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「――悔しいことに、宅間のようなクズの発言を僕は理解した」
「ん?」
「びっくりした。きみは才能がありすぎる」
セックスして、そのまま寝て、起きて、朝湯をもらいに行って、朝食を買って戻ってきた。ミナミ倉庫の居住スペースで、コーヒーをすすりながら新聞を読んでいる静穏にそう告げた。静穏は最近になって、いわく「わかってたことなんだけど」だいぶ早めの老眼がやってきて、文字を読むときは眼鏡をかけるようになった。八束の白髪同様に、父親の遺伝だという。
ごうごうと洗濯機のまわる音がしていた。朝の音だな、と思う。四季が寮生活を始めてから、八束とその父親はすっかり「気ままな独身生活」を楽しむふうになってしまった。多趣味の父親はしょっちゅう出かけるし、八束もこうして気兼ねなく静穏の元へ来る。さすがに静穏の制作が混んでいるときは遠慮することもあるが、今日みたいに「先方の連絡待ちで」みたいにぽかりと空いた時間に会えて一緒にいられるのは、とてもいいことだ。少なくとも八束はそう思う。
しばらく新聞に夢中になっていたふうの静穏が、ぱきぱきと音でも鳴らすかのようにぴっしりと綺麗に新聞を畳んで、「ごめん、なんだって?」と問い返した。
「サディスティックな方向への才能」
「あ?」
「ずっと前にあいつが言ってたから。きみにだったら解体されたい、と思えると。僕みたいな性癖を理解する気持ちになった。つまり、きみがした仕置きが気持ちよかったんだ」
「ごめん、よくわからない」
「つまり、昨夜の行為は僕にとってたまらなかった、ということだ」
ん? 心底解らぬ話をされている、そんな顔で静穏は眉根を寄せた。
「だって昨夜は、八束から中断の申し出があったし、泣いてたよ?」
「涙が出るほどよかった、という意味……あんまり言わせるな、ちょっと恥ずかしい」
「そう? いや、おれの方はついやりすぎたと思って反省して、まだ申し訳ない気持ちで今朝もぼうっとしてるんだけど、」
そう言いながら眼鏡を外し、「あーでも」と言葉を区切った。
「八束はこんなふうになってしまうんだな、というのは、なんていうのかな、感慨深いものがあった。これが八束にとっていいのかよくなかったのかは訊かないといけないと思ってたから、八束が喜んでくれてたんなら、おれもまあ、よかったとは思うよ。たまに、程度は」
大きく伸びをして、「よかったんだよね」と訊ね返された。
「僕は、すごく。……すごいと思ったのは、あれだけびくともしなかった拘束だったのに、痕がまったくついてないことだ。魔法みたいにあっという間に縛られて、魔法みたいに動けなくされたのに、そんなことはあるのか、と。なにより、目が凄かった。……あの目は、うん、凄いな。とても怖かった。本気で死ぬかと思えて、……僕はそういうところに興奮するような男だからな。たまらなかった。だから余計に、不安だ」
「不安?」
「きみにとって負担ではなかったかと。きみは決して、楽しんでいるようにも、興奮しているようにも見えなかった。とても巧かったんだけど、きみ自身は」
「まあ、楽しくは、ない。そうだな、楽しむ感じはないよ」
それを聞いて、やはり、と落胆する思いがあった。けれど静穏は「興味のスイッチが入った」と言葉を足した。
「おれがすることで八束はどうなってしまうのだろうか、という興味。どこをどう触れるとどういう反応があるのか、それはどういう結果になるのか。まあ、感じとしては理科の実験みたいな気分になるからさ。好きな人にはあまり向けたくないかな。世の中には愛着あるものを収集して手に入るところに置いておきたいとか、飾って眺めたいとか、そういう趣味のある人は結構多いと思うんだけど、じゃあ八束を飾って眺めておいたら満足、というところへの興味は持てないから、というか、大事な人とは一緒に生活を営みたいと思っているから、あの一線は超えたくなくて、だからおれには、申し訳ないけど、八束の趣味嗜好を満たしてはあげられないかもしれない。おれは過去の恋人に散々ひどいことをしてきたけど、もしかしたらそんなに好きでもなくて、興味しかなかったから出来たことなのかなと。大事な人だとは思わなかった、というのか」
