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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ◇


 そのまま結局は山頂を制覇してしまった。
 山荘は山頂にあるものと思い込みがちだが、ここの山荘の場合、山頂までは四十分程度かかるのだ。ここの従業員の健脚なら二十分ほどで行くらしいが、山荘まででへばっていた燕にはきつく、みんなに手加減してもらって登った。途中、鎖場では穣太郎に手を借りた。山で油断は禁物と分かっていて、力強い手指に、心臓が煮えた。
 ちょうど天気も良く、ガスの切れ間に見事な景色が見えた。自分の足もと以外は空、まるで天空に立っているその感覚は、束の間の浮遊感を味あわせる。
 みんなで記念撮影をして、それからは狭い山頂でめいめいに過ごした。女性陣はひょいひょいと岩場を進み、どうやって、と思うような突端ではしゃいだりしている。あそこから落ちたら命はないだろう。もちろん、いま穣太郎と並んで座っているこの岩場も、そうだ。怖い、けれど雄大で素晴らしい。少しだけ、こういうのは穣太郎そのものだな、と思った。
「そういえば、これ」
 シャツの胸ポケットから穣太郎はなにかを取り出した。四つ折りのそれは、原稿用紙らしかった。「なんですか?」と広げようとすると、「見るのは山を下りてからだ」と強引に紙をウエストポーチにねじ込まれた。
「なんですか」
「こないだまで、ここにな、寧が来てた。ホレ覚えてるか、やさっこい顔した男だ」
 やさっこい、という表現が、優しそうな、あるいはなよなよしい、という表現だということを、数秒遅れて理解した。
「覚えています。穣太郎さんの友達、ですよね」
「そうだ。あいつの正体はよく分からんが、物書きらしい。惚れたやつがいるらしくてな。それがまあ難攻不落で、もう何十年と片想いしているんだと」
「何十年は、……本当に?」
「ん、おれもよく知らんが」
 穣太郎も寧がここへ来てはじめて知らされた、という。
「忙しいから、話半分で聞いとったが、まあその惚れた相手から哲学的な宿題を出されたらしい。百ほしい、とかなんとか。どう答えたらいいかと言ったから、ラブレターを書け、とおれは言った。物書きだからな、文字操るのは得意だろう、と。それであいつは、ここで何十枚とせっせと書いたよ」
「ラブレターを?」
「そうだ、と思う。書き上がったら、とっとと下山してったからな。当然おれは読んでないんだが」
「……すごい情熱ですね」
「ああ、すごい情熱なんだ」
 ふ、と穣太郎の表情が緩む。言葉が続くのかと、燕は穣太郎を待ったが、それきりなにもなかった。
「――え、それで?」
「いや、それだけだ」
「いえいえ、それと、穣太郎さんがくれたこの紙と、なにか関係するんじゃないですか?」
「なんでもねえ」
「じゃあ、いま中身を見ます」
「あー、やめろやめろ、下りてからだ。絶対、下りてから」
 ウエストポーチにかけた手を、掴まれた。大きな手は燕の手首を簡単に包んでしまう。それでもじたばたと燕は抵抗した。なにがなんでも見てやろう、という気になった。
「やめろ、琢己」
 穣太郎の手が、燕の後頭部にまわる。
 視界がぽすっと塞がった。
 穣太郎の逞しい胸に抱かれている。
 燕は抵抗を忘れ、その心地よさに酔った。自分の吐いた息がそのまま穣太郎のシャツに浸みこんでいく。目を閉じる。思い切り息を吸い込むと、穣太郎の体臭が香った。
 時間にすれば、数十秒ほどだったと思う。肩を掴んで燕の身体を離した穣太郎は「とにかく」と仕切り直した。
「読むのは下りてからだ。分かったか」
「……はい」
「いい子だ、琢己」
 穣太郎はゆったりと微笑んだ。その笑みに、肩を掴んでいる手の力強さに、なによりも先ほどの抱擁に、燕はくらくらした。
「さあ、そろそろ夕飯の支度の時間だ。戻るか」
 と、穣太郎は立ちあがった。


