれ何ちゃんやったかなあ、忘れてもうたけど、その子が言っとったことな」
「なに言われてた? おれ」
「『烏丸くんて卵の殻割れないし鶏が4本足だって思ってる』てな。高校生男子ならそんなもんやったかもしれんけど、あん頃のおまえはそういう、料理できない男子に分類されとったはずやな、と思い出してな。そんなんがいま、栗の皮剥いて、渋皮煮だ言うとるんがな。東京の生活やヨーロッパ留学で覚えたとも思えんし、はは」
 僕は思い出話を軽く笑っただけだったが、馨は考え込むように黙った。しばらくして、「栗は身近にあったぞ」と答えた。
「身近?」
「留学先で。時期になると焼き栗のスタンドが出て、よく買って食べてた。地方によっては栗祭りっていうイベントもあったし。栗のリゾットもお菓子もあった。メジャーだったよ」
「へえ、てことは留学先で覚えたんか。イタリアやったか」
「そう。料理もね、教わった。アパートの大家のおばあちゃんが教えてくれて。シロップ煮とか栗練り込んだパスタとか」
 それからラジオから流れてきた音楽にあわせて歌をくちずさみ、歌うように会話に戻った。もしくは喋るようにうたっている。この男の普段は、こんな感じだ。
「ええな。栗ごはん言わんとさ、栗つこたイタリア料理振る舞ってよ」
「いいけど、手間かかるんだよね。炊飯器ってさ、材料入れてスイッチ押すだけじゃん。日本人の発明極まれりだと思う。イタリアでも米炊いてたけど、鍋だったから勝手がちがって面倒だったな」
「炊飯器持ってかなかったんか」
「うん。けど、日本からの留学仲間で持ってる人がいて、貸してもらったりふるまってもらったり。まあ、ちゃんとした日本米なんてあんまり手に入らないから、送ってもらった時だけだったね」
 役割を決めて、栗ご飯及び夕飯の支度は僕がすることになった。馨は渋皮煮及び栗菓子に手をつけると言い、そのままキッチンを占拠した。夕方になるまでそうやってうたいながら作業をして、キッチンあいたよ、と声をかけられたころには、ダイニングテーブルの上に渋皮煮の瓶詰めがいくつかとシロップ煮をアレンジして作ったケーキができていた。
「どっちもブランデーきかせたから明日になってからの方が美味しい。明日のおやつができたな」
「そら楽しみやな。夕飯は栗ご飯のほかに粕汁にしよか思うとる。秋鮭の時期やな」
「どこもかしこも収穫祭だよな」
 そしてまたうたいながら風呂を沸かしに行った。
 馨がヨーロッパに留学しているころ、僕は大学を卒業して地方にある出版社に勤めていた。そして馨が帰国してデビューを果たし、世間が馨の歌声にのめり込んでいるころ、病気をして療養生活を余儀なくされ、それは結果的に退職に結びついた。激しい運動はだめ、ストレスはだめ、重たいものも持ってはいけない、等々。はやばやと隠居への道を進み、ちょうどよく用意されたこの家での生活がはじまった。家は広すぎたが、居住スペースを制限しておけば僕ひとりでもなんとかやれた。ただ、家の全体の手入れまではなかなか難しくて、業者を呼ぶしかないときもあった。
 馨は、それらもよくやってくれる。蛍光灯が切れれば買ってきて付け替えてくれるし、窓も磨くし、外壁塗装が剥がれれば塗り直して、家のまわりを覆う木々が塀の外に出て邪魔にならないように剪定をしてくれる。僕が暇を持て余してはじめたプランター菜園も、いつの間にか馨が好きにしている。夏は草刈りをしてくれたし、最近は「冬になる前に」と冬支度をせっせとこなしている。「おれがいないとだめ」な身体どころか、もはや生活が成り立たない。
 そういう生活がどんどん当たり前になって、感覚が麻痺して、僕はわからなくなる。果たしてこの生活は馨にとってよいものなのかどうか。本来ならば馨は誰かのために(熱狂的なファンのためだけじゃなくて、きっと世界中の人のために)歌をうたう存在だ。これは決して大袈裟な言い分ではないと思う。そういう才能が、馨には備わっている。そしてそのことを考えるたびに、僕は「この生活は一過性のものだから」と言い聞かせている。いまはここで共同生活をしているが、馨はいつかここを去る存在で、世間にお返しすべき人だと。
 馨を見ていると、いったいどういうことなんだろうか、と不思議を感じずにはいられない。いつ、自身の声で遊ぶことを覚えたのだろう。歌や音を聴いて、それを口から発せられると気づいたのはいつなのだろう。そこに別の音を重ねられるとわかったときや、舌がよくまわってなんでも発音できること、複雑なリズムでも惑うことなく音を乗せられて、朗々と歌いあげることも、ひっそりと囁くようにうたうことも、声色を変えることも、ビブラートのあるなし、こぶしのきかせ方とじ方、「声」にまつることならなんでもできてしまう、と気づいたのはいつなのだろうかと。神様に子どもがいたら、それは馨のような遊び方のできる人のことなんじゃないかと僕は思う。
 馨のCD音源は、僕も持っている。聴いていると、水面から沈み込んでいくような心地になる。圧倒的な体積のものに沈みながら浮かんで、たゆたって、息継ぎを忘れる。けれどそれが苦しいとは思わず、望んで溺れている。
 だからこの生活を続けてはならない。人前でもううたうなと言われた、と馨は言ったが、そんなことは不可能だと僕は思っている。
 それはすなわち、この世界の損失だからだ。


