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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 深夜営業のスーパーで買った弁当を下げて、学校へ戻る。学年主任には藤見を引き取った報告だけ入れておく。職員室ではなくいつもの生徒指導室へ向かうと、入るなり藤見は立ち止まった。
「先生、なに、これ」
「これやるために教室借りてたんだよ。待ってろ、いま片付ける」
 教室に広がっていたのは、大きな書道用紙だった。太い筆も、墨も、バケツにある。書道用のマットを机をどかして床いちめんに敷いてあった。何枚かの紙は、すでに墨が載っている。
「院展の締め切りが近いもんでね。おれのアパートじゃ狭くて大きな作品制作はできないんだ。教員はじめてからは学校の教室借りて書いてる」
「……これ、先生から借りた本に載ってた、」
「ああ、……そう。今年はね、おまえと話をして思い出して、これを出そうと思ったから」
 藤見は書を眺めている。そこには藤見に貸した歌集に載っている歌を書いていた。

『こうこうと空にうかべるしろき雲何月何日とは識らねども』
『かぎりなく憂愁にわがしずむとき水辺にあかき椅子はおかれる』
『いま にわの糸杉の樹にかぜがきて枝が動いているということ』

「この人の歌は激しい色彩や湿度があるから、正直難しい。まだどれにするとも決まってないんだけどね」
 書きかけを隅にまとめ、机をがたがたと引っ張り出した。弁当と茶を置き、椅子に座るように促す。
 いつもの椅子、いつもの机にかけ、ようやく力を抜いて、藤見はふ、と息をついた。
「食いな。食って身体あっためろ。まだ顔白いから」
「先生、訊かないの、」
「食ってから訊くよ」
 自分は弁当を広げて箸をつける。そのうち藤見もサンドイッチを齧りはじめたが、しばらくして一枚の紙片を取り出した。
 新聞の切れ端である。事件記事で、見出しは「ライブハウス捜索 青少年条例違反の疑いで」とあった。
「――さっき婦警さんが言ってたやつ、」
「いとこ、タク兄のバイト先で……タク兄も取り調べ受けてたんです。このライブハウスを根城にして、未成年相手に色々と商売やってるみたいで、とか、背景には指定暴力団が絡んでる、とかで。タク兄づてに……おれにタトゥーを入れた人も、取り調べを」
「藤見の件で?」さすがに箸を止める。
「いえ、おれのことは表にはなってないみたいなんですけど、おれの他にも、未成年で施術をしてもらった人が多いとかで。……さっきの婦警さんにも、訊かれました。ライブハウスにかかわりがあるのか、と。未成年相手に顧客名簿なんて作ってないですから、おれたちが『入れてもらった』と言わない限りはばれたりはしないでしょうけど、出入りがあったことぐらいは、防犯カメラ調べれば一発だから、怖くなって、」
「それはそうだな。まあ、特定しようとする気があれば、だろうと思うけど。誰かひとりが『入れてもらった』ってゲロって、客同士で繋がってれば芋づる式にもなる。さっきのいとこの兄さんとおまえにタトゥーを施術した人は、どういう繋がり? ただの知り合い程度か?」
「……タク兄の、恋人、です」
「――」
「だからタク兄は、もしその人が逮捕されるようなことになれば重要参考人、になっちゃうらしいです。いまはまだ調べが進んでなくて、本人たちも黙っているけど、……」
 藤見は黙った。サンドイッチは机の上に齧りかけで置かれてしまう。新聞記事を見て、私は憂慮すべき事柄を訊いた。
「タク兄って人にはさ、当然なんだろうけど、タトゥーが入っているんだろう」
「……」
「おまえとタク兄は、ただのいとこか? なにかされたりしてないか? ……未成年に刺青勧めるようないとこってのは、正直、悪影響を与える存在としか思えない」
「……タク兄は、……」
 藤見は黙る。せめて温かなものを、と思う。部屋の暖房を最大にする。
「前におまえ、おれに、誰に捨てられたのかと訊いたな」
 こんなことは喋るつもりもなかった。けれど、もうじきおしまいだから、藤見には話す。許せるぎりぎりのところまで。
「おれは、捨てられたよ、確かにね。十五歳だった。おまえに同じ思いをしてほしくないと思っている。……捨てられたか、捨てられようとしているのは、おまえもそうなんじゃないのか、藤見」
「……先生は誰に捨てられたの?」
「いまは言わない。吐きたいぐらいむかつく話だから、いまのおまえにはぜってぇ言わねえ。おまえが大きくなって、多感な時期を抜けたら、話すかもしれん」
「……」
「おれはさ、おまえが入れたタトゥーってのはもしかしておれを意識して入れたのかなんて勘違いした節もあるんだけど、……おまえが尊敬して入れたタトゥーってのは、タク兄っていう人を真似た……んじゃないのか?」
 そこまで指摘されると観念したのか、藤見は机に顔を突っ伏した。
「タク兄って大学入るまではすごく真面目で、頭もめちゃくちゃよくて、人なつこくて。にいちゃん、って感じで、勉強も教えてもらったり、……格好よかった。憧れの人です」
「うん」
「だけど大学入って変わっちゃった。それでも好きで、尊敬してたけど、……タク兄の背中にはね、月齢のタトゥーが入っているんです。恋人に入れてもらった、って。円形に、月の満ち欠けが背中にあって。見せてもらったとき、胃がねじ切れるかと思った。タク兄はこれっぽっちもおれのこと見てなくて、恋人に夢中。悔しかったし、自分の非力さに腹が立った。……タトゥーを入れたのは、タク兄とお揃いになりたかったのもあるけど、恋人って人がどういう人なのかを知りたかった、ってのもあった。左肩にまんまるの満月入れてもらって、おれはやっぱり、淋しかった……」
「ばかだな」
「おれ、先生の背中が見たい」
 今度は顔をあげて、隠さない目で藤見はこちらを真正面から見た。
「先生のこと、ちょっとタク兄に似てるなって。最初はそう思って見てただけなんです。でも全然似てなかった。タク兄はおれにひどいことをするけど、先生は正そうとしてくれたし、道を示してくれる。……先生のこと、知りたい」
「見せねえよ」
 目を見てくるから、自分も目を見る。相対するとどうしても負けそうになるのを、必死でこらえる。
「失恋の痛みを、ちょっとやさしくしてくれる大人相手に紛らわそうとしているだけだ、おまえのは。ちゃんとおれに興味があるなら、時期が来てタイミングが合えば、見せてやるよ」
「時期ってなに」
「おまえはまだおれの生徒だし、未成年だから。どんなにおまえがおれに興味があって、おれもおまえに興味があったとしても、それは超えちゃいけない一線なんだ、いまはね」
「……いまじゃなければ?」
「それにどうすんの、おまえ。おれがさ、おまえをかわいがってるのは、この時期のおまえのことに興味ある性癖ってだけだったら。少年であるおまえに価値があって、大人になったおまえに価値はない、っていう性癖だったら、どうすんの」
「そしたら一生先生の話は訊けないし、背中も見られない?」
「そのころにはおまえにもいい人がいるかもしれないし」
「……おれ、もし、とか、かも、とか、そういう仮定の話するの嫌です」
「数学の世界じゃ常套手段だろ」
「この話に裏付けはない」
 言い切って、藤見はようやくお茶に口を付けた。
「――大人になったおまえに価値はない」
 また目を見てくる。緋色の目だと思う。赤く燃え盛る極彩色の瞳。
「そう言って捨てられたのは、先生?」
「……ぜってー言わねえ」
 弁当を食べ終えてからは、現状の把握とこれからの方向性の話をした。藤見はタトゥーの件を明らかにしてもいい、と言う。隠していても分かることだから、と。それを踏まえて職員会議がひらかれ、結果的に藤見のタトゥーの件は事件として社会的に扱われなかったことから公にはされなかったが、藤見は入学予定の学校から合格の取り消し処分となり、別の私立高校を一般受験して合格通知を受け取った。
 ライブハウスは営業停止となり、藤見のいとこも、タトゥーを入れた恋人も、行方が知れなくなった。

