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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「聞こえない。大きな声で話せ」
「罠かよ……」
「そうだな。罠を張った。距離を貫いて近づいてこないからな。中距離の相手をおびき出すために協力してもらって罠を張ったんだ。まんまとおびき出されてくれて話が早く済んだ。名乗れ」
「くそっ! くそっ!」
「抵抗は無駄だ。鑿で目を抉るぞ。簡単に出来る。このままここに放置してもいい。炎天下で日陰でもないから、半日もあれば干からびる」
「鷹島くんこわいー。ま、同情の余地なしだ。免許証みっけたよ」
 そう言って西川は免許証を男の頭に乗せて自らの持つデジカメで証拠写真を撮った。
「えーと、タクマ? 宅間翔平。若いな。二十歳超えたばっかじゃん」
「宅間翔平、ね。大方見当はつくが訊ねる。南波八束やその家族をつけまわし、おれをつけまわしたのはお前だな。理由は?」
「……」
「言え!」
 ふるえながら黙る。泡を吹いて涙も鼻水も出ているくせに、宅間は強情だった。上に乗っている西川の同僚だという日瀧に場所を代わってもらい、私が自ら上に乗った。日瀧よりは上背も筋肉量もある私は、痩せて線の細い宅間にはことさら堪える体重だろう。
 容赦のない直射日光に加えて湿度で汗が滲むが、身体は冷え切っていた。
 目を硬く瞑り歯を食いしばる宅間の喉元に、庭を飛び出す際に掴んで備えていた丸鑿をつっと突きつける。
「この鑿は木材加工用だが、とてもよく切れる。おれの家を散々盗撮していたおまえならよく目撃しているだろう。おれがこれを研いでいるのを」
「……」
「首のここは、動脈の通る場所だ。ここをひと突き抉ったら血管が破れて血が噴き出す。凄まじい勢いで飛ぶだろうな。おまえは失血死する」
「……脅しなんか効かねえ」
「なら、おまえはどうやら八束さんに暴力を振るうぐらいだから、いたぶり慣れているんだろう。同じことをしようか。ベルトで肌を打ち撮影して晒すよりもっと酷いことがおれは出来る。そうだな、まずはやはりこの鑿で片目を抉ろう」
「……」
「視神経がどうやって脳につながっているのか、おれは羊の解剖でしか見たことがない。人間のそれを見てみたい。眼球の観察もしたい。鼻と耳も削ごう。それでも嗅覚や聴覚があるのか知りたいね。こんな場所でやったら迷惑だから、倉庫へ移動しようか。大きな冷蔵庫があってね。おまえぐらい安置しておける。何日もかけて学術的に解体していこう。おまえ程度のチンピラのひとり、潰したってたいして困らないだろう」
 そこまで言うと、下にしている身体が大きくがくがくと痙攣した。助けてくれ、と言い出しそうに息を大きく吸う、そのタイミングで手のひらで口と鼻を覆った。身体はもがく。
「静かにしろ。一度大人しくなるか」
 鑿を逆さに持ち、気道の真上に当てた。じわじわと圧をかけていく。
「ぐっ」
「ここを塞がれれば失神する。なに、すぐには死なん。ゆっくりやるから心配するな。気をやる前に答えろ。八束さんに暴力をして撮影し、南波やおれの家の周りを盗撮し、大学にいたずらしたのは宅間翔平、おまえで間違いがないな?」
「ふっぐ、ぐぅ」
「イエスだな?」
「ぐ、ぅ、ぶ」
「目が覚めたら言い訳ぐらいは聞いてやる」
 一際強く気道を鑿の尻で押すと、宅間の身体が一瞬のけぞり、がくりと弛緩した。同時にアンモニア臭が漂う。傍で見ていた西川が「あーあ」と呟く。
「脅し慣れてても脅され慣れてないのかねえ。失神して失禁しちまったよ」
「暴力を振るわれていた人間なら、こんな軽はずみでわかりやすい罠にはもっと警戒したはずだ。暴力を振るっても、振るわれたことはあまりなかったんだろうよ。大学に写真を貼り出す手口といい、生ぬるいとは思ってたんだ。感情だけで動いている幼さがあった。バックに暴力団でもいると嫌だとは思ったが、誰かいるわけでもなさそうだ」