「……」
「ごめん、うまくまとまんないや。分かるかな。伝わった?」
「……うん、」
静穏の台詞に、かえって呆ける羽目になった。つくづく、この人は言葉を発しはじめたら率直だなと思わざるを得ない。八束のことを臆しもせずに「好きな人」とか「大事な人」という。静穏が過去の恋人たち相手に芸術的な意味合いで無茶を施したことはうっすらと聞いてはいたから、彼女らと比べても八束は比べ物にならないと言われているようで、身体が心もとなくなる。そこまでの愛情を抱いてもらっても、自分は静穏に昨夜された「興味のスイッチ」さえ向けてもらいたい。本当に解体されたっていいのだ。静穏のあれもこれも欲しがっているから、手に負えない。
だが、静穏はどうやら「興味のスイッチ」の中で興奮して性欲を発揮させるような趣味は持ち合わせていないようなので、やっぱりこれは、決まり事を作って、特別な日だけにしてもらおう、と自分を戒める。片方だけが喜ぶようなセックスは、この人とは嫌だ。
考え込んでいたら、「八束?」と声をかけられた。
「あ、いや、ごめん。昨夜みたいなことは、なにかスペシャルな日だけにしておこう、と思ったから。きみの負担になりたくない」
「いや、八束がしてほしいならするよ」
「そういう、どっちかだけが楽しくて片方が醒めてるみたいなのはさ、あんまりよくないなって。それに僕は、きみの普段のやり方もすごく好きだ」
「そう?」
「うん。触り方が器用だと本当に思う。指の固さが――あ、」
そこでふと昨夜の匂いのことを思い出し、静穏の手を取って匂いを嗅いだ。
「あ、やっぱりまだちょっとする」
「なに、なに?」
「いや、昨夜なんか油みたいな? 匂いを嗅いで。きみの指からしてたようだったから、なんだろうって」
鼻面から静穏の手を外し、太くごつごつとしたてのひらを見てみると、爪のあいだが青緑の色をしていた。普段、ここは主には黒い。それは作業の汚れが洗っても落ちずしみついてしまっているからだと分かっているが、色がついていたことはなかったように思う。
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匂いを嗅いだ。なんの匂いなのかがわからないが、この場に不釣り合いな匂いだと思った。古臭い、油のような匂い。独特で、でも日ごろ静穏から漂う材木と混じった機械油の匂いとも違う。だが食品などでは決してない。むしろ有害さを感じるような。
視界は、塞がれているのでどこから漂っているのか方向でしかわからなかった。手は、頭の上で拘束されているのでやはり確かめられない。ベッドにうつ伏せて尻だけあげる格好で、畜生にでもなったこれを、望んだのは八束だ。無理を言って頼みこんだ。正直、とてつもなく勇気のいる要求だったのだが、静穏は苦笑して、最終的には承諾してくれた。
その匂いの元を確かめようと、必死で不自由な身体を捩って鼻面を匂いの元へ近づけようとしたら、無言のまま、前触れもなく、背後からひと息に静穏の逞しい男根に貫かれた。
「――あああああっ……あぁっんっんっんっ……――」
衝撃で、だらしのない身体は快楽の頂点を見て、数度に分けて盛大に漏らした。過去の男と比べるのはとても失礼で無粋だと承知で、でも八束はどうして、と思わずにはいられない。静穏は終始無言だった。こういうときは、少なくとも八束が過去関わってきた男たちは、言葉で八束を嬲ったものだ。漏らしやがったとか、舐めろとか、この犬が、とか。蔑みの言葉に行為を乗せて、ぶったり蹴ったり髪を掴んだりと、身体を好きに扱われる。それが好きだったはずなのに、いま自分は、明らかに興奮していた。沈黙を貫く静穏の息遣いと、局部から粘る水音だけが聞こえる。
