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川が見たい。そう言われたら連れて行けないはずがなかった。姉をだるまにするかのごとく防寒させて、痩せ切った身体を車の助手席に押し込む。姪は最近、小学校の友達の家に遊びに行くことが多くなった。自宅療養――とは名ばかりで、本当はこれ以上の治療を拒否して終末を実家で迎えようとしている痩せた母を、直視できないようにも思えた。
小さな片ではあったが、雪が舞っていた。川辺の親水公園に車を止める。外は寒くて肺に悪いだろうと思い、窓をわずかに開ける程度にとどめた。地球環境には悪いと思いつつ、アイドリングで暖房を入れる。
「冬のね、川が好きなんだよね。静かで、広くて、真っ白」と姉は言った。水筒に詰めて持ってきた白湯を渡してやると、口にするよりは手で包んで温めていた。
「五紀さ、本当に父親を明かさないつもりか?」姪の前では訊けなかったことを訊く。
「四季の親権とか、そうでなくても養育費とかさ。色々、あるだろ。父親には言うべきだと思うんだけど」
「大丈夫だよ。お父さんとは話がついてる。八束も、……実家に戻ってきてくれてありがとうね」
姉の指が、八束の髪に触れた。ここ最近、白髪が目立つようになった。父もそのぐらいで白髪だったというから、そういう家系なんだと思っているが、綺麗なグレイまでにはまだいかなくて、中途半端に老けた感じが否めない。
「四季は、いい子に育つよ。私がいなくてもね」
「なんでそう言い切れるんだ。あの子はいま、幼いながらに親を亡くそうとしてるんだぞ。母親を。せめて父親ぐらい、」
「大丈夫。私がそういう人を選んで四季を産んだ。あの子はタフで、優しい子に育つ。いまは痩せてく私が辛いんだと思う。優しくて痛みが分かる子だからよ。ちゃんと私を見てる。八束も安心して」
貯金ならあるから、あの子が望むように。そう姉は言い添えた。
川面は薄く氷が張っている。今年の冬は厳冬で、雪も深く難儀している。とりわけ川辺は冷えた。鳥もいないんじゃないかと思ったが、葦の茂みに隠れて鴨が固まっていた。
「あ、鳥」
姉は重たげに指を指す。鴨のことかと思ったが違う。どこにいたのか、どこから来たのか。真っ白くて大きな鳥が飛び、眼前を渡っていった。
「鷺かな、でもこんな時期にいる鳥だっけ?」
「挨拶に来てくれたのか、迎えに来たのか」
「よせよ、そういうこと言うの」
姉を咎めると、姉は「私も言いたいこと言っとくね」と答える。
「八束、変な人たちと付き合うの、やめな」
「……」
「身体を傷つけるようなことはね、私はして欲しくない」
八束は黙った。ぎゅ、と肘のあたりを押さえる。そこは先日遊んだ男にいたぶられ、腫れて痛みを持っている場所だった。
「八束はさ、ここと」姉は八束の心臓の部分に手を当て、自らの胸に手を当てた。「こことで、本心から交流したことがないんだね」
「……どういうことだよ、」
「身体の痛みを得て誤魔化してる。本当は心が痛いのに」
ああ、この姉には見透かされてるんだな、と思い、八束はそっぽを向いた。
家族に性癖を告げたことはない。これから先も口にしようとは思わない。いつでも自分は空っぽで、それが恐ろしくて、姉のいう通りに身体の表面に痛みを得て誤魔化している。そうされると心の痛みを忘れるような気になるのだ。心が痛いのは、みぞおちの辺りが痛いのと、よく似ている。痛みで腹をさすっていると、それが表面なのか中身なのか分からなくなる。
でも、常に痛むのは心だ。
「……五紀」
「なに、八束」
「僕はひとりになりたくない」
この際だからなのか、ほろっと本音がこぼれた。もう長くない姉に、行かないで、行かないでと必死で縋っている。現実を受け入れられない。近いうちに自分はこの人を失う。姪よりも恐れ怯えているのは八束の方だ。
「……ひとりにしないでくれ……」
