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二十八歳
最後に作品が完成したのがいつだったか、思い出そうとしてもどうしても思い出せなかった。
最後に作品が完成したのがいつだったか、思い出そうとしてもどうしても思い出せなかった。
何を作ったのか。作ろうとしていたのか。発表に至ったのか。木に触れたのは。粘土に触れたのは。鉛筆を自分は握ったのか。
寝室でぐったりと横になっていると、妻が入ってきて「セノ」と名を呼ばれた。
「落ち着いた?」
「……」返事をしたかったが、掠れた吐息が漏れるだけだった。
「動けない? 仕方ないわよ。今度は身体が緩み過ぎちゃったの。さっきは緊張し過ぎて泡吹いて床に転がってたんだから、よくベッドまで戻れたものだわ」
妻が差し出したのは栄養補給のみを目的とするゼリー飲料だった。
「ちょっとはエネルギー入れないと。起き上がれる?」
起きあがろうとして、腕が震えた。こんなに萎えた腕をしていただろうか、自分は。自分の手足なのに不思議な心地がした。プラモデルの手足をくっつけたかのような違和感。
妻は背に手を当て、静穏が起き上がるのを補助した。
「ちょっと栄養入れて、薬と水を飲んで、今日はもう休みましょう。薬を飲んだら眠くなるから。大丈夫。大丈夫よ」
薬は嫌だった。だるくて動けなくなるから。ここ数ヶ月で一気に体重の落ちた身体が、さらに動かなくなるような気がする。思考が鈍るのも嫌だ。もう嫌だ。何もかもが嫌だ。
芸術の傍にいたいのに、足掻いては遠ざかる。何が原因だったのだろうかと、考えても答えが出ない。静穏の思考にもやがかかっているせいなのか、本当にわからないからなのか。
ある日いきなり落とし穴に落っこちてしまったような感覚。いまなら自身の耳を切り落としたゴッホの気持ちがわかるかと自分を笑ったが、笑えなかった。
ゼリー飲料は、むせた。むせて吐いた。それでまた過呼吸に陥って、自分を責める。なぜだ、なぜだと焦る気持ちが発作を呼び起こす。こんなことをしている場合じゃない。もっと作りたいものがあったはずだ。
こんなことで躓いている場合じゃない。
夜中じゅう、妻は付き添ってくれた。浅い眠りで何度も目覚めて苦しむ静穏に、毛布をかけてくれる。この人に、最後にときめいたのっていつだっけかな。夫婦にはそういうのって必要ないのか。恋人じゃなくて家族だもんな。家族か。介護だ、これじゃ。看護でもなくて、介護。
自分はこんなになんにもできない人間だったろうか。ふがいない。情けない。芸術の傍を望んだ罰だろうか。業があったから、こんな目にあっているのだろうか。
明け方、ちょっとだけ深く眠った。起きたら妻が化粧台の前で髪や顔を整えているところだった。
「化粧したまま眠っちゃった」と言う。その目の下に、隈。
強い人だが、彼女にもまた負担がかかっていることが伺えた。
「――夏衣」
「セノ」
半身だけ起き上がった静穏の傍に近寄り、左手を取られた。嵌まる指輪はぶかぶかで、指からすり抜けそうになっている。
「これ、外しましょう。あたしも外す」
「なに、」
「別れましょう、って言ってるの。セノが苦しいのはさ、あたしと芸術を両立させようとしているからよ」
意味がわからなかったので、「わからない」と伝えた。
「家庭と芸術の両立は、あなたには無理よ。結婚する前からなんとなく思ってたけど、あなたはひとりの方がいい。ひとりになればなるほど、あなたは芸術の傍に行けるわ。あたしはあなたの芸術のためにはならない。邪魔なだけ」
「邪魔なんて、思ったことないよ」
「ちょっと卑屈な言い回しだったね。でも、そうなんだよ。現実、セノの身体はもうあたしを拒否してるの。だから過呼吸が起きちゃう。ひとりになってごらん。心の底からしみじみと深呼吸ができるわ。あなたはひとりになるべきよ」
しみじみと深呼吸が、と言われて、そうかもしれないと思った。誰かがこんなに近くにいるから、気遣って苦しいし面倒臭い。ひとりになることは、空気の清しい森で四季を感じながら暮らすかのような、憧憬を感じた。
「そんなに作品が作りたい? それはあなたにとって業なんだろうね。安定を手放さないと、ひとりにならないと、あなたは作品を完成させることはできないよ。セノ、別れよう。私は私で生きていける。いい人もいるのよ。ごめんね、慰謝料はふんだくっていいから。……私じゃあなたに添えない。もしかしたらあなたに添える人は誰もいてはいけないのかも、……いまあなたはひとりになるべきよ。こんなことこんな朝に言い出すあたしもさ、もう限界なの。あたしさ、セノじゃない人と一緒になる。あたしとセノはふたりでいることが限界なの。だから、別れよう」
妻にいい人がいる。それはなんとなくそんな気配を感じ取っていたから、驚くべき事柄でもなかった。むしろ彼女をひとりにしないでくれてありがとう、とさえ思ってしまった。
もう、自分の中には、妻を引き止めるとか、離婚を渋るとか、そういう考えが全くないことに気づいた。
そうだな、ひとりになりたい。なって、旅にでも出て。それはどんなにか、楽だろうか。
静穏はうなだれた。そこへカーテンの隙間から一筋の光が差し込んで、顔をあげる。夜明けの光は、真冬のこの時期は夏よりだいぶ遅い。
「……おれもそうするのがいいと思う」
「……成立、ね。早いうちに決めちゃいましょうか。決意が鈍らないうちに。今日は仕事休むから、役所へ行きましょう」
「いいよ」
「それで映画でも観る? 食事はあなたがまだ難しそうだから、お茶とか」
「記念日みたいだな」
「記念日よ。忘れたの? 今日はセノの誕生日だよ」
「そうだっけ……」
「春からずっと伏せって、もうそんなに経つのよ。長かったね。もう大丈夫。大丈夫だから、セノ」
朝日が照射して眩しい。赤い閃光だった。
「大丈夫よ、セノ。安心して心ゆくまでひとりになりなさい」
妻の言葉は預言者めいていて、不思議と安堵した。久しぶりの解放感だった。
ひとりになろう。自分の芸術のために。
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
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甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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