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私が教える三つの大学のうち、もうふたつにも確認を取る。そちらでは問題は起こっておらず、「どうかされましたか」と訊ね返されるぐらいだったので安堵するも油断は出来なかった。私の身辺で不審者がいるようですのでと注意をお願いしておく。
なにかを買って帰らねばコーヒーすら飲めないと分かっていたが、なにも口にする気になれず、警戒しながら帰路についた。車を停め、倉庫の周りを窺ってから屋内に入る。室内に明かりはなかったが、倉庫の隅に張ったビニールシートの隙間から明かりが漏れているのが分かった。誰かいる、と緊張が走る。とうとう室内にまで侵入されたかと心臓は逸るも、脳は冷静だった。木彫に使うハンマーを手に取り、じわじわとビニールシートの一角へと近づく。そっと近づいて、シートを一瞬で剥がす手順を脳内でシミュレーションする。シートに手を伸ばす。ハンマーを握る手を軽く動かす。いま――とひと息にシートをめくると、中にいた白髪頭がびくりと身体をのけぞらせてこちらを見た。うずくまって私の構想ノートをめくっていたのは、八束だった。
「――びっくりした。おかえり? どうした?」と八束はなにも警戒なく私を見あげた。
「あ、いや、」私はハンマーを置く。「ここだけ明かりがついていたから誰かと思った」
「ああ、ごめん。夕飯を一緒にどうかと誘いに来て、きみを待ってる間にここに入ったら止まらなくなってしまって」八束は手元のノートを大事そうに撫でた。
「……八束さん、今日はひとりで出かけないでっておれお願いしたよね」
「うん。でもきみのところに来るぐらいならと。今日親父はいないし、四季もえっちゃんところだって言うし」
「車は? 表に停まってなかった」
「本を読んでたら肩が凝った。ウォーキングがてら来た」
「危ないことは?」
「え?」
「いや、……いい」
ふ、と息をついて私はシート内の床に腰を下ろした。垂れ下がったシートの口を閉めて空間を隔離する。狭い制作スペースで八束とふたりになって、ひどく疲れた、と思った。
疲れた。誰かといるからこんなに疲れる。
傍らで片膝を抱いていた八束は、「なにかあった」と訊ねた。
「目が窪んで濁ってる感じがする。ひとりの方がいいなら僕は帰ろうか?」
「歩いて?」
「大した距離じゃない。いい運動だ」
そう言って立ちあがりかける八束の手首を咄嗟に掴んだ。そのまま引き寄せる。誰かといるからこんなに疲れているし、今日起こったことはなにひとつ解決に至っていない。けれどこうして人を衝動的に求めてしまうのは、私が生物であるという紛れもない証拠なんだろう。
薄着の八束から、熱が伝わる。今日はシャツではなくグリーンのカットソーだった。その裾に手をかけ、めくって八束の肌をあらわにする。頭痛がひどく、目も霞む。ひとりになるべきだ、と脳が警告を告げるのに手は動く。
「セノさん?」
「身体を見たい。脱いで」
「セノさん、」
「寒い?」
「……寒くはない、けど、」
「脱いで。全部」
「どうしたの、」
そう問われて、私は言葉をつぐんだ。傷がないか確認したいと思ったのが動機だが、それだけを理由にするにはいまの私は理性を失いかけている。
裾から手を入れ、八束の素肌を胸まで晒す。そこまでされると意図は汲めずとも八束はされるままになってくれた。自ら襟を抜き袖を抜き、半裸になる。手を這わせて、身体を探った。目立つ傷はない。ベルトに手をかけると、八束はさすがに抵抗して私の手に触れた。
仕方がないのでそのまま八束の腹に耳や頬を当てて呼吸をした。八束の体内の音を聞く。さまよっていた八束の手は私の髪に触れた。
困ったような戸惑いの仕草で、八束は床に座る私と目線を同じにするように、膝を突いた。目と目が合わさる。強いスポットの陰影で八束の白髪が光る。八束の頬を手で包むと、八束も私の頬を包んだ。互いが互いを引き寄せて唇を重ねる。触れて離れ、また触れて離れ、を繰り返した。そうして八束の腕に頭をすっかり抱かれた。
走る八束の心音が聴こえた。気持ちがいい。けれど不思議なほど性欲に結びつかない。水に浸かって溺れる恐怖が込みあげる。いま私は混乱している。
「きみは、」
触れているから、八束の身体が少し硬くなるのが伝わった。
「得体が知れない」
「……気味が悪い、てこと?」
そうかも知れない、と思う。
そうかも知れない、と思う。
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五.