「鷹島先生は怖いねえ」
 うんうん、と西川は頷く。私は気絶した男の上から退いた。
「どーすんの、こいつ。冷蔵庫に監禁すんの?」
「ないよ冷蔵庫なんて。なまものを彫刻するスタイルじゃないんだ。西川、こいつの素性調べられるか?」
「簡単だろうな。身分証明書あるし。そこにこいつの車もあるから、漁れば色々出てきそう」
「じゃあそれを頼む。こいつごととりあえず倉庫に運ぼう。ここに放置したらマジで死ぬからな。臭いから水でもぶっかけてやれ。この天気ならすぐ乾くだろ」
「相変わらず優しさが容赦ないねえ」
 西川はそうしみじみこぼす。
「車ごと動かそう。あんなところに停めて邪魔だ」
「おまえのアトリエに運ぶの? 危険じゃない?」
「もう散々隠し撮りされてるし家の周りをうろつかれた痕跡もある。色々と、今更だ」
「わかった。じゃあこいつ運ぶのは僕と日瀧くんでやるから鷹島は先に戻りな。あ、挨拶遅れたな。これ、日瀧くん。メッセージじゃもうやりとりしてるけどね。僕の会社の同僚」
 西川に促され、宅間を抱え上げようとしていた日瀧は頭を下げた。スポーツ刈りが爽やかな寡黙めな男で、まなざしに迫力があった。私よりも多少小柄であれど、体格もいい。
「改めてはじめまして。今回は付きあってもらってありがとうございます。鷹島と言います。西川とは大学が同じでした」
「日瀧です。……西川さんから話持ちかけられた時はびっくりしましたけど、なかなか出来る経験じゃないすね。緊張しました。ことがうまく済むといいすね」
「これからの対応次第でしょうけどね」
「鷹島さんも緊張されたでしょう。まだこれからですし」
 日瀧はようやく笑みを見せた。西川の話では趣味で空手をやっているそうだ。
「それにしてもさすがでしたね。あっという間に関節決めてらしたので、頼もしかった」
「いや、それよりも鷹島さんの急所の狙い方が的確で、脅しも最高に怖かった。何か格闘技でもされてるんですか?」
「違うよー。こいつは彫刻バカなだけー。さっきの脅しもさ、半分以上本気だったと思うよ。視神経云々とかさ」
 西川が答えると、日瀧は「まじすか」と淡白に驚いていた。
「とりあえずこいつの始末だけして、飯にしましょう。妹が焼肉の準備をしてくれているはずです」
「ああ、ランちゃん?」
「本名は『あらし』と読むんだけど、本人は好んでないからそう呼んでるんです。いい肉買いました。食ってって」


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 商店街で生鮮食品から加工食品までありとあらゆる買い出しを済ませ、再び倉庫へと戻ったのが十三時過ぎだった。あらかじめ倉庫の入り口から庭の方向へタープを張っており、日陰にバーベキュー用の簡易グリルにテーブルや椅子などを準備してあった。「その前に」と私はワンピースの女の腕を取る。抱き寄せて髪に顔を埋めると女はくすくすと笑った。
「外は暑いから中ですることをしようか」
「中も暑くなると思うな」
「指輪、外して来たのか」私は女の左手をなぞる。彼女はしなやかに身体を逸らせた。
「前に会った時はセノの方が指輪をしてたね。いまは逆になっちゃった」
「結婚生活、どう?」
「穏やか。刺激がたりない」
「だからこんなことになる」
 そう言って彼女を抱き寄せたまま、椅子に深く座った。女は私の膝に乗りあげる。
「やっぱり暑いね」
「中で水でも浴びる? うちは風呂がないからこの時期はたらいに氷水を張るんだ」
「水着持ってくればよかった。そこの川で水遊びが出来る?」
「ここはちょっと深いかな。先へ行けば親水公園になってるけど、人も多いだろう」
 女はサンダルを脱いで裸足の足をぷらぷらさせた。そのふくらはぎにも触れる。
「まだ?」女が私の耳元で囁く。耳にはイヤフォンが嵌まったままだった。
「そろそろだろうな」
「いい加減に暑いな」
「まだお楽しみはこれから」
