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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 三つのカップをトレイに乗せ、三人でテレビを観ているはずのホールへ向かう。入り口にケントが身を隠すようにして佇んでいたので足を止めた。暖を見るとケントは唇に指を当てる。
「どうしました?」とささやき声で訊かれた。
「さっさと寝てくれないと困るんで、さっさと眠れるものをと思って。ホットミルクと、大人にはジンジャーミルク」
「ありがとうございます。ロンのやつ、僕には出て行け出て行けと聞かなくて」
「見張りも大変ですね」
 暖からカップを受け取り、ケントは温かな飲み物を口にした。
 DVDは流しているものの、音量をちいさく絞って論と鴇田はお喋りをしていた。中に入って論に嫌な顔でもさせたらまた寝そびさせる気もする。ケントに持っていってもらおうと頼もうかとも考えたが、鴇田と論の会話をケントと同じく盗み聞きすることにした。
 暖は鴇田が飲むはずだったジンジャーミルクを口にする。
 ――それで、トーミとイタミのおじちゃんと一緒に探したピアノがお店の?
 ――うん。春原さんて人にすごくお世話になったんだ。
 ――大きくならないと行っちゃいけないってマムに言われるんだ。だからイタミのおじちゃんのお店のピアノってよく知らない。でもおれも弾いてみたいな。
 ――もっと大きくなったらいくらでもね。
 ――トーミも一緒に弾こ? おれもっと上手くなるよ!
 と論は張り切って言ったが、鴇田は控えめに笑った。
 ――論はもっと上手くなる。それは間違いがないよ。でも僕以外のたくさんの、いろんな人と音楽を楽しめるよ。僕はひとりでいいから、いまのままでいい。
 ――どうして?
 ――僕にとっての楽器はあの店のあのピアノだけでいいんだ。紗羽やケントとセッションするのも楽しいんだけど、それ以上はいい。あんまりたくさんを必要としてないんだ。
 ――どうして?
 重なる問いかけに鴇田はしばらく考える。
 ――論は果物ならなにが好き?
 ――おれはオレンジ!
 ――いいね、オレンジ。好きならたくさん食べたいと思うだろう? 紗羽に一個だけだよって言われても、ふたつ食べたいと思わない?
 ――マムが出してくれるオレンジはいつも半分だよ。ダドは一個くれるけど、内緒だよって。
 ――うん。好きなら本当はもっと食べたいよね。でも僕の場合はたったひとつの、僕だけのオレンジ、それで充分なんだ。
 ――どうして?
 ――ものすごく欲張りだから。
 ――ヨクバリ? 一個しかほしくないのに?
 ――うん。僕だけのための、僕だけが味わっていいたった一個を、噛み締めて噛み締めて、味わいたいんだ。それ一個で充分。僕にとってピアノはそういうもので、あの店のあれだけでいいんだ。
 ――トーミの話むつかしい……ピアノの話?
 ――ピアノの話だよ。そうだね、難しいね。
 ――……オレンジは終わっちゃうよ? ピアノはなくならないよ?
 ――ピアノも終わるときが来るんだ。終わったら僕の分はそれでおしまいだから。終わっちゃったなあって惜しみながら、でももうオレンジは食べない。りんごも、バナナも、他の果物だって食べない。
 ――……。
 ――本当は僕のオレンジはとっくに終わってしまったんだけど、伊丹さんがひとつだけ特別に用意してくれたんだ。いまはそれを弾いてる。あのピアノが鳴らなくなったら、それ以上を探すことを僕はしないと思う。
 次第にぬるくなって来たミルクを暖は口にする。ホールでのお喋りは途切れつつあった。けれど少年はまだ疑問を口にした。
 ――トーミ、ピアノすき?
 ――大好きだ。
 ――トーミは、……ダンがすき?
 ――シンプルでストレートな言葉ではなかなかうまく表せないね。
 ――……ダンもトーミにはたったひとつのオレンジなの?
 暖はゆっくりと目を開けた。カップに半分ほど残ったミルクが、膜を作っている。
 ――そうだよ。
 ――どうして? マムとダドは楽器を弾けるから仲良くなったって言ってたよ。でもあいつは弾けない。なんにも弾けないよ。
 ――論がオレンジを好きなことに理由があるのかな。
 ――……。
 ――オレンジの酸っぱさが好きだとか、ジューシーなところとか、においとか、色々あるけど、ものすごく硬くて苦い実でも僕にはそれが美味しくて好きだから、そのオレンジしか食べたくないんだ。
 ――ダドとマムによくトーミには触っちゃだめって言われる。ニナにもだめって言われるんだ。
 ――うん。そうしてもらってる。
 ――ダンは触れるの? ダンだけなの? トーミには、ダンだけ?
 その質問に、鴇田は間を置くことなくはっきりと「うん」と答えた。
 ――僕だけが食べていいたった一個のオレンジなんだ。それしか食べたくないし、それ以外もいらない。
 ――う……、
 と、少年は黙り、泣きはじめた。ケントがウインクをして、「ごちそうさまでした」と言ってカップをトレイに載せる。
「論、トーミたちは帰る時間なんだ。お別れを言って。もう休もう」
 そう言ってホールにいる息子の元へ寄る。おやすみなさいも言えないぐらいに論は泣いた。だがその泣きじゃくり方には眠りが傍にいる、特有の甘えた響きだ。ケントがあやしてちいさく歌をうたう。それと入れ替わりに鴇田もホールから出て来た。
 入り口に立っていた暖に驚きつつ、鴇田は微笑んだ。
「ミルクを持って来たんだけど、冷めちゃった」
「いい。飲むよ」
「おれたちも帰ろうか」
「うん」
 紗羽に頼んでタクシーを呼んでもらった。


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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
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