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 冬休みあけて三学期、すぐの土曜日。学校に無茶言って居残りさせてもらっていたら、スマートフォンが鳴った。三学年の学年主任からの電話で、出ると「まだ学校にいらっしゃいますか?」とお訊ねがある。
「あ、います。どうかされました?」
『さっき連絡がありまして。三年の藤見和乗が補導されて交番にいるらしいんですわ』
「――え?」
 危うく電話を取り落としそうになった。
「なにしたんですかあいつは」
『繁華街をこんな時間にうろうろしていたとかで、警察の方が声をかけたらしいんですけど、いったん逃げたとかで。事情を訊いて警察の方から連絡があったんです。藤見の家はいま誰もいないようでしてね。とりあえず学校側で引き取りに行きますと受けたはいいんですけど、私はいま妻の実家の方へ帰省してまして。すぐには行けんのです。陣内先生、お願いできませんか?』
「構いません、私が行きましょう。自宅へ送ればいいですか?」
『出来れば話を聞いてやってほしいんですわ。最近あいつは陣内先生と面談を重ねていますし、話もしやすいと思います。進路が決まって気が緩んでるのか、逆なのか、夏ごろからあいつはちょっとおかしいですね』
「分かりました。どこの交番か教えてください」
 上着を羽織り、自家用車で指定された交番へ向かった。繁華街にあるちいさな交番で、中を覗くと若い女性の警察官と一緒にいる藤見の姿があった。マフラーに顔を埋めて、身体を小さくしている。
「夜分にすみません、西和第一中学校の陣内と申します。藤見ぃ、おまえなにやってんだぁ?」
「あ、先生ですね。よかったね、先生来てくださったよ」
 婦警に促され、藤見は黙ったままぺこりと頭を下げた。
「なにやらかしたんですか、こいつは」
「ここから数百メートルのところにある『レッズ』っていうライブハウス、ご存知ですか? 最近あそこ絡みで事件が起きてますので報道をご覧になっていればご存知かもしれないんですけど。いまそこは警戒区域になっていて立ち入りを制限しているんですけど、そこに藤見くんがいまして。声をかけたら逃げるので、追いかけて話を聞いていたんです。まだ中学生なのにこんな時間にあんなところをひとりで歩いていたらね、藤見くんに事件性はなくても巻き込まれてしまうよ、という話をしていました」
「あ、じゃあ夜歩きしてただけですか、こいつは」ひとまずほっとした。
「今日はおうちの方がいらっしゃらなくて、夕飯を外に買いに出たついでにうろうろしてしまった、と。声をかけられて逃げたのは、びっくりしたからだと。でもよければ先生の方でもお話聞いてさしあげてください」
「それはもちろん。すみません、お世話をおかけしました。藤見、飯は買えたのか?」
 声をかけると、マフラーに顔を突っ込んだまま藤見はぶんぶんと首を振った。
「じゃあ、どっかで買って戻るか。婦警さんにお詫びとお礼を言いなさい」
「……すみませんでした。あと、ありがとうございました」
「いいのよ。もうこんなふうに夜を過ごしちゃだめよ」
「……はい、すみませんでした」
 頭を下げて交番を後にする。コインパーキングまで歩きながら、「今夜は冷えるな」と切り出す。
「腹減っただろ。家まで送るけど、話訊きたいから学校寄らせてくれ」
「今日土曜日だよ? なんで学校あいてるんですか?」
「ちょっと使わせてほしいって頼んであけてもらってるから。疲れてるか? 疲れたようなら今日はひとまず家に送って、話は明日以降で訊くけど。あ、でも親御さんいないんだっけ。今日は戻らないの? 遅いだけ?」
「いえ、戻りません。……ばあちゃんち行ってるので、みんなで」
「なんでおまえ残ったんだよ」
 ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜる。冷たい猫毛だった。パーキングへ戻って精算していると、「カズ!」と声がした。裏通りに面しているパーキングで、暗がりから若い男が息を切らしてやってくる。
「警察に追っかけられてたからどうなったかと心配してたけど、よかった、無事だったんだな。これからどうする? おれのアパート来るか?」
「あの、タク兄、……」
「どうした? 怖かったよな。ごめんな。おまえ、寒いのか?」
 先ほど交番にいたときよりも、藤見はさらに身を固くしていた。男の指摘する通りに、震えが見て分かる。うつむいて後ずさるので、そのあいだに割って入った。
「どちらさんですかね」
「え、なんだよあんた」
「藤見くんの通う中学校の教諭です。彼が補導されたのを引き取りに来たんですよ。失礼ですが、あなたは?」
「ああ、センセイ。ふうん。それはうちのカズノリがご迷惑をおかけしました」
 若い男は、殊勝な口ぶりでも失礼極まりなかった。
「おれはカズノリのいとこです。こいつの親父さんがおれの父親の兄弟。せっかく引き取りに来てくださったところ悪いんですがセンセイ、今日こいつの家には誰もいないんですよ。親戚で集まってるんで。今夜はおれのところに引き取りますから、帰ってもらっていいすか? それでいいよな、カズ」
 あ、と思った。藤見の言っていた「ライブハウスでバイトしている大学生のいとこ」。それから藤見のこの震え方。
 ――ミサト、先生のこと、好きだよな。
 嫌な呼気が耳元を掠め、外気温のせいだけでなく鳥肌が立った。
「――いえ、今日中に報告をしないといけないので、彼にはこのまま学校へ来てもらう必要があるんですよ。他の先生方も藤見を待っている状態でして」
 そっと藤見の背に手を当てた。そっちへ行くな、と思いながら、コートの上から確かに触れる。
「遅くなるのでこれは申し訳ないんですけど、こちらも仕事ですので。親御さんをお呼びできないということですので、よろしければ学校へ父兄としてこのまま来ていただけますかね? ええと、お名前改めてお訊きしても?」
 睨みつけてくる目は、藤見のあの目の形によく似ていた。同じ血統であることがよく伝わる。藤見もこんなふうに育つのだろうか、と男の上背を見ながら思った。髪を染め、眉を細く整えて、ろくでもないスラングの入ったスタジャンを着て。
 ちっ、と舌打ちをして、男は背を向けて歩き出した。その背中に「帰られるんならご連絡先をお訊きしたいんですけどー」とあえて大きな声を出す。男は足早に路地裏へ消えた。
「――典型的なヤンキーって身なりだな、あれは。おまえ、あれがいとこで大丈夫なわけ? なわけないよな。おい、本当に平気か? 顔真っ白だぞ」
 背に当てていた手でそのまま押して、車へ押し込んだ。
「追い返しちゃった。悪いな。あいつがおまえにタトゥーそそのかしたやつなら、やっぱり一緒に帰らせることはできねえんだよな、こっちとしてはさ。えーと、家戻るか? 学校行くか?」
 助手席の藤見は答えなかった。寒さでがたがたと歯を鳴らしている。いや、寒さだけなのかは分からない。手を膝の上で固く握り、血の気はない。
「……あったかい方にしよう。なら学校かな。シートベルトしろ。動かすぞ」
 暖房を最大にして車を発進させる。車中はだんまりだったが、信号待ちで止まったときに隣で「ほんとだ」とぽつんと声がした。
「目を細めても、信号の赤って眩しいですね」
「……」
「美術の神農先生が、遠くから目を細めて絵を見ると、ぼんやりとするから陰影がかえってはっきりする、って言ってた。だから緋色の椅子もあやしいんですかね……」
「……夜だからだよ」
「……」
「夜だから警告がはっきりしているだけだ」
 青に変わってアクセルを静かに踏む。