「怖いのね、八束」
「……」
「でも身体を傷つけられても、心の淋しさは募るばかりでしょう。あのね、八束。本心で人と語ったり笑ったり喧嘩したりするのを恐れていると、淋しいだけなんだよ」
運転席のハンドルに突っ伏した八束の、頭をそっと梳かれる。
「私がいなくなったら、四季とそうしてやってね」
「……あの子だっていずれ五紀みたいに自分のパートナーを見つけるだろ。僕には、できない。もうずっと、できないんだ」
「いつか王子様が、って歌があったね。それを望んでるわけ? ばかだなあ、八束」
「……」
「頭はいいくせに、ばかだね」
「うるせえよ。五紀こそ、こんなになって」
「あのね、八束。八束がこの人を見てて怒りが湧く、って人が現れたら、その人を大事にしてみて」
「……なにそれ、」
「怒り、ってね。二次的な感情なんだって。原始的な感情じゃないの。はじめに怖かったり、恐れたりして、もうそういう思いをしたくないから、防衛で怒るの。自分を守るためにね」
「……」
「恋やら愛情も大事だけど、怖いと思う人と対峙することを恐れないでみて。怖い人ってね、大概は優しい人だよ。その優しさは、八束の淋しさに向き合ってくれると思う。これは私の経験則」
姉の手はそのまま背中に降りて、八束の肩甲骨をさする。傷を癒すかのように。
「八束がそれを経験して実感できたら、その時はそれを四季にも伝えてあげてね」
「……」
「泣くな、ばか。こっちが泣いちゃう。ほら八束、また鳥だよ」
鳥だよ、と姉はもう一度呟いた。
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二十八歳
最後に作品が完成したのがいつだったか、思い出そうとしてもどうしても思い出せなかった。
最後に作品が完成したのがいつだったか、思い出そうとしてもどうしても思い出せなかった。
何を作ったのか。作ろうとしていたのか。発表に至ったのか。木に触れたのは。粘土に触れたのは。鉛筆を自分は握ったのか。
寝室でぐったりと横になっていると、妻が入ってきて「セノ」と名を呼ばれた。
「落ち着いた?」
「……」返事をしたかったが、掠れた吐息が漏れるだけだった。
「動けない? 仕方ないわよ。今度は身体が緩み過ぎちゃったの。さっきは緊張し過ぎて泡吹いて床に転がってたんだから、よくベッドまで戻れたものだわ」
妻が差し出したのは栄養補給のみを目的とするゼリー飲料だった。
「ちょっとはエネルギー入れないと。起き上がれる?」
起きあがろうとして、腕が震えた。こんなに萎えた腕をしていただろうか、自分は。自分の手足なのに不思議な心地がした。プラモデルの手足をくっつけたかのような違和感。
妻は背に手を当て、静穏が起き上がるのを補助した。
「ちょっと栄養入れて、薬と水を飲んで、今日はもう休みましょう。薬を飲んだら眠くなるから。大丈夫。大丈夫よ」
薬は嫌だった。だるくて動けなくなるから。ここ数ヶ月で一気に体重の落ちた身体が、さらに動かなくなるような気がする。思考が鈍るのも嫌だ。もう嫌だ。何もかもが嫌だ。
芸術の傍にいたいのに、足掻いては遠ざかる。何が原因だったのだろうかと、考えても答えが出ない。静穏の思考にもやがかかっているせいなのか、本当にわからないからなのか。
ある日いきなり落とし穴に落っこちてしまったような感覚。いまなら自身の耳を切り落としたゴッホの気持ちがわかるかと自分を笑ったが、笑えなかった。
ゼリー飲料は、むせた。むせて吐いた。それでまた過呼吸に陥って、自分を責める。なぜだ、なぜだと焦る気持ちが発作を呼び起こす。こんなことをしている場合じゃない。もっと作りたいものがあったはずだ。
こんなことで躓いている場合じゃない。
夜中じゅう、妻は付き添ってくれた。浅い眠りで何度も目覚めて苦しむ静穏に、毛布をかけてくれる。この人に、最後にときめいたのっていつだっけかな。夫婦にはそういうのって必要ないのか。恋人じゃなくて家族だもんな。家族か。介護だ、これじゃ。看護でもなくて、介護。