陽が照っているような小雨のような、じりじりとした暑さが数日続いた。車通勤に冷房が欠かせなくなり、町には湿度が満ちる。午前十一時の発表で気象庁が西の地方の梅雨明けを宣言した日、私は大学の教務室の片隅で、この事態をどうすべきかじっと考えていた。
私の向かいには日頃から世話になっている奥山という教授がいた。彼女は肩書きこそ高いが同年代で話がしやすい。ゆえの困惑もあるだろう。可哀想なぐらいに眉を寄せ、テーブルの下で硬く拳を握っている。
私と奥山がかけているテーブルには、A4サイズのコピー用紙に印刷された写真が載っていた。どれもこれも端が欠けたり破れたり、丸められたものもある。総数十枚ほど。大学構内の掲示板に多数の掲示物の上から貼られたものを、無理やり剥がしていた。
「防犯カメラの映像はいま守衛に確認中なので現時点ではなんとも言えないんですけど」と奥山は怒りと戸惑いを滲ませた声で喋る。
「いたずらにしては悪質です。誰がやったか、なぜやったか、目的が分からない」
「……お騒がせして申し訳ないです。この人との関係性を、奥山先生はお訊ねにならないのですか?」
「聞いてどうするって言うんですか。相手が学生だっていうなら話は別ですけど、鷹島先生のプライベートなんですから、黙っていたっていいしこちらが全てを把握する必要はないと思っています。ただ、……多数の学生がこれをすでに目撃していますので……」
「そこですよね。誠に申し訳なく」
「謝らないでください。むしろ、鷹島先生はもっと怒っていいお立場にあるかと思うんですけれど、落ち着いてらっしゃるので」
「いえ」
私は窓の外へ顔を向けた。学生から覗かれぬようにブラインドが下りているが、その外には夏間際の日差しがあるのだろう。
「……ものすごく怒っています。これは私への攻撃ですから。対象を私としながら、晒されたのは私ではありません。そのことに、すごく、……怒りを感じます。やり口が異常で」
窓の外から視線を戻し、奥山の顔を見る。日頃から元気でしゃきしゃきと動く彼女には、心からの同情の顔があった。私はひどい顔をしているだろうか。髭で隠れて分からないといい。だがとても怒っている。怒りをいまなら誰にでも向けてしまえそうなほど。それを押さえ込んでいるから、頭痛がひどかった。
印刷された写真は十枚それぞれに異なっていた。ストーリー性を感じる出来栄えだ。まず私と八束がふたりで写っているもの。数カットあり、私の倉庫の入り口でたたずむものと、親密に肩や頬を寄せるものなど。これらは私の住居付近を望遠を使って隠し撮りされたものと思われる。画質はあまり良くないが、それでも肩を抱き合っているふたりは私だと分かり、八束だと分かる。
そしてその他の数枚は、八束が拘束されているものだった。八束が着衣のまま紐で縛られたもの、裸体に縄を打たれているもの、傷をつけられているもの。陵辱、という言葉が浮かぶ。これらは室内の感じからホテルなどだろう。そして実に八束を貶める側から撮影されている。見ようによっては私がしていると勘違いも可能だろう。
写真の八束の目線はわざとマジックで潰されている。掲示した本人がそうしたのか、学生がいたずらでもしたのかは分からない。だが私と親密に写る八束が、そのままその性癖を明らかにされてしまっているのだ。これを私の職場にわざわざ貼り付ける辺りの陰湿さが、私の頭痛をいっそう酷くしている。
サディスティックだ。八束が以前言った言葉が蘇る。「乱暴者の男と遊んでる」。
この件の発端は、大学に来る前に知った。奥山からの連絡で、構内に私と関連するひどい写真が掲示されている、という内容だった。すでに学生が群がっていたところを、気づいた事務員が発見し剥がしたらしい。事実確認をしたいとの話ですぐに大学へ出向いた。授業を休講にして、構内の他にも貼られた形跡はないか、防犯カメラは、と確認している。それをしながら私が行ったことは、八束自身の安否確認だった。もしこの写真が過去のものではなく、現在進行形で施されているものだとすれば危険だ。だが八束にかけた電話に八束は応答し、「休みだから家にいる」というので今日は外出をしないようにきつく頼んだ。