← 

→ 


拍手[7回]

PR
 ――なあ、取引せんか。僕とおまえと。僕な、二年ぐらい前に体を壊して以降はほとんど隠居みたいな生活で、大きな家にひとりで住んどんのや。なにぶん家が広くて、僕ひとりじゃ手がまわらん。おまえはなんやようわからんが身を隠して住める場所がいんのやろ? おまえのおふくろさんがうちのおばさんにな、相談に来てん。まあ、そういう細い話はおいおいやとしてな、僕のところ来て、僕を助けてくれんかな。離れもあるから、手入れさえしてくれたらそこを好きにつかっていい。住むところを提供するから、代わりに僕じゃ手のまわらんことをやって欲しいんや。わるい話じゃないやろ。お互い知っとる仲なんやし。
 持ちかけたのは僕の方だった。けれどその台詞をくちにして、知ってるってなにを? と問いかえしてしまえた。あいつのことは世間がくちにするようにしか知らない。本当のところを、僕はまったく分かっていない。
 ――ええところや。静かで、海が近い。すこし、あの町に似てる。っても、おまえはあんまり思い出しとうないか?
 電話は、僕が一方的に喋るだけだった。あんまりにも黙っているので、本当にこの電話はあいつに通じているのかと疑うほどだった。だがあいつは僕の話を聞き終えて、やわらかく掠れた、発声を控えた声で、いいな、と言った。
 ――わるくないどころか、願ったりだ。ありがとうな。支度して、すぐ行く。本当にすぐ行くぞ。
 ――なら、取引は成立、ということでええな。待っとるで。
 そしてその翌々日、あいつはやって来た。荷物というほどの荷物もないからと身軽に、世間がくちにする噂とはずいぶんと異なるさっぱりとした顔といでたちだった。
 ――久しぶり。元気じゃなかったんだな、秋満(あきみつ)。
 ――高校以来だよな。おまえは聞いとる話とだいぶ違って、元気そうに見えるよ、馨(けい)。
 ――おれはさ、実のところは、そんなに困ってないから。困ってるのはおまえの方なのかなって思ったよ、電話。困ってるなら、助けたいだろ。
 取引は、はじめから見透かされていた。高校三年間を同じ町で暮らし、同じ教室で過ごした、たったそれだけの縁で、共同生活がはじまって半年が過ぎた。