 ◇


 一泊二日はあっという間に過ぎてしまった。あの後山荘に戻った燕は、昼寝をして、穣太郎の作った夕飯を食べ、穣太郎の寸法はきっちり測らせてもらい、星を観察して、早く寝た。翌日は御来光を山頂で見るべく、早起きした。これも穣太郎と見た。まったく、山の男はタフだと思いながら。
 そして惜しみながら、山を下りた。反芻するのは穣太郎の体温ばかりで、しかし滑落せぬようしっかりと気を引き締めて下りた。バスターミナルに行く前に、周辺に建つリゾートホテルのティーラウンジに寄った。もしかしているかもしれない、と思って覗いたのだが、案の定いた。寧は煙草をふかしながら、熱心にノートパソコンのキーボードを叩いていた。
「寧さん」
「あれ、こんにちは。来てたんだ。もしかして、穣太郎んとこ?」喋りながら寧は煙草を灰皿で揉み消す。
「はい。帰り道です」
「そりゃ淋しいよなあ。あ、ケーキ食べる?」
 いつの間にか傍にウエイターが立っていた。以前もここのティーラウンジで燕に良くしてくれた、仕草が綺麗なウエイターだ。「静可さん」と寧が彼を呼んだ。ウエイターはにこりと微笑み、メニューを渡してくれる。
「今日はアップルパイがお勧めです」
「あ、でもおれ、山下りる前に穣太郎さんからお菓子もらって、食べたんです」
「いいんだいいんだ、食べなさい。山くだってカロリー消費しただろうし、それにね。きみや静可さんみたいな身体の人は、過剰摂取ぐらいでちょうどいい」
 と寧が言った。ウエイターはすました顔で燕を待っている。「じゃあ、アップルパイのケーキセット、アイスティーで」と頼むと、「かしこまりました」と恭しく、ウエイターは下がって行った。
「寧さん、ラブレター書いたんですってね」と言うと、寧は吹き出した。
「そんなことまできみに喋ったのか、あいつは」
「超大作を書いた、と伺いました」
「きみもちゃんともらったんだろうな、ラブレター」
「はい?」
「穣太郎からの、ラブレターだよ。帰り際に残った原稿用紙押し付けて、おまえもツバメくん宛てに書け、と言って下りたんだけど……」
 喋っているうちに、寧はまずい、と思ったらしい。語尾が詰まる。「……もしかして、もらってない?」
「いや、もらった、っていうか、」ウエストポーチの中身を意識する。
「ていうか、あいつからなんか、言われた?」
 言われてはいない。行動なら起こったかもしれない。訳が分からなくなり、燕は真っ赤になって首を縦に振ったり横に振ったりした。
「ええと、……僕は先に余計なことを言ってしまったのかな」
「わ、分かりません……」
「そうか、……」
 早くウエストポーチの中身を確認したくてたまらなくなった。


 ◇


 バスターミナルから最寄駅まで移動し、街へ戻る私鉄の電車内で、燕はようやく手紙を取り出して眺めた。


『十一月には閉山するので、小屋を閉めます。
 街に戻ります。
 そのとき迎えに来てください。


 クマダ』


 そんなの到底待てない、と思った。いますぐ引き返したい気持ちがはやる。
 ああだけど、その時までに絶対に、セーターを仕上げるのだ、と燕は決意する。今度はアラン模様にしよう。穣太郎の風体に、絶対に似合うはずだ。
 色は白がいい。冬の熊に、きっとぴったりだ。


End.


← 2‐1


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 昔から身体の大きな人間に弱い。はじめて好きになった人も、その次に好きになった人も、その次に好きになった人もそうだった。確かな筋骨、分厚い胸板、太い首や腕。大概はパワー系スポーツが得意な人種だ。線が細く、筋肉もぜい肉もつきにくい、ゆえにスポーツの類はてんで不得意という燕琢己(つばくら たくみ)からすれば、憧れの塊みたいなものだった。
 そういう人間こそ、ニットは似合う。
 昔から冬季オリンピックの中継を眺めるのが好きだった。各国揃いのニットウェアを身に着け入場行進などされるとたまらない。憧れの体格をした男女が、燕が最も好きだと思うファッションで登場するのだ。これに興奮しない訳がない。いつかそういう人に最高のニットを編んであげたいと思っていた。それを着てほしい。アラン模様もいいし、編み込みでもいい。もちろん、自分が最も得意とするフェアアイルだって最高だ。
 元からそういう趣味嗜好があって、燕は熊田穣太郎(くまだ じょうたろう)に出会ってしまった。ひと目ぼれだった。山荘の厨房で腕を振るう大きな熊。その巨大な熊もまた、燕が気になるらしかった。「細っこいの見ると食わせたくなるんだよなァ」と言い、空き時間に手招かれては、厨房からおやつをもらった。
 それが去年の夏だ。一年過ぎて、ようやく帽子をプレゼント出来た。また山荘に来いと言われたから、日ごろ家にこもってばかりの身体を頑張って山荘のある尾根へ引っ張り上げた。今度は客として、一泊二日を山荘で過ごす予定でいた。
 八月も終わろうかというころだ。尾根に吹く風はとうに秋風だ。