自分はこんなになんにもできない人間だったろうか。ふがいない。情けない。芸術の傍を望んだ罰だろうか。業があったから、こんな目にあっているのだろうか。
明け方、ちょっとだけ深く眠った。起きたら妻が化粧台の前で髪や顔を整えているところだった。
「化粧したまま眠っちゃった」と言う。その目の下に、隈。
強い人だが、彼女にもまた負担がかかっていることが伺えた。
「――夏衣」
「セノ」
半身だけ起き上がった静穏の傍に近寄り、左手を取られた。嵌まる指輪はぶかぶかで、指からすり抜けそうになっている。
「これ、外しましょう。あたしも外す」
「なに、」
「別れましょう、って言ってるの。セノが苦しいのはさ、あたしと芸術を両立させようとしているからよ」
意味がわからなかったので、「わからない」と伝えた。
「家庭と芸術の両立は、あなたには無理よ。結婚する前からなんとなく思ってたけど、あなたはひとりの方がいい。ひとりになればなるほど、あなたは芸術の傍に行けるわ。あたしはあなたの芸術のためにはならない。邪魔なだけ」
「邪魔なんて、思ったことないよ」
「ちょっと卑屈な言い回しだったね。でも、そうなんだよ。現実、セノの身体はもうあたしを拒否してるの。だから過呼吸が起きちゃう。ひとりになってごらん。心の底からしみじみと深呼吸ができるわ。あなたはひとりになるべきよ」
しみじみと深呼吸が、と言われて、そうかもしれないと思った。誰かがこんなに近くにいるから、気遣って苦しいし面倒臭い。ひとりになることは、空気の清しい森で四季を感じながら暮らすかのような、憧憬を感じた。
「そんなに作品が作りたい? それはあなたにとって業なんだろうね。安定を手放さないと、ひとりにならないと、あなたは作品を完成させることはできないよ。セノ、別れよう。私は私で生きていける。いい人もいるのよ。ごめんね、慰謝料はふんだくっていいから。……私じゃあなたに添えない。もしかしたらあなたに添える人は誰もいてはいけないのかも、……いまあなたはひとりになるべきよ。こんなことこんな朝に言い出すあたしもさ、もう限界なの。あたしさ、セノじゃない人と一緒になる。あたしとセノはふたりでいることが限界なの。だから、別れよう」
妻にいい人がいる。それはなんとなくそんな気配を感じ取っていたから、驚くべき事柄でもなかった。むしろ彼女をひとりにしないでくれてありがとう、とさえ思ってしまった。
もう、自分の中には、妻を引き止めるとか、離婚を渋るとか、そういう考えが全くないことに気づいた。
そうだな、ひとりになりたい。なって、旅にでも出て。それはどんなにか、楽だろうか。
静穏はうなだれた。そこへカーテンの隙間から一筋の光が差し込んで、顔をあげる。夜明けの光は、真冬のこの時期は夏よりだいぶ遅い。
「……おれもそうするのがいいと思う」
「……成立、ね。早いうちに決めちゃいましょうか。決意が鈍らないうちに。今日は仕事休むから、役所へ行きましょう」
「いいよ」
「それで映画でも観る? 食事はあなたがまだ難しそうだから、お茶とか」
「記念日みたいだな」
「記念日よ。忘れたの? 今日はセノの誕生日だよ」
「そうだっけ……」
「春からずっと伏せって、もうそんなに経つのよ。長かったね。もう大丈夫。大丈夫だから、セノ」
朝日が照射して眩しい。赤い閃光だった。
「大丈夫よ、セノ。安心して心ゆくまでひとりになりなさい」
妻の言葉は預言者めいていて、不思議と安堵した。久しぶりの解放感だった。
ひとりになろう。自分の芸術のために。
何を頼んでいいのか分からなくて、メニューを見て戸惑っていると隣のテーブルから「ママ、モスコミュール」と聞こえてきた。どういうものか想像つかないが名前を聞いたことがある。だから八束も「モスコミュールを」とオーダーした。