顔をシーツに擦り付けていたら、目元を覆う布地がずれた。視界が自由になっても、匂いの元は知れなかった。快楽に負けて負けて仕方のない身体をなんとか捩り、静穏を振り返る。その顔を見て、腹の底から恐怖を感じた。静穏の瞳に宿っていたのは、興奮ではなく、冷徹だった。どこまでもつめたく、蔑みも嘲りも侮りさえも存在しない、虚空の瞳。
底のない真っ暗な洞穴を覗き込んでいるかのような心地だった。この奥に、なにかとてつもなく恐ろしい、八束にとって怖いものが潜んでいる。それに見られている。存在を舐めて、審判されている。――こんなに怖いものがあるだろうかと、全身に寒気が走り、体表が粟立った。その萎縮で中にある静穏をきつく締め、そのまま自身の底知れぬ、覚えのない快楽へと転がるように落とされてしまった。
ヒュ、と喉が鳴る。静穏は八束の腰を無遠慮に掴み、腰を動かしはじめた。時折止まり、じっと見る。つながる場所をなぞられ、性器の入るそこにさらに指を入れられて、八束はもう身体も、心も、よすがを失って身悶える。
「――あっ、や、やだっ……無理だから、からっ……静穏、『もうやめてくれ』……っ」
それをくちにできたのは、冷静な判断からではなく、心からの懇願だった。だが静穏はそれにちゃんと気づいた。気づくぐらいに冷静でいたのだろうか。あの目には、興奮がひとかけらも宿るようには思えなかった。
指を抜き、性器を抜き、ずれた目隠しを外し、両手の拘束を解かれた。それで、仰向けにそっと寝かされた。
「――大丈夫?」
八束を気遣って覗き込まれる。その目には心配と愛情がこもっていて、一瞬で安堵した。八束が「やめてくれ」と言ったら、この無茶な行為はいったんやめる。それをちゃんと実行して、いつもの、少なくとも八束に親しい静穏が戻ってきた。
ぼろぼろと涙が止まらない。泣くつもりもないのに、涙ばかりが出た。目玉から水分だけが勝手に落ちる、という感じで。泣きながら静穏の太い首に腕をまわし、縋りついた。
「大丈夫? ごめん、やりすぎた? 八束、八束?」
「うー……」
「八束、」
そんなに優しい声で呼ぶな、と思う。さっきまでの恐怖に、あまい後味があるとわかったら、これから先もっともっととねだりそうでそれもまた怖い。
「……大丈夫、」
「本当に? もっと泣いてていいよ」
「いや、大丈夫。びっくりしただけだ。……静穏、きみはいってないだろう」
腹に当たる静穏の性器は、ぬめっていて、まだ太く、力があった。
「ゆっくりしてくれたら大丈夫だから、……いつもみたいに、」
「いいの? 無理してないか? だって泣くほど」
辛いんじゃ、と言うはずだった唇を、くちで塞いだ。
「――ん、八束。本当にいいのか?」
「いいんだ、……してくれ。これが、まだ、欲しい」
「……あんまりそういうこと言うなよ、」
「え?」
「困ってしまう」
ゆっくりと挿入された。ゆっくりするのには、とても力がいるんだとわかった。だってさっきよりも静穏の手指に繊細な力がこもっている。耳の横に置かれた手を握ると、それがわかる。
(――あ、)
指に唇を寄せて、さらにひとつわかった。
(静穏の指からする匂いだったんだ)
この古ぼけた匂いは、そのうち気にしていられなくなるぐらいに、なった。
(――気持ちよさそうな顔になったな)
目を閉じて、集中して、静穏は快楽のために八束を穿つ。雫になって落ちる汗を、甘露かのように舌で味わった。
倉庫を住居兼作業場として借りたい。父が連れて来たのはそういう変わった男だった。同い年だというが、三十歳には見えぬほど髭でもうもうと顔が隠されている。欧米人ならそういう男性は当たり前だろうが、日本ではちょっと合わない。もっとも年齢に見合わない風貌というのは自分もそうか、と頭髪を意識する。姉が亡くなって以降で加速度的に髪は真っ白くなった。苦労が多かったわけでは決してないのだけど。