 秋満。僕がきみにできる精一杯だから、あとは穏やかで、安静にして暮らすといい。
 握りつぶしてもつぶしても手に残った手紙がある。いっそ額装して家の玄関に堂々と貼り出してやりたい。でもそうはできない僕の意気地のなさで手紙は引き出しの中、夢を見て、うなされて、発作を起こしたらしい。何度も名前を呼ばれてようやく我にかえる。荒い呼吸が落ち着く中で、夜の正体があらわになる。ベッドの傍に馨がいて、僕の背をさすっていた。
「――すまん、また、僕、」
「うなされてた。最近多いな。落ち着けるか? 起きあがれるなら、水と薬を飲もう」
 馨は机の上に置かれた水差しを取る。手を借りて起きあがり、水を注いでもらってひと息つく。汗でびっしょりで、不快だった。
「着替えるか、身体拭こうか?」
「ええ、それぐらい自分でやれる。……すまんな、こういうことさすためにおまえをここに呼んだわけやないのに」
「意地張る必要もないだろ。こういうことするためにここに来てんだよ、おれはな」
 そう言われ、またベッドに沈んだ。
「――もうすこし眠りたい、けど、冴えてもうた。うまいこと眠れん」
「わかった」
 馨はほんのちょっと笑い、僕の枕元に腰掛ける。手を僕の背にあて、リズムを取って、ささやくように歌いはじめた。ごくちいさな、けれど丁寧で確実な発声で。
 烏丸馨(からすまけい)とは、高校のクラスメイトだった。中学三年の秋に祖父母と同居するために一家であの町に引っ越して、それまで西の方のそれなりに賑やかな街で暮らしていた僕には馴染みづらい土地だった。田舎で、山が近い。スーパーもコンビニも数が少なく、古臭かった。大学はまた西へと戻ろう、それまでの辛抱だと言い聞かせて進学した高校に、馨がいた。彼は根っからのあの町育ちで、町のことを嫌ってもいたし、諦めて受け入れてもいた。
 高校に入って同じクラスになり、馨が引っ越した先のすぐ近くに住んでいることを知った。知ってからは、登下校がなんとなく同じになった。向かう先が同じなので、時間があえば一緒になるのも自然な話。クラスの中じゃあまり喋らないのに、登下校が一緒になると、僕らはお互いのことをなんとなく喋るようになった。最近はまったゲームとか、読んでいる漫画とか、テスト範囲の話、クラスの女子の話題男子の興味。
 馨はよく歌をうたっていた。というよりは、くちから出せる音で遊んでいた、という表現が正しかったと思う。流行歌があれば曲を正確に再現してくちずさんだし、コーラスの部分や歌手の歌い方の癖、裏打ちのリズム、まっすぐに抜ける高音も転がるビブラートも、高いも低いも自在にうたうことができた。僕は一緒に行ったことはないが、クラスメイトとカラオケに行くとその再現度の高さから「くちからCD音源」と言われていた。そのうち文化祭などでバンドに呼び出されて、はじめはコーラスなんかで参加していたが、ボーカルを張るようになり、正直、その歌声にみなが心酔した。それぐらいに完成度の高い、天性の歌声の持ち主だった。
