忍者ブログ
ADMIN]  [WRITE
成人女性を対象とした自作小説を置いています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 三つのカップをトレイに乗せ、三人でテレビを観ているはずのホールへ向かう。入り口にケントが身を隠すようにして佇んでいたので足を止めた。暖を見るとケントは唇に指を当てる。
「どうしました?」とささやき声で訊かれた。
「さっさと寝てくれないと困るんで、さっさと眠れるものをと思って。ホットミルクと、大人にはジンジャーミルク」
「ありがとうございます。ロンのやつ、僕には出て行け出て行けと聞かなくて」
「見張りも大変ですね」
 暖からカップを受け取り、ケントは温かな飲み物を口にした。
 DVDは流しているものの、音量をちいさく絞って論と鴇田はお喋りをしていた。中に入って論に嫌な顔でもさせたらまた寝そびさせる気もする。ケントに持っていってもらおうと頼もうかとも考えたが、鴇田と論の会話をケントと同じく盗み聞きすることにした。
 暖は鴇田が飲むはずだったジンジャーミルクを口にする。
 ――それで、トーミとイタミのおじちゃんと一緒に探したピアノがお店の?
 ――うん。春原さんて人にすごくお世話になったんだ。
 ――大きくならないと行っちゃいけないってマムに言われるんだ。だからイタミのおじちゃんのお店のピアノってよく知らない。でもおれも弾いてみたいな。
 ――もっと大きくなったらいくらでもね。
 ――トーミも一緒に弾こ? おれもっと上手くなるよ!
 と論は張り切って言ったが、鴇田は控えめに笑った。
 ――論はもっと上手くなる。それは間違いがないよ。でも僕以外のたくさんの、いろんな人と音楽を楽しめるよ。僕はひとりでいいから、いまのままでいい。
 ――どうして?
 ――僕にとっての楽器はあの店のあのピアノだけでいいんだ。紗羽やケントとセッションするのも楽しいんだけど、それ以上はいい。あんまりたくさんを必要としてないんだ。
 ――どうして?
 重なる問いかけに鴇田はしばらく考える。
 ――論は果物ならなにが好き?
 ――おれはオレンジ!
 ――いいね、オレンジ。好きならたくさん食べたいと思うだろう? 紗羽に一個だけだよって言われても、ふたつ食べたいと思わない?
 ――マムが出してくれるオレンジはいつも半分だよ。ダドは一個くれるけど、内緒だよって。
 ――うん。好きなら本当はもっと食べたいよね。でも僕の場合はたったひとつの、僕だけのオレンジ、それで充分なんだ。
 ――どうして?
 ――ものすごく欲張りだから。
 ――ヨクバリ? 一個しかほしくないのに?
 ――うん。僕だけのための、僕だけが味わっていいたった一個を、噛み締めて噛み締めて、味わいたいんだ。それ一個で充分。僕にとってピアノはそういうもので、あの店のあれだけでいいんだ。
 ――トーミの話むつかしい……ピアノの話?
 ――ピアノの話だよ。そうだね、難しいね。
 ――……オレンジは終わっちゃうよ? ピアノはなくならないよ?
 ――ピアノも終わるときが来るんだ。終わったら僕の分はそれでおしまいだから。終わっちゃったなあって惜しみながら、でももうオレンジは食べない。りんごも、バナナも、他の果物だって食べない。
 ――……。
 ――本当は僕のオレンジはとっくに終わってしまったんだけど、伊丹さんがひとつだけ特別に用意してくれたんだ。いまはそれを弾いてる。あのピアノが鳴らなくなったら、それ以上を探すことを僕はしないと思う。
 次第にぬるくなって来たミルクを暖は口にする。ホールでのお喋りは途切れつつあった。けれど少年はまだ疑問を口にした。
 ――トーミ、ピアノすき?
 ――大好きだ。
 ――トーミは、……ダンがすき?
 ――シンプルでストレートな言葉ではなかなかうまく表せないね。
 ――……ダンもトーミにはたったひとつのオレンジなの?
 暖はゆっくりと目を開けた。カップに半分ほど残ったミルクが、膜を作っている。
 ――そうだよ。
 ――どうして? マムとダドは楽器を弾けるから仲良くなったって言ってたよ。でもあいつは弾けない。なんにも弾けないよ。
 ――論がオレンジを好きなことに理由があるのかな。
 ――……。
 ――オレンジの酸っぱさが好きだとか、ジューシーなところとか、においとか、色々あるけど、ものすごく硬くて苦い実でも僕にはそれが美味しくて好きだから、そのオレンジしか食べたくないんだ。
 ――ダドとマムによくトーミには触っちゃだめって言われる。ニナにもだめって言われるんだ。
 ――うん。そうしてもらってる。
 ――ダンは触れるの? ダンだけなの? トーミには、ダンだけ?
 その質問に、鴇田は間を置くことなくはっきりと「うん」と答えた。
 ――僕だけが食べていいたった一個のオレンジなんだ。それしか食べたくないし、それ以外もいらない。
 ――う……、
 と、少年は黙り、泣きはじめた。ケントがウインクをして、「ごちそうさまでした」と言ってカップをトレイに載せる。
「論、トーミたちは帰る時間なんだ。お別れを言って。もう休もう」
 そう言ってホールにいる息子の元へ寄る。おやすみなさいも言えないぐらいに論は泣いた。だがその泣きじゃくり方には眠りが傍にいる、特有の甘えた響きだ。ケントがあやしてちいさく歌をうたう。それと入れ替わりに鴇田もホールから出て来た。
 入り口に立っていた暖に驚きつつ、鴇田は微笑んだ。
「ミルクを持って来たんだけど、冷めちゃった」
「いい。飲むよ」
「おれたちも帰ろうか」
「うん」
 紗羽に頼んでタクシーを呼んでもらった。