父とは淡々と契約を済ませた様子だった。あの物件だけは不動産屋も仲介をしたがらない。それだけちょっと変わった事故が起こった物件だからだ。けれど男はそれを気にしない。聞こえてくる話を聞いている分には、「第六巻は私には存在しないので、分からないものはないのと同じです」と飄々と答えていた。変わっているというか、まともな性分の男に思えない。あの物件を選ぶことや見てくれからしても、まともな職業ではないのも確かだ。
でも、と八束は思う。この男の運転は丁寧で安全だった。車の運転で気が立ったり苛つくタイプではないのだろう。マシンとしての車の操縦を楽しんでいる感じがした。来客用の月極駐車場での縦列駐車も見事な腕前で、聞いたら大型免許も取得しているとのことだった。
そう、きっと悪い人間じゃないのだ。必要な技術をきちんと備えている一般人。でも何故だろうか。八束はこの男を見るとなんだか苛々する。人を食ったような受け答えに聞こえるからか? どこか浮世離れしていると思わせる風貌だからか? 茫漠としているかのような表情を見せるくせに、時折鋭い目線をむける。そのせいか?
姪は夏休みの課題に自室で取り組んでいた様子だったが、飽きたのか暑さに参ったのか階下に降りてきた。姪を見て男は「お子さんですか? いくつ?」と訊ねる。姪は笑って「九歳です。小学三年です」と答えた。
「ご結婚されていたんですね」
「いえ、あれは姉の娘です。姪です。僕は独り身です」
「そうでしたか。失礼をしました」
「まあ、あれの両親はもういないので、僕と親父で面倒を見ています」
「え?」
そこまで答えると、父が割って入って「八束、セノくんにこの町を案内してやりなさい」と言う。
「セノくん、生活必需品も必要だろう。スーパーとかドラッグストアとか」
「ああ、そうですね。八束さん、昼飯はまだ?」
首を横に振る。
「なら、安くて美味くてひとりでも入れるような店も知りたいです」
「分かった。親父、四季を任せるよ」
男を車の助手席に乗せて、商店街やスーパーの位置を教える。商店街に入る定食屋で昼飯を取った。この男はこの町に縁もゆかりもないらしい。それがどうしてここに? と謎に思うと、自ら明かしてくれた。
「おれの育った町はSなんです。湖が海みたいに広がっている町でね。川の傍はちょっとそこに似ているな、と思ったんです。実際に見れば全然違うんですけどね。なんか、水気がおれには心地いい」
「なら海の傍でもよかったんじゃないですか?」
「なんだろう、潮風はまたちょっと違うんですよね。あちこち旅して思ったんですけど。かといって山奥の湖のほとり、とかでもまたちょっと違う。これを言葉にするのは難しいですね」
「あの川の傍に住むなら」
八束はちょっと苛々しながら喋った。
「音に注意してください。近年であの堤が切れたことはないけど、昭和の記録では大災害になったことがありますから。ガラガラとか、ごとごととか、そういう音がしたら危険なので避難を。川の大きな岩が動いている証拠です。それだけ水量が増している、と言うことなので。川を見に行く真似だけはなさらない方がいい」
男は冷やうどんをすする手を止めて八束をまじまじと見た。この目。いたたまれなくなるほど瞳孔の色が深かった。
「……なに、」
「いえ、八束さんの職業はなんだろうな、と。お詳しいので。見た目だと市役所勤めあたりの硬そうなお仕事に見えるんですけど」
「当たらずとも遠からず、てとこですね。市の郷土資料館の研究員やってます。専門が河川の歴史で」
「ああ、とても納得しました」
そう言って男は笑った。髭の奥でやわらかな笑みが屈託なく向けられて、八束はうろたえる。そんなに素直にそんな顔するなよ、と思ってしまった。なんだろう、この男は。得体が知れなくて怖い。怖いのに近づきたくなる。そしてまた深淵を垣間見て怖くなる。
怖い? 苛々してるんじゃなくて?