カウンターの中で女装した男性がにっこりと微笑み、「はじめて見るお顔ね」と言った。
「それともこういうお店もはじめてなのかしら」
こくりと頷く。そう、はじめて来た。いわゆる「こういう界隈」に。ものすごく勇気を出して。
店内は薄暗い照明で、何組かの客がいたがカウンター席に座っているのは八束だけだった。ママ、と呼ばれるこの男性が女装しているせいか、そのような格好をしている男性もいるし、まだ五月なのに露出の高い服装で筋肉を見せている男性もいる。もしくはシュッとした、ごく普通のサラリーマンのようないでたちの男性も。よく分からないがここにいる者が皆「同士」であることは分かる。
カウンター内のママは、「なら教えてあげる」と指をピンと一本立てた。長い爪は綺麗なネイルが施されているが、そのふしくれた指は男性のものだ。
「この店は主にカップルしか来ない。ここで一杯引っ掛けてからホテルへ行くなり、会話を楽しむなり。相手が欲しいならよそへ行くわ。初歩的で良心的な店なの。だからあなたがそういう相手を求めてここへ来たっていうなら、これからお店をいくつか紹介できるけど。ここじゃあないわね。相手が欲しい? 待ち合わせとかじゃないわよね?」
頷く。どちらの質問に対してもイエスのつもりで。
「学生さん?」
「……大学生です」
「あら。もしかして未成年?」
「いえ、二十歳」嘘をつく。八月がくれば成人するが、まだ年齢には達していない。
「あの、……相手ってどうやって探すんですか?」
「ああ、……この界隈はいろんな人がいるから。そうね、いまちょうど面倒見のいい人たちが来てるから呼んであげる。教えてもらうといいわ」
そう言ってママは奥まった席に座って談笑していた男性ふたりに声をかけた。先程のサラリーマン風の男性と、綺麗めの私服を着た男性だ。ふたりとも八束ほどではないけれど若い。「はじめてなんだって。教えてあげて」と声をかけると、気前よく「いいですよ」と返事があった。
サラリーマン風の男性が八束を値踏みするかのような目つきで上から下まで見て、「ふうん」と答えた。
「男同士に興味がある?」
「……魅力を感じるのは男性です」
「ネコかな、タチかな? 見た目ネコっぽいけど」
「ネコ?」
「どっちがセックスでボトムになるかの方。もちろん、いろんなセックスがあるから一概には言えないけど」
「……僕は、傷つけて欲しいです」
お、と私服の男性の方が眉を上げた。
「自分の身体が嫌いだから、痛めつけられたらほっとするのかな、と」
「それは相手が男性でなくてもいいってこと?」
「……好きになるのは同性なので、……同性から痛めつけられたいんだと思います」
「サディスティックなことをされたいと思う?」
「……多分。あまりよくは知らないんですけど」
「サディスティックなことをされたいと思う?」
「……多分。あまりよくは知らないんですけど」
するとふたりは目を見合わせ、クスリと笑った。
「ならこれからおれたちと一緒に来る?」
「え?」
「ゲイセックスを見てみたいと思わない?」
唐突な提案。唐突な展開。それはものすごく勇気のいる事柄で、でも好奇心には逆らえなかった。
三人揃って店を出て、談笑しながら歩いてホテルへ入った。ホテルはこういう場所にしては地味なのだと思うが、そもそも来たことがないので比べようがない。エレベーターの中でふたりは先ほどまでの爽やかさが嘘のように唐突にキスをしはじめた。八束の前でねっとりと堂々と。それを映画でも見るかのように八束は見ていた。まだ現実感が湧かない。
至ってシンプルな部屋に着いて、「きみはそこで見てるといいよ。なにか注文する?」とソファを示された。腹は減っていない。緊張しているから。水が欲しい。慣れないアルコールが回っている。そう伝えると、ミネラルウォーターを用意してくれた。