 ◇


 数週間ぶりに会った穣太郎は、トレードマークの髭がなくなっていた。燕があげた帽子をかぶっていなければ、彼と分からなかったかもしれない。早朝にふもとを出発して、昼ごろようやく山荘に到着したのだが、数時間山道を歩いてへばった身体と精神に、髭なし穣太郎の姿はなかなかに衝撃だった。
 昼のピークを過ぎて、人の少なくなった食堂でようやくゆっくりと穣太郎と話が出来た。
「ひ、髭」
「ああ、これなァ」
 つるりとしてしまった頬を穣太郎は撫でた。「今朝、やむ得ず剃った」と答える。
「朝起きたらガムが髭に絡んでたんだ。多分、従業員が噛んでちゃんと捨てなかったのが、布団に紛れたんだろうな。犯人を誰とは探す気ねぇけどよォ、朝礼の時にきちっと話したわ。ごみはだめだ、ごみは」
 山荘には当然ながらごみ収集車はやって来ない。基本的に登山客個人が出したごみは個人が持ちかえる。山荘で出たごみは、荷上げのヘリコプターの復路で下ろす。おいそれとそこらに捨てられないのだ。
 極地だからこそ、ごみの管理は徹底している。分かっていることだ。なんとなく燕は、しょぼんとしてしまった。
「ま、あんたが気にすることねぇわな」
「いえ、気にします。……穣太郎さんの髭、好きだったので」
「そおかァ?」
「でも、髭ないのも、新鮮ですね、」と気を取り直す。
 髭がないと、顔の輪郭線がはっきりと分かった。意外とシャープな輪郭をしている。つぶらだと思っていた瞳も、案外に険しい。それが優しげに緩んで、燕はどきどきしてしまった。
「そういやあんた、したいことがあるって言ってたな」
「あ、そうなんです。……寸法、測りたいと思って」
「おれのか」
「はい。今度はセーターか、ベストか、カーディガンか迷ってますけども、編みたい、と思っていて」
 冬までに必ず仕上げたいと思っている、穣太郎のためだけに編むとっておきの一枚だ。
「また編んでくれるのか」
「……それはもう、おれのライフワークですから。……迷惑じゃないですか?」
「あんたの編み物は好きだ。色がいいし、なんかな、ここまであったかくなる」
 親指で自身の胸を指して、穣太郎は言った。燕にとってそれはもう飛びあがるぐらい嬉しい言葉だった。つい照れてうつむいてしまったが、顔をあげる。
 ウエストポーチからメモ帳と巻き尺を取り出し、「では失礼します」と穣太郎の肩に触れる、そのときだった。
「ツバメくん来てるって?」
「あーほんとだ、いるいるー」
「レース王子!」
 と賑やかにやって来たのは、ここの女性従業員たちだった。きゃあきゃあとはしゃぎながら、久々の再会を歓迎する。
 彼女らは、休憩時間のたびに黙々とレースを編む燕のことを、「レース王子」と呼んでかわいがってくれていた。総じて体育会系だったが、そこは女子、かわいいものは好きなのだ。
「相変わらず細いねー」
「ね、まだ編み物してるの?」
「こんな熊と一緒にいるより、お花畑に散歩に出ない?」
 ちなみにお花畑とは、高山植物の群生地を指す。はじめて「お花畑」と聞いたときは、なんてメルヘンでドリーミーな言葉だと思ったのだが、実際のお花畑はもっとリアルで、シビアで、素朴な花々が咲く。
「おれと琢己は真面目な話してたんだよ」吠えるように穣太郎が言う。
「じゃあジョーさんも一緒に散歩する?」
「……おうよ」
 それでみんなでお花畑へ出かけることになった。