現在の八束自身に問題がないのであれば、やはりこれは過去に八束が遊んできた男が撮影したものを、私の職場で明らかにされてしまった、という見方で間違いないだろう。そしてその意図はやはり私への攻撃だ。社会的に抹消するのであれば手っ取り早い方法だ。
私と八束をこれだけ隠し撮りしているのであれば、関係性を知っている。私を傷つけることで八束自身を傷つける意図があるかどうか。奥歯を噛むとじゃりっと頭痛がした。
黙り込む私に、奥山は「この方はご無事ですか?」と訊いた。
「え?」
「鷹島先生と写っていて、痛めつけられているこの写真の、白髪の男性です」
「先ほど確かめました。無事です。……私がこれをした、とはお考えにならないのですか」
私が八束を乱暴し、趣味で撮影したものを流出されてしまった。そういう見方をされてもおかしくない。
奥山は、「鷹島先生はなさらないですよ」と言った。
「分かりませんよ」
「そもそも、ご自分の立場を危うくするものを自ら貼り出す意図も分かりませんし」
「……人は分からないものですよ」
「そもそも、ご自分の立場を危うくするものを自ら貼り出す意図も分かりませんし」
「……人は分からないものですよ」
「そうですね。ロープワークは心得ていそうな感じはします。実習でもやりますしね。時代が時代なら、死体解剖に参加してアナトミーを極めたレオナルド・ダ・ヴィンチみたいになっていたかもしれません。以前、羊の解剖には参加されたご経験があるとも伺っておりますし。だとすれば尚更これは鷹島先生ではありません。美しくありませんし、こんな無駄な傷はつけません。それにカメラに収めるはずがないんです。美術解剖学ならスケッチやデッサンでしょうから」
「……」
「芸術の基本を理解してない方の暴走です。鷹島先生と、一緒に写っていらしてる方への侮辱や冒涜です。許せません」
「……ありがとうございます。そんなに信頼をしていただけて」
「日頃からの人徳、というんですよ。鷹島先生の作品と学生への指導を見ていれば、そう思います」
それから奥山とこれからの話をした。大学側で犯人を特定してみる、警察沙汰にするかは今後の判断で。学生への配慮。私の授業は夏休みまでの残り数回を残しているが、これは奥山が引き継いで私自身は騒ぎがおさまるまで表に出ないこと。一コマ単位で報酬を得ている私にとってはすなわち主収入を失うことでもあったが、内容が内容だけにやむを得ない判断だと思えた。
「それとその、後期の授業ですが」
「山本さんを後任に、というお話、進めております。こんなことにはなってしまっていますが、鷹島先生には転機ですね。Tでしたっけ」
「……まだ本決定ではないのですが」
「ならばこの件は早急に片付けなければなりません」
奥山の言葉は、その通りだと思った。耐えている場合じゃない。やり過ごすのも違う。殺す覚悟で向かわねば。
「……帰ったのかと、」
「学校に四季を迎えに行ってただけだ。四季には今夜は遅くなると伝えてきた。……コーヒー、入れたんだ。タンブラーに入れた。まだ洗濯をしてないから、これからコインランドリーへ行こう」
意図が掴めなかった。
「洗濯?」
「僕がするって言ったんだ、約束は違えない。コーヒー持って行こう」
「……ふたりで一緒に?」
「一緒に、」
手首を掴み、引っ張られて私は立ちあがる。八束の車にランドリーバッグを載せて、近場のコインランドリーへ向かった。ランドリー内には複数名の人気があったが、やがていなくなった。私は八束と休憩スペースに着席し、洗濯の終了待ちでコーヒーを飲んだ。
「ちょっと冷めちゃったな」と八束はひとりごとのように呟く。
「……雨、当たってきたな」
「……ずっと訊こうと思ってたけど、セノさんはあの倉庫で怖くないの、」
「怖い?」
「川の傍だから、こういう雨季は色々と気にすることが多いんじゃないかと思って。増水するし、水音が気になって眠れないとかさ。湿気るし、川霧で真っ白になる時もある。怖いっていう意味では、あそこは事故物件だし」
「事故の詳細は気にならないし、安いから助かってるよ。湿気は気を使うけど、音で眠れないことはない。川霧で白い朝は結構好きだ。おれを隠してくれてる心地になる」
コーヒーはぬるい温度で浅煎り特有の酸味がきつく、ようやく目が覚めてきた気がした。
