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五.
陽が照っているような小雨のような、じりじりとした暑さが数日続いた。車通勤に冷房が欠かせなくなり、町には湿度が満ちる。午前十一時の発表で気象庁が西の地方の梅雨明けを宣言した日、私は大学の教務室の片隅で、この事態をどうすべきかじっと考えていた。
私の向かいには日頃から世話になっている奥山という教授がいた。彼女は肩書きこそ高いが同年代で話がしやすい。ゆえの困惑もあるだろう。可哀想なぐらいに眉を寄せ、テーブルの下で硬く拳を握っている。
私と奥山がかけているテーブルには、A4サイズのコピー用紙に印刷された写真が載っていた。どれもこれも端が欠けたり破れたり、丸められたものもある。総数十枚ほど。大学構内の掲示板に多数の掲示物の上から貼られたものを、無理やり剥がしていた。
「防犯カメラの映像はいま守衛に確認中なので現時点ではなんとも言えないんですけど」と奥山は怒りと戸惑いを滲ませた声で喋る。
「いたずらにしては悪質です。誰がやったか、なぜやったか、目的が分からない」
「……お騒がせして申し訳ないです。この人との関係性を、奥山先生はお訊ねにならないのですか?」
「聞いてどうするって言うんですか。相手が学生だっていうなら話は別ですけど、鷹島先生のプライベートなんですから、黙っていたっていいしこちらが全てを把握する必要はないと思っています。ただ、……多数の学生がこれをすでに目撃していますので……」
「そこですよね。誠に申し訳なく」
「謝らないでください。むしろ、鷹島先生はもっと怒っていいお立場にあるかと思うんですけれど、落ち着いてらっしゃるので」
「いえ」
私は窓の外へ顔を向けた。学生から覗かれぬようにブラインドが下りているが、その外には夏間際の日差しがあるのだろう。
「……ものすごく怒っています。これは私への攻撃ですから。対象を私としながら、晒されたのは私ではありません。そのことに、すごく、……怒りを感じます。やり口が異常で」
窓の外から視線を戻し、奥山の顔を見る。日頃から元気でしゃきしゃきと動く彼女には、心からの同情の顔があった。私はひどい顔をしているだろうか。髭で隠れて分からないといい。だがとても怒っている。怒りをいまなら誰にでも向けてしまえそうなほど。それを押さえ込んでいるから、頭痛がひどかった。
印刷された写真は十枚それぞれに異なっていた。ストーリー性を感じる出来栄えだ。まず私と八束がふたりで写っているもの。数カットあり、私の倉庫の入り口でたたずむものと、親密に肩や頬を寄せるものなど。これらは私の住居付近を望遠を使って隠し撮りされたものと思われる。画質はあまり良くないが、それでも肩を抱き合っているふたりは私だと分かり、八束だと分かる。
そしてその他の数枚は、八束が拘束されているものだった。八束が着衣のまま紐で縛られたもの、裸体に縄を打たれているもの、傷をつけられているもの。陵辱、という言葉が浮かぶ。これらは室内の感じからホテルなどだろう。そして実に八束を貶める側から撮影されている。見ようによっては私がしていると勘違いも可能だろう。
写真の八束の目線はわざとマジックで潰されている。掲示した本人がそうしたのか、学生がいたずらでもしたのかは分からない。だが私と親密に写る八束が、そのままその性癖を明らかにされてしまっているのだ。これを私の職場にわざわざ貼り付ける辺りの陰湿さが、私の頭痛をいっそう酷くしている。
サディスティックだ。八束が以前言った言葉が蘇る。「乱暴者の男と遊んでる」。
この件の発端は、大学に来る前に知った。奥山からの連絡で、構内に私と関連するひどい写真が掲示されている、という内容だった。すでに学生が群がっていたところを、気づいた事務員が発見し剥がしたらしい。事実確認をしたいとの話ですぐに大学へ出向いた。授業を休講にして、構内の他にも貼られた形跡はないか、防犯カメラは、と確認している。それをしながら私が行ったことは、八束自身の安否確認だった。もしこの写真が過去のものではなく、現在進行形で施されているものだとすれば危険だ。だが八束にかけた電話に八束は応答し、「休みだから家にいる」というので今日は外出をしないようにきつく頼んだ。
現在の八束自身に問題がないのであれば、やはりこれは過去に八束が遊んできた男が撮影したものを、私の職場で明らかにされてしまった、という見方で間違いないだろう。そしてその意図はやはり私への攻撃だ。社会的に抹消するのであれば手っ取り早い方法だ。
私と八束をこれだけ隠し撮りしているのであれば、関係性を知っている。私を傷つけることで八束自身を傷つける意図があるかどうか。奥歯を噛むとじゃりっと頭痛がした。
黙り込む私に、奥山は「この方はご無事ですか?」と訊いた。
「え?」
「鷹島先生と写っていて、痛めつけられているこの写真の、白髪の男性です」
「先ほど確かめました。無事です。……私がこれをした、とはお考えにならないのですか」
私が八束を乱暴し、趣味で撮影したものを流出されてしまった。そういう見方をされてもおかしくない。
奥山は、「鷹島先生はなさらないですよ」と言った。
「分かりませんよ」
「そもそも、ご自分の立場を危うくするものを自ら貼り出す意図も分かりませんし」
「……人は分からないものですよ」
「そもそも、ご自分の立場を危うくするものを自ら貼り出す意図も分かりませんし」
「……人は分からないものですよ」
「そうですね。ロープワークは心得ていそうな感じはします。実習でもやりますしね。時代が時代なら、死体解剖に参加してアナトミーを極めたレオナルド・ダ・ヴィンチみたいになっていたかもしれません。以前、羊の解剖には参加されたご経験があるとも伺っておりますし。だとすれば尚更これは鷹島先生ではありません。美しくありませんし、こんな無駄な傷はつけません。それにカメラに収めるはずがないんです。美術解剖学ならスケッチやデッサンでしょうから」
「……」
「芸術の基本を理解してない方の暴走です。鷹島先生と、一緒に写っていらしてる方への侮辱や冒涜です。許せません」
「……ありがとうございます。そんなに信頼をしていただけて」
「日頃からの人徳、というんですよ。鷹島先生の作品と学生への指導を見ていれば、そう思います」
それから奥山とこれからの話をした。大学側で犯人を特定してみる、警察沙汰にするかは今後の判断で。学生への配慮。私の授業は夏休みまでの残り数回を残しているが、これは奥山が引き継いで私自身は騒ぎがおさまるまで表に出ないこと。一コマ単位で報酬を得ている私にとってはすなわち主収入を失うことでもあったが、内容が内容だけにやむを得ない判断だと思えた。
「それとその、後期の授業ですが」
「山本さんを後任に、というお話、進めております。こんなことにはなってしまっていますが、鷹島先生には転機ですね。Tでしたっけ」
「……まだ本決定ではないのですが」
「ならばこの件は早急に片付けなければなりません」
奥山の言葉は、その通りだと思った。耐えている場合じゃない。やり過ごすのも違う。殺す覚悟で向かわねば。
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