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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ――なあ、取引せんか。僕とおまえと。僕な、二年ぐらい前に体を壊して以降はほとんど隠居みたいな生活で、大きな家にひとりで住んどんのや。なにぶん家が広くて、僕ひとりじゃ手がまわらん。おまえはなんやようわからんが身を隠して住める場所がいんのやろ? おまえのおふくろさんがうちのおばさんにな、相談に来てん。まあ、そういう細い話はおいおいやとしてな、僕のところ来て、僕を助けてくれんかな。離れもあるから、手入れさえしてくれたらそこを好きにつかっていい。住むところを提供するから、代わりに僕じゃ手のまわらんことをやって欲しいんや。わるい話じゃないやろ。お互い知っとる仲なんやし。
 持ちかけたのは僕の方だった。けれどその台詞をくちにして、知ってるってなにを? と問いかえしてしまえた。あいつのことは世間がくちにするようにしか知らない。本当のところを、僕はまったく分かっていない。
 ――ええところや。静かで、海が近い。すこし、あの町に似てる。っても、おまえはあんまり思い出しとうないか?
 電話は、僕が一方的に喋るだけだった。あんまりにも黙っているので、本当にこの電話はあいつに通じているのかと疑うほどだった。だがあいつは僕の話を聞き終えて、やわらかく掠れた、発声を控えた声で、いいな、と言った。
 ――わるくないどころか、願ったりだ。ありがとうな。支度して、すぐ行く。本当にすぐ行くぞ。
 ――なら、取引は成立、ということでええな。待っとるで。
 そしてその翌々日、あいつはやって来た。荷物というほどの荷物もないからと身軽に、世間がくちにする噂とはずいぶんと異なるさっぱりとした顔といでたちだった。
 ――久しぶり。元気じゃなかったんだな、秋満(あきみつ)。
 ――高校以来だよな。おまえは聞いとる話とだいぶ違って、元気そうに見えるよ、馨(けい)。
 ――おれはさ、実のところは、そんなに困ってないから。困ってるのはおまえの方なのかなって思ったよ、電話。困ってるなら、助けたいだろ。
 取引は、はじめから見透かされていた。高校三年間を同じ町で暮らし、同じ教室で過ごした、たったそれだけの縁で、共同生活がはじまって半年が過ぎた。


