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桜並木を堪能したので八束の運転で商店街へと移動する。四季が行きたがったお好み焼き屋はちょうど開店するところで、店内の大きな鉄板は「まだあったまってないからちょっと待ちな」とのことだった。女将とその息子夫婦で経営されている店で、地元の人間には馴染みのある店だ。南波家はなにか喜ばしいことがあるとこの店に来ると聞いている。四季が小学校に入学した時も、夏休みの自由研究で入選した時も、卒業と入学の時も、ここへ来て好きに食べたという話だ。
今回はなにかいいことがあったのかと私はメニューを見ながら訊ねる。四季が「八束くんの昇進祝いだよ」という。
「昇進? したの?」初耳だった。
「そう。なんだっけ、ソーカツシュセキ? ジョウセキ?」
「総括上席研究員」
「それって研究職の中でどれぐらいの位置なの?」
「首席の次に偉いぐらいの研究員のポジションだな。まあ、小さな郷土資料館だから。学芸員としての仕事は減るけど、研究職としてはどんどんやってけ、責任もそれなりに負えよ、成果出せよ、的な立場だ」
「それはますます研究に没入できるってことじゃないか。またとない待遇だろう? 大家さんには報告した?」
「息子の昇進なんかあの人には興味ないよ。今日だって食事に行こうって四季が誘ったのに、勝手にやるから勝手にやってこい、だ」
「いやでも、びっくりしたな。そんなニュースなんでもっと早く教えてくれなかったの?」
訊ねても、八束はメニューに目を向けたままでこちらを向かなかった。
「決めた」とメニューを閉じる。
「海鮮と、餅と明太子、豚玉。あと砂肝とあさりとつくねとじゃがいもも焼いてもらおう」
「バターコーンも頼んでいい?」と四季が訊き、八束に了承を得てメニューが決まった。
「すごいな。お酒飲まなくいいの、八束さん」
「車だからね」
「分かってたらおれが車出したのに。帰りは運転代わろうか?」
「ひとりだけ飲んでてもつまらないだろ」
それは暗に私と飲みたいのだと聞こえた。私はそっと微笑む。やがて温まった鉄板でメニューの品が焼かれはじめた。鉄板を仕切るのは息子で、老年の女将は手をこまこまと動かしながら客の会話に応じていた。グラスやおしぼりなどを息子の嫁と思しき女性が渡してくれる。店の隅にはテレビがあり、民放のローカル局が夕方のバラエティ番組を放映していた。
八束の昇進の話を聞き、女将は「好きなことが仕事になるってのは大変だろうに」と笑った。
「あんたなんの研究職なんだっけ?」
「風土史。この町は川が大きくてたくさんあるから、昔から船着場として人やものの出入りがあった。そういうことを調べてるんだよ」
「研究者ってのはあたしには分からない職業だよ。ごみ収集所の獣害対策でも考えてくれた方がよっぽどいいのにねえ」
ねえ、は四季に向けられたものだった。四季は臆することなく「私もよくわかんなーい」と笑う。女将の目は初見の私にも向き、「そちらさんはその髭面じゃあまともなサラリーマンでもなさそうだねえ」と笑った。
「セノくんは大学で教えながら文化財とか工芸品の修復とかしてるんだよ」
「へえ。じゃあラジオとかも直せるかい?」
「うーん、電気系統は未習得なんですよ。勉強しないとできないな。でも器の修復はある程度できますよ」
「器の修復?」
「ほら、お茶碗欠けちゃったとか、ガラスのコップ割っちゃったとか。日本には昔から金継ぎっていう漆で直す技法があってね」
「セノくん、そんなこともできるの?」
「覚えたくて漆職人の友達に教えてもらった。漆はかぶれるしね、すごく時間もかかる。めったにやるわけじゃない」
喋っているうちに三枚のお好み焼きがスッと鉄板の隅に寄せられた。見た目の差はあまり分からないが、ソースの香ばしさが漂って食欲を誘う。四季が「みんな食べたい!」と言うので、皿をもらってそれぞれの味を取り分けることにした。一品ものの鉄板焼きも次々と出てくる。こんなに食べ切れるのだろうか、という量だった。