「セノさんが髭を生やしてるのってさ」とどしゃぶりになった屋外とまわる洗濯機の音の中で、八束が言葉を発した。
「ファッションとかものぐさとかなんでもなくて、自分を隠したいからか? 誰だかわからないように。タカシマセイオンだって分からないように?」
私は目を閉じた。コーヒーを飲んで息を吐く。
「……どうだろう。よくわからないんだ」
「セノさんは自分に対して実はすごく否定的だよね。人にはおおらかなのに。なぜ?」
「……作品制作をしていない。発表に至れていないんだ、もう長いことずっと」
外の雨は、バケツをひっくり返すかのような騒ぎになっていた。またコーヒーを飲む。
「彫刻家鷹島静穏は、なぜ作品の発表をしなくなったの?」
八束のその問いは、意外にもあっさりとしたものだった。なぜ発表できないのだという責めも、こんなに待っているのにという懇願も、これから発表するんだよねという期待も込められない。彫刻家鷹島静穏に訊ねるというよりは、私に訊ねているのだと分かった。おまえなにかあったのか? と近い人を思いやり添おうとする姿勢が見える。人をひとりにしたくない八束。
これを得たくなかった。得たら後悔する。それぐらいに渇望していたことだった。
話していいのだ、と、思えることがこんなにも優しい。
話していいのだ、と、思えることがこんなにも優しい。
「きっかけは、結婚生活がうまく行っていなかったことだ。相手の浮気も一端だったけど、お互いのことに夢中になっていたから、夫婦というよりは共同生活者みたいな感じで。整えようとしなかったからいつの間にか家がすごく荒れてた。彼女が帰って来ない夜は何度もあったし、おれが帰らない日もあった。そういうのがいきなり堪えてしまったんだ。こんなの違うじゃん、寮生活してんじゃないんだよ、って。子どもも作らなかったからますます好き勝手。それをさ、整えようとしたんだよ。ちゃんと夫婦にってか、彼女と家族になろうと思った。掃除して洗濯して風呂沸かして食事作って、食べさせて、片付けて、寝かす。そういうことをやっていたら、ウェイトが変わって作る時間がなくなった。高校の非常勤で美術を教えている時で、仕事から帰って家事やって、アトリエに制作に行く時間はなくなったんだ。でもそれはそれで充実したよ。彼女とよく話すようになったし。彼女との時間が増えた分だけますます制作からは遠ざかる。気づいたら、半年まるきり作ってなかった。あちこちのコンペなんか締め切りすっ飛ばしててさ。それでもこれは結婚したんだから当然のことだと思った」
「……」
「一年経って、なにも発表できるものがないことがプレッシャーになった。彼女と充実したと思える時間を過ごせば過ごすほど、大切になるほど、制作からは遠ざかるんだ。焦ったよ……焦って苦しかった。生活の質は落としたくなかったけれど、制作をしなきゃって。焦るほどうまくいかないよな。彼女といる時間が苦痛になって、彼女のために食事を作るのに、彼女の帰宅時間になるとドキドキしてくるんだ。パニックになって、過呼吸を起こして動けなくなった。それが何度も続いて、医者にかかってね。療養が必要だと言われておれには受け入れられなかった。休んでる暇はないんだよって。こんなことでつまづいてる場合じゃないんだよって。彼女も大事にしたいけど作品も作りたい、それはおれにとって両立しなくて、……結果的に離婚を切り出されてほっとした。ひとりになるべきだと言われて、その通りだと思った。おれは、ひとりにならないと作れない」
どしゃぶりの中を洗濯に来る人間もいないのか、コインランドリーは貸し切り状態だった。内も外も凄まじい音がしている。でもこれも私を覆い隠してくれているようで、嫌いじゃない。
「離婚して、しばらくあちこちした後に引っ越してミナミ倉庫を借りて、新しい生活をはじめたわけだけど、おれは未だに作れていない。きっかけは結婚生活だったんだけどおれの制作活動そのものがもう破綻しているのかもしれない。技術は持ってる。技術で飯食ってるから。でも才能とかさ、溢れる創造力とか、そういうのは限りある資源みたいなもんで、枯渇したらもう取り戻せないのかなって考えてしまう。彫刻家に戻れるなら、すぐにでも戻りたい。そのための非常勤講師で、責任を負わない仕事をしている。でも材木に向かうと、形がぼやけるんだ。中に見えているはずの3Ⅾを取り出せない。……そういうのがもう、何年も」