 秋満。僕がきみにできる精一杯だから、あとは穏やかで、安静にして暮らすといい。
 握りつぶしてもつぶしても手に残った手紙がある。いっそ額装して家の玄関に堂々と貼り出してやりたい。でもそうはできない僕の意気地のなさで手紙は引き出しの中、夢を見て、うなされて、発作を起こしたらしい。何度も名前を呼ばれてようやく我にかえる。荒い呼吸が落ち着く中で、夜の正体があらわになる。ベッドの傍に馨がいて、僕の背をさすっていた。
「――すまん、また、僕、」
「うなされてた。最近多いな。落ち着けるか? 起きあがれるなら、水と薬を飲もう」
 馨は机の上に置かれた水差しを取る。手を借りて起きあがり、水を注いでもらってひと息つく。汗でびっしょりで、不快だった。
「着替えるか、身体拭こうか?」
「ええ、それぐらい自分でやれる。……すまんな、こういうことさすためにおまえをここに呼んだわけやないのに」
「意地張る必要もないだろ。こういうことするためにここに来てんだよ、おれはな」
 そう言われ、またベッドに沈んだ。
「――もうすこし眠りたい、けど、冴えてもうた。うまいこと眠れん」
「わかった」
 馨はほんのちょっと笑い、僕の枕元に腰掛ける。手を僕の背にあて、リズムを取って、ささやくように歌いはじめた。ごくちいさな、けれど丁寧で確実な発声で。
 烏丸馨(からすまけい)とは、高校のクラスメイトだった。中学三年の秋に祖父母と同居するために一家であの町に引っ越して、それまで西の方のそれなりに賑やかな街で暮らしていた僕には馴染みづらい土地だった。田舎で、山が近い。スーパーもコンビニも数が少なく、古臭かった。大学はまた西へと戻ろう、それまでの辛抱だと言い聞かせて進学した高校に、馨がいた。彼は根っからのあの町育ちで、町のことを嫌ってもいたし、諦めて受け入れてもいた。
 高校に入って同じクラスになり、馨が引っ越した先のすぐ近くに住んでいることを知った。知ってからは、登下校がなんとなく同じになった。向かう先が同じなので、時間があえば一緒になるのも自然な話。クラスの中じゃあまり喋らないのに、登下校が一緒になると、僕らはお互いのことをなんとなく喋るようになった。最近はまったゲームとか、読んでいる漫画とか、テスト範囲の話、クラスの女子の話題男子の興味。
 馨はよく歌をうたっていた。というよりは、くちから出せる音で遊んでいた、という表現が正しかったと思う。流行歌があれば曲を正確に再現してくちずさんだし、コーラスの部分や歌手の歌い方の癖、裏打ちのリズム、まっすぐに抜ける高音も転がるビブラートも、高いも低いも自在にうたうことができた。僕は一緒に行ったことはないが、クラスメイトとカラオケに行くとその再現度の高さから「くちからCD音源」と言われていた。そのうち文化祭などでバンドに呼び出されて、はじめはコーラスなんかで参加していたが、ボーカルを張るようになり、正直、その歌声にみなが心酔した。それぐらいに完成度の高い、天性の歌声の持ち主だった。
 どういう受験をしたんだかその苦労を垣間見せることもないほど、馨はあっさりと有名音大の声楽科に入学した。東京にある大学だった。僕は関西の大学に進んだので、そこで進路が離れた。けれど馨の噂は、町の誰かづてに、あるいは馨の母親と仲の良かったうちの母親づてに、伝わった。馨は大学卒業後、ヨーロッパのやはり名門と名高い音楽大学に留学した。そのままオペラ歌手として活躍するのかと思えば、帰国後、音大仲間とバンドを組んでポップミュージックのジャンルでメジャーデビューを果たした。馨がボーカルで、ほかに作詞作曲を担うギタリストと、ベーシスト、キーボード、ドラマーという構成。顔出しこそあまりなかったものの、曲にあわせて作られるアニメーションの世界観の完成度とビジュアルの高さ、一曲ごとにことごとく違う表情を見せる突き抜けた音楽性と、音大卒ならではの技術力の高さで、若者のあいだで非常に人気を博し、動画再生サイトではとんでもない再生数を叩き出した。街中どころか僕の周りでもよく耳にしたから、その影響力は世間にとって計り知れないのだと思い知る。そこまでいくと遠い存在で、高校時代に同じ道を自転車で通ったなんて、嘘みたいなできごとに思えた。
 国内でさらえる賞は根こそぎさらったし、若者から支持されるランキングは必ず食い込んだ。だからこそ半年前のニュースは、当時国会の解散が、とか、選挙が、とか、記録的な大雨が、とか世間の話題が事欠かなかったにもかかわらず、僕の住むちいさな海辺の町のローカル新聞紙にも掲載された。
『人気音楽バンド・ポップトラバース 解散を発表。
 若い世代に絶大な人気を誇る音楽バンド・ポップトラバースが解散を発表した。20××年のメジャーデビュー後、「トラジコメディ」「雷鳴」など数々のヒット曲を生み出し、動画再生回数の最多記録(当時)や音楽ダウンロード回数のレコード記録を樹立し社会現象を生み出した。ポップトラバースに関しては、ギタリストのTETSUさん(31)が麻薬所持で逮捕された他、ベーシストのタケジさん(30)の不倫報道、ボーカリストのケイさん(29)の心因性失声症の発表など、近年の活動に支障が出ていた。』
 失声症なんて聞いてないぞ、と新聞を眺めて思っていた矢先、故郷の母親からも馨のことを聞かされた。まさかこんな提案に乗るわけないだろう、そもそも昔に訊いた連絡先が通じるのかさえわからないのに、と思いながら、馨に電話して、通じて、いまに至る。失声症と聞いたから声が出せないのだと思い込んでいたが、馨は普通に喋ったし、僕の前では、うたう。
「いや、確かに声が出せない時期はあったんだよね。音あわせとか、レコーディングの時とか。でもいまは出せるし、別にフツーだよ。思い悩むこともさ、特に別にないんだよな。ただ、そう診断されちゃったのを事務所が体よく隠れ蓑みたいにして、要するにおまえはもう人前でうたうなって、言われちゃったんだよ、おれ」
 そうなった経緯は僕にはまったくわからないが、馨はそう説明した。とにかく休養、と言って、現在は早朝だけ新聞配達のバイトに出かけて、あとは家のことをやってくれる。家のこと、とは、僕の身の回りの世話も含まれる。食事、掃除、洗濯、庭の手入れ、病院への送迎、買い物に、風呂の支度。
 そこまでやらなくていいと僕は言ったが、病気をして以降は体力が落ちて重たいものを運べなくなったりもしていたので、馨の健康はありがたかった。
「おれがいないとだめな身体にしてやるよ」
 そう言ってふるまわれる基本を押さえた健康的な料理もありがたかった。馨は耳がよいことも手伝ってか感覚器が敏感で、人のふるまいに直感的に気づく。そして甘やかしたがる。だから多分、人をだめにするのが上手いんだと思う。
 中毒性のあるあの声を聴きたくて、ライブハウスに人が殺到しすぎて、押された人で怪我人が出た。そういうニュースもあったが、気持ちがわかる。


→ 


拍手[6回]

