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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 ◇


 同僚の中には、休日には山に登る、という人種がいる。街へくだるより山へ登る方が近いし、気持ちがよいという。静可はそういう人間の気が知れない。山を美しいと感じたことはない。こんなに迫っている山を、うっとりと眺めて「綺麗だ」なんて言えなかった。
 ただ静可は、街にいたら街に溺れてしまうと思ったから、ここにいるだけだ。自分を戒めるためにここにいる。それに、山が好きだからここで働いている、という人間でも、街が恋しくなって一年足らずで辞めていくというのは少なくない。だから「山が綺麗で」という人間を、あまり信用していない。
 ただ、ここの湖は気に入っている。
 ホテル周辺にはいくつか湖が存在する。従業員寮の裏口からそっと抜けて、休日、静可は湖岸を歩いた。岸の際、靴が水に浸る限界を歩く。湖はただただ静かだ。この世界にひとりだけでいるような気さえしてくる。
 立ち止まり、湖を覗き込む。ずいぶんと歳を取った顔が映される。静可の心はいつだってすぐ三十数年前に戻るのに、白髪もない、しわもない、オーナーに寵愛されていたころに戻るのに、年齢は立ち止まらない。
 いつまでこういう気持ちのまま、つまり気だけは若いまま年老いて死ぬのだろうか。
 静可はその名の通り静かに暮らしたいだけなのに、それを願う心はもうひとりの自分が粉砕する。不安、欲望、願い。歳を取ると穏やかになると思っていたのに、そうではなかった。
 八月の湖でも、水温は冷たい。山には部分的でも雪が残る。融けきらないまま夏を超えてしまう。いま足をこの水に浸したら、心臓まで凍えると思う。
 そうやってこの白い火が鎮められないかとふと考えた。一歩湖面に近付く。靴が浸かる。もう一歩進む。また一歩。
 もう一歩。
 不意にぐいと腕を引かれ、静可は誰かの腕の中に収まった。「びっくりした」と頭上で声がする。それはもう二十何年も聞きなれた、寧の声だった。
「――なにやってんの、」
 入水、とは答えなかった。寧がここぞとばかりに頬を寄せる。よっぽど驚いたらしかった。心臓が走っているのが聞こえる。
 人の体温が恋しい、という事実が、白い火が、身の内にひたひたと迫る。
「僕がもし通らなかったら、あなたはなにをしていたの、」
「私と一緒に死ねますか、あなた」
 静可の台詞に寧は身体をわずかに離し、真正面から表情を捉えた。
「私は強欲なので、百かゼロか、なんです。すべてをくれないなら、いりません。寧さん、だいぶ長いこと、恋煩いの様子ですが」
 つ、と寧の胸に指先を当てる。
「私に百くださいますか?」
「……難しい質問だね」
 寧は困った顔で、とりあえず湖から静可を離した。岸へ上がると、静可を座らせる。自分も隣へ座りこんだ。静可が逃げると思っているらしい。手をしっかりと繋がれた。
「死にたいの、静可さん」
 その質問に、静可は少し考える。それから「分かりません」と答えた。
「強欲な自分に嫌気が差しているだけです」
「僕も欲深い男だから、あなたに百はあげられない。せいぜい、五十だな」
「ひどい」
「……そんな顔で言わないでよ」
 繋いでいる手で、叱るようにして手の力を込めてくる。静可はそっと隣の男の肩に頭をもたせた。寧はため息を吐くばかりで、抵抗はしなかった。
「もっと若かったころなら、平気であなたに百あげる、って言ってた。でも僕だって年取ったんだ。色々背負ったし、引き受けてしまった。――今日は甘えてくるね、あなた。いままでちっともなびかなかったくせに」
「寒いんですよ」
「八月なのにね。僕も寒い」
 水に浸かったからであり、夕方になって山から涼しい風が吹き下ろすせいでもある。寧はシャツ一枚で、それは静可も同じだった。
「大体、あなたは痩せすぎなんだ。少し前に、穣太郎が言っていたよ。痩せすぎは料理人の敵だって。ちゃんと食べてる?」
「食が細いながらに、食べているので大丈夫です。……ああ、そういえばあなたは、はじめて会った時も眉をしかめましたね。細いね、と言って」
「あれはびっくりしたんだよ。こんな綺麗な人が、……山にはいるもんだ、と思って」
 寧は薄く笑った。遠い昔を懐かしんでいる。
「あの時からあなたがずっと好きだ」
「父親のつかい古した愛人を拾おうなんて、あなたもどうかしている」
 そう言うと、寧はとても悲しい瞳で静可を見た。
「違う。僕は僕の意思で、あなたが好きなだけだ」
「冷えて来たのでもう戻ります」
「待って、」
「人がいるので、……あなたも部屋へお戻りなさい」
 静可は立ちあがり、従業員寮への道を戻る。寧は追いかけては来なかった。