← 5

→ 7


拍手[7回]

PR

 眠いと子どもたちがぐずりはじめたことで会はいったんの終幕を迎えた。樋口夫妻が子どもらを風呂に入れて寝る支度をしているあいだに、残った大人のメンバーで片付けと掃除をする。パーティ用に食器類は紙コップや紙皿も併用していたので洗い物もさほどではなく、大した労ではなかった。残った食事はタッパーに詰めてしまう。
 北原夫妻は夫の運転する自家用車で来ており、そこに山本親子と伊丹が駅まで同乗で帰ると言った。定員オーバーで暖と鴇田だけ残る。大皿やスープマグや調理器具を拭いて仕舞っていると「片付けさせちゃってごめんね」と紗羽がやって来た。
「子どもらは?」
「新南は寝た。けど論がぐずってて、ケントが面倒見てる。じきに寝るだろうけどね」
 キッチンのスツールに腰かけた紗羽は「まだいいでしょ?」と白ワインの残りを取り出した。
「論が休めばケントが送ってくから、それまで二次会。一度開けたお酒は飲んじゃわないとねー」
「ああ、じゃあスープの残り出しましょうか。チーズとオリーブも残ってるので」
「やだみくらさん気が利く。遠海、これだと困んないね」
 と紗羽に褒められても鴇田は特に反応しなかったが、照れて困っているのだと分かる。暖は微笑んでグラスを出した。簡単にレンジでスープを温め、温まるようにとしょうがのすりおろしをすこし入れる。暖はもう飲むのはやめて、ソーダ水にしておく。
「鴇田さんも飲む?」
「飲もうよ、遠海」
「ならちょっとだけ」
 カトラリーを片付けていた鴇田もそれらを戸棚に仕舞うと紗羽の隣へやって来た。対面式のキッチンで、向かい側からワインをすこし注いでやる。甘めのドイツワインは微発泡で、明日まで残していれば気が抜けてしまうだろう。紗羽と鴇田は改めて乾杯をしてスープを口にする。
「あら、これは一気に大人味だね。美味しい」
「しょうがは万能で冷え知らず。女性にはますますおすすめです」
「この人の淹れるチャイ、すごいんだよ。本格的で」
 珍しく鴇田が自分から喋った。
「ドリンクスタンドとかやったらいいと思う。ホットジンジャーチョコレートとか」
「なにそれ絶対美味しいやつ。みくらさんって伊丹さんと同じ人種っていうか、サーブの上手い人だよね。定年後は喫茶店とかどう? もれなくBGMもいるんだし」
「お店をひらくよりは個人でゆっくりしていたいかな」つい笑う。
「ふたりでお店ひらいたら楽しそうだけど。あ、暮らしはじめたんだっけ?」
「ん?」
「同居? 同棲? おんなじところにふたりで。ようやくだよね?」
 そう訊かれて暖は苦笑したが、鴇田の方は真面目な顔で「まだなんだ」と答えた。
「家探し中」
「物件が見つからない?」
「いくつか候補は。でもこれっていう決め手がなくてそのまんま。僕はここで充分だよって物件があるけど、三倉さんが譲らないんだ」
「あら? こだわり派? キッチンはアイランド型がいいとか、人工大理石がいいとか?」
「いやー、まあ」
 決まりが悪くて頭を掻く。
「……ある程度音を出しても大丈夫な物件を、と思ってまして。鴇田さんは店のピアノにしか興味ない人だけど、そうは言っても家じゃいつまでも古い電子ピアノにイヤフォン差し込んで、っていうのがなんか可哀想でね」
「僕はこだわってないからいいのにね」
「あらー」と紗羽はチーズを齧った。「犬も食わないやつだ」
「それよりも本やパソコンを置けるような、書斎に使えるスペースのある物件を選べばいいのにって思う」
「ますます食わない話だね」
「そういうわけで平行線なんです」
