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 だからこそ余計に、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないかと、急に一歩踏み出した足のことを、怖く思った。
「――どしたの、イズミくん。なんだかぼうっとしてるわね」
 日野辺と別れ、常盤果樹園に戻り、社長一家とともにとる夕飯の席で、奥さんにそう指摘された。
「今日、日野辺先生と出かけてたんでしょ? K高原の方まで行ったって。あっちはどうだった?」
「あ、……牛がいました」
「そりゃいるわよお。観光牧場で賑わってるところだし」
「ソフトクリーム美味しいよね。食べました?」若奥さんにも訊かれる。
「いえ、……今日ちょっと涼しかったし」
「ああ、あっちはね。標高もここいらよりあるしねえ。食べたらお風呂入ってあったまって、寝ちゃいなさい」
 はい、と頷いて、茶碗の飯をくちにする。もごもごと食べて、風呂はシャワーだけにとどめて早々に貸与されている部屋に下がった。丸めて隅に寄せておいた布団を引っ張り出し、横になる。どうしてこんな気持ちになるのか。いっそ量販店の安いメッキの指輪の方が良かったんじゃないかと、今更になって雲が黒々と立ちこめる。
 日野辺は楽しんでいるふうだった。素直に指輪を楽しみにしている様子が、直裁的な言葉にはなくても窺えた。ひねくれは承知、日野辺やあのふわふわデザイナーが力を入れてしまえばしまうほど、逃げたくなるんだとわかって息をつきながら寝返りを打った。それを二・三度繰り返し、諦めて起きあがり、着替えてヘルメットとカブのキーを引っ張り出す。
「ちょっと日野辺先生のところ、出かけてきます」と居間でテレビを見ている奥さんたちにひと声かけた。
「戻って来なくても、明日の仕事までには戻りますので」
「気をつけるのよ。イズミくんは前科持ちだからね」
 はい、と頷いて、車庫からバイクを引っ張り出して日野辺医院に向かう。
 出迎えてくれた日野辺は、きょとんとした顔で現を家に入れてくれた。居間に寝そべって半分いびきをかいていた大先生に「親父、風呂ちゃんと入れよ」と言い、二階にある自室に連れて行かれる。
 なにをどう言葉にしていいのか、自分でもわからない。黙り込んでいると、日野辺は頭をかりかりと掻いて、「やっぱり指輪、やめるか?」と訊いた。
 はっとして顔を上げると、日野辺はんーっと上を向いてから、腕組をして、ずいっと顔を寄せた。「エニグマって知ってる?」
「エニグマ? ……いや、わかんねぇ。熊か?」
「そういう連想するよな。……こういう表現が適切かは置いて、第二次世界大戦中にナチスドイツ軍が使っていた暗号解析機のことを言うんだと。ナチスの司令部が、命令や戦況を暗号にして流す。それをエニグマに打ち込むと、暗号が解析されて情報が出てくる。そうやって軍全体に伝わる、そういう仕組みらしい。これを解読できなかった連合軍は最初は苦戦を強いられたんだけど、イギリスの数学者が解析に成功して、戦争終結を早めた、と言われている」
「……それは、どう解釈していいのか、わかんねえんだけど、……なんの話?」
「戦争で使われた暗号機だからって、悪い意味で取るなよ。単語を借りるなら、の話だ。現の中に、言葉にもできないような、暗号がある。でもおれは現のエニグマだから、態度や、空気や、ちょっとした息遣いを入力されれば、それを解析できる。現の暗号解析機なんだ、おれは」
「……」
「試しになんか言ってみろよ。解読してやるから」
 日野辺はすこし俯いたが、湖面みたいにしんと深い双眸でこちらを見つめた。
「……義兄さんがよぎるんだ」
 日野辺には悪いと思いながら、くちにした。
「姉貴を裏切るとわかっていてやめられなかったみたいに、……なしくずしでずっとやってきた。ろくでもない人間のおれが、こんなにあっさりと、送みたいにまっとうな人間相手に指輪なんか作っていいのかって。また逃げたら、どうすんだよ、おれ……」
 あんなに熱心に時間も値段もかけて指輪を作ってしまったら、もう道を誤れない。現はこれまで、逃げることでものごとを回避してきた。起こしたことの責任を負わず、のらくらとかわしてうやむやにしてしまう。義兄のことでもその嫌な癖が出た。逃げた結果こんな町へ来て、日野辺に出会ってこうなっているけれど、果たしていままでの過ちを反省して正せるのか。反省していたら、日野辺に甘えていてはいけないのではないか。
 つまり自分は、
「現は、自分が覚悟を決められないことを、もしくは覚悟をしたつもりで迷いが生じてしまったことに、罪悪感があるんだな」
 あっさりと日野辺はそう言った。現が喉元までつかえて言葉にできなかったことを、丁寧に端的に表されて、日野辺の顔を真正面から見た。