「そうか……」
八束は黙った。洗濯機がピーと電子音を鳴らし、終了を告げた。ここのコインランドリーは乾燥機と別になっているので、いったん取り出さねばならない。乾燥機への投入は八束がやってくれた。乾燥機を回してから私の隣につき、しばらく黙っていた。
雨は小降りになってきたようだ。
「鷹島静穏に憧れ持ってるあなたには、こんなこと言えなかった……言っちゃったね。すごく怖い」
私はうなだれる。八束の目線がこちらへ向けられたが、目をあけていられない。
「……あなたに、タカシマセイオンはこんなものかと失望されるのが、怖い」
「発作は?」
「え?」
「過呼吸の発作はいまでもあるのか?」
微妙に筋の逸れた質問だった。私は面食らい、八束の顔を見た。表情は険しかったが、私への心配が滲んでいた。
「いや、離婚してからは起きてない」
「そうか。ならよかった。職場にもいるんだ、パニック発作起こして病休取ってる人。その人は適応障害と言ったな。あれは辛いと聞いているから、いまきみに起きてないならよかった」
八束の手が伸びる。頭に触れて、髪に触れて、くしゃくしゃと撫でられた。
「失望はしない」
「……」
「きみがタカシマセイオンだって信じる。いままでの謎が符号するからな。信じた上で、きみのファンをやめるとか、嫌いになるとかじゃない。……さっき言葉が出なかったのは、怖くなったからだ。僕もきみが怖い。きみの作品を見ているから尚更思う。失望されるならこっちの方だろうし。……きみはすごいんだよ。僕はいま神様と交信している」
「……すごい人間じゃないんだ、全く、残念なことに」
「話してくれてありがとう。勇気が要っただろう」
髪を混ぜていた手がとどまり、頬へ降りてきた。私は頬擦りするかのように顔を寄せる。
「きみがひとりにならない選択をしてくれてよかったと思う。僕はきみをひとりにしたくないんだ。きみは僕の傷を手当てしてくれたから。当たり前に優しくて、当たり前にお人好し。だから発作なんか起こしてしまったんだろうけど、きみの優しいところが僕にはすごく染みる。僕は自分を大事に出来ないから、きみにされるとどうしてもここが痛くなる」
トン、と八束は心臓の辺りを叩いた。
「出会えて嬉しいよ。嬉しいんだ」
私は目を閉じた。八束に100%伝わったわけではないだろう。伝えられた気もしない。
だが緊張はとけた。ポーカーフェイスはいつの間にか素に戻る。お互い、戻る。
これはゲームではない。
「そっか……」
私が言えたのはたったそれだけだった。八束の手は私の背に当てられ、ゆるやかに動いた。傷を手当てするかのような仕草だった。
ふたりでいるのにひとりですするパスタは、あまり味を感じなかった。夏衣と暮らした頃の食卓がよみがえり、かえってげんなりとした。八束は全く動かず、そういうポーズを取る彫像にでもなってしまったかのようだった。
食べ終え、八束の分にはラップをかけた。かけてから八束の背に触れた。八束はこわばる。けれど顔を上げた。戸惑いを通り越して怒りが満ちているのか、私を鋭く睨む。
その頼りない手首を取り、私は八束を引っ張る。制作スペースへと八束を導く。
「なんだよ、」
八束は抗ったが、それでも手を引かれてついてきた。倉庫のいちばん北側には、ずっとビニールシートを垂らした一角があった。カーキのシートの内側には、八束たち来客には見せづらいものを置き、そこで制作をしている。六畳ほどのスペースにいまは、私が若い頃に制作をした彫刻を置いていた。それを見た八束は、みるみる目を見ひらいた。
「『私を突き抜ける風』……」
「うん」
「なんでここに、……K県の美術館にあるんじゃ、というか、ここは」
置かれている作品は一体だけではない。私が若い頃に制作し、手元に残してある作品もここには置いていた。
「損傷箇所の修理で美術館から送ってもらったから。ほら、こういうところが割れて材木が反ったり」
スツールの上にはクロッキー帳を置いていた。修復にあたって過去のアイディアや設計図を記していたものを取り出し、参考にしていたのだ。それを八束は手に取った。
「見ていいよ。スケッチとかアイディアノートみたいなものだから」
「この作品の?」