 紗羽のグラスにワインを注ぐ。残ったワインはそれで終わってしまった。
「でも前進はしてると思うんです。はじめは同居も渋られたから」
「別々の方がいいんじゃないかってずっと思ってて」
「へえ、どうして?」
「もし三倉さんがまた子どもを持ちたいと思う選択をするときに、邪魔になってしまうと思ったから」
 鴇田のその台詞に、紗羽は言葉を失っている。暖は「ひどい話でしょう」とソーダ水を口にする。
「まだ言うのか、あなたが言うのかって散々喧嘩しました」
「……結局、僕にはなんにも覚悟はなかったんだよね。腹を括れてなかったっていうか。いつ三倉さんが僕に愛想を尽かしても、あるいは家族が欲しくなって新しい人を求めることになっても、仕方ないやって思ってたし。せめてそういうときに重たくないようにって思ったし。いつでもすぐばらけられるようにって」
「気持ちは分かるけど、遠海、それはひどい。……みくらさんにとても失礼だよ」
「ひとりで暮らしていくことや、怖がりな性分が染みついちゃってんだ。そうじゃなきゃもっと人と簡単に適正な距離を取れる人間だったよ。でも、」
「でも?」
 紗羽が鴇田に訊ね返したところで、二階からぎゃーっと凄まじい声がした。紗羽が慌てて立ち上がる。やがて階段から論を抱いたケントが降りて来た。寝付けに失敗して論はケントにしがみついて泣いていたが、暖を見ると「まだいたのかよっ」と強がった。
「眠れないの? 論」と紗羽が近寄る。
「興奮しすぎて冴えちゃったのかな。今日はみんな集まって楽しかったからね」
「こんなんでも意外とセンシティブなんだよねえ」
 こっち来る? と紗羽が論を抱こうとしたが、論は「トーミ」と呼んだ。
「トーミとピアノ弾く……」
「もう遅いからピアノはだめです。やめておきましょう」
「じゃあトーミと一緒に寝るっ」
「トーミは帰るのよ」
「寝ようよぉ」
 寝よう、寝ようと論は駄々をこねた。ケントの腕から逃れて鴇田の方へと懸命に手を伸ばす。紗羽が「わがまま言わないの」とあいだに入ったが、鴇田はグラスを暖にそっと渡すと、「論が寝るまでは傍にいようか」と言った。
 論がパッと顔を明るくする。
「一緒に寝てくれる?」
「一緒には寝ないけど、論が寝るまでは帰らないから」
「あのね、あのねっ! それじゃあDVD観よっ! ライオンキングのミュージカル公演でねっ!」
「お父さんとお母さんがいいって言ったらいいよ」
 ケントと紗羽を見て、論は「いいでしょ?」と上目で懇願する。両親は諦めたのか考えがあるのか、「仕方ないね」と答えた。論は途端に顔を輝かせる。
「ダドも一緒に観ていい?」とケントは息子の顔を覗き込んだ。論はいまにも鴇田に抱きつかんばかりだったが、さすがにそれはケントが押さえ込んでいる。
「やだよ。トーミと観るの!」
「じゃあDVDのセッティングを僕がします」
「ダドはあっち行けよ」
「論、今夜だけ特別なんだからね。ダドの言うこと聞いて。トーミにべたべた触って困らせないのよ」
「うん!」
「行こうか。寝室にテレビないよね。ホールのテレビでいい?」
 論があまりにも手を伸ばすので、鴇田はそのちいさな手を取った。三人でキッチンを下がっていく。その論が去り際に暖を見て思い切りあかんべえをしてみせた。さすがに気づいた紗羽が「論っ!」と怒鳴ったが、紗羽が怒ってくれたので暖はかえって怒らずに済んだ。もう笑うしかない。
「紗羽さん、キッチン借りていいですか?」
「ああ、いいですよ。お腹すいた?」
「いえ。こんな夜なので温まるものをね」
 冷蔵庫に牛乳を見つけて、暖は微笑んだ。



← 4

→ 6


拍手[6回]