→ 2‐2


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 ◇


 夏の街を、干からびないように日陰と日陰を渡り歩きながら、二十分ほどは歩いた。先ほどから静可はなにも喋らない。黙々と歩いている、という感じだ。
 もうそろそろ駅に戻っておかないと、電車の時間が危うかった。静可は明日からまた仕事だ。今日中には寮へ戻ってなくてはならない。
「ねえ、そろそろ戻ろう。駅ビルで買い物もしたいし」
「……」
「静可さん?」
「――気持ち悪い」
 と静可はその場でうずくまった。寧はぎょっとする。すっかりうなだれている静可の首筋、白いうなじに頸椎が浮かぶのが見える。背に触れると、熱い。そういえばあんなに涼しい顔をしていたじゃないか。汗をかいていなかった。脱水? 貧血? 熱中症? 昼に食べたものが悪かったか?
 ばさ、と静可が手にしていた紙袋が落ちる。寧の書いた本の入った袋だ。寧は静可の額に手を当てた。
「気持ち悪い? 吐く?」訊ねても静可から返事がない。
「静可さん、OKなら返事して――静可さん、」
 しずかさん、と何度も呼ぶ。なんだなんだ、と通りすがる人が気にしていく。人のよさそうな婦人が「どうしましたか?」と声をかけてくれた。
「気持ち悪い、って言うんですよ」
「あら、熱中症かしら。気持ち悪いだけ? 大丈夫?」
「……大丈夫です」
 と、静可はようやく返事をした。顔をあげたが、真っ青だった。
 そのままふらふら歩いて行こうとするので、慌てて静可の腕を取った。
「大丈夫じゃないでしょう、」
「ちょっと気分が悪いだけ」
「待って待って、少し座ろう」
 だが静可は歩こうとする。


 ◇


 数歩歩いてはまたうずくまり、数歩歩いてはうずくまり、していた静可だ。歩き続けられるわけがない。さいわい、少し歩いた先にビジネスホテルがあった。入浴施設があり、日帰り入浴だけでも可だという。そこの畳敷きの休憩室に静可を運び込んで、ようやく横たわらせた。自販機でペットボトルのお茶やスポーツドリンクを数本買い、一本は静可に飲ませ、残りは腋下や首筋に当てた。
 しばらくして、静可は目をあけた。瞳の焦点が定まってきている。脈も収まってきたし、なにより汗をかきはじめた。水分がまわってきた証拠だ。
「――軽い熱中症だと思うんだけど」
 そう言うと、静可は「私は貧血だと思いました」と答える。
「どっちにしろ、歩きまわれる状態じゃないね、……どうしてそんなに歩きたがったの?」
 行きたいところでもあったのだろうか。静可は頭を乗せている座布団を自力でどかすと、寧の膝に頭を乗せ替えた。寧はびっくりする。
 休憩室には、おじさんがひとりいるだけで誰もいない。彼は背を向けて、高校野球のテレビ中継を観戦中だ。静可と寧には気付かない。
 静可は「入道雲がすごかったから」と答えた。
「ビルとビルの合間に入道雲を見るなんて、久しぶりだと思って。……入道雲の下はどうなっているのか、気になっていた少年時代を思い出しました」
「そこまで歩くつもりだった?」
「さあ」
「ばかだな」
 膝に乗った静可の髪を梳く。静可は身を捩って、横向きに寝転んだ。楽な体勢を選ぶ。痩せて細い腕、長年使い込んだ腕時計が、視界に映る。
「――あっ」
 寧は思わず声をあげた。十五時をとうに過ぎている。予定していた電車にはもう間に合わない。今日中に帰らねばならないのに、時間を逃してしまった。
 それを告げると、静可は「いい」と言った。いや、良くないだろう。
「今夜はこのままここに泊まって、明日帰りましょう」
「うーん、……仕事は、大丈夫?」
「事情を話せば、替わってもらえるはずです」
 ならば、ゆっくりできる方が静可の身体のためにもいいだろう。寧は後ろ手を突き、「そうか」と笑った。「なら、休もう」
しかし「抱いていいですよ」と静可が言うので、笑いが止まる。
「――はっ?」
「今夜。あなたの好きにしていいですよ」
「ちょっとちょっとちょっと待って、待って、……待って、」
 寧は思わず周囲を見渡す。テレビ前に陣取っていたおじさんは、いつの間にか横たわり寝息をかいていた。静可に顔を近付け、小さな声で、寧は「いきなりなにを言い出すんだ」と抗議する。
 静可は「街へ出るからには、まさか健全なデートで終わると思っていなかったですけど?」と答えた。
「ホテルにでも直行するかと思ったのに、あなた本当に本屋に行くし」
「あのねえ、僕はあなたと違ってけっこう、かなり、すごく、健全なんだよ。好きな相手とはじっくりやりたいんだ。好きです、はいセックスします、ってのじゃなくって」
「まさか童貞じゃないでしょうに」
「そりゃ、そうなんだけど」
 だが寧にとって、好きな相手とこうなるのは人生生きてきてはじめてのことなのだ。「それに」と付け加える。「あなたは気分悪かったんだし、このホテルじゃなんにも準備がなさそうだし」
「そんなもの、いくらでも代用はきくし、ここは街なんですから、なんでも揃うでしょう」
「……そんなこと言って、本当にどうなっても知らないぞ、」
「ええ、お好きにどうぞ、と言っています」
 そう言って静可は、そっと寧の耳たぶを引っ張った。まったくこの人にはかなわない。
「……チェックインできるか聞いてくる」
 顔が火照るのを感じながら、寧は静可の傍を離れようとしたが、静可にしがみつかれた。
「どっちなんだよ、もう」
「ふふ」
 もう少しこのまま、と静可は言う。寧はとても困ってしまった。困る寧が、静可は嬉しいらしい。
 静可は目を閉じる。静かな休憩室に、野球中継のアナウンスが響く。