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 ――ミサトの背中は綺麗だね。
 耳元で囁かれてぞくぞくした。ぎゅ、と目を瞑るも、それは男の声をかえって意識せざるを得なくなる。指が背中を這い、舌が背中をなぞる。尾てい骨まで下りた手は、そのまま尻たぶを割り、窄まりに沈んだ。
 ――綺麗で、いやらしいね。こんなになって。
 ぶんぶんと首を振って抵抗する。前にも手が伸びて、健康な直立を刺激される。
 ――あ、あ、
 ――欲しいだろう? 欲しいって言ってごらん。
 ――あ、欲しいっ……。
 ――どこに、なにが?
 卑猥な要求を口にしろと迫られる。嫌でたまらなかったが、言わないといつまでもとろ火で煮やされ続ける。前に拒み続けたらもっとひどい格好でひどいことをされたので、こういうのは素直に口にする方がいい、と学んでいた。だから望むように口にする。あたかもそうされたいと思っているかのように。
 ――いい子だね。いまあげるよ。
 言うなり一気に貫かれた。剛直が内壁を押し上げて、刺激で軽く射精する。またあられもない台詞を囁かれ、腰を使って打ち込まれる。
 ――ミサト、かわいいよ。
 ミサトじゃない、ミサトじゃないよ、と心の中で唱える。おれはミサトじゃない。
 ――僕のかわいいミサト。
 ――せ、先生っ、
 ――先生。陣内先生。
 いつの間にか大人の身体になっていて、下腹の下に叢もあった。いま自分の背後に重なっているのが誰だかわからない。なんだ、誰だ、誰? 腰を掴んでいる手は、まだ幼い。
 それが大きくなったり小さくなったりする。自分も年齢があやふやで、縮んだり膨らんだりを繰り返す。遠近感が麻痺する。でも身体は触れている。
 背後の熱が、ぷつりと消える。引き抜かれたのではなく、消失した。振り返ると背中を向けてシャツを羽織る男がいた。大人のような、子どものような。
 左肩に入れ墨がある。それがシャツで隠されていく。これ、知ってる、と思って肩を掴んだ。掴む自分の手は大人で、振り返る男は、少年だった。目だけが光っている。
 ――藤見。
 そこで目が覚める。汗をかいていて、夢精は免れていたが、しっかりと下着に染みを作っていた。時間、真夜中。くそったれ、と性器に手を伸ばす。
 誰をあてにしたんだかわけがわからないまま、興奮を擦って射精した。