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 藤見が顔を覗き込んでくる。赤い月なら、藤見の目にまるくあるんだと思った。
「――……十二か、十三だったかな。好きな先生がいた。担任の先生でね。おれはさ、すけべでどーしようもないやつだったから、先生が『おまえだけ居残りで身体検査やりなおし』って言って触ってきても、いや、とか、怖い、とかは、言えなかった。むしろ先生がおれを好きだと言ってくれるから、それでいいんだと思ってた」
 腕で目を覆い、蛍光灯の明るさから逃れる。藤見の隠さない赤い目からも。
「触る、は、エスカレートして、やるようになるまで時間はかかんなかった。その先生が背中を月面地図だと言ったんだ。ティコまであるって。散々やった。ひどいこともたくさんされたし、言わされた。でも、先生はおれをミサト、ミサトって呼んで、好きだと言ってくれた。おれは本当はミサトじゃなくてカイリだし、先生が『ミサト』っていう別の女子をかわいがってたのも知ってた。でも先生には抗えなかった。大好きだったんだよ」
「……」
「成長期が進むにつれて、あんまり構ってもらえなくなった。ミサトっていう女子の方もそうだったらしい。中学三年になって、その先生が別の、一年生に手を出してるのを知って、なんで、と詰め寄ったんだ。そしたら言われた。『おまえはもう大人になる身体だから、興味がない』って。……そのすぐ後、もうひとりのミサトに妊娠が発覚して、先生の淫行は表に出た。クビどころじゃなくて、逮捕だよ、逮捕。だからなんていうのか、……ちゃんと憤ることもできなかった。消化不良のまま卒業して終わり。でも覚えこまされて身体はどうしようもなくだらしなくなってるからさ。ウリとかしてた。大学入ってやめたけどね」
 目元から腕を外し、藤見をようやく見た。「ろくでもねえ大人だろう」と言ってやる。
「――……大学で教職取って中学校教師になったとき、これは同じ轍を踏む、ってやつかな、と思ってた。あいつみたいにはなりたくなかったけど、同じ道を選択してしまったってことはさ、とか。……結果的におまえに手を出したみたいになったから、間違ってなかった」
「違うよ」
 藤見ははっきりと否定した。
「そんなしょうもない先生と、陣内先生は、違うよ。全然違う。先生は、ちゃんと真剣に、必死で、一線を超えないようにすごく気を張って、遣ってた。おれに手出しなんかしなかったよ。そんな、身体測定ですぐ触ってくるような男と、先生の、どこが一緒だって言うんだ」
「……慰めでも嬉しいね。でもほんと、しょうもない話なんだよ。だらしがないおれがだらしない男を好きになった結果だから。自業自得で捨てられてんだ」
「そんなわけあるか、ばか」
 かつての教え子から、呆れ諭されるように「ばか」と言われるのは、新鮮味があって酔いがうっすらと醒めた。
「多分、おれの年齢が先生とちゃんと釣り合ってても、おれの『好き』を先生はちゃんと受け止めてから、流したと思う。言ったじゃん、先生。失恋の痛みを都合のいい大人で紛らわせているだけだって。おれの気持ちがふわふわしてたから、成人、っていうちょうどいい区切りを理由にして、時間や距離を置いたんじゃないかって思う。そんなことできるのは、先生がちゃんと大人の、ひとりの、男の、先生だったからだ。……この五年を、おれはちゃんと必要なものだったと思ってる。先生のことを考え尽くせた。煮えたけどね。考えても考えても答えが出ない感情だったり、身体の作用だったりする夜は、しんどかったし。でもそういうのすら、必要だったと思う」
 藤見は私の顔の横に手をつき、視界を藤見だけにした。「カイリ、が正解だったんだ」と目だけで笑う。
「おれ、ちゃんと先生にもっかい恋するつもりでここに来たよ。ここ、が」
 手を取られ、そのまま藤見の胸に当てられた。
「ちゃんと痛くて、熱くて、速くて、色があるなら真っ赤に腫れてると思う」
「……うん、分かる、」
「先生はいまのおれに恋できてる?」
「……」
「あのさ、先生。おれはもったいないと思うよ。先生のこと抱けなかったら、それはすごくもったいないことだと思う。先生も、いまのおれに抱かれなかったら、もったいなかったなって、思うはずだよ」
 赤い目、真剣に張り詰めた眼差しで、一心に見下ろされて愛を囁かれる。こんなこと言わせて、ともう観念するよりほかない。藤見の両の頬に手を添え、静かに引き寄せる。顔が近い。
 お互いの発熱が、お互いに感染る。
「……もったいないって思う。だから抱けよ。ちゃんと大人になったんだろう」
「いい?」
「いいよ。……おまえ、セックスの経験あんのか?」
 訊ねると、藤見は嬉しそうに顔を染めた。
「……おれ、はじめてする人は絶対に先生がいいと思ったから、童貞なんだよ……恥ずかしいね」
「童貞でおれのこと抱きたいって言ってんのか。すごいね、おまえ」
「ばかにしてる?」
「感動してる。正直おれだって、誰かとするのは大学以降でやってないから、……初心にかえる心地。リセットかかってるんじゃない? お互い初心者ってことで」
「……もういい加減にキスしていい?」
「キスはしたことあ……――ん、」
 問いかけを封じて、熱い吐息をじかにくちの中に流し込まれる。舌で押し問答をして、噛み付いて歯が当たって笑ってしまう。余裕のなさに。じっくりやりたいとこちらは思うが、藤見の若さはそれを拒んだ。まさかと思いながら用意したジェルを器用につかい、身体をひらかれ、あられもない体勢で交じる。
 藤見はすぐ果てた。いったん引き抜いてスキンを外し、付け替える。こちらはアルコールの作用で沸騰に至らない高温で炙られているから、果てても終わらない藤見の勢いが、素直な性欲から嬉しかった。
「――あっ、……ふじ、みっ」
「先生、みんなこうなの? 嘘だろ、なんて身体してんだよ、あんた、――リセットなんて全然、」
「んんっ、ん、あ、」
「こんな身体……――」
 あとで訊けば「頭の中で散々デモンストレーションはしてたから」と自身の妄想力の強さを笑っていたが、このときはそういう理性は吹っ飛び、ただ身体が心地いいようにだけ動かしていたんじゃないかと思う。そういう技巧のない無邪気な身体が、本当に心地がよかった。久しぶりすぎるセックスでちゃんと身体がひらくかと心配すらしていたのに、足のひらきかた、腰の動かしかた、中にある藤見の締め上げかた、息継ぎしながらするキスの仕方、手足の絡ませ方、そういうセックスにまつわるなにもかもが、嫌な思い出からではなく、喜びとして藤見のためだけにさらけ出せた。なにより気持ちがよかった。硬いものが中を啜る感触が。打たれる肌と肌が。混じる汗と体液の粘質が。肉の重さとしたたる水と、私を見つめる獣の目の、赤々とした発情が。
 藤見の言ったとおりに、これをしないのはもったいない、と額に浮く汗を舐めて思った。
「あっ、藤見、……いきそ、くる、あっん、あっ、――ああっ」
「おれも出る、また……っ、」
 海里、と呼ばれたような気がした。呼んでくれたのかもしれないし、そう聴こえただけだったのかもしれない。でも、ミサトでもなく、先生でもない、ひとりの男として、ひとりの身体に愛されて抱かれたんだと、その瞬間で思った。
 盛大、では済まされないほど出したような心地で、放出で硬直した身体の、目尻から流れる塩気を、目玉ごとしゃぶるかのように藤見は舐めた。