食べていると店の扉があき、カウンター内から女将が「おやマサタカ」と声を発した。馴染みの客でも来たのだろうと考えていると、四季が反応した。勢いよくそちらを向き、「えっちゃん」と言う。その台詞は私と八束の脳内を俊敏に刺激して、店の入り口を見た。
女将に「マサタカ」と呼ばれ、四季に「えっちゃん」と呼ばれたのは、四季と同年代の少年だった。同伴している人間はおらず、ジャージを着て大きなスポーツバッグを背負っている。四季は「部活終わったの?」と訊き、少年は「うん」と答えた。「おれも腹減って」と四季の傍へ寄った。
「おばちゃんおれ豚玉ね」
「あいよ」
「こっちもつまんでよ。調子に乗って頼みすぎた」と四季が隣の席を指した。
「いいの? おれめっちゃ腹減ってるよ?」
「いいよ。いいよね、ヤツカくん」
姪に訊ねられ、八束は「ええと」と口をひらいた。
「四季の叔父です。……四季の、同級生?」
「ええと、そうです。保育園から一緒です。新村正敬(にいむらまさたか)と言います」
「ニイムラマサタカ……」
「えっちゃん」
四季が口を挟んだ。
「えっちゃんだよ、ヤツカくん。この人が、えっちゃん」
「え? なんで?」その質問は大人にしてはあまりにも素直だった。
「僕はてっきり、『えっちゃん』てのはエツコちゃんとかそういう、女の子のあだ名だと」
「ああ、よく勘違いされます。つか、いつまでもそれで呼んでるの南波ぐらいだからな」
少年は優しい目を四季に向けた。照れているわけでもなく、怒っているわけでもない。とても親しく馴染む感覚は、私が八束に抱くそれとかなり似ていた。
「ほら、小学校のとき、CMにトヨエツが出ててちょっと流行った時があったじゃん」
「俳優の?」
「うん、トヨエツ。あれの真似が上手かったの。だからみんなえっちゃんって呼びはじめたんだよ」
八束は黙る。私も黙って叔父と姪とその同級生を窺っていた。
「その、あのね、四季。きみはしょっちゅうえっちゃんちに行くとか、えっちゃんと出かけるとか、夕飯を食べてくるとかいう話をしているけど、それは全部、彼のこと?」
「うん? そうだよ?」四季は屈託なかった。
「あらあんたら付きあってるの教えてなかったの?」
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三.
八束からのメッセージに気づいたのは深夜だった。電話でも寄越せばいいのに急ぎでもないということか。アプリをひらくと〈花見のお誘い。四季から〉と簡潔にあった。
〈桜祭りが近くであるから、そこに行きたいらしい。花見の後は商店街のお好み焼きを食べに行きたいんだと。脈絡が掴めなくて女子中学生の考えることは分からん〉
ふふ、と笑う。
〈行く気があるなら明日までには連絡して〉
事務連絡かのようなメッセージは八束らしかった。付きあう仲になったからと言って甘い睦言なんて一言も交わさない。距離を測りかねているというよりは、もうお互いにそれなりの経験を積んできたいい歳をした大人なんだし、という思いが強い。若い頃のように会いたい触れたい傍にいなきゃ別れる、なんて情熱と欲望だけでは動かなくなった年代。一見穏やかに見えて、でもどこかにマグマの噴出を待つかのようなどろりとした熱塊が存在することも確かだった。
駄目もとで〈電話していい?〉と送ってみる、休んでいれば、あるいは本にでも夢中になっていれば返信はないだろう。だが予想に反して数分で電話がかかってきた。
「八束さん、すぐ気づかなくてごめん」
『きみがスマホと相性が悪いのは分かってる』
「この辺で桜祭りなんかやってたっけ?」
『一昨年辺りから商工会がはじめて規模が膨らんでるんだよね。親水公園に植えた桜が成長して見頃になってきたからかな。桜並木の下に屋台が出る』
「へえ、そりゃお祭りだ」
『本当はえっちゃんと行きたかったらしいんだけど、その子は部活だとかで誘えなかったんだと。僕らは代役だ』