End.


← 前編



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 本屋の棚、著者名に「遠城寧志」(えんじょう やすし)とつく本の数々を見て、本田静可(ほんだ しずか)は「あなた志してましたっけ」と呟いた。寧(やすし)は隣で首をひねる。
「この、志がつくのが本名でしたか?」
「いや、ペンネームだ。本名に一文字足したんだ」
「まさかミステリーだったとは」
「意外?」
「ええ。あなた虫も殺せなさそうですから」
 とつれなく言われた。この冷たさがたまらない。はは、と寧は笑う。
 遠城寧志――もとい、遠城寧は、ミステリー小説家だ。デビューしたてのころは暇で仕方がなかったが、最近はありがたいことに忙しくなりはじめている。デビュー十五周年ということで、出版社がフェアを組んでくれたのだ。シリーズ作品が多いから、そこそこに巻数も出ている。
 静可は文庫本の帯文を見て、裏のあらすじを読んで、「面白そうですね」と心にもなさそうに呟いた。寧は「面白いはずだよ」と答える。
「はず、とは」
「面白いと思うかどうかは、その人の感性だからさ。山田さんが面白いと思っても、鈴木さんにはつまらないかもしれない。佐藤さんには難しく感じたり、小林さんに至ってはミステリーなんか対象外かもしれないし。そういう世界だよ」
「危うげなものの上に成り立っているんですね」
「エンターテイメントだからね。生活必需かと聞かれれば、そうじゃない」
「ですが、そう言ってしまえば私の仕事もそうです」
「ああ、そうだね。リゾートホテルは、パラダイスで、アトラクションだ。日常を忘れるための」
 静可はしばらく文庫本を眺めていたが、「シリーズ最高潮!」と帯に書かれた文庫だけを取って、レジへ持って行った。
「それ、シリーズの途中だけど」
「なんでもいいです。面白ければ、後で揃えます」
「試し読みしたいなら、いくらでもあげるのに」
「この場合、私の給料で購入してあなたには印税が入る、それが重要です」
「そっか、ありがとう」
 本屋を出ると、途端に熱風に包まれた。直射日光は標高千五百メートルの方が強いと感じたが、アスファルトからの照り返し、ビルからの照り返し、日陰のなさ。加えて湿気。普段、寧と静可が暮らす高原のリゾートホテルはよっぽど気候がいいんだな、と分かる。街の方が気候が極端とは、なんだかわけが分からなくなる。
「この後どうする? あまり街中は歩いていたくないね」と寧は言ったが、静可は「いえ、そうでもないですよ」と涼しい顔で言った。本当に涼しい顔をしている。彼の周囲だけ冷涼な空気が漂っていそうだ。一体どういうことだ。
「久しぶりに夏の街に出ました。少し、歩きたいです」
「……殺人級だから、三十分、いや、十五分だけにしよう」
 屋外での活動は危険です、とニュースで言っていた。午後二時現在、駅前の温度計は三十七度、体温を超えて発熱状態だ。
「帰りの電車は十五時台に乗れば最終バスに間に合うよね」
「ええ」
「じゃあ、さくっと散策して少し買い物してから、帰ろう」
 そう提案すると、静可はなにも言わずに頷いた。