――怒りは二次的な感情なんだよ。
姉の声がよみがえり、はたと我にかえった。もう少し探ってみよう、と八束は「セノさんのお仕事は?」と訊いてみる。
「ヤクザな商売です。美大でね、主には木彫を教える非常勤講師をしながら、文化財の修復なんかもやります。いまのところは」
「ああ、」こちらも納得した。芸術系の大学勤め。技術職。だからこんな見てくれであんな場所に住もうと言うのだ。父がこの男にあの物件を許した理由も分かる。
「木彫ですか」
「他の素材も扱いますけどね」
「僕にはとても好きな現代彫刻家がいるんですよ。ご存知かな、鷹島静穏っていう」
「――あ、いや、ええと」
「すごくね、好きなんですよ。酔っ払うと彼の作品の話ばっかりしてしまうらしいですよ。姪の証言です」
「……そんなに熱心なファンなんですね」
「こうね、学生時代に初めて彼の作品を見たとき、鳥肌が立ったんですよ。なんていうのかな、読みごたえのある一冊の壮大な物語を読んだ気分になるというか。芸術に特別詳しいわけではないですけど、ものすごい技術を持っているのも分かります。同い年だと知ってますます応援したくなりました。ここ数年は発表がないので、次が待ち遠しいですね。いまごろどんな構想をしてるんでしょうね」
「……」
「と、いうようなことを延々と語ってしまうようです。僕はそんなにお酒を飲みませんが、飲むとすぐ酔っ払ってしまうので。絡み酒になって寝落ちします」
「……八束さん、この辺でいい飲み屋ってご存知ですか?」
「たくさんありますよ。この商店街の中にもいくつか。案内しましょうか。お酒、好きですか?」
「いえ、八束さんと飲んでみたら楽しそうだと思って」
そう言って男はまた笑った。今度は、に、と作られた顔だ。油断ならないな、と八束は思う。この男は、怖い。まだおそらくいろんなカードを隠し持っている。
でも手の内を全て見てみたい。
――怖い人ってね、大概は優しい人だよ。その優しさは、八束の淋しさに向き合ってくれる。
五紀、これって合ってんのかな。この男って多分ゲイでもなんでもないんだけど。
もっと近くに寄りたい。怖い。知りたい。怖い。知りたい。
知りたい。おまえ、なんなんだ?