 職員室よりも進路指導室にいる時間の方が、長くなっていた。藤見の話を聞きながらノートの添削をするようになったり、書類を作成するようになったり。藤見は藤見で、こちらにはわけのわからない参考書を解いていたり、学校のタブレット端末を使って囲碁のソフトで遊んでいた。交わす会話の中で、ある日、「先生の字ってすごく綺麗ですね」と褒められた。ちょうど生徒の漢字書き取り帳を添削しているところだった。
「先生の板書ってすごく見やすそう。先生の授業受けたかったな」
「そういや三年間なかったな、受け持ち」
「あ、そうか。国語って習字の時間もありましたよね。なんか冬休みの課題で出されてた気がする。今年もあるんですか?」
「この学校はあるよ。ちなみにこの学校の書写は、基本的にはおれが全部の字を見てる」
「え、そうなの?」
「手本書いてるのもそう」
「嘘?」
「嘘つくかよ。だっておれ、高校書道の免許状も持ってるし、親父は書道家で書道教室もやってるし、おれも芸術院に毎年出品してるし」
「うぉおおお?」
「なんだその反応は」
 面白いぐらいに素直な反応だった。それから「おれはすごく字が下手だから」とまじまじこちらの手元を見る。
「ていうかなんか、手先を動かすのが苦手らしくて。美術とか、音楽の授業の器楽とか、技術家庭科もあんま」
「そういうのはそういうので別にコツや感性や技術があるんだろうけど、……そうだな、おれも美術はちょっとかじったかな。レタリングとか、デザインの分野は面白かった。構図の話とか参考になる」
「美術、……いま授業で、三年間の集大成とかって言って、水彩絵の具でクラスメイトの絵を描かされてるんですけど」
「うん」
「椅子に座ってる友達、っていうテーマで。それが難しくて嫌になります。椅子、がすごく難しい。美術の神農先生に、『それじゃ展開図だよ』って言われましたけど、意味がわからない」
「椅子かあ。そういう写生的なところはおれも分からんなあ」
「なんだっけ、遠近法、ってのがあるんだと言われました。きみの椅子は実際に組み立てたら椅子の形になるんだろうけど、美術には表し方がある、とか」
「うーん、わかんね」
 笑ってから、藤見に「おまえ、なんでもいいから紙を出せ」と指示した。
「紙? ルーズリーフとかでいいですか?」
「いいよ、なんでも。書ければ」
 鞄を探って藤見が差し出した紙切れに、「見てろよ」と言ってから、添削用の朱色の筆ペンで字を書いた。

『めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子』

「めをほそめ、みるものなべて、あやうきか。あやうし緋色の、一脚の、椅子」
 あえて手本のように美しい文字ではなく、緩急つけた書体でくたくたに書いた。書いたものを藤見はそのまま呟き、なぞって飲み込むように再びそれを読んだ。
「村木道彦っていう歌人の短歌だよ。いまおまえが椅子って言ったから思い出した。おれが書ける椅子は残念ながらこっちだ」
「……すごい、すごいね、先生」
 藤見はルーズリーフをじっくりと眺め、しばらく黙り、続けて「すごいね」と繰り返した。
「村木道彦の短歌、おれはハマったなあ。歌集を古本屋で買ったもん。あやしいだろ、その歌」
「まだしっかり意味を読み切れてないですけど、……なんかみぞおちのあたりがひやっとします」
「な、なんかそんな感じなんだよな、この人の歌って。若い時に作ったものらしいけど、若さがそのままっていうか。不安定で、怖くて、無我夢中であがいていて、激しくて、苦しみながら惹かれるみたいな、そういう若い人の蠱惑的でただならないあやしさがたったこれだけの文字にされている。すごい才能だと思う。これもなんか、ハマったな」
 もう一枚取り、また別の書体で歌を書いた。

『するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら』

「――この、さ、ひらがなとカタカナの絶妙な選び方もいいんだ」
 二枚の紙切れを手にして、藤見は黙っていた。
「よけりゃやるよ。あー、だいぶ暗いな。もう最終下校時刻になるから、そろそろ帰れよ」
「――先生、」
 呼ばれて顔を上げると、そこには相変わらず燃え盛るような強い目をした少年がいた。目を細めても、緋色の椅子が怪しいように、その目の強さはひどく印象に残る。
「先生は、誰に捨てられたんですか?」
「――……」
「こんなのに感情移入できたら、辛いですよ」
「……そうだな。おまえは、しないか」
 立ちあがり、ぽん、と藤見の頭をはたいた。
「しないほうがいい。知らん方がいいだろう」
「先生、おれは、」
 二枚の紙を机に丁寧に並べ、藤見はうなだれて胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「先生のことを考えると、ここがすごく痛いです」
「……」
「これをあんまり味わってたら壊れる、けど考えてしまう。……この人の歌集、図書館にありますか?」
「あ。……どうだろう。古い本だしな。うちに歌集があるかもしれない。読むか?」
「知らずにいたい感情の、蓋、が、開く。……というか、名付けられてしまう気がします。でも、読みたいです」
「……分かった。探す」
 ルーズリーフを丁寧に綴じて、藤見は帰宅した。