「それでも嬉しいね」
『行ける? 候補日は日曜日の午後で、夕飯をお好み焼き屋でって言ってるんだけど』
「大家さんは?」
『囲碁会で花見。桜祭りとは別件だ』
「囲碁に社交ダンスに、多趣味だね」
『縁側でぼーっとされてるよりいいよ。大家業は自分でやってるし、彼は忙しいんだ』
「分かった。日曜日の昼ね」
『僕が車を出す。迎えに行くよ』
やっぱり事務連絡じみて電話は途絶えた。
花は八部咲きで、植えて何十年と経つ老木とは違う若々しいピンク色だった。そうか本来はこの色だったのだな、と改めて思い返した。私の思い出す桜は大学構内のソメイヨシノで、老化により白化現象が進み、ほとんど白に近い色をしていた。
四季が目当てにしていた和菓子屋の団子は売り切れていたが、饅頭が売られていたのでそれを買って食べ歩いた。「そういえば四季ちゃんは誕生日が近いよな」と思い出していうと、彼女はニッと笑ってみせた。
「そうだよ。私が四月生まれだってよく覚えてるね、セノくん」
「ミナミ倉庫借りたばっかりの年にさ、八束さんが姪っ子の誕生日になにをしてやったらいいか分からないってうろたえてたから覚えてる。こーんなにちっちゃかった子がさあ」
私は片手に饅頭を持ったまま背丈を手で示した。
「四月から中学二年生だろ? 年月は早いね」
「去年、セノくんに卒業祝いと入学祝いと誕生日プレゼントにもらったお茶碗とお箸、大事に使ってるよ」
四季の台詞に八束が「あれ、いま使ってるのそうだっけ?」と訊く。
「もー、だからさー。ヤツカくんは人のことに興味ないんだもん。セノくんの知りあいの陶芸家さんが作ったっていう白いお茶碗と、セノくんの知りあいの漆職人さん作の赤いお箸。大事に使ってるでしょー?」
「ああ、そうか。あれはそうか」八束は頷く。「その節はありがとうございました」
「使ってもらえて嬉しい」
「あ、クレープの屋台がある。私食べたい!」
そう言って四季は屋台の元へ行ってしまった。残された男ふたり、八束に「あなたの誕生日は?」と訊いてみた。
八束は視線を泳がせ、そっと「八月八日」と答えた。
「まんまだろ」
「真夏だね。覚えとく」
「僕も」
八束は私を見た。
「次は忘れない」
「一月十一日? まだ先だよ」
「元嫁となんか絶対に過ごさせない」
改めてベッドサイドのスタンドをつけた。それを掴んで、傷を照射する。何日前の傷だろう。まだ生々しい。これを楽しんだと八束は言ったが、それを哀れに思った。
とても、とてつもなく可哀想だと思った。
癒さねばならないと思った。
愛してやらねばならないと思った。
胃の底が煮えて悪寒がする。頭の中で砂嵐が吹き荒れ、警告される。
これは私の望みに叶わない。
スタンドを置き、傷のない部分に手を置く。八束の肌が一斉に粟立ったのが指先の感触で分かった。傷をなぞる。八束が息を飲む。こわばった背中の傷に、私は唇を押しつけた。
驚いた八束が振り向き起きあがろうとするのを、首の後ろを押さえつけることで制した。ベッドに縫い付けられてもがく八束の、背中を私は辿る。長い蛇を吸引する。八束の乱れた呼吸が鼓膜を襲撃する。
八束は身をよじり、私の手や唇から逃れた。胸を忙しなく上下させ、きつく私を睨む。伸びた八束の腕は、私の頭を掴んだ。引き寄せられて八束の上に倒れ込んだ。
八束の呼気が私の頬に当たり、私は目を閉じて身体の警告音に耳をすませる。正常でないまま、私は八束と唇を合わせた。重ねて、重ね直し、息を吐き、頬を掴む。右頬の傷にも唇を落とし、鼻筋に顔を押しつける。八束の手はしっかりと背を抱いていた。絡みついて息をつき、またキスをする。
唇を押しつけあいながら、私は八束の身体に触れた。裸体を掻き、スラックスのベルトを外して合わせから手を入れる。八束の吐息が音声として発せられくぐもるようになった。私が触れたそこは膨らんでおり、押しつけている私のものもまた硬く勃起していた。
