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本屋の棚、著者名に「遠城寧志」(えんじょう やすし)とつく本の数々を見て、本田静可(ほんだ しずか)は「あなた志してましたっけ」と呟いた。寧(やすし)は隣で首をひねる。
「この、志がつくのが本名でしたか?」
「いや、ペンネームだ。本名に一文字足したんだ」
「まさかミステリーだったとは」
「意外?」
「ええ。あなた虫も殺せなさそうですから」
とつれなく言われた。この冷たさがたまらない。はは、と寧は笑う。
遠城寧志――もとい、遠城寧は、ミステリー小説家だ。デビューしたてのころは暇で仕方がなかったが、最近はありがたいことに忙しくなりはじめている。デビュー十五周年ということで、出版社がフェアを組んでくれたのだ。シリーズ作品が多いから、そこそこに巻数も出ている。
静可は文庫本の帯文を見て、裏のあらすじを読んで、「面白そうですね」と心にもなさそうに呟いた。寧は「面白いはずだよ」と答える。
「はず、とは」
「面白いと思うかどうかは、その人の感性だからさ。山田さんが面白いと思っても、鈴木さんにはつまらないかもしれない。佐藤さんには難しく感じたり、小林さんに至ってはミステリーなんか対象外かもしれないし。そういう世界だよ」
「危うげなものの上に成り立っているんですね」
「エンターテイメントだからね。生活必需かと聞かれれば、そうじゃない」
「ですが、そう言ってしまえば私の仕事もそうです」
「ああ、そうだね。リゾートホテルは、パラダイスで、アトラクションだ。日常を忘れるための」
静可はしばらく文庫本を眺めていたが、「シリーズ最高潮!」と帯に書かれた文庫だけを取って、レジへ持って行った。
「それ、シリーズの途中だけど」
「なんでもいいです。面白ければ、後で揃えます」
「試し読みしたいなら、いくらでもあげるのに」
「この場合、私の給料で購入してあなたには印税が入る、それが重要です」
「そっか、ありがとう」
本屋を出ると、途端に熱風に包まれた。直射日光は標高千五百メートルの方が強いと感じたが、アスファルトからの照り返し、ビルからの照り返し、日陰のなさ。加えて湿気。普段、寧と静可が暮らす高原のリゾートホテルはよっぽど気候がいいんだな、と分かる。街の方が気候が極端とは、なんだかわけが分からなくなる。
「この後どうする? あまり街中は歩いていたくないね」と寧は言ったが、静可は「いえ、そうでもないですよ」と涼しい顔で言った。本当に涼しい顔をしている。彼の周囲だけ冷涼な空気が漂っていそうだ。一体どういうことだ。
「久しぶりに夏の街に出ました。少し、歩きたいです」
「……殺人級だから、三十分、いや、十五分だけにしよう」
屋外での活動は危険です、とニュースで言っていた。午後二時現在、駅前の温度計は三十七度、体温を超えて発熱状態だ。
「帰りの電車は十五時台に乗れば最終バスに間に合うよね」
「ええ」
「じゃあ、さくっと散策して少し買い物してから、帰ろう」
そう提案すると、静可はなにも言わずに頷いた。
◇
はじめて静可と出会ったときの衝撃を、なんと語ったらいいだろう。
寧の母は、水商売の女だった。頭の回転の速い美人だったので、高級クラブのホステスとして人気があったらしい。彼女を愛人として囲ったのが、寧の父だ。幼いころは、けっこう可愛がってもらえた。本妻とのあいだには女の子ばかりだと聞いている。男の寧がそういう意味では珍しかったのだろう。
寧が大きくなるにしたがって、父とは疎遠になった。リゾートホテルのオーナーである、という話は聞いていたが、訪れたことはなかった。「ホテルになんか行ってごらんなさいよ、あいつのお手付きばっかりだから」と母は言った。「しかもあの男がいまいちばん夢中になってるのは、男だから。ホテル自慢のバーテンダーよ」
それが静可のことだった。その数年後、父に呼ばれてリゾートホテルを訪れた。夏休みをここで過ごせ、という。そのころには父の寵愛から外れていたはずの静可が、世話係になった。
寧十五歳、静可が三十歳だ。痩せ型の静可に、ホテルの制服はぴったりと似合った。真っ直ぐな背筋ですっすとコンパスをまわすように歩いてゆく。人が大勢いるのに、誰にもぶつからないのが不思議だった。見惚れてしまった。
それを静可は気付いただろう。実に蠱惑的な微笑みを浮かべて、「ようこそ」と言ったのだ。寧には「楽園へようこそ」とも聞こえた。
それ以来、寧は夏場を必ず父のリゾートホテルで過ごした。静可の傍にいたいがためだ。学生時代も、作家としてデビューしてからも、ずっと。
それが二十年以上も続いて、今年ようやく彼とリゾートホテル以外の場所で会っている。
ただバスに揺られ、電車に乗り、食事をして、本屋に寄っただけだ。それでも寧は、静可と共に歩ける喜びを感じずにはいられない。
→ 後編
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