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寧(やすし)が吸い残した煙草が、ゆっくりと煙をあげている。
先ほどまで寧は、ティーラウンジにいた。テーブルをひとつ取り、咥え煙草でノートパソコンを広げて熱心にキーボードを叩いていたが、急に電話が鳴って、慌てて灰皿に煙草を放った。そのままノートパソコンと共に消えてしまったのだ。煙草はまだ長い。その少し撚れた吸い口を見て、静可(しずか)はそこに口をつける自分を想像する。無論、行動には移さない。勤務中であるし、静可は喫煙者でもない。
煙草を手に取って、灰皿に押し付けて潰した。そしてテーブルを片しはじめる。
いつでも心に白い火が燃え盛っているのを感じている。
◇
寧が小説家であるという話は、本当なのだろうか。寧がこのホテルのオーナーの息子であることは、紛れもない事実だ。オーナーに数いる愛人の息子だ。そのことを、ここのホテルの人間はほぼ知らない。知っているのは支配人と自分ぐらいだ、と静可は考えている。
なぜ静可がその事実を知っているかといえば、かつて自分も、オーナーに数いる愛人のひとりであったからだ。オーナーは節操のない男だった。男でも女でも容赦なくばりばりと喰う、実に欲の深い男だった。
静可と寧は、歳が十五歳ほど違う。はじめてふたりが出会ったとき、寧はまだ十五歳で、華奢な手足を持つ少年だった。オーナーの招待でその年はじめてひとりでこの山奥のリゾートホテルに訪れた。夏休みだった。可愛がってくれよ、とオーナーは静可だけに言った。このホテルでオーナーのお手付きの者は数多くいたはずであり、そのころにはオーナーは静可の元へあまり来なかったから、久々に特別扱いされたみたいで、静可は嬉しかった。
かつて静可は、バーテンダーとしてこのホテルに就職したのだったが、年齢があがっていつの間にかティーラウンジ勤務となった。酒を作るのもコーヒーを淹れるのも静可は大差ないと思っていたから、別にそれでよい。面倒な役職になるのだけは御免だったので、その辺はきつくオーナーに頼んで、望んだ通り出世からは外れたコースを辿っている。会社員だったら、窓際族、といったポジションだろうか。
オーナーとはもう十何年も縁が切れているが、だからと言って嫌われているわけではないようで、世間から猛烈に離された山奥ではあるが、ちゃんと働かせてもらっている。それだけでもう充分だ。おそらく定年まで勤められるだろう。
これは静可の望んだ人生のはずで、しかし寧を見ると、白い火が宿る。
こういう自分のことを、強欲、というのだろう。オーナーのことを他人事のようには笑えない。
◇
小一時間ほど経って、寧が戻ってきた。
「あれ、片付けた?」と訊く。
「煙草、火がついてなかった?」
「とっくに消しましたよ。気をつけてください」
「本当だよね。……明日、休み?」
それは質問のようで、実は確認である。寧はとうに静可のシフトを把握している。
「休みですから、ゆっくり眠って、起きたら読書をしている予定です」
「うーん、湖辺を散歩しない?」
「休みですから、目立つところに出たくはありませんね」
辺鄙なところにあるホテルで、周辺には川と、湖と、宿屋と宿屋にくっつく温泉と土産物屋しかない。どこどこホテルの従業員が湖辺を客と散歩していただの、すぐに知れ渡る。
「じゃあ街へ出るとか」
「興味ございません」
「本屋へ行こうよ」
「本ならば、通販で届きます」
そう、こんな辺鄙な場所でも、郵便屋は来るし宅配便も届くのだ。寧の友人が勤めるあまりにも辺鄙すぎる山荘ならばさすがに無理だが、この辺は車が入れるので、あまり困らない。もっとも、静可がこのホテルで働きだした三十数年前は、無理だった。
かつて十五歳だった少年が円熟し、いまでは髪に白いものが混じるぐらいに、時が経った。時代は変わる。自分は取り残されることを望んでおいて、中途半端に、現代を生きている。いっそ標高三千メートルの山小屋暮らしに切り替えたら、この白い火は治まるのだろうか。
寧の気持ちは知っている。はじめて会ったときに、寧を虜にしてしまったという自覚があった。あのころからずっと変わらぬ想い、というのもすごい。歳を取れば自然と見向きされなくなると思っていたのに、寧は相変わらず静可に熱のある視線を向ける。
知っていながら、寧の誘いに応じるようなことはしなかった。一切。
なぜなのか、よく分からない。寧の前ではクリーンでいたかったのかもしれない。自分ほど爛れた人間はいないと思うのに、よく見せたい。
寧は納得しかねる、という顔でしばらくその場にいたが、やがて諦めをつけて、「じゃあまた明後日」と言って自室へ引き上げた。
→ 後編
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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