 その数日後、冬休み目前、藤見はこの学校の誰よりも早く進路を決めた。そしてすぐに冬休みに入った。厳冬の時期がやって来た。


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 それから数日、テストを返却し終えたり勉強したり教えたりの日々の中で、職員室に藤見がやって来た。陣内先生に用事があって来ました、と職員室前で堂々と宣言して入室してくる。
「なん? どしたの」
「タトゥーの件って、あれからどうなったのかなって思ったので」
「どうなったもなにも。上原先生からお聞きしてないの?」
「特になにも言われていません」
「じゃあそういうことなんだよ。今回のことで特になにか言う必要はない、というのが学校側の判断」
「でも、おれ、本当は」
「なんだか長くなりそうだな。場所変えるか」
 ちょっと外します、と隣の席の同僚に言い置いて、校舎の隅にある生徒指導室に入った。
 生徒指導室にある椅子にそれぞれ腰かけて、「本当はシールなんかじゃない、んだろ」と単刀直入に切り出した。
「……」
「未成年相手にどこで入れてもらったかはさすがに怖くて訊けねーな。ま、知らない体で訊いとくか。頼むから問題は起こしてほしくないんだけど、どこで、誰に入れてもらった?」
「……いとこが絡んでるのは本当なんです。いま大学生なんですけど。いとこのバイト先がライブハウス? クラブ? なんか、そういうところで。そこに来るお客さん相手に商売している彫り師の人がいて。若い兄さんでしたけど、……その人のスタジオで、入れてもらいました」
「胡散くせーな。いまも連絡取ったりしてる?」
「いえ、単純に店と客、って感じなんで。入れてもらってからは、全然」
「じゃあもう絶対に連絡とるなよ。いとこってのも怪しいもんだけど親戚だと難しいな。……てことはそれ、簡単には消えねえわけな」
 それ、と肩の辺りを指さすと、藤見はうつむいたが、ややあって「後悔はしてないので」とはっきり答えた。また、あの目。
「なんでタトゥーなんか入れたよ? 好きなアーティストでもいたか?」
「……」
「理由は、とりあえず置くか。あのさ、海外じゃ事情は違うんだけど、ここは日本で、おまえはまだ未成年だからさ。これはすごく問題なんだよな。いますぐ思い当たる問題といえば、進路だな。まあ、背中だとそんなに滅多に目にする場所じゃないけど、機会はあるよ。人の目に触れる機会。水泳の授業なんかあれば一発だ。毎回絆創膏貼ってるわけにもいかないだろうし。この先一生隠し通せるものじゃないだろうな」
「……別に、進路はおれが希望したわけじゃ、ないし」
「ん? じゃあなんだ、それが理由か? 反抗、というやつ」
「それも違う、……」
 藤見はそれきり黙った。私は息をつく。
「これからおれは生徒指導らしく、説教、というものをするぞ」
 なんて言ったらいいんだか、ただでさえ最近はキャパシティからいろんなものが漏れているのに、と髪を掻いて椅子に深く腰かけた。
「まだ、未成年なんだ。それがいちばんの問題だ」
「……」
「未成年というのはつまり、親や、周りの大人に、保護される立場にある、ということだ。社会的な話でいえば、おまえの年齢ではカードローンは組めないし、飲酒も、喫煙も、車の運転もだめだ。なぜだめにされているかは、発達段階である、という身体の理由であることがいちばん大きいとおれ個人では思う。いろんな考え方の人がいるからそこは見識を広めてほしいとは思うけどね。身体も、精神も、生きてる年数も、まだまだ伸びていく段階なんだ。そこには不安や不満、憤り、怒り、悲しみ、苦しさ、不安定さ、そういうマイナス要因がついてまわる。経験不足から無茶な行動に走りがちであったり、驕りや侮りがあったり、精神の不安定さから苛々して暴言を吐いてしまったり。発達途中の身体は、おまえの将来をいとも簡単に左右する。成人してからの方が人生は長いからね。いまこの時間を適正に過ごすことが大事。そのための保護者であり、未成年、という立場だ。これ、わかるか?」
「……すごくよくわかります」
「よかった。じゃあ続ける。今回おまえが自分の身体に入れたものは、賛否両論があるけれど、この国では基本的には未成年には入れられないものだ。この地域で言えば、青少年条例に違反する。おまえに施術をした人は逮捕される可能性もあるし、これからのことを考えるなら感染症やアレルギーのリスク、就職、保険、病院で適正な検査が受けられないとか、ハードルは色々とあるんだ。入れる、入れないの判断を、未成年の段階でしてはいけないよ、という意味だな。おまえのこれからの将来に、影響する。ピアスなんかもそうだけど、それは身体に傷をつけて入れるものだろう? 一度身体に入れたら簡単には元に戻せない。その判断をおまえの年齢でするのは早い。まあこれは、入れ墨に偏見のあるうちの国に限る話かもしれないけどな。……簡単には戻らないんだ。身体ってのは、心もそうだけど、傷つけていいものじゃない。せっかく健康な身体を持っていて、数学に秀でる頭もある。おれ個人の見解だけど、今回入れたもので今後に不利益が出るならすごくもったいない話だ。あとは、せっかく綺麗な身体してるんだから、とおれなんかは思っちまう。これは背中に変な痣のある男のやっかみだけどな」
 そこまで話して息をつき、「どうする?」と訊ねた。
「おれからの説教は終わりだ。『それ』を今後どうするかだよな。そのタトゥーの話は、親御さんはご存知なのか?」
「いえ、知らないはずです……」
「いま十月に入るところだから、卒業まであと五か月か。水泳の授業は終わってるし、冬になる時期だし、体育や身体測定をうまくごまかせるなら隠し通して卒業はできるだろうな。ぶっちゃけて言うとなーんにも知らない体でつるっと卒業してくれるとおれは楽だなあ。それはさ、結構、結構な大問題ですよ」
「ぶっちゃけすぎじゃないですか、先生」
「秘密ってのはさ、大人になればなるほど増える。そういうもんだ。いまから持つのは精神的にも身体的にもしんどすぎる。軽い気持ちで入れたようには思えないから、きちんとした主義や主張があってカミングアウトするなら、それを尊重するよ。だから、おれはどっちの選択をしてもおまえの味方をする。隠し通すか、公にするか。どうする?」
「……」
「自分の意思で入れた。それは、間違いないか?」
「はい」こくりと頷いた。
「それを入れて、どう思う?」
「どうって、」
「ファッションで入れたなら、格好いいと思う、とかさ。信仰で入れてたら、お守りみたいで安心するとか」
「……尊敬している人の気持ちに、なってみたかったんです」
 絞るように、でも、言葉を間違えないように、藤見は語りだした。
「尊敬? 憧れの人の真似して入れたか?」
「その人、には、そういう、その、……が、ある……せめて同じようなものを入れてみれば、その人を慕う気持ちに収まりがつくんだろうかと、うまく言えないですけど、先生の言う『信仰』だと思います。お守りみたいだと、勝手に思ってる……」
 思い当たる節があるようなないような、そわそわする心地で訊いた。それはさ、やっぱりおれを意識してのことだろう、と、本当は正面きって訊ねたい。訊いても彼は隠さないだろう。
「先生は、背中の痣に、コンプレックスが、ある?」
「またその話か」
「さっき言ってたから。やっかみだって。……秘密は大人になればなるほど増えるっていうのは、背中のことですか?」
「言っとくけど、おれの背中には観音様も龍も蛇も入ってないからな」
 急に喉が渇いてきた。藤見の臆さない目がこちらを見ている。
「自分じゃ見えないところだから、普段はあんまり気にしない。けど、生まれつきあって、親がそれをずっと気にしてたから、気にするようにはなったかな。着替えとか人前だと本当に嫌だし、銭湯やプールも行かない。医者も決まったところにしか行かない。シャツの下には絶対にインナー着るし。女性が胸を出せないような感覚なのかな。基本的には、見せたくない。……さっき言ったけど、綺麗な肌のやつは素直に羨ましいよ。おれの場合はね、触るとちょっとざらっとしてるから。毎日見える場所にあったら本当に嫌だったと思う」
「……すみません」
「なんで謝るんだか。まあ、でもそうだな。おまえみたいに滑らかな背中――」
 思い出したのは、先日確認した若い肌のことだった。熱気や湿度まで思い出せるような、生々しさが胸に湧く。こんなちいさな子どもに欲情してんじゃねえよと、やっぱりため息をつきたくなる。
 この少年は、自分を明らかにしようとする。明らかにされる、それが、とても嫌だ。
「――……綺麗な肌の人は、羨ましい。でもそんなことを言ったら、若い人のことはおおむね羨ましくなっちゃうし。歳を取れば痣なんかに構ってられなくなって、しみだ皺だたるみだなんだかんだ。人の数だけ業はあるよな」
「――陣内先生、」
「なん、」
「おれ、今回のことですごく悩んでいるので、先生には話を聞いてもらいたいです。そして先生と話す内容のことは、他の先生や親や友達には、知られたくないです」
 あーあ、と思った。その狡猾で優秀な頭を、こんなところで使うな、と。
 こんなにひりひりして目の離せない少年のことを、自分は抱える。多分、結構望んでいる。魅力的だから。とっくに当てられて参っているから。目、が。
 燃えるように綺麗に激しく透き通っていて。
 あと五か月。さっさと卒業しちまえよ。
「しょーがねえなあ。おれおまえの先生だもんなあ。相手してやるよ」
「その言い方」
「個人的な面談をしている、ぐらいのことは報告せにゃならん。それは制度的な話で許してくれよな。内容は守秘しよう。そういやおまえ、そろそろ受験じゃねえの? その、特待生なんとか試験。あれ? 私立一般と同じだっけ?」
「いえ、来月ですね」
「じゃあ追い込みじゃねえか。おれと話してる時間なんかあっていいわけ?」
「言い方」
 藤見は笑った。いつもの固い表情が崩されて、子どもが顔を出す。
「やることないんです。出題範囲は勉強しつくしちゃったから。もっと面白いことをやりたいので、他の勉強してます」
「すげーな、余裕じゃん。さすがだね」
「褒められてる気がしないですね」
「なんの勉強してんの?」
「いま面白いのは、和算」
 それから放課後、当たり前に藤見との時間が加算されてしまった。