◇◆◇
「八束、川見に行かない?」と静穏に誘われたとき、八束は静穏の作業室の隅で本に没頭していた。
◇◆◇
「八束、川見に行かない?」と静穏に誘われたとき、八束は静穏の作業室の隅で本に没頭していた。
冬だ。真冬だ。今年は雪が多くて、昨日まで散々降った雪で町はいちめん真っ白に染められていた。
「ここから見えるよ」と倉庫の外を指す。
「川面をもっと見たくてさ。あと冬の風に当たりたい。嫌ならおれだけで行くけど」
「いい。僕も肩が凝った」
上着を羽織り、スノーブーツを履く。マフラーで首元をぐるぐるに防寒して、表へ出た。
「さむっ!」
「うわ、油断すると川に落ちるな。川の淵が雪で分からない」
川岸に近づくのは諦めた。ザクザクと雪を踏んで、葦のしげみが切れる適当なところにふたりで立つ。
「――あっという間だな」と呟くと、静穏は「なに?」と答えた。
「年月というもの。僕らそろそろ四十路が見えてる」
「不惑っていうけどさ、本当かな?」
「なってみたらいきなり不惑になるのかな。そうだといいんだけど」
「いや、面白くないだろ」
静穏は白い息を吐いてあっさりと言った。
「惑ってばっかり。それでいいよ」
あ、と思った。この人は受け入れたんだ、と。
自分の人生というもの、あるいは自分の性分や業というもの。芸術家には揃って存在するという繊細な野蛮さを、受け入れて飲み込んだのだ。そして胃の腑で轟々と煮やしている。
それがこの人の次の芸術になる。
「あ、見て八束、鳥だよ」
その時八束は、太陽の影になって反時計回りに旋回する大きな鳥を見た。眩しくて目を細める。
三十歳
不動産屋に仲介を頼み、物件を見ているとそこの大家だという老年の男性がやって来た。「ここの物件で住みたいと仰っててぇ」と不動産屋の若い社員は顔が引き攣っている。早くここから立ち去りたい、という態度が見え見えだ。
不動産屋に仲介を頼み、物件を見ているとそこの大家だという老年の男性がやって来た。「ここの物件で住みたいと仰っててぇ」と不動産屋の若い社員は顔が引き攣っている。早くここから立ち去りたい、という態度が見え見えだ。
「そりゃ、まあ」と大家は静穏を上から下までじっくり見てから「奇特な方だねえ」と朗らかに言った。
「南波さん。そういうわけであとお任せしていいですか?」と不動産屋社員は及び腰だ。「鷹島
静穏さん。三十歳、独身だそうです。決まるようでしたら、もうそちらでやり取りしていただいて。うちはもう」
「ああ、いいですいいです。ここまでご苦労さまでした」
若い社員はこれで、と頭を下げてさっさと車に乗り込んだ。静穏は自分の車で不動産屋の後をついてきただけだから足に困るわけじゃないけど、この逃げっぷりはなんだ? と謎だ。
「はじめに伝えておきますけどね、ここは事故物件でして」と大家は鍵を取り出して言った。
「ここには会社があったんですけど、事故で社屋を移らざるを得なくなったものでね。それ以来ここには誰も立ち入っていませんし、だから住むとなるとまずは片付けからしないといけない。事故の詳細、訊きますか?」
「いやあ、私にはあんまり興味のない話なので。ただ、格安で広い場所を借りられる方が実益あってありがたいな、と」
「本当に奇特な方だねえ。広いは広いけど、住めるようなところじゃないですよ。風呂、ないですし」
「あー、そこはあまり困りません。さっきこの近くに銭湯の煙突を見かけましたし」
「柳の湯ですね。あそこはぬるめのいいお湯ですよ」
ぎい、と油の少ない音で扉がひらいた。社内の事務室兼給湯室として使われていた広間と、実際に工場として使われていた広間とでざっと見静穏が望むだけの広さは充分すぎるほどある。それをあの値段で借りられるのは、かなり魅力的だった。
「埃っぽいな。借りるとなれば、業者を入れないといけませんね」
「それぐらい自分でします。実は広いところを借りたいってのは、作業場として使わせて欲しいというご相談がありまして」
「ほお?」