「指輪を作ると決めたら、簡単には作れないことがわかった。そこには気持ちや覚悟が込められることを、あらためて実感してしまった。その重圧が、自分に信用が持てない分だけ、現には重く感じる。それを感じてしまったことを、おれへの裏切りだと思えて、自身を苛んでいる……と、おれの現解析機は言っている」
「……」
「当たってる?」
「……そ、う、……」
「な、言ってみるもんだろ。ちゃんと解読した。褒めてくれよ」
 褒章をねだって現の手を自身の頭に乗せる。だから現はほっと息をついて、その髪を混ぜた。
 撫でられながら、日野辺は「覚悟なんてものはさ、おれにも確かなものとしては、ないよ」と言った。
「そんな重いものは、おれも分からない。でもおれは医者だから、わりと頻繁に重たいものを乗っけられる。他人の生命のあずかりだ。ああいうときは、結果が第一で、かつ悩んでいる時間はないから、ほぼ即決に近い。瞬時に判断して、淡々と覚悟する。でもおれと現の場合は違うじゃん。かけられる時間や、ものそのものが。だからさ、指輪は作ろうよ」
「でも、送、」
「それで、現がさ。ああ、嵌めてみてもいいかなって思えたら、そのとき交換すればいいじゃん。そういう自然さでいいよ。焦らなくても、ゆっくりで。そもそもおれたち、出会ってまだ一年過ぎたぐらいなわけで」
 そう言われてみれば、確かにそうだった。この間にいろんなことがあったから、もっとたくさんの時間が流れたような気になっていたが。
「だからお義兄さんとの傷がまだ生傷なのは当然。ゆっくりでいい。勢いだけで作って交換して、後悔するよりも。もしかすると一生箱に収まったままの指輪かもしれなくなるけど、そこにあるっていう存在は、現が逃げてしまうという結果を、もたらすことはないと思うな」
「どうすんの、そんなにのんびりして、信用して、おれがやっぱりやだってなって、重たいな、逃げてえな、なかったことにしてえな、」
「現、それ、自分をわざと信用しないために言ってるだろ」
「……」
「お姉さんの伴侶と不貞を犯した自分を、許さないためにくちにしている。そんなに自分を責めなくていいんじゃないか? おれにとっては、現がここでおれの傍にいてくれることの方が大事だ。前にも言っただろ。現は、てめえなにやってんだよ医者のくせにって、くだんねえよって、おれを軽く笑ってくれる。現に正されることが、おれには必要なんだ。おれが現の暗号解析機なら、現は天秤だ。おれの抱える重さを正しく測って、裁いてくれる」
 だから指輪はさ、と言って、日野辺はその場に寝ころんだ。
「……正直、もしかしたら……現に手放しで指輪を喜んで受け入れられることの方が、おれには疑わしかったのかもしれない。これはおれが見た都合のいい夢かもしれない、って」
「――そっか」
 うん、と現は頷いた。いたく納得して、頷いて、再び「そうだな」と笑った。
「――あんたとは時間をかけていいんだな」
 そう言うと、日野辺は「ん?」と起きあがりかけた、その身体にまたがって、上に重なる。
「変なこと言い出して悪かった。でも、話せてよかった」
「そうだろ。大体現はさ、生意気言ってるぐらいじゃないとおさまらない。うじうじしてんのは、おれぐらいでいいよ――ごめんな」
「なんで?」
「指輪は、結局のところ、おれが急いたんだ。現と違っておれは確かで即物的なものが欲しかった……焦ってたんだよ。現がもし『帰る』って言いだしたら、立ち直れないと思っちゃったら」
「帰らないんでいいと言ったのはあんただろ」
「くちでは大人ぶってな。本当のところの肝はちいさい男だから、おれは」
 日野辺は笑う。情けないな、と笑う。現も笑って、「知ってる」と答えた。
 日野辺の耳横に手をついて、額と額を合わせた。日野辺の目がうっすらと弧を描く。
 ここにはなんでもある。仕事があり、住む場所があり、誰にも臆さず隠さなくていい恋人の存在があり、やがて家族に至っていいのだという許容がある。
 自分が手にできないと思い込んでいたものがある。
 居場所と理解。偏見と可能性。噂と本心と確証。大胆と臆病。そのなにもかも。
 指輪、楽しみだな。そのとき現は素直に思えた。するっと腹に落ちた覚悟を、喜ばしいと歓迎して、日野辺にそういうキスをした。解析機にはそれで分かっただろう。


end.


前編


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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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