「ま、見ててよ。僕らもね、多分きみと同じ嗜好だから。ただ、パートナー以外の相手とやらないってだけで」
え、と聞く間もなく、綺麗めな私服の男の方がスーツ姿の男に四つん這いになるように命じた。先程まで薄く笑っていただけの人が豹変する。さっぱり乾いた爽やかさに熱を帯びたのではなく、蔑んで冷却したかのような空気を瞬時にまとった。怖い、と思い、それがゾクゾクした。
――口だけ使って咥えろ。
そう命じると、スーツ姿が恍惚とした表情で私服の男の股間に顔を埋めた。ジー、と噛み合わせを歯で解いていく。犬のように私服男の一物を取り出すと、それをぺちゃぺちゃと舐め、頬張った。
――下手くそ。そんなんじゃ勃たねえよ。
私服男のものは、兆してはいるが力なかった。それを一生懸命に舐める。スーツ男の腰が揺れ、太腿をもじもじと擦り合わせていた。こちらは勃起しているのが分かる。
――脱げ。今日はゲストがいるんだから、そっちを向いて脱げ。ちゃんとサービスして見せてやれ。
八束はびっくりして思わずソファに身を縮めた。スーツ男は立ち上がり、頬を朱に染めてスーツをゆっくりと脱いでいく。ショーガールかのように身をくねらせて。上着を落とし、タイを落とし、スラックスを落とす。脱いでいく中で私服男がタイを拾い、それをスーツ男の目元に巻いた。
――見せてやろうぜ。おまえがどんなにだらしなくて、淫乱な豚なのか。
再びスーツ男(でももはやスーツは纏っていない)を四つん這いにさせると、スラックスから引き抜いたベルトで背中をぶった。悲鳴が上がる。その声は艶を帯び、尾を引く。明らかに快楽を感じており、男のものは勃起してたらたらと蜜を床に垂らしていた。
――あっ、ああっ、痛いっ。ああっ。
――言ってみな。ご主人様のペニスで私のアナルを犯してくださいって。
――ああっ、あっ、嫌っ、見てる……!
――見せてんだよ。見られておまえは興奮してんだよ。ドロドロじゃねえか。変態。
またベルト。ばし、ぱちっ、と音が響く。
こんなことされてもパートナーだというのか、と八束は興奮と冷静を交互に噛み締めて思った。
喜びが伝わる、双方の喜びだ。傷つけて喜び、傷をつけられて喜ぶ。興奮を生んで部屋が熟む。これ以上は、もう、と八束はかぶりを振った。スーツ男が目隠しされたまま背後から犯されているのを、股を広げて見せられた時だった。
こうされたい? わからない。でも優しくされたいわけじゃない。僕は興奮している。
ここを出なければ。誰か、僕を治めてくれないか。
部屋を出てホテルを出た。夜の湿気が肌を撫でたが興奮が治まらない。フラフラと歩いていると、「お兄さん」と声をかけられた。
タンクトップのスポーツ刈りで、やたらとピチピチした格好でボディラインを強調する服装の男が電柱にもたれて立っていた。
「あ、若いね。若い子歓迎。探してるんでしょ、いま。あそこのクラブで面白いことしてるからさ、来ない?」
ごくりと生唾を飲んで、男についていった。
僕をいじめてくれないか。誰か。
十九歳
年次が上がり、研究室に所属することになった。静穏の希望通りに彫刻科研究室に所属になった。担当教官が主に扱う素材はテラコッタだったから、はじめは粘土での塑像の仕方を教わっていた。でも幼い頃から父を見て育った静穏には、粘土よりは彫るもの、だから木彫をやってみたくて自然とそういう流れになった。
年次が上がり、研究室に所属することになった。静穏の希望通りに彫刻科研究室に所属になった。担当教官が主に扱う素材はテラコッタだったから、はじめは粘土での塑像の仕方を教わっていた。でも幼い頃から父を見て育った静穏には、粘土よりは彫るもの、だから木彫をやってみたくて自然とそういう流れになった。