 寒いさむいと思っていたら、布団からはみ出ていた。ふたりでひとつの布団を使っているので無理からぬ話で、鳥肌をさすりながら思い切って布団を出て、押し入れからもう一枚毛布を出した。その気配ですこやかだった寝息が止まる。「先生?」と起きあがりかける身体に、ばふっと毛布を投げた。
 それをちゃんと広げて、自分も横に潜り込む。
「……寒かったの?」
「うん。おまえは?」
「寒くない。おれが布団取っちゃったんだね。ここだけつめたくなってるよ」
 ここ、と、背中に腕がまわり、横抱きにされた。
 背中の痣を、手は手繰る。綺麗だ、と言われるより、月のようだと称賛されるより、黙って癒すかのような手つきが、とても頼もしかった。有言実行するなあ、と眠りに炙られながら思う。十五歳で捨てられた私を、本当に救済しにこの青年はやって来た。
「――あ、」
「ん?」
「……そういえばおまえのタトゥー、もう一回ちゃんと見ようと思ってて、見損ねたなって」
「見たいの? 前に見せたとおりだよ、多分」
「うん。でもさ、確認したいじゃん」
「あとで……もう少し、寝よう、よ」
 もぞもぞと動き、藤見は私をしっかりと抱え込む。熱い身体に引きずられるも、いったん感じた寒さで目が冴えかかっていた。
 鼻の頭がつめたくて、藤見の首筋に押し付けるようにすり寄る。そうしながらやけに静かな外音と、それでも時折叩かれるように鳴る窓ガラスと、寒さで判断して、窓の方を見る。
 カーテンの隙間に、明け方の庭がある。そこに白いものがふっと神様にでも吹かれたように混じっていた。雪が風に舞っている。
「藤見、雪だ」
「……んー……」
「ふじみ、……」
 眠る身体は、冬そのものに思えた。今日、島はどこもかしこもしんしんと静かに鎮まるのだろう。潮騒が遠くでうっすらと聞こえる。風と、波と、藤見の寝息。
 これで、もう少しだけ眠って、目が覚めたら。
 この男と島を歩くのもいいなと思った。なにがあるわけでもない、田舎で不便な、冬の離島だけれど。
 眠る男の胸に、顔を埋める。もうしばらくは、しばらくはこのまま。黙って息をして、しばらく。
 体温を分けてもらって。
 目が覚めたら、それから。

『愛恋や憎悪やいずれともかくも激しき視線もてわれを射よ』


end.


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文中引用歌:「村木道彦歌集」(国文社)より

拍手[9回]

「――あれ?」
「あ、起きたね先生」
 キッチンダイニングと寝室とを分けるすりガラスをあけて、手を拭いながら藤見が顔を覗かせる。
「先生、酔っぱらって寝ちゃうからここに動かしちゃったよ」
「……なん、おまえ平気なわけ、」
「言ったじゃん。飲めるよって」
「ざるかよ……」
 どんだけでかくなったんだよ、とひとりごとのように呟くと、「先生みたいな大人になるって決めたから」と答えがあった。
「……おれ、そんなに身長ないし酒もそうでもない」
「そうなんだよな。今日はじめて知った。大丈夫? 水、飲む?」
「……ちょっと吐いてくる、」
 よたよたに歩いてトイレで胃の中を空にする。口をゆすいで戻ると、ダイニングの方は綺麗に片付いていた。
 藤見は、布団の傍にクッションを持って来て本を眺めていた。いくらか頭はすっきりしていても、身体はふわふわしている。布団に崩れてうつぶせになると、「大丈夫?」と再度訊かれる。
「こっちの人って酒の強いイメージだけど、先生って全然だったんだね」
「酒は好きだよ。ちょっとの量で眠くなるだけで」
「眠い?」
「いや、身体が思うように動かないだけ……」
 くたくたの背中に、こつっと固い背を当てられた。
「本、返しに来た」
「んー……ありがとう」
「おれちゃんとこれ守ったんだよ」
「なん?」
 わざわざ枕元にまわり、貸した本の一ページをめくって見せた。