 チキンが焼け、フライが揚がるころには北原夫妻も登場した。散歩に出ていたケントと論も戻ってくる。料理とドリンクをホールに運び込み皆で乾杯した。乾杯の前に新南と北原アンジェのツインボーカルでクリスマスソングが披露され、場は音楽で満ちる。
 食べながらうたい、飲みながら弾いて、うたいながら踊るような自由で明るい会だった。暖はカメラを構えてメンバーを撮る。定点に設けたビデオカメラは伊丹がちょこちょこ面倒を見ているようだった。アンジェの夫が料理やドリンクのサーブをしてくれたので、誰にも過不足がない。べそをかいていた論も夢中になって料理とおしゃべりと音楽を楽しんでいる。
「では、今日だけのスペシャルセッションの時間でーす」
 と紗羽が宣言し、それぞれが楽器の元へ座り直す。クリスマスソングを中心に音が鳴らされた。新南と論のために大人たちが演奏したかと思えば、ふたりでの演奏にもなり、樋口家や山本家の親子での演奏もされて、鴇田とアンジェ、鴇田とケント、とどんどん入れ替わる。いつまでも飽きない楽しい会を暖はひたすらにカメラに収めた。音を文字に書き記すことは難しいが、これが報道だったらどんな風に書くかなと思いながらシャッターを切る。職業病だと苦笑しつつも楽しかった。
 論が鴇田と連弾をしたがり、ケントに止められていたが「大丈夫」と鴇田が言って同じ椅子で演奏した。論が右側の高音を、鴇田が左側の低音を担当する。それでも演奏に入ってしまえばさすがの集中力で、音楽に音楽で呼応するふたりの姿に心中には複雑なものがあった。こんな音を鳴らすのだから論はもう立派なミュージシャンで将来が恐ろしい。暖は鴇田とこのような交流の仕方はできない。伊丹は「誰にでもある感覚」と言ったが、それでも分野が違えば共有はできない。
 そのうちその音楽をバックミュージックに北原夫妻が踊りはじめた。暖も呼ばれ、カメラを置いて新南のダンスの相手を務める。ケントは山本の娘と一緒にパーカッションを鳴らしはじめた。新南は踊り慣れていて、暖の腕の中でくるくるとワンピースの裾をふくらませていくらでも踊った。
 誰も彼もがなにかの役まわりで、音が途切れない。ふと顔を上げると論は鴇田の足のあいだにちょこんと収まって鴇田の指の動きを熱心に見ていた。みんな笑っているから暖も笑うが、またちくちくと嫌な気分が湧いてくる。つまんない男だなあと新南から離れてソファに沈み込んだ。論を足のあいだに挟んでさすがにいつもの演奏スタイルでは演奏できないようだが、ふたりの密接は子ども相手とはいえ面白くなかった。
 ペットボトルからグラスにソーダを注いで口にする。いつの間にか伊丹がギターを爪弾いていた。この人こんなこともできるのかと半ば呆れる思いだ。踊る夫妻、うたう子ども。鳴り止まない音楽。グラスを片手にぼんやりしていると近い場所で「三倉さん」と呼ばれた。
「大丈夫? 具合悪い?」
 鴇田がいつの間にかピアノから離れ、傍にいた。ピアノには論がひとりで座り、音をめちゃくちゃに鳴らしていた。
 覗き込まれる瞳が黒くて深い。この人の変わらない深淵を覗いているみたいでぞくぞくして、上膊に縋り付きたくなった。
「――あ、いや」
 なんとか堪えてソーダを口にする。
「飲んで踊ったから、酔いがまわったみたいで」
「ここの人たちに付き合ってるといつまでも終わらないから、気をつけて」
「うん」
「あんまり酔いが治まらないようなら紗羽に頼んで先に帰ろう」
「大丈夫。片付けまでセットでやってくよ。あなたは?」
「僕?」
「さっきは具合が悪かったから」