「んー、この時期の」
そして八束は、そろそろとクロッキー帳をめくりはじめた。それきりまた動かなくなる。私は時計を確認し、「もう行くよ」と八束に告げた。
「見たいなら見てていい。帰るのも勝手だ。パスタ、温め直して早めに食べて。五時すぎには戻ると思う」
私は八束のために明かりをつけてやる。そしてシートを再び閉じた。
授業はなんだか上の空だった。過去の経験の反射から指導していた、と言える。片付けをして大学を出る。なにか買い足すものがあったはずだが頭が働かず、結局真っ直ぐ倉庫へ戻った。
車を走らせながら、考えていた。こんな形で知らせるつもりではなかったが、言うタイミングを掴めずにいたのだから自業自得だ。八束はどう思ったのだろう。身を隠すようにして髭を生やし、制作発表から遠のいている男が憧れの芸術家と一致するだろうか。私だったら信じない。そんな落ちぶれた姿など、憧れなら尚更見たくはないのだ。
……違う、自分が見せたくないのだ。見せて、失望されたくなかった。
……違う、自分が見せたくないのだ。見せて、失望されたくなかった。
これで帰っても、八束がいない可能性は充分にあり得た。きみは嘘つきだと言って別れを切り出されてもやはり私のせいなのだった。友人にすら戻れず、店子として月一の家賃の納めのやり取りで終わる。そこまで考えてそれもいいかもしれないな、と私は思った。潮時か。藍川が返事を待っているのだから、むしろさっぱりしてTへ行けるかもしれない。
梅雨が明けるまでは、と思っている。本格的な夏が来るまでは。夏休みに入れば大学の前期課程は終了する。そこで切るのがちょうどいい。だから、夏が来るまでは。この雨季が終わるまでは。
――梅雨が明ければヤツカくんの誕生日がすぐだよ。
――元妻となんか誕生日を過ごさせない。
その約束が、強固に結び絡まって、私の身体を縛る。ここは居心地がいい。ずっと浸っていたくなる。けれどそれでは私の望む芸術は成せない。
――あなたはひとりになるべきよ。
――人ってひとりにならない方がいいんだ。
――ヤツカくんは倉庫でひとりでいるセノくんが嫌なんじゃないかな。
人は人といるから惑う。私は、どうすべきなのだろうか。
倉庫に八束の車はなかった。やはり帰ったか、と私は納得しながら落胆する。いや、当然なのだ。もう連絡も取らないのかもしれない。私が望む「ひとり」がやって来る。もう後がなくなって、彫刻のためだけに粉骨砕身。本当か?
室内のシンクの水切りかごに八束が食べたと思われるパスタの皿が伏せられていた。捨てられたわけではなさそうだった。倉庫の奥のビニールシートをめくったが誰もおらず、私の若い頃の作品が鎮座しているだけだった。スポットも消されている。
大きくため息をつき、顔をてのひらで揉み込む。疲れたな、と思った。こういうのは、疲れる。自分のやり方のまずさが原因だからどうしても自己嫌悪に陥る。シートの中の制作スペースでぼんやりしていると、表の鍵がまわって誰かが侵入する気配があった。
鍵を持っているのだとすれば、八束か大家しかいない。知らぬ前に合鍵でも作られていれば分からない。危機意識が鈍くて働かず、シートの外へ出る気力がない。どうすべきか迷っているうちに足音が近づき、シートがめくられて私は目を細めた。険しい顔をしてはいたが、八束だった。
「おかえり」と固い響きで八束は言った。
「昼だから浅めにしてみた。パナマ・ゲイシャだって。せっかくだから天蜜堂で黒糖の寒天も買ってきたよ」
「いいねえ。ちょっとおれ授業の準備してるから、勝手にやっててくれる?」
「あ、昼なんにするんだ?」
「冷蔵庫に食材入れてあるし、作業机の段ボールの中にも色々と残ってる。見繕って食べたいものがあったら言って。これだけひと段落したらおれが作るよ」
「へえ、大きな箱だな」
「こんな箱でチルド品送られたんじゃたまったもんじゃないんだが、まあ、うちの母親はそういう人なんだ。中身もチルド品だけじゃない。なんつーか、常識を突っぱねてる人っていうか」
箱を探り、八束は「本当だ、本が入ってる」と笑った。
八束は冷蔵庫と箱の中身を見比べて昼食のメニューを選び始める。私は授業の手順を確認した。今日は二年生の授業で、大きな木材を扱う。授業選択者数は八名。場合によってはチェーンソーなど大きくて凶暴な道具を使う。怪我に注意せねばならない日だ。