『失恋の〈われ〉をしばらく刑に処す アイスクリーム断ちという刑』

「寮だとおれ、甘いもの嫌いってことになってる。アイスクリームだけ食べないって言ってるのに」
「あほか……」
「ひとりだけ、『失恋したの』って言い当てた人がいた。その子もこの人の歌が好きだって言ってた」
「……その子のこと、好きになったりしなかったのか」
「ちょっとだけいいなって思った」
「……そう」
「これ、めちゃくちゃ読み込んでぼろぼろになっちゃった。だから別の買ったんだ。先生ごめんね。そっち返すよ」
「別のって、おれが買ったときすでに古本だったんだぞ、この本」
「でもそんなに高くなかったし、入手も難しくなかった」
 返すね、と言い、本棚に本を納める。確認するのも億劫で、ずっと枕に顔を埋めていた。
「――中島先生。学年主任だった、」
「ああ、」
「に、連絡してみて先生にようやく繋がって、ほっとした。卒業するとき、無理にでも先生のアドレス訊いておけばよかったなって後悔してた」
「そんなん、教えるわけないだろ、」
「なんで?」
「教えちまったら、……連絡なんて、すぐに取りたくなるよ、」
「……」
「連絡なんか取ったら、すぐに会いたくなるよ」
 正直、この五年を、私は疑っていた。藤見が律義に約束を守る青年に育つと、信じていなかった。そんなのを信じるほど若者を信用していないはずだ、と。自分がそうじゃなかったんだから、そう言い聞かせていた。
 それでもかつての同僚づてに届いた藤見からのメールは、もらったときに、待っていた、ととんでもない喜びに貫かれた。焦燥で興奮していた。本当は若い人のことを信じたいのだ、と自分を理解していやになった。そういう大人が子どもに見る夢を、若者に押し付けていいわけがない、と。
 また、背になにかが当てられる。今度は本の背ではなく、意思を持った藤見のてのひらだと理解できた。
「先生、おれちゃんと大きくなったろ、」
「――……だいぶ予想外に」
「予想外のおれは嫌だと思う? ちいさいまんまの方がよかったって思う?」
「……」
「先生、あんまり変わってなくてそっちの方がおれはびっくりした。あんだけ自分のことどうのこうの言ってたくせにな。どうなってるんだろうっていろんな想像してた。あ、でもおれよりちいさくなってたのは想像してなかった」
「うるせぇ……」
「先生、おれのこと、嫌だと思う? 思わないなら、起きてよ。おれ、先生の話訊くためにここにいんだよ」
「……」
「そういう大人になるって決めて五年暮らしたおれのことを、先生は、ちゃんと見てよ」
 ぐ、と背中に圧がかかる。腰のあたりでわだかまっている手は、セーターを握りこんでいた。手の熱さは、吐息の熱さだと思う。軽く呻いて声の出を確認してから、「そのまま上」と言った。
「上?」
「手。裾まくって、背中見ていいよ」
「……いいの、」
「ろくなもんでもないから、後悔するかもな」
 藤見はシャツの裾をズボンから引っ張り出し、セーターごと背中を明らかにした。
 そこには、月面が再現されている。そう言われた。腰から肩甲骨にかけての広範囲に広がる、クレーターまである痣なのだという。少年のころはうっすらと赤いのだと言われていたが、以降で誰かにちゃんと確認して訊ねたこともないので、現状は知らない。
 シャツをめくってしばらく黙っていた藤見に、「人様にお見せするようなものじゃないだろ」と言ってやる。
「おまえが入れたタトゥーの方がよっぽど綺麗だろうな」
「……ここまでちゃんと『月』なんだと思わなかった。痛く、ない?」
「痛くはない。……そんなひどい色してんの、そこ」
「なんか、月が赤いときってあるじゃん。赤銅色、っていうの。ああいう感じ」
「ふうん。なら、そんなに昔と変わってないんだろうな。その、腰の近くの、ちょっと色が濃い、らしい、ところ」
「触っていい?」
 答えを待たずに月面地図を辿られた。
「――ここ?」
「……多分そこ。ちょっとざらざらのひどいところな」
「本当に月にあるクレーターみたい」
「それ、ティコ、っていうらしいよ」
「ティコ?」
「……そう言われた」
 ――ちゃんとティコまであるじゃないか。ミサト。
「昔の天文学者の名前のついたクレーター。実際に月にあって、おれにもあるってさ」
「……誰に言われたの、」
「……」
「こんなところ、ちゃんと見ようとしなきゃ見えないだろ……」
 なぞっているのか撫でているのか。判別しない感触は酒に熱い身体をさらに煮立たせる。たまらなくなって身を捩り、天井を見あげた。