「ああ」鴇田は論をちらりと見た。「慣れないけどまあ、論はいつもああだし」
「紗羽やケントもすごく気を遣ってくれてる」
「あなたがいいならいいけど、無理はしないで」
「トーミ!」
 つんざくような声が割って入った。ピアノをいつまでもひとりで弾き続けることに痺れを切らした論が駆け寄ってくる。鴇田の腕を無遠慮に掴み、「ピアノ弾いてよ」とねだる。
 鴇田の身体のこわばりが感じられたが、暖が出るまでもなく鴇田は立ち上がった。
「いいよ。弾こう」
「あ、あのね、あれ弾いて。あれ聴きたい。タランチュラ」
「あれはクリスマスって感じじゃないからまた今度ね。――三倉さん、」
 鴇田が振り返る。唐突に呼ばれて顔をあげた。
「あんたのリクエストにお応えします。クリスマスソングで好きな曲、ありますか?」
 鴇田の手を取った論は鴇田をピアノの方へ引っ張る。「なんであいつのリクエストなんかきくんだよっ」と喚く。
「あ、……ポール・マッカートニーの『Wonderful Christmas Time』」
「ああ、いい歌だよね。ケント、歌える?」
 論と鴇田を気にして様子を見に近寄って来たケントに、鴇田が訊いた。ケントは嬉しそうな顔をする。
「歌えますよ。新南も歌いましょうか」
「わたし、その曲知らない」
「フレーズは簡単だからすぐに歌えますよ」
「トーミっ」
 鴇田の手を引っ張る論をケントは笑顔で横抱えにした。そのまま肩車に乗せてしまう。鴇田はピアノに座り、いくつか音を弾いて確かめたあとにリズムを刻みはじめた。息子を肩車したまま娘とは手を繋ぎ、ケントがはじめのフレーズをうたいはじめる。サビを聴いた新南は聞いたことのある曲だと分かって、一緒に音を辿りはじめた。
 鴇田のピアノが鍵盤の上で楽しげに跳ね回る。
「ごめんね、みくらさん」と近づいて来たのは紗羽だった。
「うちに来れば絶対に論が遠海にひっついて、その分遠海もみくらさんも嫌な思いをするんだろうなって分かるんだけど、やっぱりうちに呼んじゃうんだよね。私たちが遠海とセッションしたいっていうそれだけで」
「こんな幼いお子さんふたりも抱えて、店で前みたいにセッションなんてことは出来なくなってるんですから仕方がないよ」
「ふたりの時間を邪魔してたら申し訳ないなって思うには思うんだよ」
「とんでもない。おれたちだって必ずしもずっと一緒にいるのがいいとは限んないんだし。それはどこのカップル、どこの夫婦だってそうでしょう?」
「まあね」と紗羽はケントを見て苦笑した。
「エイリアン同士なんだから違う時間があって当たり前。そんなの分かってる。それでいいとも思うよ。でもやっぱりおれは楽器が弾けないし歌もうたえないから」
 演奏に夢中になっている楽団を見遣る。
「共通の言語を持つあなたがたの絆のことは、羨ましいとは思います。おれと鴇田さんのあいだにそれは絶対にないから」
「……」
「でも鴇田さんだって本は読まないし作文はめちゃくちゃ苦手。お互いに会社に行けばそれぞれの専門用語で話をする。そういうものだから」
 ソーダ水を口にすると、紗羽が「そうだよね」と言った。
「さっきすごくびっくりしたの。遠海が誰かの肩にもたれてるなんて想像すら不可能だった。私たちは遠海に触れないけど、みくらさんは触れる。遠海が許している。肌の接触だって充分共通言語だよね。触れて分かることもたくさんあるんだろうし、最大の愛情表現だし」
 うん、と紗羽は自分で納得して頷いている風だった。クリスマスソングが鳴り止んで、互いに互いを称える拍手が沸き起こった。