集中していたため、八束の手が止まっていたことに気づかなかった。
「――さて、昼にしようか。メニュー決まった?」と私は訊ねる。だが八束は箱の前から動かず、よく見れば八束が手にしていたのは実家から送られてきた食材ではなく、箱に貼付してあった配達伝票だった。そこには、S県の「鷹島燿子」から「鷹島静穏」へと荷物を送るように、住所と名前が記されている。咄嗟に、しまった、と思った。こんな形で。
「八束さ」
「……鷹島静穏」
と八束は伝票を読んだ。「宛てに、鷹島燿子から荷物が届いている。ここの住所で」
「……うん」
「なぜ?」
「それは、……」
八束は伝票から目を離し、私の目を見た。戸惑いと驚き、疑い。疑問にも怒りにも取れるため、答えるべきを探せない。
「きみの恩師の藍川先生、……も、きみをタカシマ、と」
「……ああ」
「でもきみは自分を『セノ』だと言い張った。鷹島静穏ではないのに、荷物を受け取れるのか。どうして?」
「……セイオン、じゃないからだよ」
私は観念した。八束が「まだ言うのか」とでも言いたげに眉を顰める。
「見せようか」
私は部屋の隅へ行き、ベッド下に収納してある貴重品の中からパスポートを取り出した。期限は切れていない。それを八束に渡し、「旅券のところ見て」と促す。
八束はページをめくる。いまより若く髭のない私の顔写真とともに、ローマ字表記がされている。「Seno TAKASHIMA」とあり、自著欄には私の字で「鷹島静穏」と記してあった。
「うちの兄弟は、ていうか親父の名前からもうひねくれてるんだけど、癖があるんだよ。兄貴は野原を逆さに書いて『鷹島原野』……これは普通に読むか。でも人につけるって感じの名前じゃないよな。妹は鷹島嵐。音読みでもなんでもなく女の子に『あらし』って付けちゃうような親だからさ。それでおれは、静穏。無風の穏やかな日に生まれたから静穏なんだけど、呼びやすさ重視で読みは『せの』になった。ストレートに読まれないのは昔からずっとそう。大学に入って作品を発表するようになってから、面倒だし通称でいいやと思って『せいおん』呼びを訂正しなかった。そしたら活動名みたいになってた。……それがタカシマセイオン。でも本名は、タカシマセノ。だからおれは、セノで合ってる。あなたが呼ぶセノさん、で合ってるんだよ」
「……」
「急にそんなこと言われても、だよな」
八束が混乱して絶句しているのは分かった。ちいさく息をつき、「どっちでもいいよ」と私は段ボールを漁りはじめる。
「信じてもらえなくても仕方ない。騙していたわけじゃないし、隠していたわけでもないけど、どう言っていいのか分からなくて黙っていたのは本当のことだ。憧れに憧れていたいなら、目の前の男を現実だと受け入れない方が正解かもしれない。とにかくおれはセノ、だから。……昼さ、パスタにしようと思うんだけどいいかな。パスタとソースの瓶が入ってた。トマトとバジルだって」
冷蔵庫の野菜庫を探っていると、「このパスポートじゃ偽造を疑われる」と八束は言った。背後からかかった声は、やっぱり戸惑っていながら無理に声を出している感じがした。
「そんな髭じゃ分からない。剃ったらタカシマセイオンが出てくるって言うのか?」
「八束さんの解釈でいい。でも、黙ってはいたけど嘘はついていない。嘘をついていないっていう嘘だと言われても仕方がないけど」
「なら嘘だ」
「本当」
眼鏡の下に手を滑らせ、顔を両手で覆う。信じない意思かもしれない。私はキッチンでふたり分の昼食を作りはじめた。コンロがひと口しかないのでパスタを茹でてからマッシュルームとベーコンを炒める。パスタとソースを絡めて火を入れて終わり。ラディッシュをパスタの端に添えた。食事の支度は整ったが、八束はソファに沈んで動かない。
「八束さん、食べようよ」
反応はない。
「時間があまりないから、おれはもらうよ」
そう言っても、やはり八束は動かなかった。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
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