→ 

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拍手[8回]

 その青年は、ショルダーを下げて、船着場で海の方向をぼんやり見ていた。誰なのか、はじめははっきりとせず、ただ目を奪われるような若い人がこんなところにいるな、と眺めていた。車を停め、改めて船着場へ近づくと、青年は振り向いた。振り向いた顔に備わった目の透き通る力強さで、一瞬にして射抜かれ、五年の歳月を引き戻される。
「――先生、」
「藤見、おまえ、……でっかくなったなあ」
「うん、あれから身長が二十五センチ伸びた。先生、越したね」
 目線は高さが微妙に合わなかった。自分はそんなに低身長なわけではないけど、藤見の成長は私をとうに超えていた。
「声もすっかり変わったな。誰かわかんなかった。車こっち。よくこんなとこまで来たよ。メールもらってびびった」
 離島の船着場で待ちぼうけしていたのは、五年ぶりに会った藤見だった。おもかげはあるけれど、すっかり大人の身体つきでいる。あのころ以上にみなぎる若さには、たくわえた筋骨の逞しさや、伸びた手足の太さに、生物としての確かな人間味を感じる。
 少年、から、青年、へと変化した、大人の男。
 船着場近くの駐車場に停めていた車に乗り込んで、「遠かったろ」と車を発進させる。
「そうでもないよ。おれ、いま、こっちの大学通ってんだ」
「え? 東京でも京都でも筑波でもなくてか?」
「ちょうどいい研究室がこっちの大学にあって、進路を選べた。先生、この車どこに向かうの?」
「ああ、おれがいま住んでる教員住宅。っても土地があるからさ、向こうにいた時よりははるかに広い部屋に格安で入ってる」
「実家は?」
「親父は病気持ち直してな、まだ書道教室を頑張ってる。週末だけ帰って手伝ってるよ。でもこの週末は休暇だ。スーパーで飯の材料買ってこう。料理振る舞ってやるよ」
 島内の道は狭い。だから軽自動車を採用しているぐらいだ。坂を上がったり下ったりして、途中で買い出しをして、藤見を部屋に招いた。
 ファミリー向けの教員住宅で、部屋数のある一軒家タイプだった。駐車スペースもある。ささやかながらの裏庭には洗濯物を干しながら、ちいさな畑がある。この冬は白菜と大根とほうれん草を収穫できた。すだちの樹が元から植えてあるので、その実も収穫できた。
「ここがキッチンダイニング。そっちが風呂場とトイレ。縁側の向こうが物干し場と畑。ひとりだからリビングで寝起きしてる。あともう二部屋あって、ひとつで書を書いたり授業準備したり、もうひとつは書庫になってる。屋根裏もあるよ」
「すげえ、いい暮らしだね。こっちの大学来て物価の安いのびっくりしたけど、ここはもっと贅沢な感じする」
「物価は高いよ。離島だから。大きな買い出しは島外に出ないといけないし」
「見てもいい?」
「いいよ」
 部屋の隅に鞄と上着を落として、藤見はそこらを歩きまわる。食事の支度をしながら、単純に大きな質量が部屋の中を動いている感覚が、慣れなかった。藤見に会うまでは当然ながら少年期の藤見のことしか思い描けていなかったから、会って本当に驚いた。まさかこんな精悍に変わっているとは。五年という歳月の遠さを実感する。
 あちこち見てまわっていた藤見は、軒下に吊るしてあった干し柿を齧りながら戻って来た。
「柿、まだ早くなかったか」
「うん、こんなもんじゃね? 庭に猫がいた。三毛とぶち」
「ああ、よく来る。たまに餌やっちゃうけど、多分あれはどっかの飼い猫だ」
「飯、なに?」
「刺身と鍋。つみれにしようと思って」
「手伝う? おれ、魚さばけるし刺身引けるよ」
「え、それはすごい進歩」
 冷蔵庫を指すと、そこを探ってまるごとそのままのいかとアジとイワシを取り出した。先ほどスーパーで買ったのだったり、近所からもらったのだったり。
「じゃあいかとアジ、刺身に引いて。イワシはこっちにくれ」
「うん。包丁どこ?」
「こっち。魚のさばき方なんてどこで覚えたんだ」
 包丁とまな板を渡しながら訊くと、「寮」と返事があった。
「いま寮生活してる。料理の上手い先輩がいて、教えてもらったんだ。昔はあれだけ苦手だと思ってたんだけど、手の動かし方が分かったら面白くなった。こういう作業ってアタマにもいいんだね。手を動かしながら数字のこと考えてる時間は楽しいし、すっきりする」
 ずいぶん変わったな、と思った。ただただ黙って熟考していくだけのタイプだと思っていた。少なくとも、中学時代はそうだったと思う。
 キッチンで手を動かす私に背を向けるかたちで、ダイニングテーブルで作業しはじめる。
「ラジオでもつけるか?」
「んー、いい。先生の声聴いてたい」
「声って。落語じゃあるまいし」
「先生、いまも中学の先生?」
「そー。去年まで本島で教員やってて、異動が叶って今年からこっち来た」
「え、じゃあそっちの方が大学に近かった? おれいまH大だけど」
「距離的には近かったかもしれないけど、時間はかかる場所にいたと思うよ。山の中だったから。おまえは大学で相変わらず数字いじって遊んでるのか」
「言い方」
「高校で国際数学オリンピックの日本代表に選出された話は聞いたよ。だからもっとそっちに強い大学に進学したかと思ったけど」
「数学なんかどこでもできるよ。あ、でも、卒業したら院には行こうと思ってる。東京か京都か」
「夢ひろがるなあ」
「国を出ちゃえばタトゥーのことなんかまったくなんにも言われなくなるから、海外の方がいいかなって、最近は考える」
「……そうか」
「寮だとさ、風呂とトイレが共用だから。タトゥーのことはみんなに突っ込まれたよ。大人しそうな顔して意外にやんちゃだったって」
 軽く笑い、藤見は「お皿ある?」と振り向いた。
「後ろの食器棚からテキトーに」
「食器、たくさんあるね。買ったの?」
「まさか。前の持ち主の残しものだよ」
「食器とか調理器具とかって、ひとりで揃えようと思うと大変だね。こっちにひとりで来るまで、そんなの分からなかった」
「そういうものだよ」
 こちらも食卓が整い、ダイニングテーブルを片付けて並べる。藤見の整えた刺身は綺麗に透きとおっていた。喉が渇くのは、食欲があるからじゃない。「飲めるのか?」と訊いたが、断られたときのことも、頷かれたときのことも、なにもかもの答えを考えるのはやめていた。
「飲めるよ。おれ」
「じゃあせっかくの鍋と刺身なら焼酎出すか。グラスそっちから出してくれ」
「ん、」
 すだちと水で割って氷を浮かべ、杯を分ける。くつくつと煮える鍋の向こうには暮れかかる冬の空があった。藤見とはよく食べ飲んで話していたはずだが、気が付いたら天井の蛍光灯を自分は見あげていて、場所もダイニングではなく寝室だった。