 ◇


 はじめて静可と出会ったときの衝撃を、なんと語ったらいいだろう。
 寧の母は、水商売の女だった。頭の回転の速い美人だったので、高級クラブのホステスとして人気があったらしい。彼女を愛人として囲ったのが、寧の父だ。幼いころは、けっこう可愛がってもらえた。本妻とのあいだには女の子ばかりだと聞いている。男の寧がそういう意味では珍しかったのだろう。
 寧が大きくなるにしたがって、父とは疎遠になった。リゾートホテルのオーナーである、という話は聞いていたが、訪れたことはなかった。「ホテルになんか行ってごらんなさいよ、あいつのお手付きばっかりだから」と母は言った。「しかもあの男がいまいちばん夢中になってるのは、男だから。ホテル自慢のバーテンダーよ」
 それが静可のことだった。その数年後、父に呼ばれてリゾートホテルを訪れた。夏休みをここで過ごせ、という。そのころには父の寵愛から外れていたはずの静可が、世話係になった。
 寧十五歳、静可が三十歳だ。痩せ型の静可に、ホテルの制服はぴったりと似合った。真っ直ぐな背筋ですっすとコンパスをまわすように歩いてゆく。人が大勢いるのに、誰にもぶつからないのが不思議だった。見惚れてしまった。
 それを静可は気付いただろう。実に蠱惑的な微笑みを浮かべて、「ようこそ」と言ったのだ。寧には「楽園へようこそ」とも聞こえた。
 それ以来、寧は夏場を必ず父のリゾートホテルで過ごした。静可の傍にいたいがためだ。学生時代も、作家としてデビューしてからも、ずっと。
 それが二十年以上も続いて、今年ようやく彼とリゾートホテル以外の場所で会っている。
 ただバスに揺られ、電車に乗り、食事をして、本屋に寄っただけだ。それでも寧は、静可と共に歩ける喜びを感じずにはいられない。


→ 後編




拍手[28回]