 ◇


 その後しばらく、寧の姿を見なかった。部屋にこもりっきりで執筆活動でもしているのだろうか、と想像したが、違ったらしい。同僚の若いウエイターから寧は部屋を引き払った、と聞かされた。
「チェックアウト?」
「ええ、三日前に。いつもならシーズンまるまるいらっしゃるのにね。それにしてもあの方、本当に小説家なんですかね。何者なんでしょうねえ」
「……さあ」
 静可はいよいよ見限られたのだと思った。これでよい。十五歳のころから変わらぬ想いなど、あり得ない。諦めをつけて街へ下りたのなら、それが正しい、とさえ思った。
 八月の街はさぞ蒸し暑いだろう。静可にはもう何十年も訪れていない感覚だ。懐かしささえ忘れて、思い出せない。
 ああひとりだ、と静可は思う。これで死ぬまでひとりきりだ。
 安穏に暮らすだけ。


 ◇


 だから二週間ほど経って、真っ黒に日焼けした寧が従業員寮を訪ねてきたときには、本当にびっくりしたのだ。静可は休みで、寮の自室で本を読んでいたところに、来客を告げられた。「部屋に入れて」と乞われ、玄関で押し問答している訳にもゆかなかったので、仕方なく部屋に通した。
「――すごい、本だらけだね」
「ええ、本が好きなんです。よく私が休みだと分かりましたね」
「狙って下山したからね」
「え? 下山?」
「僕、穣太郎のところにいたの。二週間山小屋暮らし。すごいね、極端、ってああいう場所のことを言うね。白いコマクサを見たよ」
 てっきり街へ下ったのだと思っていたから、まさか山を上がっていただなんて想像外だった。寧は決してアウトドア派ではない。山道を淡々と進める筋力を持つようには見えなかった。ヘビースモーカーでもある。心肺機能も優秀とは言えないだろう。
 だが真っ黒に日焼けしていれば、説得力があった。
「ずっと考えてたんだ、あなたのことを。好きだと言えば逃げるくせに、ひらひら躱すくせに、百欲しい、って言う。訳分かんないよ、って穣太郎に愚痴ったら、惚れた相手にはラブレターでも書くもんだ、ととんちんかんなことを言われた」
 きっと穣太郎は忙しかったのだ。寧に構っている間はなかったのだろうと静可は思った。
「まあでも、確かに僕、あなたにそういうアプローチしたことないやと思って、書いたよ。書きはじめたら筆がのっちゃって、原稿用紙五十枚ぐらいになった。出会いの衝撃からばか丁寧に書いたからね。でもきっと――ここにある本と同じぐらい、あなたは夢中になるよ」
「自信作ですか?」
「出版社の担当に見せたいぐらい。ねえ、読んで」
 そう言って、寧は鞄から原稿用紙の束を取り出した。五十枚、という厚みが寧からのただならぬ愛情をまざまざと伝えてくる。静可はほっとしてしまった。良かった、寧は自分から心を離したりはしなかった。
「親愛なるあなたへ」という書き出しだった。ベッドに腰掛け、静可はそれを読む。窓に背を預けた寧は、ただ黙って見ている。


『親愛なるあなたへ。


 親愛なるあなたへ。
 親愛なるあなたへ。
 あなたが愛おしくてたまらない。
 あなたに分かるだろうか。伝わるだろうか。
 この心音の速さを、発火しそうな体温を。』


 びっしりと書きつづられた愛のメッセージは、寧の「百」だと思った。百の力で、寧はこれを書いた。望むものは与えられたのだ。せいぜい五十と言っていたくせに――静可の中で白い火に酸素が送り込まれ、それは大きな炎となった。
 一生、このままで生きていくのだろう。人の生来の気質は、そうそう変えられない。
 静可はちいさく「困ったね、これは」と言った。
「私はただ、静かに穏やかに暮らしていきたいだけなんですよ、寧さん」
「うん」
「だからこういうのは、……困りました」
 原稿用紙で顔を隠して、静可は震える。涙が出てきた。寧が「嬉しいの? 悲しいの?」と困りながら訊く。静可にだってどちらなのかよく分からないでいる。
「もし少しでも僕が好きなら、あなたから、お願いだよどうか――来て」
 と寧は腕を広げた。背後の窓の向こうは、森林だ。緑が鮮やかで、静可は目を細める。
 寧の腕の中に飛び込むと、きゅっと強く抱きしめられた。煙草と寧の体臭が混じったにおいがした。
「ようやく捕まえた」
「ただ淋しいだけかもしれませんよ。温い身体が、恋しいだけ」
「それでもいいよ」
「一生そうかもしれませんよ」
「うん、いいよ」
 寧はそっと静可の後頭部に手をまわし、こめかみに唇を寄せた。ふ、と息を吹きかけ、またそこにキスをする。
「今度の休日は街へ下りよう」
 と寧は甘ったるい声で提案した。
「本屋へ行こう。知ってる? 本屋にはちゃんと僕の棚があるんだからね?」
「……本当に小説家だったんですね」
「そうさ。ただ能天気にホテル暮らししながらパソコン叩いているだけじゃないのさ」
 だから街へ下りて、本屋へ行こう、と寧は言った。
 それもいいかもしれないな、と静可は思った。八月の、夏の、久々の街へ行く。


End.


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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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