 どういう受験をしたんだかその苦労を垣間見せることもないほど、馨はあっさりと有名音大の声楽科に入学した。東京にある大学だった。僕は関西の大学に進んだので、そこで進路が離れた。けれど馨の噂は、町の誰かづてに、あるいは馨の母親と仲の良かったうちの母親づてに、伝わった。馨は大学卒業後、ヨーロッパのやはり名門と名高い音楽大学に留学した。そのままオペラ歌手として活躍するのかと思えば、帰国後、音大仲間とバンドを組んでポップミュージックのジャンルでメジャーデビューを果たした。馨がボーカルで、ほかに作詞作曲を担うギタリストと、ベーシスト、キーボード、ドラマーという構成。顔出しこそあまりなかったものの、曲にあわせて作られるアニメーションの世界観の完成度とビジュアルの高さ、一曲ごとにことごとく違う表情を見せる突き抜けた音楽性と、音大卒ならではの技術力の高さで、若者のあいだで非常に人気を博し、動画再生サイトではとんでもない再生数を叩き出した。街中どころか僕の周りでもよく耳にしたから、その影響力は世間にとって計り知れないのだと思い知る。そこまでいくと遠い存在で、高校時代に同じ道を自転車で通ったなんて、嘘みたいなできごとに思えた。
 国内でさらえる賞は根こそぎさらったし、若者から支持されるランキングは必ず食い込んだ。だからこそ半年前のニュースは、当時国会の解散が、とか、選挙が、とか、記録的な大雨が、とか世間の話題が事欠かなかったにもかかわらず、僕の住むちいさな海辺の町のローカル新聞紙にも掲載された。
『人気音楽バンド・ポップトラバース 解散を発表。
 若い世代に絶大な人気を誇る音楽バンド・ポップトラバースが解散を発表した。20××年のメジャーデビュー後、「トラジコメディ」「雷鳴」など数々のヒット曲を生み出し、動画再生回数の最多記録(当時)や音楽ダウンロード回数のレコード記録を樹立し社会現象を生み出した。ポップトラバースに関しては、ギタリストのTETSUさん(31)が麻薬所持で逮捕された他、ベーシストのタケジさん(30)の不倫報道、ボーカリストのケイさん(29)の心因性失声症の発表など、近年の活動に支障が出ていた。』
 失声症なんて聞いてないぞ、と新聞を眺めて思っていた矢先、故郷の母親からも馨のことを聞かされた。まさかこんな提案に乗るわけないだろう、そもそも昔に訊いた連絡先が通じるのかさえわからないのに、と思いながら、馨に電話して、通じて、いまに至る。失声症と聞いたから声が出せないのだと思い込んでいたが、馨は普通に喋ったし、僕の前では、うたう。
「いや、確かに声が出せない時期はあったんだよね。音あわせとか、レコーディングの時とか。でもいまは出せるし、別にフツーだよ。思い悩むこともさ、特に別にないんだよな。ただ、そう診断されちゃったのを事務所が体よく隠れ蓑みたいにして、要するにおまえはもう人前でうたうなって、言われちゃったんだよ、おれ」
 そうなった経緯は僕にはまったくわからないが、馨はそう説明した。とにかく休養、と言って、現在は早朝だけ新聞配達のバイトに出かけて、あとは家のことをやってくれる。家のこと、とは、僕の身の回りの世話も含まれる。食事、掃除、洗濯、庭の手入れ、病院への送迎、買い物に、風呂の支度。
 そこまでやらなくていいと僕は言ったが、病気をして以降は体力が落ちて重たいものを運べなくなったりもしていたので、馨の健康はありがたかった。
「おれがいないとだめな身体にしてやるよ」
 そう言ってふるまわれる基本を押さえた健康的な料理もありがたかった。馨は耳がよいことも手伝ってか感覚器が敏感で、人のふるまいに直感的に気づく。そして甘やかしたがる。だから多分、人をだめにするのが上手いんだと思う。
 中毒性のあるあの声を聴きたくて、ライブハウスに人が殺到しすぎて、押された人で怪我人が出た。そういうニュースもあったが、気持ちがわかる。