← 3

→ 5


今日の一曲(別窓)


拍手[6回]

「論はねえ。生まれた時からお父さんもお母さんもお姉ちゃんもみんな音楽をしていて、自分も深く愛しているもんだから、聴いてるだけでも至福という側をどうしても理解できないんだよね」
「まあ、環境が環境ですもんね」無理はない、と暖は頷く。
「自分がどれだけ指を動かせるか、動かすことで音が鳴るかを知っているから、それを出来ない人間のことが不可思議で、彼にとってはすなわち否定なんです。と、紗羽が言っていました。まあ、自分はこの楽器を鳴らせる、もっと音を出せる、という感覚は僕にも覚えがあるから分かるけど、それは例えば目の前にこのぐらいの高さのバーがあって」
 と、伊丹は両手で胸の高さに棒があるかのような仕草を示した。
「それを多くの人は簡単には超えられないけど、僕は飛び越えられそうって不思議と分かる、予感と同じことなんです。崖っぷちを歩けるアルピニストとか、見たままを模倣して踊れるダンサーとかと一緒。三倉くんにもそういう経験、あるでしょう?」
「接続詞かな?」
「ほお」
「小学校低学年の頃かな、国語の授業で三人一組になってリレー作文をしたことがあるんです。リレー小説ってありますよね。あれを授業でやってみたみたいな感じで。僕は三番手だったんですけど、前のふたりの書いた文章の接続詞がおかしいおかしいって散々言って、結局僕がアカを入れる形で直しちゃいました」
「それはきっと大人顔負けの名文になったんだろうね」
「どうでしょうかね。けれど文章に対する勘みたいなものはあったようです。そういうことであってます?」
「そうそう、そういうことです。誰にでもある勘とか予感が僕らの場合はたまたま音楽で、鍵盤なんです。そういうことが論はまだ分からない」
 ホールからは音楽も聞こえていたが、止まりかけている。父親に向かい「なんでっ」と歯向かっている少年の声が聞こえた。
「荒れてるな」と伊丹が油の準備をしながら苦笑する。
「エイリアンってどこにも同調するところがないからエイリアンなんだと思うんです。分かり合えないというか。共有するものがないというか。こういう不愉快な思いをさせるなら来ない方がいいというのは分かりきってるんですけどね」
 そう言うと、伊丹は「共感と共有ばっかりしてたら疲れますよ」と答えた。
「相手を思いやれることが、決して良いとは限りません」
「まあ、分かります」
「相手が子どもだからと言って手加減をしない三倉くんは論にとって悪いことじゃないと思うんですけど――あ、避難民」
 ホールからぎゃーっという大音量が響く。子どもが泣き喚いている。論がなにか叱られたか諭されたか。ほぼ同時に鴇田が首の後ろを掻きながらやって来た。
 ここへ来てからようやく顔を合わせたな、と思った。暖が手にしているグラスを見て、「なに飲んでるの?」と訊く。
「伊丹さんお手製のサングリア。飲む? グラスもらおうか」
「いい。ひと口ちょうだい」
 暖のグラスを受け取り、そのまま口をつける。ひと口、にしてはがぶがぶと飲まれてしまった。息をつき、空のグラスを暖に戻す。「論はすごいな」と言う。
「向こうでなにがあったの」と伊丹は暖のグラスにサングリアを注ぎ足して訊ねる。
「ピアノを一緒に弾いていましたが、距離感が近くて落ち着かないので僕は論だけにしたんです。それが面白くなかったみたいで、一緒に弾いて弾いてとせがまれていたところをケントが来て止めてくれたんですけど。あまりにも言うことを聞かないので紗羽が切れちゃって」
「あらら、お約束パターンだね」
「とにかく遠海は逃げろと言われてこっちに。あー。子どもってすごいな。エネルギーが」
 最後は自身の気づきへの呟きで、鴇田はスツールに腰掛けようとしてかくっと力加減を誤り、床へへたってしまった。
「うわ、大丈夫?」慌てて傍へ寄ったが、手を添えるのはためらった。
「すいません。緊張して膝が笑ってしまって。力が」
「立てる?」
「ちょっと、このまま」
「そうか。伊丹さん、水をもらえませんか」
 頼むと伊丹はカップに水を汲んでくれた。それをもらい、暖も隣へ座り込む。
「壁に背を付けられる? 体重を預けよう」
「うん」
「そう、いいよ。水飲めそうなら飲んで。サングリアよりはこっちがいいから、絶対」
「うん」
「深呼吸して力抜いて、目を閉じられるなら閉じよう」
「うん」
「触るよ」
「うん……」
 鴇田の肩に腕をまわす。力を込めて肌を摩擦すると、鴇田は徐々に力を抜き、目を閉じて暖にもたれかかって来た。
「大丈夫? 横になる?」
「大丈夫。ちょっとこのまま」
「分かった」
 カップを置き、ふたりでキッチンの床に座り込んでいると、ふたり分の足音がした。紗羽と新南が顔を覗かせる。「あらま」と呟いたのは紗羽だった。
「論はどう?」と伊丹がフライの油加減を気にしながら訊ねる。
「いまケントが表へ連れてった。近所ぐるっと散歩してから戻ってくると思う。最近、面白くないことがあるとすぐ癇癪起こすようになったんだよね。ごめんね、遠海。大丈夫?」
「ちょっとこわばりが酷かったみたいで」
「だよねー。そこで大丈夫? 寒くない? ブランケット持ってこようか」
 新南が傍へやって来て、クリスマスオーナメントに吊るしていたジンジャークッキーを暖にふたつくれた。
「ダンもトーミも、ごめんなさい。これお父さんと作ったやつ。美味しいんだよ」
「あなたが謝ることではないよ。でも嬉しい。ありがとう」
「新南、うたってよ」
 リクエストしたのは、目を閉じて暖にもたれている鴇田だった。
「うたってくれたら僕は大丈夫になるから」
「なにがいい?」
「新南が最近気に入っているクリスマスソングを聴かせて」
「分かった」
 床にぺたりと座って、清らかな発声で歌姫がうたいはじめる。聴いているうちに鴇田のこわばりが解け、指が音に合わせてぴょこぴょこ動くようになって安心した。暖は水を渡す。
「こんなの論が見たらまた絶叫するわ」と紗羽がぼやくように呟いた。


