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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 駅前の交差点、ちょうど向こう側に、きみを見つけた。あれから十年も経って、きみは変わらず「きみ」だった。ひと目見て分かった。
 きみは幼子を抱いていた。強い春の日差しの下でもつやつやと黒い髪は風にそよいで、きみはその髪を愛おしそうに撫でた。瞬間、鋭い痛みが心臓を直撃したが、ぼくの表面は、そのままでいられた。ようやく解き放たれたと思った。深く悲しむと同時に、安堵した。これでぼくはやっときみのことを諦められるのだ。
 歩行者用信号機が青に変わる。ぼくは歩き出す。きみも歩き出す。


 ◇


 「晴」と書いて「はれる」と読む。ぼくの名前だ。難読といえば難読、明快といえば明快すぎて、ぼくは自分の名前のことが好きじゃなかった。
 生徒らからは「ハレちゃん」と呼ばれた。「野山先生」と呼ばれることは、最初のオリエンテーションぐらいのものだ。そもそも、苗字と合わせるとことさらひどい。出来るだけフルネームを名乗らないで生きてゆきたいものだと、小学校三年生のころにもうすでに決意していた。
 それをきみがひっくり返す。「いいなあ、先生の名前」と言うから、ぼくは思わず「どこが!」と生徒相手にむきになってしまった。
「え、良くない?」
「良くない。ぼくは嫌い」
「素敵だよ、晴天の晴の字。名前の中におひさまもおつきさんも詰め込んでる。この星、って感じしない?」
 そう言ってのけたきみは、当時天文部だったのだ。地学が得意で興味も持っていた。きみ自身が副教科に音楽を選択してくれたから接点がかろうじてあったけれど、そうでなければ音楽科教師、普通科理系クラスのきみとは縁遠かった。
 期末に行った実技テストをきみは風邪で受けられなかったので、後日再テストになった。放課後、音楽室へ呼び出した。そのとききみはいきなりこう言ったのだ。きみみたいに考えたことはなかったので、意見を意外に思った。
「おれは先生の名前、好きだな」そんなことまで屈託なく言う。
「そりゃ、どうもありがとう」
「気に入ってないんだ? どうして?」
「どうもしっくりこない。同じ字をつかうなら、『ハル』とか『セイ』と読ませてくれればいいのに」
「はれる」
 ときみはいきなりぼくの名を発音した。きみは決して歌の上手い生徒じゃなかったが、声はとてもきれいに響いた。
「いい名前だよ。呼んでると、気持ちまで晴ればれしてくる」
「ひばりでも鳴きそうで、悩んでいるのがあほらしくなる名前だと、我ながら思うよ」
「なに、先生ってネガティブなの?」
「こんな名前ならね」
「そんなに卑屈にならなくてもさあ」
 きみは笑う。喋っていないで実技テストをすべきだったのに、こんなになれなれしく喋ってしまったのは、きみは魅力的で、ぼくはきみのことをほのかに「いいな」と思っていたからだった。
 やせっぽちで、眼鏡がださいのは分かっているけれどコンタクトに替える勇気もなくて、ピアノが弾けるだけで音大に入って、けれど音楽家として成功するはずもなく、非常勤の音楽教師として高校に勤めているぼくに、きみは素敵だった。のびのびと生きている、と思った。他の生徒に、あるいはその年ごろの少年に見られるような鬱屈とした不満がないのは、きみが純粋に天文学が好きで、すべての情熱をそこへ注いでいるからだった。夢中になれるものがあるからこそ輝く若者を、ぼくだってその当時はまだ充分に「若者」と呼べる年齢だったにもかかわらず、眩しく思い、羨ましいと思っていた。
「上川くん」ときみのことをぼくは呼ぶ。きみはぴんと顔をあげて、ぼくを正面からとらえた。
「実技テスト、やってしまうよ。きみも早く部活に行きたいだろう」
「いやまあ、部活も好きだけど……。先生、ピアノ弾いて」
「弾かないよ。独唱の実技テストだよ」
「おれ先生のピアノ好きだから」
 かりかりと耳の後ろをきみは掻く。それから「いや、そういうことだけど、そうじゃなくて」と言い直した。
「先生の名前も、先生のピアノもおれは好き。先生自身のことも、好き」
「え?」
「多分、先生もおれのことが好き。授業中、よく目が合うよね。……違う?」
 違わなかったし、そんなに堂々ときみに思いが伝わってしまっていることに、驚いて恥ずかしくなった。ぼくは絶句し、顔を赤くしてうつむく。それをきみは笑って「ほらね」と言った。
「おれの名前、呼んで」ときみが優しく懇願する。
「……上川くん」
「下の名前」
「……青児(せいじ)くん」
「ね。知ってるでしょ、青だよ、青。おれの名前に陽が昇ったら、先生の名前になるんだよ」
 青色も好き、ときみは言った。きみには好きなものが溢れていて、そのまばゆい素直さに、ぼくは耐え切れない思いで目を閉じた。