衣服が邪魔だった。最小限の動きで、けれど焦って私は性器を露出させ、また八束のものにもじかに触れる。熱く硬いものを互いになすりつけ、ベッドが軋む。八束が息を殺して吐精し、私も同じてのひらに精を吐いた。
荒い呼吸を整えぬまま、八束の身体を抱え直した。背を保護するように抱きかかえ、シーツの端で手を拭った。
八束は身じろいで私の顔を覗き込んだが、私は構わず目を閉じ、八束の肩をぽん、ぽん、とはたく。
「眠るの、」と八束が訊いた。北風が窓ガラスを叩く。
それで答えたことにした。
くしゅっ。で、目を覚ました。隣で八束が寒そうに身体を縮こめてくしゃみをし、鼻をすすっている。辺りは明るく、カーテンの向こうの空で風は止んでいるようだった。寝ぼけながらベッドサイドのティッシュボックスを差し出すと、八束は受け取って鼻をかんだ。
「仕事、いいの」
顔を揉みながら八束に訊ねる。今日は土曜日だったが、郷土資料館勤務という立場上、八束の勤務は変則的なのを知っている。
彼は「いい」と答えた。
「昼から行くことにする。今日は開館に向けた館内の設備チェックが主だから。別に僕が慌てて行く必要はない」
「そか」
鼻をぐずぐずさせながら八束は毛布から抜ける。脱いだシャツに袖を通そうとするのを無理に引っ張ってまた毛布の中に組み敷いた。
窓の外に吹き荒れていた北風は止んだ。身体の中をめぐる暴風は未だ止まず、轟々と私の中で渦を作っている。
そっと八束の頬に触れた。あまり腫れずに済んでいた。
「傷、見るよ」
「……」
「昨夜のやり直し。もう少し布団の中にいな。部屋あっためるし、お湯も沸かしてくる」
それだけ告げて私は毛布の外へ出た。作業用に着ていたワークシャツのままで眠っていたので、起き抜けると同時にベッドの下へ木屑がぱらぱらと落ちた。掃除をして、シーツも洗濯をしないとな、と思う。
時間で消火されたストーブをつけ直し、湯を沸かしながら新しいシャツに着替えた。八束を毛布から引っ張り出して、今度はちゃんと正常に、傷の手当をする。
「背中の傷がひどい」と救急箱から炎症を抑える効果のある薬を探しながら呟いた。八束はうつ伏せのまま、うん、と言った。
「まだ腫れて熱を持ってる。薬を塗っておくけど、医者にかかる方が賢明だ。どうせ四季ちゃんに頼んで薬を塗り直してもらうなんてつもりはないだろうし」
「医者には行かない」
「でもこれじゃ治りが悪い」
「痛む方がいいよ」
「……自分の身体が嫌いだから?」
「ばかなことをしたんだって戒めて暮らせる」
その返答で、こめかみの辺りがずきっと痛んだ。心臓ではなく脳が痛むのは、感情を理性で押さえ込んでいるからだ。危険を無視している。分かっていながら私は背中の処置を終えた。
頬と拳にも塗り薬だけ塗布しておいた。あまり目立つことにはならなさそうだと思う。頬に薬を塗り終え、八束は鬱陶しそうに顔を歪める。
シャツを着る八束を眺めながら、全く望んではいないことだと、心の中で唱えた。
私のためにはならない。過呼吸は再発して私は苦しむのかもしれない。
人はひとりの方がいいと私は思う。
けれど私がひとりでいることを嫌がる男を、ひとりに戻したくない。
「八束さん」
ボタンを留めながら八束は振り向いた。怯えを読まれないように私は眉間に力を込める。
「付きあいませんか、おれたち」
「……なぜ、」
「やさしくしたい」
それ以上は八束の顔を見ていられなかった。ひどく後悔しながらコンロの元へ向かう。コーヒーを入れていると、くまなくきちんと衣服を身につけ終えた八束が傍へやって来た。
「そんな難しい顔で言われても、はいお願いしますと頷けない」
「してないよ、そんな顔」
「鏡を見ろ。……たったひと晩男にも興奮出来たからって、ちょっと飲みに出かけるようなつもりでそういうことを言うんじゃないよ」
「いや、」
コーヒーをステンレスと陶器のマグカップに注ぐ。陶製の方を八束に渡した。
「うまくいかないよ、きみはノーマルだからな」と受け取りながら八束は言った。
「それにきみがやさしくしたいんだったら、僕とは合わない。僕はすぐによそへ行くよ。ノーマルのきみの生ぬるいやさしさに満足できなくて、ひどくしてくれる男と遊ぶんだ」