教育学部の美術教育コースだから、当然実習が絡んで忙しい。それでも制作に打ち込めたのは、早朝に行う新聞配達のバイトが効率よかったのと、サークル活動というものに一切の興味を持たずに所属しなかったせいでもある。放課後はほぼ毎日遅くまで残って材木に向き合っていた。担当教官に勧められてコンペに応募したら、思いのほか高評価で驚いた。
「審査員特別賞」と言われて振り向くと、制作室の扉の前にひとつ年上の先輩がふたり立っていた。女性の方は絵画研究室で油彩を学んでおり、男性の方は同じ研究室の先輩だった。「すごいね」
「美大じゃなくてよかったの? 進学先。このまま教員やる鷹島なんか想像つかないね」と女性の方が隣に話しかけ、男性の方が「いまからでも編入は遅くないんじゃないか?」と言った。
静穏は分かっていた。とりわけ男性のこの先輩の方が、おそらくは自分をやっかんでいること。静穏の芸術に対抗心があるのか、嫉妬心があるのか、とにかく嫌味を言わねば済まないらしいことは。
女性の方はこの男と付き合っていると聞く。だから彫刻研究室にも頻繁にやって来る。
「編入は、考えていないです」と鑿を握る手を止めて額の汗をタオルで拭った。
「このままこの大学を卒業します。教員免許も取ります」
「三年次の教育実習はキツイぞ。教材研究で寝る暇もねえから、制作してる時間なんざ当然ねえ。四年次にも実習はある。それよりもっとおまえにはさ、身のあることを学べる大学の方がいいんじゃねえ?」
「この大学でも基礎は充分学べます。その先のことは、まだ決めていません」
「来年にゃ早いやつは就活はじめるさ」
「まだ、決めていないんです」
嘘だった。本当はほとんど決め切っていた。もし、もしも次のコンペに応募して、手応えがあったら、評価が伴ったら。この大学を卒業しても、自分は教員にはならない。
男は言い切った静穏に対してたじろいだか、嫌気が差したのか、とにかく非常に不愉快極まりない、という体で「お前、なんなわけ?」と訊いた。
「大体さあ、この研究室は粘土造形が主流なわけなんだから、お前のやってることって勝手だよな」
「機材は揃っています。彫塑も、木彫も。石彫やブロンズ鋳造だって出来ます。彫刻研究室なわけですから。それに授業でも木彫の講座はあります。渡辺先生だってまるきり指導できないわけではありません」
「うるせえんだよ、おまえの制作って。チェーンソーだのベルトサンダーだの。もっと静かにできないわけ? 作ってるもんも同じだ。うるせえんだよ」
あれこれと難癖をつけられる。女の方は呆れた顔でそっぽを向いている。うるせえのはお前の方だよ、と声高く叫んでやりたい気分になる。ガンガンにハードロックなんか掛け流しながら粘土をペタペタといじるこの先輩の彫刻は、本人の気質通りに粘っこく、重い。
静穏が目指すのはそうじゃない。彫刻は重たいけれど、もっと軽くならないかとずっと考えている。
「うるさくして申し訳ありません」
それだけ言って、制作途中だったけれど制作室を出た。あの人に何か言われるとものすごく頭の中が散らかる。単純に向けられる敵意は、静穏の脳内を怒りで満たして掻き回す。色んな声がして頭の中がうるさい。うるさい。うるさい。うるさい! と歩きながら道端の小石を蹴り飛ばした。遠くまで飛んで、電柱に当たってカン、と音を立てた。
空を見上げる。天気が変わるのか、湿っぽい大きな雲がもくもくと湧き上がっていた。ひと雨来そうな気配だ。風が変わった。
ごろ、と雷鳴がする。冷たい風が吹き下ろし、それが静穏の身体を真正面から打ち、後ろの講堂の窓ガラスを叩いた。ガラスが鳴る。冷たくて、湿っぽくて、強い風が暴れ回る。
誰の元にも風は吹く。
急にふと、そう思った。というよりは浮かんだ。自分にも、あの嫌味しか言わない男にも、誰の元にも風は吹く。世界に満ちている大気を動かし、循環させる。
――私を突き抜ける風。
そう、囁かれた気がして後ろを振り返った。構内に学生はちらほらいるが、静穏に囁いたとは思えない。誰が囁いたか。風か? おまえがおれを呼んだか?