← 2

→ 4


今日の一曲(別窓)




拍手[4回]


 樋口夫妻が郊外に家を建ててもう三年になる。
 日本の住宅事情とオーストラリアのそれとなら後者の方が絶対に広い家を確保できそうなのだが、色んなことを考えて彼らは日本に家を持つことを選択した。年子で生まれたふたりの子どもは現在インターナショナルスクールに通う。子どもらの将来の選択肢に海外居住も視野に含んだ形だ。
 都心を離れて郊外に家を持ったのは、その方が広いスペースを確保出来るからだ。何のために広いスペースが必要かと言えば、彼らの生活に欠かせない楽器のためにである。ある程度音が漏れ出ても問題ないような土地にとにかく楽器をたくさん置いた。ケントのドラムセット、紗羽のコントラバス、ピアノ、ヴァイオリン、ギター、フルート。これらをなんでも弾きこなしてしまうあたりがこの一家はすごい。
 楽器の演奏が自由に可能になったため、樋口家に鴇田が出かける日が増えた。とはいえ基本は伊丹のあの店であるし、鴇田が弾きたいピアノがあるのもあの店であるから、以前に比べれば、の話だ。出かける際には三倉さんもどうぞ、と樋口夫妻の勧めで暖もたまに訪れる。けれど自分は音楽は聴く専門で、楽器は弾けないし歌もうたえない。参加も勧められるがどうにも上手く音を鳴らせなくて、結局は聴いてる方が楽しいとなってしまう。それを樋口一家と鴇田はおおらかに受け止めてくれたが、長男の論だけはばかにする風があった。
 ピアノに興味を持つ彼は、鴇田のことが大のお気に入りだ。魔法のようにすらすらと鍵盤を鳴らしてしまう辺りに、大いに尊敬の念を抱いている。彼らの年齢ならまだ感情に区別はつけられず、敬っているのか愛情を欲しがっているのか、論は怪しい。とにかく鴇田をすごい人間とみなして、鴇田が樋口家へ出かければ必ず傍にいたがり、トーミ、トーミと親しく呼ぶ。
 そして暖は嫌われている。楽器が出来ないことで彼の中で底辺に落ち込む人間らしかった。当たり前に音楽を奏でられる一家に育った彼にとって、音楽にそこまで浸かれない暖を理解し難い風だ。鍵盤のAの位置も瞬時に分からない。両手をばらばらに動かすことも出来ない。それは論にとって信じられないことで、すなわち否定に値する。
 それだけだったらまだしも、セッションも出来ないくせになぜか家にやって来る暖を論は歓迎しない。おまけに大好きなトーミといつも一緒だから、どうして、どうして、と散々疑問符をつけた挙句に彼が達した結論は「ダンは嫌いなやつ」である。
 暖はそれはそれで構わないのだが、どうしても突っかかってこられるので喧嘩を買ってしまう。子どもに売られたそれを買うあたり非常に大人気ない。けれど全力で論が歯向かってくるので、つい手加減なくやり込めてしまう。それは論のいる位置が鴇田にとってとても近いであろう危惧も含んでいた。連弾になれば椅子に隣り合って座るし、時に鴇田の膝のあいだに収まって鴇田の手を覗き込んでいる。そういう近さにびくびくする。鴇田が子ども相手に暴力を振るうことは考えないが、嫌悪を堪えて我慢しているのだとしたらそれは嫌だ。
 身体の距離もそうだし、彼らには音楽という共通言語での会話が可能だ。心中穏やかには過ごせない。いくら大人気ないと指摘されようが、論には全力を尽くしてしまう。
 長女の新南ぐらい穏やかで大人しかったらなあ、と思ってしまう。いつだって無垢に微笑む少女は天使そのものだ。論だって大人しくピアノに向かっていれば父親譲りのはっきりとした目鼻立ちも相まって非常に天使なのに、口をきけばおまえ呼ばわり。ああ、もう。
 家が建って以降、樋口家ではクリスマスパーティをひらくようになった。親しい仲間を呼んで楽器を演奏し、料理を楽しみ、子どもらにはプレゼントを贈る。吹き抜けの広いホールには背の高いクリスマスツリーだって飾られる。オーストラリアという南半球育ちのケントにとってクリスマスとはサンタが海上スキーでやって来るものであり、だから寒くなってもみの木にオーナメントを飾るクリスマスを、彼はとびきり張り切る。無宗教国のごった混ぜクリスマスでも楽しいようだ。
 今夜紗羽が連れてきた客は鴇田の他に伊丹とトランペッターの山本という男だ。山本は中学生になる娘を伴っていた。ボーカリストの北原アンジェとその夫も遅れて来るらしい。
 暖はこのパーティの記録の依頼を引き受けていた。それからケントが振る舞う料理を教わりたかった。だから職場から直行して鴇田とは別に来ていた。だというのに論のあの振る舞いで無意に時間を使ってしまった。