「私は木彫を主な表現に使っている、一応は、彫刻家なんです。もう何年も発表する作品を作れていないのでそう名乗っていいのか自信はないんですけど。いまは大学の非常勤やったり文化財の修復やったりで暮らしてます。できればここでそういう作業をしたいんです。さっきの不動産屋の話では、交渉次第では好きに使わせてもらえるかも、というお話でしたので。ここは川に近いけど周りに住宅がないから、音をさせてもあまり文句は出ないかな、と」
「そういうことでしたか。そうですね、そういうことならここはちょうどいいかなあ」
大家と屋内を見回り、再度「どうします?」と訊かれた。
「好きにしていいですよ。事故物件ですがお清めとお祓いは済ませてあります。あなたが、――ええとセノさんだったっけ。が、気にならないのであれば。もちろん、住み始めてやっぱりダメだってなった時は、また相談し合いましょうかね。うちは他にも大型の倉庫や家を扱っていますけど、そちらも見ます?」
「いえ、さっき不動産屋で見せてもらったところは、やっぱり値段が。だから私としてはここが願ったりの条件です」
「では決めてしまいましょうか。ここではあれですので、うちへおいでください。おおい、八束」
こんこん、と大家は乗ってきた車のウインドウをノックした。中には白髪頭の男性がだるそうに眠っていたが、合図で起きてウインドウを下げた。その顔は、想像よりずっと若かった。
「私のせがれです。休みだからと運転手に付き合わせました。三十歳とお聞きしましたが、それなら八束と同い年かな? 気が合うといいねえ」
八束、と呼ばれた男性と視線を交わす。八束はそっと、「熊みたい」とこぼした。
「え?」
「髭、豊かですごいですね、という意味です。他意はありません。気を悪くしたらすみません」
「ああ、気にしません。その通りだから」
笑ってみせると、向こうも表情を緩めた。八束、という名前について思いを巡らす。呼びやすくていいなと思った。確か日本書紀あたりで、拳八つ分、長い、というような意味で使われていたかと思う。昔から馴染みのある言葉を名前にしている。静穏は自身の名をきちんと呼ばれたことがない。だからいっそう、良いものとして感じられた。もっとも、自分が想像している「八束」という漢字とは違うものがはめられている可能性もあるのだけど。
八束は「後ついて来られます?」と静穏の自家用車を指した。
「大丈夫ですよ。案内、お願いします」
「遠くはありませんが住宅街なので、道がちょっと狭い。うちまで来たら車は縦列駐車になります」
静穏は笑った。
川が見たい。そう言われたら連れて行けないはずがなかった。姉をだるまにするかのごとく防寒させて、痩せ切った身体を車の助手席に押し込む。姪は最近、小学校の友達の家に遊びに行くことが多くなった。自宅療養――とは名ばかりで、本当はこれ以上の治療を拒否して終末を実家で迎えようとしている痩せた母を、直視できないようにも思えた。
小さな片ではあったが、雪が舞っていた。川辺の親水公園に車を止める。外は寒くて肺に悪いだろうと思い、窓をわずかに開ける程度にとどめた。地球環境には悪いと思いつつ、アイドリングで暖房を入れる。
「冬のね、川が好きなんだよね。静かで、広くて、真っ白」と姉は言った。水筒に詰めて持ってきた白湯を渡してやると、口にするよりは手で包んで温めていた。
「五紀さ、本当に父親を明かさないつもりか?」姪の前では訊けなかったことを訊く。
「四季の親権とか、そうでなくても養育費とかさ。色々、あるだろ。父親には言うべきだと思うんだけど」
「大丈夫だよ。お父さんとは話がついてる。八束も、……実家に戻ってきてくれてありがとうね」
姉の指が、八束の髪に触れた。ここ最近、白髪が目立つようになった。父もそのぐらいで白髪だったというから、そういう家系なんだと思っているが、綺麗なグレイまでにはまだいかなくて、中途半端に老けた感じが否めない。
「四季は、いい子に育つよ。私がいなくてもね」
「なんでそう言い切れるんだ。あの子はいま、幼いながらに親を亡くそうとしてるんだぞ。母親を。せめて父親ぐらい、」