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拍手[7回]

 ――ミサトの背中は月面地図みたいだね。ちゃんとティコまであるじゃないか。
 その台詞が耳を掠め、盛大につきたくなったため息をこらえた。いま自分の目の前には、ワイシャツを脱いで半裸になった少年が背中を向けている。みずみずしい肌を骨肉の上にぴっちりと纏わせた若さ、その左側の肩甲骨よりやや上のあたりに、まるい月の入れ墨が入っている。親指と人差し指で作れる輪っかほどの大きさ。色はグレイ。
 背を向けてうなだれている少年に、「いいよ、シャツ着な」と言った。
「本当はこんな身体検査自体が時代錯誤で訴えられても誰も弁護できねえだろ。悪かったな。本心から苦痛で屈辱だと思ったらいくらでも親なり教育委員会なりに言ってくれ」
「……誰にも言いませんよ。悪いの、おれです。なんで怒らないんですか」
「シールなんだろ、それ」
 さきほど確認したことを、言い聞かせるように復唱した。少年にも、自分にも、言い聞かせている。
「自分でそんなところに貼れるわけないから、共犯者がいるわけだけど、それは置いといて、そのタトゥーはシールで、一か月もすれば自然に消える、と」
「……はい」
「藤見は普段から大人しい方だし、成績も上位だし。問題起こすような生徒には見えない。少なくともおれたち教員やおまえのクラスメイトからすればね。そういうやつの背中にいきなりそんなのが現れちゃったもんだから、まあ面白がられて問題化したわけだ。一応、上には報告するけどさ。受験受験の夏休みのストレスからの衝動で、ということで」
 いいよ、と再度言うと、彼は脇に畳んだシャツを羽織った。
「担任の上原先生が心配してらした。いい先生なんだから、困らすようなことすんじゃないよ」
「陣内先生」
「ん?」
 ボタンを留め終わり、椅子をくるりと回転させてこちらを向いた。
「タトゥーがあるかないかをじかに確認されたことは、別になんとも思いません。上原先生は女性の先生だから、生徒指導の陣内先生が適任だろうとした学校側の配慮も、まあ、頭固いとは思いますけど、別に、です。でもおれ、こういうことすればおれを呼び出すのは陣内先生なのかなっていう、打算がありました」
「おれと話したいならシールなんか貼らずに職員室くればいいのに。いくらでも」
「職員室じゃ訊けないでしょ。……先生の名前って、ミサト、なんですか? カイリ、なんですか?」
「そんなの訊いてどうするの」
「先生の背中に月みたいな痣があるって、本当?」
「あほな噂話が流れてるもんだね。もう遅いから帰りな。自転車気を付けてけよ」
 あっち行け、というふうに手を振る。少年は立ちあがり、鞄を背負う。
「すみませんでした。先生さようなら」
「はいはい、さようなら」
 扉をぴしりと閉めて影が遠ざかっていく。煙草を吸いたくなったが、ここは学校なので我慢する。
 ――ミサト、きみの背中はきれいだね。きみはかわいいね。
 昔の音声がこびりついて離れない。あの無茶なことをした十五歳の少年――藤見和乗(ふじみかずのり)の背中のシールが、一か月後に消えていると信じるほど、彼らのことを信用していない。
 中学校教師なんて、そんなもんだ。多感な少年少女がまっすぐに育つと信じる方が歪んでいる。自分がそう育たなかったように。