 と言うと同時に、イヤフォンから『いや、充分だ』と音声が入った。イヤフォンのスイッチに触れ、通話に切り替える。
『捕まえたぞ』と一報が入った。
「場所どこだ?」
『おたくが睨んだ通りさ。河川敷の藪の近く。方角ドンピシャ。こっちの方見てみ?』
 そう言われ、女を膝の上から退けて川の方を向いた。藪の中にキラキラと光るものがある。手鏡を太陽光に反射させて居場所を知らせていた。
「確認した」
 言うなり私は一気に走り出した。庭先を超えて川辺の道を突っ切り、護岸をくだって藪を体当たりするようにかき分ける。ほんの数十秒の距離だった。そこには三人の男がいた。
 ひとりは立って片手に鏡を持っていた。もうふたりは地面に伏している。正確には痩身の若い男を別の男が押さえつけていた。地面に倒された男の両手両足を封じ、馬乗りになって抗う身体を押さえつけている。
 周囲にはカメラ機材が散らばっていた。せっかくの望遠カメラも衝撃でひしゃげている。そのかけらを拾い、私は地面に倒されている方の男に近寄った。男はもがいていたが、私を見て余計に身体を捩る。その抗いを、馬乗りの男は首の後ろに圧をかけてさらに封じる。
「こいつこいつ。カメラで盗撮してた不審者。声かけたら逃げようとしたからこの通り確保」
 鏡をポケットに仕舞い、キャップをかぶりなおして立っている男が笑った。
「悪いな、西川。日瀧さんもありがとう」
 それを聞いて不審者はさらに抵抗したが、馬乗りになっている方の男――日瀧に「動くな」と凄まれて動きを止めた。
「さて」真昼の太陽光が天から降り注ぐ。西川は機材を拾い、カメラを確認した。レンズは無事でなくても、本体は無事だったようだ。ピクチャを再生すると庭先の椅子の上で絡みあっている男女――先程の私たち、が撮影されている。八束と一緒にいるところを撮られた時の画角、そのままだった。
「こいつ知りあい? 若いチンピラ崩れって感じ。栄養悪そうよ? 日瀧くんに一撃で倒されてさあ」
「まあ、これだけの機材を揃えるとなると金はいくらあっても足りないだろう。知りあいではない。でも見たことはある」
 冬だ、と私の肌には夏の暑さとは違う寒気が一瞬にして沸きたった。冬、西川に教えてもらったと言って夏衣と行ったもつ鍋の店を出て、歩いた先にあった繁華街脇のコンビニ。出くわした八束の傍にいた蛇のような男。
 砂利を踏み、男の顔の傍にしゃがんだ。男は暑さか恐怖か疲れか、そのどれもかで、威勢をなくしつつあった。
「春先から南波の家をつけまわし、その後ターゲットをおれに変えてつけまわし、大学にいたずらをした。お前だな?」
 男はうっすらと目をあけた。呼吸は荒く、口の端から唾液が垂れている。
「ま、間違いないっしょ。カメラの画像、鷹島ばっかりだし」と西川が口を挟む。
「名乗れ。そして目的を言え」
「……かよ、」蚊の鳴くような声が地面を這いずる。


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便利な西川くん。

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 〈着いたよ〉
 ミラーで周囲を入念に確認する。私が車を停めている駅のロータリーには数台の車が停まっていた。夏休みゆえかいつもより多い。私の車の後方に黒い軽自動車が停まり、それを遮るように何台かのタクシーが停車していた。パキッと指の関節を鳴らす。スマートフォンに触れ、メッセージを送る。
 やがて駅舎からノースリーブのワンピースの裾を翻して女性が現れ、私の車のウインドウをコツコツと叩いた。つばの広い帽子をかぶり、やはりサングラスをかけている。だがウインドウを下げるとサングラス持ち上げた。
「お待たせ」
「待ってた。早く乗って」
「ねえ、このワンピースを褒めてね。勝負服なんだから」
 彼女はそう言いながら荷物を後部座席に乗せて、助手席へと乗り込んできた。白地に赤い花柄のボタニカルなワンピースは夏の太陽に負けず、鮮やかで目立った。