→ 


拍手[6回]

 伊丹は春原と直接姪の家に配送に出ると言って、ピアノを荷台に積み込んだトラックで春原と出ていった。残された三倉は留守を任された工場の職人らとしばらく談笑していたが、やがて「僕らも帰りましょうか」と言って立ちあがる。帰りはおれが運転するよ、と言われた。
「――え、それじゃ僕なんにもしてないですよ。行きは伊丹さんしか運転してないし」
「連れ去ってきたのそっちじゃん。眠くなったり疲れたら代わってもらうから」
 戻りの高速道のSAで、休憩の際に「あんまりおれを甘やかさないで」と三倉は言った。
「あまや、……かしてます、かね、僕」
「してるしてる。充分。今日だって俺が運転代わるって言わなきゃ自分で全部やるつもりだったろ。三倉さんは寝てていいですよ、とか言って」
「でもその役割だし」
「あとは自分の音楽プレイヤー買ってたね。俺に取られちゃったから」
「……取られた、という意識はない、ですけど、」
「鴇田さんはさ、俺にねだられると全部全力で、応えようと、しちゃうじゃん」
 そうかな、と思ったけれど、自覚のないやつ、の類なのかもしれない。三倉は飲んでいた缶コーヒーを空にして、ゴミ箱に捨てた。
「今日だって、もしかして伊丹さんとの連弾が聴けるかも、という理由で、俺を誘ったね」
「でも、……その、ただ三倉さんと一緒に行きたかっただけですよ」
「甘いよ」
「……」
「そんなに甘やかされたら、俺は元がこんな人間だから、鴇田さんにあぐらかいて、ぬけぬけと享受しちゃうよ。それはさ、だめじゃん。さすがに。俺だって鴇田さんのこと甘やかしたり喜ばせたりしたいよ。俺ばっかり受け取ってたら、ずるいよ、それは」
「そうなんですか?」
「まあ、そういうすれてないところが、あなたのいいところだとも思うんだけど」
 きゅ、と鼻の頭をつままれた。そのまますたすたと車へ戻る。冷房をがんがんに効かせて、夏の宵の斜陽からなんとか逃れようとする。
「俺さ、あなたにとって最初の人じゃん」
「はい」
「……素直な肯定もちょっと照れるな。まあ、それでさ。最後の人でもいたいわけで」
「……」
「人に触れてみたら気持ちがよかったから、他の男にも走ってみようとか、女性はどうなのかなとか、そういうことすら思ってほしくない。俺に夢中でいてほしい。俺は、鴇田さんを夢中にさせたままでいる自信なんかないけど、でも、努力はしてたい。俺も鴇田さんが最後の人だといいなと、思ってるわけで……のぼせてきたな。運転代わってくれる?」
「あ、はい」
 ばたばたと座席を入れ替わり、助手席でふーっと三倉は長く息をついた。
「まあ、あれだ。なにが言いたいかというと、鴇田さんもわがまま言ったり、甘えたり、していいんだよ、っていう」
「でも僕は、知ってるので、」
「え、浮気を?」
「それは知らないです。してるんですか、浮気」
「してないですごめんなさい。ジョークです。なにを知ってるの、」
「三倉さんが、僕にピアノを買ってあげようっていう名目で、ちょっとずつ貯金してるの」
「――……」
 うわー、という声が聞こえそうなほど三倉は天を仰ぎ、それから頭を抱えた。「すみません、ケントから聞きました」と正直に言うも、そっとこちらを見た三倉の耳は真っ赤だった。
 あ、かわいい。そうか、これをかわいい、というのだ、と思った。こんなの、甘やかさない方が無理じゃん。
 笑ったら、三倉は「ケントさんは口が堅いと思ってた……」と漏らす。
「いえ、ケントだって黙ってるつもりだったと思います。ただ、紗羽と話してるところをたまたま、聞いてしまっただけで……、前にも思いましたけど、三倉さんってコツコツやるの、わりと得意で好きですよね」
「うるさいよ。……人をなんだと思ってんの。そんなに俺は派手な人間に見えますかー」
「最初の印象では。でも、そういうところが見えるとますます嬉しくなるから、三倉さんが甘やかさないでとかいうのは、違うような気がするというか。僕だって好きでやってますし」
「あー、うるさいうるさい。恥ずかしい。……鴇田さん、いま、どっち?」
「どっち?」
「触って大丈夫な方の鴇田さん? 触ったらこわばっちゃう方の鴇田さん?」
 そう訊かれても。これも三倉が、自分を大事にしたいからする確認だと分かると、もう無理だった。
「三倉さんをくったくたにしたい方です」
「すごい言い回しだな。……こういう高速道路のインターを降りると、大概あるもの、なんだか知ってる?」
「……行った事はないんですけど、知識としては知ってますね」要するに、ラブホテル、というもの。
「決まりだなあ。行き先変更」
「待ってください、僕は入り方が分かりません」
「じゃあ俺運転するから、……なにやってんだろうな。まっすぐ家帰れよって話」
「帰りますか?」
「まあ、運転しながら考えればいいか」
 慌ただしく座席を(再び)入れ替えて、車はSAを抜ける。後日、この会話と車の向かった先は車に据え付けられたドライブレコーダーによって伊丹に筒抜けだったと知るのだけど、伊丹は一応、黙ってくれていた。
 きっと、どうしようもねえなあ、とか、思ってたんだろうと思う。


end.