イメージが脳内に溢れかえる。いま彫っている作品は自己像の予定だったけれど、ちょっと趣向を変えよう。そうだ、風だ。誰の元にも風は吹き抜ける。おれにも、あんたにも。
回れ右をして制作室に飛び込んだ。制作しかけていた静穏の作品がそこにある。負けてたまるか。おれはやめない。ここでこうする道を、諦めない。
もっと芸術に近付こう。おれがおれでいるために。もっと傍に。誰も文句の言えないぐらいに。
絶句するしかないほどの衝撃を与える芸術を作ろう。
だからもっと傍へ。
「また本ばっか読んでぇ」と言われた。数秒間が空く。それが自分に向けられた台詞だと理解しきれなかったのだ。顔を上げるとこの春中学校を卒業して高校進学を果たした一学年上の先輩が嬉しさではちきれんばかりの笑顔でそこにいた。
「……久しぶりですね。こんなところで何やってるんですか、先輩」
「ガッコで出された課題の資料借りにな。たまには市立図書館行こうかな、と思って来てみたらおまえいんじゃん。受験生がこんなところいていいのか?」
「受験生だからいいんじゃないですか?」
「その本は受験に関係あるように思えねえけどなあ」
先輩は笑った。笑うとえくぼが出来てそれが好きだったことを久々に思い出した。
八束がめくっていた本は郷土資料集だった。この町の歴史が記されているもの。受験にこの町の歴史問題が出題されるとはあまり思えないから、先輩の言うとおりにこれは受験勉強とは関係のない、八束が興味あって読んでいる本だった。
「いいんです。過去問も解き飽きたし」
「おお、余裕。さすが文系トップは言うことが違うね」
すると司書が通りかかり、「館内では大きな声の会話は控えてね」と言われてしまった。
「注意されちゃった。おまえ、いつまでここにいるつもり?」
「いや、これ読み終わるので返して帰ります」
「ならどっか寄ろうぜ。おれバイトはじめたからさ、なんか奢ってやるよ」
「去年まで後輩にジュースだのアイスだのをせびってた人の台詞とは思えないですね」
「だろ? ヨノナカは金なんだ金」
「言い切るほどそうは思ってないです」
本を戻し、なにも借りずに市立図書館を出る。本当は借りたかったが、借りてしまうと没頭してつい時間を忘れる。それを母に散々注意されているので最近は控えている。まあ、受験生なので。一応は。
先輩について入ったのはチェーンのファーストフード店だった。最近この町にも進出して、店内は若者でごった返している。なんなのかよく分からない甘い飲み物を先輩はふたつ買い、紙コップのひとつを八束に寄越した。
空いている席にぎゅうっと身体を押し込み、「元気にしてたか?」と訊かれた。
「おれはずっと心配してたぞ、おまえを。学校の図書室で本ばっかり読んでちっとも友達とつるまねえからさ。おれが卒業しちまったら誰もおまえに構わなくなるんじゃないかって。なんか案の定だったな。なんで市立図書館?」
「……学校の図書室の本はあらかた読んでしまったので」
「すご!」
「夏休みは県立図書館に行きました。遠いから通えないのが残念です。高校進学したら国立図書館へ行くのが目標です」
「本の虫」
「仰る通り」
「文章書くのは?」
「嫌いではないです。進んでは書きませんが」
「なあ、おれの課題代わりにやってくんねえ? 作文でさ、苦手なんだよ、文章って」
「このジュースで?」
「いや、まあ、……言ってみただけ。なあ、中学楽しいか?」
「普通です」
「普通かあ」
「結局僕は、本に没頭していられればいろんなことがどうでも良くなるんです」
「読書は楽しいか?」
「知らないことがたくさん書かれている。知りたいことも書いてある。友達と話すより気持ちが落ち着きます。や、興奮してんのかな、わかんないんですけど、楽しいです」