「友達の作ったテキスタイルをワンピースにしてもらったの」
「とても似合ってる」
「ありがと。セノに見せたかった」
「髪も伸びたな」
「伸ばしたの。癖っ毛だからいままでずっと短くしてたんだけど、夏は縛ってまとめちゃう方が楽で涼しいから。――セノも、」
 彼女の手が頬に伸びる。
「髭なんか生やしちゃって。男らしくていいね。海外の俳優さんみたい。セレカジって感じのカッコ」
「今日はね。特別気合い入ってんだ」
「楽しみ。まずどこに行くの?」
「商店街の肉屋と酒屋と八百屋。魚屋と和菓子屋も寄ろうか。今夜の支度だ」
「いいね。リゾートの気分出てきた」
 嬉しそうに彼女は笑った。珍しくリップを塗っているようだった。赤い唇が弧を描く。
「悪いな。がっつり付き合わせるぞ、ラン」
「遠出が久しぶりで楽しい。ワクワクしてる」
「じゃあ」再び周囲に目線を走らせる。それからウインカーを出した。
「シートベルトして。行くよ」
「うん」
 ゆっくりと車を発進させる。駅のロータリーを出る際に後方を確認すると、間を置いて後続に軽自動車がついた。車間距離を適正から外さぬよういつもより目線を走らせる。
 耳にはめているワイヤレスのイヤフォンに音声が流れ込んだ。
『かかった。距離OK』
 私は隣に座る女の肩に触れ、指の腹で二回叩いた。彼女は楽しげに笑う。
「商店街ってどこにあるの?」
「ここからだと三十分ぐらいかかるかな。すずらん商店街、って言うんだ」
「可愛らしい名前だね。昭和チック」
「実際、古いと思うよ。老舗の店が多い。ランは気に入るさ」
「喉が渇いたなあ」
「後部座席のクーラーボックスに飲み物入れてある。アルコールもある。好きにしていい」
「贅沢だね」
 彼女は窓から手を出してひらひら振った。


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 数日してこの町も梅雨が明けた。作業場でノートパソコンを広げているとアラームが鳴る。夜十時。私は息をついてパソコンを閉じ、スマートフォンを片手に表へ出る。
 川の音がさわさわとなびき、じっとりと湿気と熱気が肌を撫でていく。羽虫が私の頭上についたセンサーライトめがけて飛んでくる。手で払いながら電話をかける。十回のコールで出た相手は、『ここのところ熱心だね』とすぐ傍を流れる水の重さでねっとりと答えた。
「いったん火がつくと凝り出す性分だっておまえはよく知ってるだろう」
『そうだね。昔っからずっとそう。変わんないよね』彼女はくすくすと笑う。
「それでおまえはそういうおれを面白がるんだ。いまだって電話をもらってわくわくしてるだろう?」
『すごーくね、ときめいてる』
「今日、旦那は?」
『さっき帰宅していまお風呂。大丈夫、明後日ならアリバイはばっちり。女子会でお泊まり会って話であの人は納得してるから』
「いい話の流れだね」
 腕に蚊が止まる。それを私は叩いた。
『なんの音?』
「蚊を潰した音」
『明後日の予定をもう一度聞かせてくれる? わくわくしたいから』
「明後日はね」
 横目で川の方を見てから、声を潜ませた。
「S駅まで車で迎えに行く。十時にこっちに着く電車だったよな。東口のロータリーに車停めてるから駅で落ちあおう。買い出しして、うちへ招待するよ。リゾートとはかけ離れた物件だけどおまえはここを気にいると思うよ。そのままゆっくり過ごそう。泊まっていけるだろう? 庭でバーベキューの準備をしとく」
『大学はいいのね?』
「夏休みに入ったから」
『あの人は?』
「それもスケジュールは確認済み。出張で泊まりだそうだ。夜ちょっと電話でもしとけばいいんじゃないの。万が一帰ってきて鉢合わせしても、妹だって言っとくよ」
『いけない人だなあ』
「やけになってるんだ。ひどい目に遭ったからな。その後の変化も特にないから毎日ストレスでキリキリしてる。――まあ、大学が夏休みになってくれたのはよかったかな。あんな写真を学期はじめにでも貼られてみろよ。収入の当てがなくなる」