← 中編


拍手[5回]

「――それで、私はいったいどこへ連れていかれる、んでしょうか」
 梅雨明けて八月、世間は夏休みという時期。三倉の要望した夜からは半年以上が経過していた。四駆のハンドルを握るのは伊丹、その助手席に遠海。三倉は後部座席で、まったく訳が分からない、という顔をしていた。経緯は話していないので当然の疑問が出る。
「あれ? 遠海くん話してないの?」
「休みかどうかを確認しただけです。休みだったら、出かけませんかって」
「それは誘拐とか連れ去りに近いものがあるねえ」
 ははっ、と伊丹は軽快に笑う。後部座席を確認すると三倉は目で不可解を訴える。お茶飲みますか、とペットボトルを一本渡した。
「え、なに? 遠足的な?」
「今日はこれからHへ行きます」
「これから? もしかして一泊?」
「いえ、僕らは日帰り」
「日帰り!? ますますなにしに!?」
 と三倉はびっくりしていた。確かにこれから乗ろうとしているのは高速だったりする。
「前に伊丹さんのお店でちらっと会ったことありましたが、覚えてますか? 春原さん、というピアノの修理工場の」
「あ、」思い出してつながったのか、三倉はようやく頷く。「確かHって。お店のピアノの面倒見てくれた人だよね。今日はそこへ?」
「うん。伊丹さんの姪御さんがピアノをやりたいとかで、手頃なピアノを探してもらってたんだって。それを見に行く。そのピアノに決まれば伊丹さんは春原さんとピアノの配送。僕らはこの車をまた伊丹さんの家まで戻す役割」
「遠海くんもそこですんなりそう話せばよかったのに。付き合わせてすみませんね、三倉さん」
「いえ、ピアノの工場ってなかなか入れるところではないので、そうとわかったら俄然楽しみになりましたよ」
 状況が把握できればすんなりと順応できるところが三倉の素晴らしい長所だ。持ち前のトークスキルを発揮して三倉は運転に気遣いつつ伊丹と話し始めた。このあいだの店のセッションで和楽器のミュージシャンがいたことは驚いたとか、最近遠海に勧められて聴いたC Dが良かったとか。伊丹もリラックスして運転を楽しみながら三倉と話している。遠海は窓の外を眺めていたが、途中のS Aで休憩した際に三倉と席を代わってからは、腕を組んで眠るふりをした。頭の中ではつたない亜麻色の髪の乙女が鳴る。
 Hに到着し、春原の工房に通された三倉は、カメラを持ってくればよかったと興味津々にそこらに安置された修理待ちのピアノを眺めていた。そのうち奥から春原がやってきて、候補のピアノの置かれた一角に通してくれる。小型だがグランドピアノで、音質はまろやかだと言う。他にもいくつかある候補を見てまわりつつ、遠海はひとつのピアノの、ひとつの鍵を、ポーンと鳴らした。
 お、という顔で皆足を止めた。
「いい音質だね。高音は?」
「こんな感じ」パラパラと鳴らす。
「悪くないな。低音も」伊丹も手を伸ばして混ざる。
「これは製造の割には結構伸びのある音出ますよ。粒揃い、というか」
「伊丹さん、弾いてみては?」
 低音付近を触っていた伊丹に、そう話しかける。
「え?」
「このピアノは、伊丹さんの方が好きそうだなって」
「そうかな」
「そうでしょう」
「そうかも」
 伊丹は鍵を撫でる。気を利かせた春原が、ピアノの椅子を替えてくれた。
「三倉さん」
 それまで後方でこちらを覗っていた三倉に、伊丹が声をかけた。