「南波ぁ」
先輩はずず、とジュースをすすった。「ひとりじゃ生きていけないぜ?」と当然のことかのように言う。
「おまえが死にそうな時に本は助けてくれないぜ? 仲良い奴とか、好きな奴とか、なんかいねえの?」
「先輩こそ彼女できたって聞きましたよ」
「お、情報が早いな。今日は向こうが塾だから会えないけど、な」
その瞳は照れ臭さと嬉しさで満ちていた。こんな顔僕は見たことがなかったな、と思うと忘れたはずの疼痛が蘇る。
先輩を好きだった自分のことは、心底嫌いだった。なぜ同性なんだ、という愕然。思春期ならではのものかと散々悩んだが、ひとりを好む八束をうるさいぐらいに世話を焼いて心は嬉しかった。嬉しい分だけ悩みが深まる。卒業で離れると分かって、もう会わないだろうことに感謝していいのか、会えないことに泣いていいのか、混乱したほど。
女性に対して全く恋心を抱かない自分のことに対しては、きっとそういう感情の発達が遅れているんだろう、とはじめは思っていた。だが恋、というものを八束にもたらしたのはこの先輩であり、そのことは、大いに戸惑いを与えた。こんな心臓の痛みは嘘だ、と思いながら常にドキドキしていた。まるい後頭部とか、すらりと伸びる腕とか、骨ばった手の組み方とか。変声期の声の掠れ。そういう、肉体的な部分にどうしても惹かれた。惹かれる分だけ自分を戒めなければならない、と思った。罰を与えなければ、と。
なぜならこれは間違っていることだからだ。
「女ってかわいいけど面倒くさいな」とストローを咥えながら彼は言った。
「電話しないと怒るし。こっちは向こうの親が出たらどうしようってびくびくしながらかけてるってのにさ。返事がそっけない、とかでも怒るし。なんかちーっさいこと見つけては怒る。あれはなんなんだ?」
「僕に訊かれても」恋愛対象はあなたなので分かりません、と言えるはずもない。口の中に苦味がこみあげる。
「南波はいねえの?」
「なにが?」
「とぼけんなって。彼女とか、好きな女子とか」
「いません」
「えー、フツーいるだろ」
「じゃあフツーじゃないんです。この通り、本の虫なので。人間じゃないんです」
「虫だって雄と雌でつがいになるだろ。……なんか怒ってる? こういう話題、嫌だった?」
「いえ、……僕には本当にそう思える人がいないので、答えようがないのがなんか、申し訳ないなと」
綺麗に嘘が出た。あなたが好きだから、或いはどうやら同性が好きだから、女性のことを考えていない自分のこと。
「気にすんなよ。なんかごめんな。悪かった。そういう場合もあるよ」
先輩はジュースを飲み干して紙コップを握りつぶした。ぶし、と甘い残り汁が垂れるのを舐め、その舌の動きを八束は見ていた。
あれに。
あの甘い汁みたいに啜られたい。
「南波の場合は、これからなんだろ。まだ中三だしな。これからこれから。いつか出会うよ」
「……そうだといいんですけど」
「とりあえず受験が先だもんな。受験生捕まえて話す話題じゃなかったわ。ホントいつも無神経でごめん。でもなんか南波には構いたくなるんだよな」
そのくしゃくしゃの笑顔に胸を絞られる。先輩、いつ出会えるんですか。
この持て余した感情をすくいあげてくれる人に。
先輩じゃあないのは、なぜですか。
僕は。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
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2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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