『わたしとの写真も貼られたりして』
「妹だって言っとくよ」
『ごめん、旦那がお風呂から上がったみたい』
「仕方がないね。淋しいよ。早く会いたい」
『わたしもさみしい。すぐに会えるよ』
 明後日、S駅東口に十時。唱え直して電話を切る。


 翌々日、早朝に起きて家の周りを見回る。メールを確認しながらコーヒーだけ飲んだ。朝から夏直下の太陽がジリジリとあらゆるものに照射し、焦がすべく熱を加えていく。
 学生の頃より真夏はTシャツが常だったが、ここ数年は麻素材の薄い長袖シャツを着るようにもなった。その方が肌を出してじかに日光を浴びるよりも涼しいと分かったからだ。これは八束を見ていて気づいた。八束は夏でも冬でもシャツを着る。一年を通してあまり着る物が変わらないのは、それで体温をある程度一定に保てるからだ。衣替えの必要がなくて楽、と本人は言っていた。真似するようになったのは何年前からだったろうか。
 とにかく寝巻き代わりのTシャツから長袖のシャツに着替える。作業はしないつもりなので軽さを重視した短パンを穿いた。靴はスニーカーを履く。よく履き慣れて歩きやすいものだ。戸締りをきっちりしてから車に乗り込んだ。日光にやられぬようサングラスをかける。
 S駅で人を待つあいだに、出張で移動中の八束からのメッセージを読む。彼は私よりもっと早くに移動して、現在は新幹線の中だという。東北の田舎町にある資料館に出向くと言っていた。帰宅は明日の夕方。土産を持って直接寄りたいとあった。
〈南波家に帰りなよ。おれが顔出すから〉と返信した。
〈うちで飲むのか? なら四季に連絡しないとな。きみに会いたがっていたがしばらく来るなと言われてとしょげていた。何かあるのか?〉
〈制作に入るからあんまり出入りしてほしくないんだ〉これは嘘だ。
〈依頼?〉八束は疑わない。
〈依頼。だからできれば、あなたにも〉嘘を重ねる。
〈分かった。明日は家に直帰する。待ってるから〉
〈うん〉
〈もしかして依頼のことで不安定になってた? この間〉
 これには返事をためらった。
〈ちょっと落ち着かないことが周りに多いんだ。落ち着いたらちゃんと話す〉
 これの返事は間があいたが、ひと言だけ〈分かった。信じる〉とだけ返って来た。
 悪い。そう思ってスマートフォンを握りしめてハンドルにうなだれる。これから八束には内緒ですることを、八束に正面切って告げるつもりが、どうしてもない。
 スマートフォンに別のメッセージが入った。そちらへ指を滑らせる。

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「違う。知識が豊富で技術もあって、常識的なのに、思考がいきなり突飛だ。そういうところが僕にはないから、なんていうか、きみと接したりすると宇宙とか、宗教でいう悟りとか、そういうものを想像する時と同じ気持ちになる」
「……」
「何をされても言われても、きみがどんな人間だろうと、僕はもうきみには無条件で尊崇してしまう。参ってるんだ。ずっと、参ってる」
 そして八束は、私の肩にすがり、「寒くなった」と言った。
「ごめん。着ていいよ」
「そうじゃないだろ」
「……」
「そう、じゃ、ないだろ……」
 八束は大きくふるえた。その身体をたまらず強く抱いた。抱いて、体重をかけて床に押し倒した。八束の目元がほんのりと染まる。肌が蕩ける。求められていて、求めていて、私は混乱していて、他人を拒絶していた。
「……ごめん」
 それだけ言って八束の上から退いた。八束の顔を見られない。八束はそれ以上なにも言わず、服を着た。
「邪魔した。帰るよ」