「大丈夫。私がそういう人を選んで四季を産んだ。あの子はタフで、優しい子に育つ。いまは痩せてく私が辛いんだと思う。優しくて痛みが分かる子だからよ。ちゃんと私を見てる。八束も安心して」
貯金ならあるから、あの子が望むように。そう姉は言い添えた。
川面は薄く氷が張っている。今年の冬は厳冬で、雪も深く難儀している。とりわけ川辺は冷えた。鳥もいないんじゃないかと思ったが、葦の茂みに隠れて鴨が固まっていた。
「あ、鳥」
姉は重たげに指を指す。鴨のことかと思ったが違う。どこにいたのか、どこから来たのか。真っ白くて大きな鳥が飛び、眼前を渡っていった。
「鷺かな、でもこんな時期にいる鳥だっけ?」
「挨拶に来てくれたのか、迎えに来たのか」
「よせよ、そういうこと言うの」
姉を咎めると、姉は「私も言いたいこと言っとくね」と答える。
「八束、変な人たちと付き合うの、やめな」
「……」
「身体を傷つけるようなことはね、私はして欲しくない」
八束は黙った。ぎゅ、と肘のあたりを押さえる。そこは先日遊んだ男にいたぶられ、腫れて痛みを持っている場所だった。
「八束はさ、ここと」姉は八束の心臓の部分に手を当て、自らの胸に手を当てた。「こことで、本心から交流したことがないんだね」
「……どういうことだよ、」
「身体の痛みを得て誤魔化してる。本当は心が痛いのに」
ああ、この姉には見透かされてるんだな、と思い、八束はそっぽを向いた。
家族に性癖を告げたことはない。これから先も口にしようとは思わない。いつでも自分は空っぽで、それが恐ろしくて、姉のいう通りに身体の表面に痛みを得て誤魔化している。そうされると心の痛みを忘れるような気になるのだ。心が痛いのは、みぞおちの辺りが痛いのと、よく似ている。痛みで腹をさすっていると、それが表面なのか中身なのか分からなくなる。
でも、常に痛むのは心だ。
「……五紀」
「なに、八束」
「僕はひとりになりたくない」
この際だからなのか、ほろっと本音がこぼれた。もう長くない姉に、行かないで、行かないでと必死で縋っている。現実を受け入れられない。近いうちに自分はこの人を失う。姪よりも恐れ怯えているのは八束の方だ。
「……ひとりにしないでくれ……」
「怖いのね、八束」
「……」
「でも身体を傷つけられても、心の淋しさは募るばかりでしょう。あのね、八束。本心で人と語ったり笑ったり喧嘩したりするのを恐れていると、淋しいだけなんだよ」
運転席のハンドルに突っ伏した八束の、頭をそっと梳かれる。
「私がいなくなったら、四季とそうしてやってね」
「……あの子だっていずれ五紀みたいに自分のパートナーを見つけるだろ。僕には、できない。もうずっと、できないんだ」
「いつか王子様が、って歌があったね。それを望んでるわけ? ばかだなあ、八束」
「……」
「頭はいいくせに、ばかだね」
「うるせえよ。五紀こそ、こんなになって」
「あのね、八束。八束がこの人を見てて怒りが湧く、って人が現れたら、その人を大事にしてみて」
「……なにそれ、」
「怒り、ってね。二次的な感情なんだって。原始的な感情じゃないの。はじめに怖かったり、恐れたりして、もうそういう思いをしたくないから、防衛で怒るの。自分を守るためにね」
「……」
「恋やら愛情も大事だけど、怖いと思う人と対峙することを恐れないでみて。怖い人ってね、大概は優しい人だよ。その優しさは、八束の淋しさに向き合ってくれると思う。これは私の経験則」
姉の手はそのまま背中に降りて、八束の肩甲骨をさする。傷を癒すかのように。
「八束がそれを経験して実感できたら、その時はそれを四季にも伝えてあげてね」
「……」
「泣くな、ばか。こっちが泣いちゃう。ほら八束、また鳥だよ」
鳥だよ、と姉はもう一度呟いた。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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