 ◇


 同僚の中には、休日には山に登る、という人種がいる。街へくだるより山へ登る方が近いし、気持ちがよいという。静可はそういう人間の気が知れない。山を美しいと感じたことはない。こんなに迫っている山を、うっとりと眺めて「綺麗だ」なんて言えなかった。
 ただ静可は、街にいたら街に溺れてしまうと思ったから、ここにいるだけだ。自分を戒めるためにここにいる。それに、山が好きだからここで働いている、という人間でも、街が恋しくなって一年足らずで辞めていくというのは少なくない。だから「山が綺麗で」という人間を、あまり信用していない。
 ただ、ここの湖は気に入っている。
 ホテル周辺にはいくつか湖が存在する。従業員寮の裏口からそっと抜けて、休日、静可は湖岸を歩いた。岸の際、靴が水に浸る限界を歩く。湖はただただ静かだ。この世界にひとりだけでいるような気さえしてくる。
 立ち止まり、湖を覗き込む。ずいぶんと歳を取った顔が映される。静可の心はいつだってすぐ三十数年前に戻るのに、白髪もない、しわもない、オーナーに寵愛されていたころに戻るのに、年齢は立ち止まらない。
 いつまでこういう気持ちのまま、つまり気だけは若いまま年老いて死ぬのだろうか。
 静可はその名の通り静かに暮らしたいだけなのに、それを願う心はもうひとりの自分が粉砕する。不安、欲望、願い。歳を取ると穏やかになると思っていたのに、そうではなかった。
 八月の湖でも、水温は冷たい。山には部分的でも雪が残る。融けきらないまま夏を超えてしまう。いま足をこの水に浸したら、心臓まで凍えると思う。
 そうやってこの白い火が鎮められないかとふと考えた。一歩湖面に近付く。靴が浸かる。もう一歩進む。また一歩。
 もう一歩。
 不意にぐいと腕を引かれ、静可は誰かの腕の中に収まった。「びっくりした」と頭上で声がする。それはもう二十何年も聞きなれた、寧の声だった。
「――なにやってんの、」
 入水、とは答えなかった。寧がここぞとばかりに頬を寄せる。よっぽど驚いたらしかった。心臓が走っているのが聞こえる。
 人の体温が恋しい、という事実が、白い火が、身の内にひたひたと迫る。
「僕がもし通らなかったら、あなたはなにをしていたの、」
「私と一緒に死ねますか、あなた」
 静可の台詞に寧は身体をわずかに離し、真正面から表情を捉えた。
「私は強欲なので、百かゼロか、なんです。すべてをくれないなら、いりません。寧さん、だいぶ長いこと、恋煩いの様子ですが」
 つ、と寧の胸に指先を当てる。
「私に百くださいますか?」
「……難しい質問だね」
 寧は困った顔で、とりあえず湖から静可を離した。岸へ上がると、静可を座らせる。自分も隣へ座りこんだ。静可が逃げると思っているらしい。手をしっかりと繋がれた。
「死にたいの、静可さん」
 その質問に、静可は少し考える。それから「分かりません」と答えた。
「強欲な自分に嫌気が差しているだけです」
「僕も欲深い男だから、あなたに百はあげられない。せいぜい、五十だな」
「ひどい」
「……そんな顔で言わないでよ」
 繋いでいる手で、叱るようにして手の力を込めてくる。静可はそっと隣の男の肩に頭をもたせた。寧はため息を吐くばかりで、抵抗はしなかった。
「もっと若かったころなら、平気であなたに百あげる、って言ってた。でも僕だって年取ったんだ。色々背負ったし、引き受けてしまった。――今日は甘えてくるね、あなた。いままでちっともなびかなかったくせに」
「寒いんですよ」
「八月なのにね。僕も寒い」
 水に浸かったからであり、夕方になって山から涼しい風が吹き下ろすせいでもある。寧はシャツ一枚で、それは静可も同じだった。
「大体、あなたは痩せすぎなんだ。少し前に、穣太郎が言っていたよ。痩せすぎは料理人の敵だって。ちゃんと食べてる?」
「食が細いながらに、食べているので大丈夫です。……ああ、そういえばあなたは、はじめて会った時も眉をしかめましたね。細いね、と言って」
「あれはびっくりしたんだよ。こんな綺麗な人が、……山にはいるもんだ、と思って」
 寧は薄く笑った。遠い昔を懐かしんでいる。
「あの時からあなたがずっと好きだ」
「父親のつかい古した愛人を拾おうなんて、あなたもどうかしている」
 そう言うと、寧はとても悲しい瞳で静可を見た。
「違う。僕は僕の意思で、あなたが好きなだけだ」
「冷えて来たのでもう戻ります」
「待って、」
「人がいるので、……あなたも部屋へお戻りなさい」
 静可は立ちあがり、従業員寮への道を戻る。寧は追いかけては来なかった。


 ◇


 その後しばらく、寧の姿を見なかった。部屋にこもりっきりで執筆活動でもしているのだろうか、と想像したが、違ったらしい。同僚の若いウエイターから寧は部屋を引き払った、と聞かされた。
「チェックアウト?」
「ええ、三日前に。いつもならシーズンまるまるいらっしゃるのにね。それにしてもあの方、本当に小説家なんですかね。何者なんでしょうねえ」
「……さあ」
 静可はいよいよ見限られたのだと思った。これでよい。十五歳のころから変わらぬ想いなど、あり得ない。諦めをつけて街へ下りたのなら、それが正しい、とさえ思った。
 八月の街はさぞ蒸し暑いだろう。静可にはもう何十年も訪れていない感覚だ。懐かしささえ忘れて、思い出せない。
 ああひとりだ、と静可は思う。これで死ぬまでひとりきりだ。
 安穏に暮らすだけ。