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拍手[9回]

『卒業証書授与。卒業生、起立』
 ひとりひとりが名を呼ばれ、壇上にあがって校長から卒業証書を受け取る。儀式の中で、藤見の姿を遠くから見ていた。この短期間でやや背が伸びたように思う。肩幅に広がりを感じた。
 まるい後頭部に光が当たり、つむじがくぼんで暗い。いまはあったかそうだな、と以前触れた髪の冷たさややわらかさを思い出した。
 藤見も名を呼ばれ、壇上に上がる。たどたどしく証書を受け取り、流れ作業で壇上から下がっていく。在校生からの送辞があり、卒業生からの答辞がある。お別れの歌をうたい、退場していく。
『続いて三学期の終業式及び離任式を行います』
「陣内先生」
 背後からそっと呼ばれた。三学年の学年主任がそっと戻って来ていた。
「ああそうか、離任式ですもんね。あっち行ったりこっち行ったり大変ですね」
「あっちこっちバタバタねえ、体力がもちませんわ」
「先生はどちらでしたっけ」
「南の方にある学校で教頭です」
「それはおめでとうございます」
「陣内先生も、――ほら、並ばないと」
 促されて体育館の隅に整列する。

 職員室の机を片付けていると、扉の方から「陣内先生いらっしゃいますか」という声がした。低めにやや掠れた声に、聞き覚えがない。振り返ると私服姿の藤見が立っていた。
「――なにしに来たんだ、不良卒業生」
「……おれ、まだこの学校の三年生だし。新聞、見て、」
「ああ、」
 藤見は鞄から今朝の新聞を取り出した。そこにはこの地域の公立学校を異動する教員の一覧が載っている。昨日離任式だったので、今日の朝刊で載る情報だった。
「先生、転勤じゃなくて、退職って書いてあるから、……」
「また指導室行くか。あっちも片付けにゃならん。手伝え」
 ぽん、と頭をはたいて職員室を出る。藤見も後ろをついてきた。
 生徒指導室は、あまり私物化してはいけないと分かっていてつい持ち込んだ本が増えていた。それを段ボールにまとめる途中になっている。普段より片付かない部屋の中で、「卒業おめでとう」と言って職員に配られた紅白まんじゅうの赤い方を渡した。
 自分は白い方のフィルムを剥がし、口にする。
「なんで退職なの、」と藤見はせっかくのまんじゅうを口にしない。
「先生、辞めちゃうの?」
「ああ」
「なんで、……それって、おれのせい?」
「それこそなんで?」
「おれが……タトゥーのことで先生に迷惑かけたから、」
「ばか」
 くしゃ、と手の中でフィルムを潰し、ポケットに突っ込んだ。藤見は不安そうな顔を隠さない。
「別にクビになったわけじゃない。大体、たかがおまえ程度のことでクビになるわけないだろ。自分で辞めるんだよ」
「なんで、……」
「教員を辞めるわけじゃないぞ。公立校の教員てのは地方公務員だから、都道府県の預かりなわけだ。おれが退職するのは、この地方の公務員。――まんじゅう食えよ」
 促すと、微妙な顔をしたまま藤見もフィルムを剥いた。
「おれの実家の話したっけ」
「書道家のお父さんの話なら」
「そうそう。親父がね、去年の夏から病気でね。まあ歳ってやつなんだろうな。おれの実家はHの離島にあるんだけど、遠いからね。姉貴一家もいるけど、書道教室までは面倒見れないってさ。だからこれで帰るわ、ってなったの。今年のHの教員採用試験受け直したんだよ。あっちの方が教員の空きはあるからスムーズだった。それで四月からはHで教員やるわけ。教員やりながら、落ち着いたら家を継ぐ感じかな」
「H、って、遠いよ、先生」
「遠いよ。だから帰るんじゃん」
「離れちゃうの?」
 緋色の目が揺れている。いとこへの思慮でタトゥーを入れて来たときよりも揺れているように思ったから、それぐらいはちゃんと慕われたんだな、と分かって嬉しかった。嬉しくなったことが、悲しかった。
「ばか。卒業する春ってのはそういうもんだ」
「……卒業したらもっと自由に先生に会えると思ってた、」
「――……おまえはさ、せっかく秀でた頭があるんだから、それちゃんと育てて、うまく使え」
「……」