 ぼくらの恋は、ぼくが思っている以上に急速に進んでしまった。学校ではなにごともないふうに、特に接点を持たずに過ごす。だがそれも放課後が過ぎるまでだった。夜になれば、きみはぼくのアパートへやって来た。パーカーのフードをかぶり、人目を忍んで。そしてぼくが出迎えればぼくを情熱的に抱きしめ、「一日って長いね」と、耳元で熱っぽく囁いた。
 部屋でぼくらは、手をつなぎ、ぼくの好む音楽(あのころはとある映画音楽が好きで、そのサウンドトラックばかりかけていた)を流しては、お互いのすべてを語りあった。ぼくが生きてきた二十五年間の話、きみが生きてきた十七年間の話。将来の夢、希望、目標。好きな食べものと嫌いな食べもの。血液型、誕生日、いちばん幼い記憶と、最近の感動。夜は短く、いくら時間があっても足りなかった。
 きみがぼくを抱いた日、ぼくは感動で泣いてしまったのだけれど、「大げさだよ」と言いながらきみの目にも涙が浮かんでいたのを、ぼくは覚えている。涙の膜が綺麗だと思った。奥手な性格のおかげでぼくは誰かと体温を共有するのがはじめてで、それはきみも同じで、覚束ないキスをしながら、手探りで、快楽を求めあった。摩擦する肌が熱を持つことを、当たり前でも、知らなかった。ぬめる体液も、はやる心臓も、汗を浮かせて恥ずかしいと思う気持ちもいっしょくたに、きみと経験した。きみは何度もぼくの名前を呼び、歓喜に、ぼくはふるえた。こんなに自分の名が心地よいものだとは思わなかった。ぼくもきみの名を懸命に呼んだ。ぼくの声はきちんときみの鼓膜をふるわせて、身体が喜ぶのが分かった。喜びが深まればふかまるほど、ぼくらの境界があいまいになるのが嬉しかった。
 交際は、半年続いた。惜しむらくは、きみとの季節を一年過ごせなかったことだ。夜になれば必ず不在になる息子を怪しんだ母親が、きみをきつく追及して、ぼくらの関係が表へ出た。きみは母子家庭で、お母さんのことをとても大切にしていたから、母には嘘をつけなかった気持ちも充分理解できた。
 それでもやはり、終わる気持ちにはなれなかった。
 きみの母親は、理解ある人だった。きみの気持ちを汲んで、そして世間体も気にして、このことは学校には黙っているといった。しかし別れを要求した。当然のことだと思う。学校にばらされるのが怖くなって、ぼくは学校を辞めた。きみはひどく落ち込んで、取り乱して、それでも母親に「あなたのためよ!」と強く言われるとなにも返せなくて、泣いた。かわいそうなくらいだった。
 ぼくは田舎に帰ることにした。引越しの日、きみはこっそりとぼくに会いに来た。「一年経って高校を卒業したら」ときみはひどい顔で言った。
「学校出たら、晴に会いに行く。それまで待ってて」
「だめだ」
「どうして」
「お母さんが悲しむよ。なんのためにぼくらは、別れるんだ」
「高校卒業したら、おれは家を出るつもり。構いやしないよ、じきに大人になるんだ」
 そう言ってきみはぼくを抱きしめてきた。荒っぽい抱擁は感情の表れで、ぼくは泣いた。きみを信じようと思った。「待ってる」とちいさく言うと、きみも頷きかえした。
 一年経った春、きみからはなんの連絡もなかった。姿さえ見せなかった。こちらから連絡する用意もあったが、ぼくは「待ってる」と言ったのだからと、きみを待った。
 二年経っても三年経っても、音沙汰はない。五年経ったころから、ようやくあきらめがついた。若者のいうことを真に受ける方が間違いなのだ。変化のめまぐるしい年代、なにがきみの身に起こるかは分からない。突然の恋、心変わり、寝て起きたらどうでもよくなっている事柄だってある。
 それでもぼくは待ち続けた。きみからなんの連絡はなくても、明日は来る、明日こそ、と信じた。