「リクエストにお応えしましょうか」
「え?」
「遠海くん、そっちでオケを」
 伊丹の向かいにあるピアノに、遠海は座った。曲目は聞いていない。けれど多分、弾ける。超絶技巧だから、伊丹は。
 伊丹は息をすっと吸うと、唐突に低音を鳴らした。静けさから、次第に近づく遠近感で。最も近づいたところで、最大音量で下り落ち、凄まじい技量で指を滑らせた。
 ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番。
 伊丹を立てるようにして、遠海はオーケストラのパートを弾く。三倉が息を飲んだのが聞こえた気がした。いまはジャズバーなんかをひらいている伊丹だが、学生時代はバリバリのクラシックだった。これぐらいの難曲を、難なく弾ける人だ。
 跳ね回る鍵盤、しなやかに大胆に動く指先や手首。こういう腕の動かし方は僕には出来ないな、と伊丹の音を聴きながら、三十分以上ある長い曲を弾き続ける。あっという間に終わってしまう、終わる、と思っていたら、惜しむ気持ちを察せられたのか、伊丹に目配せされた。
 今度は遠海の番、ということだ。
 ならば、同じようにピアノの協奏曲。最近好きなのは、プロコフィエフ。
 弾いているうちにいつの間にか曲が変わる。伊丹がそう弾いたから。間をはかりつつ、流れを止めず。やっぱり夏だから、と次第に夏の曲へ傾く。ヴィバルディの四季より、夏。それがジャズのアレンジになって、現代作曲家の曲になって、また古典に戻って、あるいは国を悠々と越えて。
 どれだけ遊んだのか、というぐらいにたっぷりと遊び倒して伊丹のトリルで曲を終わらせた。気づいたら一時間ほど経っており、やべ、と焦った。
 三倉を振り向いたら、いつの間にか録音機材を手にしており(春原から借りたらしい)、「貴重な音源の入手」と実に満足そうに微笑んでいた。だがその笑みに隠して、感涙が察せられた。
 機材を置いて、盛大な拍手が三倉と春原のふたりから湧き起こった。
「すごいな、――すごい。本当にすごかったです。鳥肌が止まらなかった。それでいま、なんでか泣けてます。すごいものを聴かせていただきました」
「いやほんとにね。伊丹さん、国際ピアノコンクールの入賞って嘘じゃなかったんですねえ」と春原。
「え、初耳」
「鴇田さんも出てたらいい線いってたって音出しますね。惜しい才能がここにふたつある。世の中ままならないねえ」
「あのね春原くん、僕は結構ままなってるんだよ。そっちの彼は知らないけど」
 と、伊丹に目配せされたので、「ままなってます、充分」と答える。
「伊丹さん、姪御さんにはどのピアノ?」
「うーん、僕の好みならこれだな」弾いていたピアノを指す。
「初心者にこれはどうだろうか、って音出すね。変な風に育っちゃったら煽った遠海くんのせいということで」
「僕煽りましたかね?」
「まあきみの音の好みを育てたのも僕だから、変態寄りになっても仕方がないか」
「僕も変態ですか」
「なにをいまさら」
「あんな音出すの変態しかいないですよ」
「そうそう」
 笑いあっている春原と伊丹に、微妙な顔をしていたら、そこで「ぷっ」と電子音がした。
「演奏後の雑談まで入手。貴重な音源をありがとうございました」
 三倉も笑った。まだ録音を止めていなかったらしい。
「――やられた」


← 前編


→ 後編



拍手[5回]