 八束は温度のない声でそう告げ、荷物を拾って帰ろうとする。だが私の脳裏には凌辱された八束の写真がフラッシュバックした。私はひとりでいたい。けれど八束をひとりで帰すべきではない。感情と理性のぶれで目が眩む。胃の底がひっくり返るかのような胃痛と、後頭部を思い切り鈍器で殴られたかのような頭痛がした。私は咄嗟に八束の手首を掴んでいた。八束は止まったが振り返らなかった。ビニールシートを抜けて、八束の手首を引いて私は居住スペースへと移動する。
「セノさん、」
 途中、八束は抗議した。どうしたいの、どうしたの、という疑問が伝わる。部屋の隅のベッドまでやって来て、私は八束を前にベッドに腰掛けた。逃げられないように手首をしっかりと掴み直して、息を吐きながら八束の腹に頭をつける。
「今夜は帰らないでほしい。けど、それはあなたにとってひどいことをしているんだって分かってる」
「……意味が分からない」
「とても、とても疲れているんだ。いまはそうとしか言えない。……ひとりになりたい。けどあなたを帰したくない」
 八束の腹に頭を押し付けていると、八束は私の手から逃れ、私の頭を抱いた。
「どうしたいの」
「……」
「ここで一緒に寝てろとでも言うのか? 何もせずに、ただ、」
「一緒に寝るのが嫌ならおれがソファに行ってもいい。でもお願いだ。今夜は帰らないでほしい」
「……僕はきみに触れられたい」
「分かってる。承知で、言ってる」
 八束は大きく息をつき、「わけがわからない。なんなんだ、一体」と苛だたしげにこぼした。
「でも結局のところ僕は、鷹島静穏に望まれたら抗えないんだ」
 その言い口は諦め半分、恨みがましかった。でも私が望んだとおりに、靴を脱いでベッドに寝転ぶ。
「きみも寝ろよ。腕枕で勘弁してやる」
「……いいの、」
「あ、四季には連絡しとかないとな」
 スマートフォンを取り出して家に電話をかける。用件だけ伝えて電話を切った。寝転んだまま「ほら」と言うので私も隣に滑り込む。
 八束の頭の下に腕を差し入れ、ぐっと引き寄せた。
「寒い?」
「僕はまったく。セノさんがふるえてる」
「おれが?」
「自覚ないの?」
 そう言われてもなかった。八束はわざわざ起きて、上掛けをしっかりと被せてくれる。
「眠れ」と八束は言った。
「何があったか知らないけど、眠るべきなんだ。それは分かった。不可解が多すぎるけど、今日は休みな」
 それはその通りで、言葉どおりにたっぷり甘えることにした。ちゃんと話さねばならないと考えつつ、八束を抱いているうちに深く泥のような眠りに引きずり込まれた。


 翌朝、私は目覚めなかったらしい、光に気づいて起きたら隣に八束はいなかった。起きあがると顔からひらりとメモが落ちる。ボールペンの流れる字体で「仕事だから帰る。八」と記してあった。八は丸でくくってある。
 スマートフォンには通信が入っていた。私が勤める三つの大学のうちのふたつ、どちらも事務局への窓口となってもらっている常勤講師からだった。一つは奥山からの私信で、その後の私を心配する旨と大学からの業務連絡。もう一件は今日授業をするはずの大学からで、急遽休講になる連絡だった。
 ひと晩休んで、私はすこし元気になった。すくなくとも危機に晒された八束自身の無事を知れた。昨夜見た八束の身体、体表には全く傷はなかった。八束の職場や家庭にもないようだったから、引き続き情報は集めておくべきだけれど、敵の目的は私の思うような範疇に収まっている。
 つまり私を標的としている。
 ノートパソコンをひらく。こんなことをしている場合ではないと心から強く思う。思うが、やるならば徹底的に。人の心を失って、私は冷徹の岩塊と化す。
 八束の声が聞こえた。耳の内側で。その声には色も温度もない。
  ――きみは得体が知れない。


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

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長編「ファンタスティック・ブロウ」
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