「……だとしたら、傷を作っても帰ってくるのはおれのところだろ」
シンクを背にしてコーヒーを口にする。濃く入れすぎて苦かった。
「付きあっていれば、おれはあなたの傷の手当を嘘ついてごまかしたり言い訳せずにしてやれる。なんでこんな傷をって、愛情であなたに諭せるよ。もっとも、傷を作って帰ってくるようなことはさせないけどね」
「……きみは僕のことを好きでそう言っているわけじゃない。愛情じゃないだろ。同情だ」
「あなたの」
突っ立ったままの八束の中に正中線を見出すデッサンの癖のような仕草で、カップを持たない方の腕を八束の方へ真っ直ぐに伸ばした。
「モーションが綺麗だと思う。見惚れる瞬間が幾たびもある。細い中にある深い目も、気怠げなのに本に夢中で実は熱い意思のある背中の丸まり方も、ずっと見たいと思う」
「……」
「動機なんてのはなんでもある。そんなもんだよ。そういう種みたいなものはあなたもおれに対して持っていて、それはきっと発芽している。……違うか?」
腕を下ろす。八束の姿がはっきりと網膜で結びつく。八束は顔をそむけ、ソファに腰を下ろした。
喋りながら後悔していた。この選択は望みではない。全く、望みではない。
黒々としたコーヒーは、絶望的な心情を示す色合いだと感じた。墨でも飲んでいる心地だ。苦い。
「……僕はすごく面倒くさい男だぞ」やがて八束が答えた。
「きみが女と浮気しても、仕方ないやって諦めたりなんかせずに、駄々や理屈をこねて泣き喚く。なにぶん、過去の男と殴りあいで別れてるぐらいだからな」
「うん」
「それに、親父は元気でも老人だし、両親のいない中学生の姪もいる。面倒くさいぞ」
「大家さんや四季ちゃんを大事にしない八束さんなんかおれは好きじゃないよ」
私も八束の隣へ腰を下ろした。
「まずは背中治すのが最優先。今日の仕事帰り寄ってよ。炎症が治まってるか見たい」
「きみは今日はなにをするんだ」
「いま大学は春休みに入ったから講義はなし。依頼品も急ぎではないし」
「なら、寄る」
ひどい頭痛に唾を吐くように、八束に笑ってみせた。
湯を沸かす。沸かしているあいだに「家には連絡した?」と訊ねる。
「別れたことを?」
「ばか、冗談言ってられる場合か。……帰りが遅くなることをだよ」
「いや」
「……おれが電話するよ。四季ちゃんを心配させちゃだめだ」
八束は黙り、指を神経質にすり合わせて俯いた。スマートフォンで南波家のナンバーへコールしながら時間を確認した。じきに九時になろうかという時間だった。
コールは長く続いたが、それでもちゃんと四季が出た。
『あれ、セノくん』
「いまさ、八束さんうちにいるんだ。仕事帰りに凍った道で滑って転んだって言って手当してるところ。ほら、ミナミ倉庫の北側の坂道。あそこまだ雪が残ってて危ないじゃん。そこで転んだらしくて」
『えー、大丈夫なの?』
「ちょっと痛々しい顔してるけど、病院に行くほどじゃないと思うよ。うちで手当して送ってくか泊めるかするから。もし帰って来なくても心配しないで」
『あー、ありがとう』
それで電話を切ろうとすると、四季は小声になって『話聞いてあげてよ』と言った。
『ずっとため息ついたり本に夢中になったり突然出かけたりでさ。ヤツカくん、私やおじいちゃんには言えないことあると思うから』
「……心配かけてごめんね」
ふた言三言交わして電話を切った。ちょうど湯が湧く。八束に茶を入れ、残った分は水で適温にして大鍋に溜めた。タオルを絞る。
八束は俯いていたが、近寄ると顔をあげた。蛍光灯の下で白々と傷が晒される。殴り返したと言ったから、抵抗したのだ。抵抗の甲斐あって傷は最初のインパクトよりは幾分か鎮まって見えた。
「傷、綺麗にして薬を塗ろう。右の頬と右手の拳と、だけ?」
「……」
「言え。もう隠すな。他にどこかあるな?」
八束は視線をさまよわせてためらい、やがて「今日の傷じゃないけど、背中」と答えた。
「……ベルトでぶたれた。結構ひどく」