 以前聴かせた伊丹との連弾。幼い遠海がだだをこねながらつたなく「亜麻色の髪の乙女」を弾くその音源を、三倉は不思議と気に入って何度も聴いていた。遠海の音楽プレイヤーを勝手にあてて、本を読みながらゆったりと聴いたりしている。はじめは申し訳ながって音源を自分のスマホに移そうと格闘していた三倉だったが、パソコンにもなくCDとしても残っていないので、遠海のプレイヤーをかざしては「聴いてていい?」と許可を得ていたが、遠海が許可を得なくてもいいとある日告げたら、そっか、とそれ以来三倉と共有になった。なにがいいのか分からないが、曲を聴いているときの三倉は静かで穏やかな顔をしているので、いいのか、と思いながら遠海はついに別の音楽プレイヤーを買った。遠海のそれは、もうほとんど三倉のもののような顔をしてしまっているので。
 それで、たまたま帰宅時間の重なった週末にゆっくりとふたりで映画を観ていて、不意に三倉は「伊丹さんとの連弾聴けないかなあ」と言ったのだった。
「伊丹さん、と、誰の?」
「え、あなたの」
「亜麻色以外の音源、という意味ですか?」
「いや、いまの鴇田さんと伊丹さんの弾くもの、という意味」
 テレビの中の映画は、昭和の少年たちがおおはしゃぎして夢中になった巨大怪獣が都市を暴れまわる内容を現代にリメイクしたもので、だからムードというものはなく、ただただ怪獣の吠える声とビルが破壊される音が響く。ず、ず、ず、とテンポよく流れる独特の音楽。なぜいまその話が出るんだろう、と遠海は不思議でならなかった。
「いま伊丹さんは聴くに特化しているというお話だったけど、仲間内だと演奏の機会はひらいているよね。だからそういう身内枠でいいから、聴かせてもらえたら贅沢だと思って、――ごめん、映画が面白くなかったからとかじゃないよ。ただ三回も観てる映画だったから、余計なことをつい」
 それに、と両耳のたぶを軽く引っ張られた。
「鴇田さんはこういう音の派手な映画は苦手なんだな、と分かってしまった。辛いでしょ、これだけ観てるの」
「……ばればれですね。すみません」
「鴇田さんのこわばりはすぐ分かるようになったんです」
 そう言って三倉はすんなりとテレビを消した。「休もうか」と今度は照明を少し明るくして、キッチンでスパイスの効いた熱いミルクを作ってから戻って来た。
「やっぱり難しいかな?」と三倉はカップを寄越しつつ隣に座って訊いた。
「いえ、……時間もらってもいいなら、伝えてはおきます」
「そっか。それは嬉しい」
「叶えられるかどうかは、分からないですよ」
「それでも、三倉が聴きたがってた、と伝えてもらえるだけで充分。ほろっと聴けるタイミングがあるかもしんないじゃん」
 それからテーブルの上に置かれた音楽プレイヤーを指して、「一緒に聴かない?」と三倉は誘う。
「よっぽど好きなんですね」
「うん」
「スピーカーつなぐ?」
「いや、いつもの、で聴こうよ」
 あっさりと三倉は笑った。こんな笑い方をする人だっけかな、という驚きがいつもある。いつもの、というのは、ふたりでイヤフォンの左右を分けて聴く聞き方だ。ステレオをふたりで聴くと性質上無理が出る。それでもそれを笑いあって聴く。
 ただその夜は、非常にスロウな夜だったので、ひとつのイヤフォンをふたりで分けあって聴き続けるのは、難しくなった。三倉とキスをしながら、左耳で外れかけているイヤフォンから流れる幼少期の遠海の音を聴くのは、妙な背徳感があった。
 ――すごいな。
 つたない亜麻色の髪の乙女。転ぶピアノ。泣く自分。それを聴きながら、三倉のシャツの裾に手を入れている大人の遠海。
 ――こんなことしながら聴かれてるなんて、あのころに想像しろなんて、無理だ。
 ふ、と三倉がなまめかしく息を吐いた。しなる腰から纏うものを剥ぐ。その息遣いや、衣擦れで、昔の自分のことは忘れた。


→ 中編


拍手[5回]

«前のページ]  [HOME]  [次のページ»
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新コメント
最新記事
フリーエリア
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

Template by wolke4/Photo by 0501