 ◇


 気付いたら十年経ってしまっていた。ぼくは相変わらずひとりでいる。
 きみも変わっていないようだった。状況は変わったかもしれないが、幼子を見る目が、優しい目つきがあのころを思い出させる。手をつないで話すとき、きみはあんな目をした。星や石の話はぼくには分からなかったけれど、くつろいだ表情で、きみは隣にいた。
 ぼくはたまに思う。本心できみのことを信じていたのかな、と。信じ切っていたら、別の道もあったかもしれない。ぼくから連絡を取るとか、会いに行くとか、別れない選択肢も、きっとあった。「きみ」を「待ち続ける」ことを理由にして、盾にして、ぼくはきっと自分を偽ったり、守ったり、していた。きみのせいに出来たから。ぼくは悪くない、と言えるから。
 幼子を抱いたきみの姿が、徐々に近付く。ぼくはあえて前を向き、前だけを向き、隣を通り過ぎる。と、瞬間的にきみが振り向いた。横目にしか確認しなかった。ぼくは前を向いて歩いていた。
 はれる、と聞こえた。
 ぼくは歩く。真っ直ぐ歩き、信号はぼくが渡り切った後に赤に変わった。やがて後ろを車が通り過ぎる。歩道を、ぼくは進む。
 涙が溢れそうになったから、上を向いた。ビルとビルのあいだに春の晴れ空が広がっている。青いな、と思い、きみの名前を呟き、また唇をひと結びにする。そうでないと、嗚咽が漏れそうだった。
 きみは行く、きみの道を。ぼくも進む、ぼくの道を。
 いま長い恋があける。浅く遠い青が、頭上に横たわっている。


End.
 



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fumiさま(拍手コメント)
読んでくださってありがとうございます。
「ハッピーエンドのひとつ」と仰っていただけましたが、その通りだと私は思います。恋が続くことばかりだけでなく、終わることもまた、その人の人生においてはひとつの区切りで、はじまりでもあると思っています。晴にも「晴れる日」が来るでしょう。「晴れて幕引きの青」にはそんな願いもこめてあります。
リクエストもいただいたので、いつか晴の晴れの日も書いてあげられたらなと思います。その時はぜひお付き合いください。
拍手・コメント、ありがとうございました!
粟津原栗子 2015/03/20(Fri)07:46:33 編集
Fさま(拍手コメント)
読んでくださってありがとうございます。
あんまりなお話なので受けないかなと思い、公開を悩んでいましたが、まあこれも樹海ですから、ということで載せました。「晴れて幕引きの青」というタイトル先行のお話になります。
リクエストありがとうございます。晴の晴れの日は、来なければなりませんね。ちゃんと書いてやりたいと思いますので、しばらくお待ちください。
その時はまたお付き合いくださいね。
拍手・コメント、ありがとうございました!
粟津原栗子 2015/03/20(Fri)07:53:56 編集
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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