「……ろくな男じゃないな」
「それを言うなら、……僕だ。僕が楽しんだ……」
八束の顔が歪んだ。
「傷つけて欲しくてたまらなくなる。僕の……だらしない身体を痛めつけられると、相応のことをされたと、罰を与えられたと思って、安心する……」
「……そこまで自分の身体が嫌いなのは、なぜ?」
「まともに異性に興奮できないこと。……きみみたいに離婚の経験とか、夢の話だ」
「いまはそんなことを罪に思うような時代ではないよ。同性のパートナーを選ぶ人もごく自然に受け止められている」
「そうでも、気持ち悪いだろ、」
「おれはそう思わない」
私ははっきりと答える。八束は目を細めた。
「思わないけど、おれも自分のことは好きじゃないな。自信を持てといろんな人に言われるけれど、……おれだって自分が嫌なときは、自己嫌悪で胃が痛んで食欲がなくなる。これも自傷行為なのかも」
「いや、危機回避だろう」
「どうかな。どっちにしろ、身体のアラートなんだろう」
「そうだとしても……僕はきみが羨ましいよ」
軽く笑おうとして、私は笑えなかった。八束の指先はまだふるえている。ポーカーフェイスはもう気取れない。これを流してはいけない、と直感する。
「男性的な身体をしていて、女性を愛せる。四季を見ていると思う。これは男女の成した結果だって。親父も姉貴もそれが出来た。姉貴はシングルで父親を明かさないまま四季を産んだけれど、でも、成した」
「八束さん、そんなのはね。たとえ女性と付きあえて結婚したおれでも、結果的におれに子どもはいないんだから、同じことなんだ」
もう一度湯にタオルを浸して絞った。絞って八束の頬に当てる。邪魔だったので眼鏡を外した。
「子どもを残すことだけが人の成すことじゃない。知識や技術とか、残すものは山ほどある。あなたがすべきは身体を傷つけることではなくて、むしろ早世してしまったお姉さんの代わりに四季ちゃんの保護を担っているのだから、きちんと役割は果たしているんだし、それこそ人の成すことをしてるんだ」
「きみは」
八束の手を取って指のこわばりをほぐすようにタオルで拭っていると、八束は息をついた。やけに耳に障る吐息だと思った。
「成したいことが、あるのか」
「おれは」
もう片方の手を取った。こちらは反対側の手よりも傷が少ない。
「芸術の傍にいたい」
「いるじゃないか」
「こんなんじゃだめなんだ」
手のこわばりを確認し、私は上を向いて息をついた。
「そっち、ベッドに服を脱いで横になって」
パーテーションで区切っただけの部屋の暗がりを指した。そこには普段私が寝起きするベッドが置いてある。
「背中も見るから。傷のあるところを上に向けて寝て」
八束は俯いたまま、立ちあがってベッドの方へ行った。私は湯を沸かし直す。まだ強い北風が吹いていた。
沸かし直した湯と救急箱を持ってベッドのパーテーションをくぐる。暗がりで八束が半裸でベッドにうつぶせていた。途端、私はぎくりとする。内臓を焼くような痛みか熱さが走った。
白く厚みのない背中に、数本の痣が蛇のようにのたうちまわっていた。顔や拳の傷よりはるかに酷かった。どれだけ力一杯打てばこうも腫れるというのか。想像したくなかったが、想像が及ぶ。
「修繕、ありがとうございました。おかげでずいぶんと綺麗になったし堅牢になりました。後世にまで残るでしょうよ」
二月の最初の週、ミナミ倉庫にやって来たのは寺の僧侶だった。この辺りではわりと大きな寺の副住職を務める、柏木斎風(かしわぎさいふう)という男だ。私の元へしょっちゅう仏像彫刻だの欄間だのの修繕の依頼に来るのはこの男だ。同い年だからだというわけではないが、本人は僧侶らしからぬ気楽さで依頼以外にも顔を出すことがある。
「次に依頼がある?」と私は訊ねる。
「まあ、ちょこまかとはあるがね。他の寺社からの依頼もあるし。でも、私が期待しているのは、」
柏木は倉庫の隅に掛布をかけられて安置されている木材に目を向けた。
「言わずもがな。――まだ手はつかないか」