「それで藤見の件はどうなりましたかねえ」と職員用のトイレですれ違った三学年の学年主任に訊かれた。
「ああ、シールですよ。いま若い人のあいだで流行ってるやつ。これを使ったんだっていうのを見せてもらいましたから。夏休みにいとこと遊んでつけたら落ちなくなって本人は相当慌てたそうです。そのうち消えますよ」
「そうですか。いやあよかった。そうですよね、藤見はそうですよね」
 うんうん、と頷き、そのまま職員室までの移動で会話した。
「生徒に『藤見くんの背中にタトゥーがある』って夏休み明けに言われたときはどうしたものかと焦りましたわ。体育の千田先生も水泳の授業で確認されてますしね。これは教育委員会ものかと覚悟しましたけど。これなら進学にも影響なさそうですね」
「藤見の進学予定の高校はそういうところがうるさいんですか?」
「おや、ご存知ない?」
「私はこの辺の出身ではないですので、私立となると、本当に疎くて」
 ああなるほど、と職員室の扉をくぐって当たり前に給湯スペースでコーヒーを淹れた。
「有名な進学校ですよ。男子校です。私立ですからね、自然とお坊ちゃんが多くなるような学校ですね。藤見みたいに特別奨励金制度を受けて入る生徒も中にはいますけどね。当然ですが、少数です。ほとんどは裕福な家庭の優良な男子生徒ですよ」
「なるほど、それではますます入れ墨なんか入れたら内申どころの話じゃないですね」
「藤見はなあ。去年、今年と、日本数学オリンピックで代表内定まで少し、のところへ進んでますからね。まあ、ずば抜けて数学が出来る出来る。うちの学校じゃ誰も教えられないんじゃないですかね。だから進路は重要なんですよね。ミルクいります?」
「ああ、いただきます。数学なんて私には門外漢ですよ。どんな頭してればそうなるんでしょうかね」
「藤見の叔父さんという方がどこかの大学のフェローだという話です。お父さんも理数系の会社にお勤めだとかで。家系なんでしょうね」
 家系、ね。コーヒーを受け取り、そのまま雑談に興じた。そのうち他の先生もやって来たのでコーヒーを持って場を離れる。席に着き、あーテストの採点終わってねえけど生徒指導がな、とか、試験だな、とか、今年の展覧会どうすっかな、とか、考えていた。つまりごっちゃごちゃなわけだ。
 大学を卒業して教職に就いた。教員免許状はいくつか持っているが、この学校では国語科を受け持っている。このままこの地方で中学校教師として働いていれば、ずっと国語を教えるのだと思う。でもそうはならないと思う。
 夏休み明けに背中にタトゥーを入れて登校してきた藤見に関しては、それまでは接点というものを特に持たなかった。藤見は大人しく目立った存在ではなかったからだ。少なくとも、国語科と、生徒指導という点においては。ただ、数学が抜群に出来ることで、やや奇特な方向に教師・生徒の興味関心は引いていたと思う。国語の成績も悪くないが、とりわけそちらにすぐれているようで、珠算の検定で、とか、暗算が、とか、囲碁も強くて、とか、なんだかその方面で噂を聞く。
 まあでも、あれはシールなんかじゃないだろうな、という確信があるのは、藤見が自分に興味を持っているからだった。
 先生の名前は、とか、先生の背中は、とか。その優秀な頭をそんな方向に使ってくれるな、と思ってしまう。藤見の興味が自分に向けられていることは、なんとなく分かっていた。授業を受け持ったことがなければ担任を持ったこともない。けれど廊下や玄関などですれ違えば藤見は必ず目を見てくる。挨拶の言葉は発さず、凄まじい熱量の視線で、黙して頭をふかく下げる。
 自分のことで生徒に噂があるのも分かっていることだった。生徒は自分のことをおおむね「陣内先生」と呼ぶが、ふざけたり愛着で「ミサトちゃん」などと呼ぶ。「陣内海里」というフルネームを、どう読んでいいのか分かりかねるらしい。そして背中の痣に関しては、授業でちらりと口にした自身のプライベートな情報を、あれやこれやと膨らませたりしぼませたり勝手に歩かせたりしているのだろうと思っている。生徒の前で裸になったことはないし、それは他の同僚の前でも、保護者の前でも同じだ。実物を見られたわけではないのだから、噂の類を出ない。そしてそういう噂が好意的な方向で歩くぐらいには、私は生徒に慕われている。
 だからと言って、と考えてしまうのは、自身を省みて恥ずかしくなるからだ。私は藤見少年のように、必ずしもおりこうさんでいられる生徒ではなかった。むしろ後々にまで恥じて傷になるようなことを思春期に行っている。そういう意味で、藤見少年の姿は私には鏡のように映る。過去の恥ずべき自分を、見ろ、と突き付けられる。
 あの、物怖じしない、狂気を隠さない目。のびやかな十五歳。これから上にも横にも厚みを増して説得力を持たせる、その一歩手前のあやうい魅力的な時期。大人であり子どもであり、その両方でもなく、それを歯がゆく思う時代。
 さっさと卒業してくれよ。


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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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