 ホールからは様々な楽器の音が響きはじめる。山本の娘は中学校の吹奏楽部所属でクラリネットを吹いているらしい。ますます自分には遠い集まり。だがどこにでも興味の出る性格ゆえに決して嫌ではなかった。
「え? チキンのパックがあんの?」と、まんまるに剥いた鶏の腹にライスやシーズニングを詰め込んでいるケントの手元を見ながら訊ねてしまった。
「はい、あります。もう味付けがされていて、あとはそれをオーブンで焼くだけで簡単に出来るようになっています。安いです」
「オーブンってこんな大きさ?」とキッチンに据えられたオーブンを指差す。これは樋口夫妻が食洗機よりも先にこだわって入れたものだと聞く。日本では独立したオーブンレンジが一般的だが、タイマー式のとても大きなオーブンがキッチンに据え付けで備わっている。
 ケントは頷き、「なんでも焼きます」と言った。
「僕は食べたことがないですが、カンガルーも食べますよ」
「うっそ!」
「ハンティングの対象ですから。ジビエ料理って言うんでしょうか」
「ああ、なるほど。カンガルーはジビエか」
「みくらさんも一度旅行に来たらいいですよ。意外でした。英語を話せるのに海外旅行の経験はないんですね」
「英語は大学までで教わった程度にしか喋れないですよ。フットワークは軽いんだけど、限定的なんです。でもそうですね、行ってみたいです」
「トーミと来てください。ガイドならしますから」
「それは頼もしい」
 用意できた鶏肉をケントは予熱しておいたオーブンに入れる。「食べ終わった骨は捨てないで、とサワに言われます」と言った。
「残った骨を出汁にしてごはん炊くと美味しいからって」
「あー、それは絶対に美味いやつです。まるごとのチキンは家では調理出来ませんけど、手羽元ぐらいなら調理するから、やってみようかな?」
「ケント」
 キッチンに顔を出したのは伊丹だった。買ってきたドリンクの類を冷やしたいと言う。
「そっちにちいさい冷蔵庫がありますので、そちらに」
「料理があらかたいいならこっちは僕と三倉くんに任せて向こう行ったら? そろそろ音合わせしたいんじゃないかな」
「そうですね。みくらさん、お願いしていいですか? タイマーはかけてありますので、鳴ったら教えてください」
「わかりました」
「論を止めてあげてね」
 とエプロンを置いてホールへ向かうケントに伊丹は言った。
「遠海くん大好きが今日はすごい。遠海くんがこわばってる」
「あー、それはいけない」
 ケントは慌てる仕草で三倉を見る。申し訳なさそうな顔をこちらに向けた。「トーミにはあまり触ってはいけないと言ってあるんですが」と言い残して慌ててキッチンから出て行った。
 残された伊丹とフライの準備をする。スープやサラダやサンドイッチの類はすでにスタンバイなので、あとは芋と魚を揚げるだけで、これは暖にも出来る。
 伊丹がグラスを取り出し、「こっちはもうはじめちゃいましょうか」と言って手元の紙袋からボトルを取り出した。
「自家製サングリアです。それともビールの方がいいですか?」
「いえ、いただきます。伊丹さんは行かなくていいんですか?」
「いいんです。最近の僕は聴き専ですから」
 タンブラーに注がれたサングリアには、白ワインをベースに様々なフルーツが入っていた。とろりとしているわけではないが、そんな表現の似合いそうな琥珀色をしていた。
「それに老兵は去らないと」
「まさか。老年でも名演を鳴らしたミュージシャンはたくさんいらっしゃるでしょう。スポーツと違うのですから、老いも若きも楽しめるのがミュージックです。それに伊丹さん、そうおっしゃるほどの歳ではないですよ」
「では三倉くんも行きますか、あっちに」
「僕は」苦笑してしまう。「共通言語を持たないので、ここで。エイリアンですし」
「エイリアン?」
「だと言われました。論に。ピアノも弾けないエイリアンだと」
「困ったねえ」
 かちん、とグラスを軽く鳴らして琥珀色の液体を煽る。柑橘のたくさん絞られたサングリアはさっぱりとほのかに甘く、そこがよかった。


← 1

→ 3


拍手[6回]

«前のページ]  [HOME]  [次のページ»
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
カウンター
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
フリーエリア
最新コメント
最新記事
フリーエリア
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

Template by wolke4/Photo by 0501