「……期限があることは分かってる」
「おまえさんのことだから毎日あの木を気にかけているのは分かる。それでも制作に至れない。法要まではあと三年ある。おまえさんの集中力さえあれば充分すぎるほどの時間でないか?」
「十年近くなにひとつ作品の完成に至れていないのに、三年あれば充分とは言えないよ」
「うーん、もっと自分を信じてあげていい」
柏木はからからと笑った。
「ま、こればかりは。芸術家という方々に繊細さが我々より遥かに多く備わっていることは分かる。締め切りはあくまでも目標だけど、締め切りのない作品ほど熱意の備わらないものはないとおまえさんは前に言ってたからな。楽しみにしているよ。とにかく私は鷹島静穏のファンであるし」
茶をず、と飲み、「どら」と柏木は立ちあがった。立ちあがり、倉庫の隅へと歩いていく。
そこには石膏で作られたマケットがあった。マケットなのでスケールは小さい。立ち姿の女性のマケットを見て、柏木は「おまえさんの出現が待ち遠しいよ」と崇拝するかのように手を合わせた。
柏木はここまで原付で来ていると言う。こんな雪道で寒い中のバイクの運転は平気なのかと訊くと、柏木は「坊主はそれぐらいふてぶてしくないといけねえ」と分からぬ理屈で答えた。
「また寺に顔を出してくれ。修繕依頼を用意しとく」
「なんかすっかりおれのマネジメント事務所になったよな」
「坊主はビジネスも得意なんだ」
そう言って柏木は去った。
私は倉庫に戻り、柏木に出していた茶のカップなどを片付ける。片付けてから改めて倉庫の資材置き場へと向かった。隅に、ひと際大きな資材が安置してある。白い布をかけられ、埃から守られている。私はそれにそっと近づき、布をそろそろとめくった。樹皮を剥いだなめらかな木肌があらわになる。
ずいぶんな巨木を、柏木の依頼でこの倉庫へ持ち込んで四年になる。ずっと手をつけられていないかわいそうな材木だ。切り出された時は、それはそれは神聖な儀式で倒されたというのに。
そっと触れる。頭の中でイメージが走る。走って走って、いつもなににも結び付かずに混乱する。
私の業のかたまりは、静かに倉庫の隅に鎮座している。
窓の外では風が強かった。冷たくよく乾いた北風は、室内の温度を下げる。刃物をいじる指先に集中するもかじかんだ。手を口元に当ててぼんやりしていると、倉庫の出入り口のアルミの引き戸がこんこん、と控えめに鳴らされた。
風のいたずらともつかないような大人しさは、怯えを孕んでいるかのようだった。それでも再び鳴らされる。私は立ちあがり、引き戸を引いた。強い風が流れ込んでくる。そこには誰もいなかったが、引き戸の横の壁にもたれてコートにマフラーを巻いた八束が立っているのを認めた。
私が渡したマフラーを巻き、仕事帰りと思しき身なりだった。けれど闇に紛れた顔の半分には、赤黒い痕が閃光のように走っていた。眼鏡で守られて目は無事だったようだが、頬から唇の端に殴打症と分かる傷がある。
八束は笑うかのように口元を上げたが、私の身体の中には一気に北風が暴れ込んで巻いた気がした。
「別れて来た」と八束は言った。
「仕事帰りにさっと済ますつもりだったのに、激昂されて殴られた。殴られたから殴り返した。人に暴力をふるったのははじめてだ。まだ手がふるえて、」
八束はポケットから手を取り出した。ここにも傷があった。
「こんな顔で帰ったら親父と四季になにを言われるか分からないから。ふたりが寝た後に帰ろうと思って。……それまで、いさせてくれないか」
「……手当するよ」
入って、と八束の背にそっと手を当て、倉庫内に入れる。作業場から続く居住スペースのソファへ八束を招いた。八束はずっとがちがちと膝や歯を鳴らしてふるえていた。ストーブの設定温度を最大に上げる。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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