「もうタトゥーなんか入れて、身体を傷つけるようなことだけはしないで。健康に、安全に、過ごせ。……こんなところかな、おれからの送辞は」
「いやだ」
「藤見、」
「そんな、最後のお別れみたいな言葉は聞きたくない。……先生、おれは、先生が」
 その、決定的なことを告げようとする真剣で遊びのない唇を、手で塞いだ。目が見ひらかれ、その目はそのまま私を睨む。
「それは、心にしまっとけ」
「……」
「前にも言ったけど、超えちゃいけない一線なんだよ」
 だが藤見は、塞いだてのひらを上から握り、口元から外した。頬が上気して、唇がいつも以上に赤い。
「いつならいいの、」
「――成人したら、かな」
「じゃああと三年? 三年待ったら、先生に会いに行っていい?」
「いいけど、前に言った通りだよ。その年齢になったおまえに、おれが興味持てなくなってたらどうすんの。それに三年経ったら、おれだって歳取るよ。もう三十路だな」
「だっていまじゃだめだって言うじゃん、先生。なんにも教えてくれないし、見せてくれない」
「頼むからあんまりおれを試してくれるなよ。そんなにいい人間でもないんだ」
 触れている手が熱いのは、お互い様だった。自分の中ではちゃんとはっきりしている。三年経って藤見に会えたら、自分は藤見の成長を素直に喜べると思う。けれど成人の三年と、青春の三年はイコールにはならない、この三年で、藤見はどのようにも変われる。自身も、環境も。
 背中のタトゥーだって消してしまえるかもしれない。
「……今日、本を返そうと思ってたけど、まだおれが持ってていい?」
 手を取っても身体は近付けられない、微妙な距離で藤見は訊いた。
「これ持って、三年頑張る。それで先生にこれ返しに行く」
「やだよ」
「先生、」わがまま言うなよ、と咎めるくちぶりだった。
「三年じゃまだ飲酒年齢じゃないじゃん。どうせなら二十歳で来いよ。ちゃんと全部大人で許されるようになってから来い」
「先生、」
「でも五年もしたらさすがに待ってられなくて、おれは結婚するかもしれないし」
「先生、」
「おっさんになって、太ったり、禿げたり、してんのかもしんないし、」
「先生、」
「おまえにはかわいい彼女が、彼氏でもいいけど、……いるかもしんないし、……おれじゃどうにも決めらんねえんだよ。未来の約束なんて、……分かんねえよ。出来ねえ」
「先生、怖いの、」
「……」
「先生の方が震えてる」
 言うなり強く手を握られた。それで自分が鳥肌を立てていることに気付いた。
「おれぐらいの年齢で、先生、なにされたって言うんだよ……」
 その質問に、答える余裕は持ち合わせていなかった。震えたまま、ひと言、「怖いよ」と答える。
「おまえは、怖い。おまえを考えてしまうおれが、怖い……だから離れるんだよ。距離と時間を置けば」
「先生、陣内先生。おれ、何年後か分かんないけど、ぜってーHに行く」
 震える手を、強くつよく掴んで、掴んで、藤見はそっと離した。
「そのときのおれが、十五歳だった先生を助けてあげられるように、なる。おれは、そういう人間になる。先生がおれを散々助けてくれたみたいに、なる」
 そうして藤見は、いままで見たことのない顔で笑みを作って一歩後ずさった。
「いま決めた。先生みたいな大人になったら、会いに行く」
「……藤見、おれはそんな大人じゃない、」
「またね、先生」
 深く頭を下げ、「大変お世話になりました」と言い、子どもの軽やかさで藤見は卒業して行った。
「……キレーサッパリで、おまえには未練はねえのかよ、あほたれが」
 そういうひとり言しか出てはこず、息をついて窓を開ける。三月の外気を吸い込んでむせて、涙が出た。

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プロフィール
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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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