 ◇


 だから二週間ほど経って、真っ黒に日焼けした寧が従業員寮を訪ねてきたときには、本当にびっくりしたのだ。静可は休みで、寮の自室で本を読んでいたところに、来客を告げられた。「部屋に入れて」と乞われ、玄関で押し問答している訳にもゆかなかったので、仕方なく部屋に通した。
「――すごい、本だらけだね」
「ええ、本が好きなんです。よく私が休みだと分かりましたね」
「狙って下山したからね」
「え? 下山?」
「僕、穣太郎のところにいたの。二週間山小屋暮らし。すごいね、極端、ってああいう場所のことを言うね。白いコマクサを見たよ」
 てっきり街へ下ったのだと思っていたから、まさか山を上がっていただなんて想像外だった。寧は決してアウトドア派ではない。山道を淡々と進める筋力を持つようには見えなかった。ヘビースモーカーでもある。心肺機能も優秀とは言えないだろう。
 だが真っ黒に日焼けしていれば、説得力があった。
「ずっと考えてたんだ、あなたのことを。好きだと言えば逃げるくせに、ひらひら躱すくせに、百欲しい、って言う。訳分かんないよ、って穣太郎に愚痴ったら、惚れた相手にはラブレターでも書くもんだ、ととんちんかんなことを言われた」
 きっと穣太郎は忙しかったのだ。寧に構っている間はなかったのだろうと静可は思った。
「まあでも、確かに僕、あなたにそういうアプローチしたことないやと思って、書いたよ。書きはじめたら筆がのっちゃって、原稿用紙五十枚ぐらいになった。出会いの衝撃からばか丁寧に書いたからね。でもきっと――ここにある本と同じぐらい、あなたは夢中になるよ」
「自信作ですか?」
「出版社の担当に見せたいぐらい。ねえ、読んで」
 そう言って、寧は鞄から原稿用紙の束を取り出した。五十枚、という厚みが寧からのただならぬ愛情をまざまざと伝えてくる。静可はほっとしてしまった。良かった、寧は自分から心を離したりはしなかった。
「親愛なるあなたへ」という書き出しだった。ベッドに腰掛け、静可はそれを読む。窓に背を預けた寧は、ただ黙って見ている。


『親愛なるあなたへ。


 親愛なるあなたへ。
 親愛なるあなたへ。
 あなたが愛おしくてたまらない。
 あなたに分かるだろうか。伝わるだろうか。
 この心音の速さを、発火しそうな体温を。』


 びっしりと書きつづられた愛のメッセージは、寧の「百」だと思った。百の力で、寧はこれを書いた。望むものは与えられたのだ。せいぜい五十と言っていたくせに――静可の中で白い火に酸素が送り込まれ、それは大きな炎となった。
 一生、このままで生きていくのだろう。人の生来の気質は、そうそう変えられない。
 静可はちいさく「困ったね、これは」と言った。
「私はただ、静かに穏やかに暮らしていきたいだけなんですよ、寧さん」
「うん」
「だからこういうのは、……困りました」
 原稿用紙で顔を隠して、静可は震える。涙が出てきた。寧が「嬉しいの? 悲しいの?」と困りながら訊く。静可にだってどちらなのかよく分からないでいる。
「もし少しでも僕が好きなら、あなたから、お願いだよどうか――来て」
 と寧は腕を広げた。背後の窓の向こうは、森林だ。緑が鮮やかで、静可は目を細める。
 寧の腕の中に飛び込むと、きゅっと強く抱きしめられた。煙草と寧の体臭が混じったにおいがした。
「ようやく捕まえた」
「ただ淋しいだけかもしれませんよ。温い身体が、恋しいだけ」
「それでもいいよ」
「一生そうかもしれませんよ」
「うん、いいよ」
 寧はそっと静可の後頭部に手をまわし、こめかみに唇を寄せた。ふ、と息を吹きかけ、またそこにキスをする。
「今度の休日は街へ下りよう」
 と寧は甘ったるい声で提案した。
「本屋へ行こう。知ってる? 本屋にはちゃんと僕の棚があるんだからね?」
「……本当に小説家だったんですね」
「そうさ。ただ能天気にホテル暮らししながらパソコン叩いているだけじゃないのさ」
 だから街へ下りて、本屋へ行こう、と寧は言った。
 それもいいかもしれないな、と静可は思った。八月の、夏の、久々の街へ行く。


End.


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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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