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一度出かけた日野が戻って来た時、高坂は風呂に浸かりながら本を読んでいた。本の他には白ワインベースのカクテルもグラスに作って持ち込んである。久々の贅沢だった。
今日は休みだ。一方で日野は仕事である。ランチタイム・ディナータイムと営業がある店で夕方は少しばかり時間が空くことは知っているが、家まで帰るには駅を二駅ほど戻らねばならない。なにかよっぽどの用がなければ帰ってこないのがいつもだ。足音が脱衣所まで近付く。日野がやって来た気配を感じて、高坂は風呂場から脱衣所の方向へ「どうした?」と声をかけた。
昨夜、高坂の帰宅はいつも通り深夜だった。それから日野の体温でぬくまっているベッドに潜りこんで昼過ぎまで寝ていた。寝室を共有しているとはいえ、昼前に出かけた日野とはすれ違って挨拶も交わしていない。すなわち今日高坂が喋るのははじめてだ。声量を誤ったのか浴室だったせいか、自分の声が思いのほかわんと響いた。
風呂場の曇りガラス越しに日野がこちらを振り向いたのが分かる。その黒っぽい影は近付いて、風呂場の扉を押し開けた。
顔を覗かせた日野は「Tシャツってもう乾いてたっけ」と高坂に訊ねるも、高坂の手元を見てむっと唇を引き結んだ。
「飲みながら入ってんの?」
日野にそう聞かれ、不機嫌の理由が判明した。風呂と読書と飲酒をいっぺんに、なんて贅沢、と高坂は思って実行しているのだが、日野はあまり快く思っていない。風呂に浸かれば酔いがまわりすぎて悪影響、と信じ込んでいる。日野自身、普段がアルコールにとことん弱い身体であるから仕方がないのかもしれなかった。
日野の機嫌に構わず、「Tシャツって、いつも仕事で着るアレ?」と訊ねる。高坂を叱ることは諦めて、日野は大人しく頷いた。
「そう、コックコートの下に着るやつ。洗い替え」
「なに、忘れたの」
「忘れた。忘れたまま仕事したけど、暑いし透けるし、落ち着かなくて」
そう言いながら脱衣所に置いてある洗濯乾燥機の中身を探る。上着を着たままだが、日野が内側に着ている衣服が見えた。なるほど、今日の日野は細かい模様編みの丸襟セーターを一枚で着ており、その濃紺は背の高い日野によく似合う、高坂も気に入りの姿なのだが、上からあの分厚いコックコートを着たのでは仕事し辛いに違いなかった。しかしTシャツなど、その辺で買えば良かったものを。そう笑ってやると日野も静かに笑いながら「今日は滋樹が家にいるなと思ったからさ」と答えた。
「だったらおれにおつかいでも頼めば良かったのに」
「あ、そうだね」
いま思いつきました、という顔で日野は答えた。こういう調子で素直に感情をさらけ出されるから、日野との暮らしに馴れや惰性が訪れない。参ってんなあ、と自分で自分の熱に浮かされる。やっぱり少し酔いのめぐりが早いのかもしれない。
それにしても今日の日野は。名前からして夏のイメージの強い男だが、冬の日野も高坂は好きだ。あの厚手の青の下にどんな肉体と精神を隠し持っているか、想像が膨らむから。はじめて会った時も冬だった。そういえばあの時も日野の身体を想像した。
明らかな性感を下半身に感じた。湿気た本を閉じて日野の名前を呼ぶ。手指がもう熱かった。「なに?」と穏やかな顔で振り向く日野に、「そこで着替えてってよ」と声をかけた。
日野がすぐに戻らねばならないことは知っているのに、右手は勝手に性器を探る。
「店で着替えるか部屋で着替えてくか知らないけどさ、見せるのもおれが見れないのももったいないから、いまここで着替えて」
日野が戸惑いの表情を浮かべる。風呂の中で欲情している高坂に、どうしようか、と迷っている。腕時計を確認し、「あと十分で行かなきゃ」と言うから、高坂は性器を擦りながら「いいよ」と答えた。
「十分でいくから、着替えて。おれがしてるとこ、見てて」
日野に見られて自慰をする。想像だけで性器は膨らみ、乳首が硬く凝った。バスタブの中で腰をみだらに揺すり、自分の好きなスピードと強弱で手を動かす。対して性感を逃すかのように日野はちいさく息をつき、浴室の扉に寄りかかって高坂を見つめた。
「……最後にしたのって、いつだっけ」
荒くなり始めた呼気で訊ねる。日野は少しのあいだ考えて、「三週間前」と答えた。日野もまた頬が上気し始めている。少しだけ頭を傾けたおかげで見える白い首筋が、なまめかしい。
日野のことをいいように視姦しては楽しんでいる高坂のことを、日野はどう見ているのだろう。
「三週間か」
「うん」
「おれ、あれから一度も自分じゃしてないよ」
興奮が止まらない。湯船の水面をぱちゃぱちゃと波立たせ、手指を上下させる。
高坂をただ黙視している日野の腰も左右に振れた。
「夏人がしてくんなきゃ、」
そう言うと同時に日野が息を吐いた。諦めたのと、スイッチが入ったのとが分かる。尻のポケットからスマートフォンを取り出すと電話をかけ、「少し遅れる」と相手に説明した。おそらくは店のスタッフの誰かに。今夜の調理予定を事細かに指示し、通話を切る。
そのままチノパンのジッパーを下げ、日野も自身の性器を取り出した。それはもう高坂が好ましいと思う長さをしていて、あれがほしいな、と思うとまた別の手が背後に伸びた。
高坂自身は割と、というかかなり、性には奔放な性格だ。
恋愛は苦手なくせに、肉体関係だけならけっこうな無茶をしている。そもそも日野とのきっかけもそんなのだった。目が合っただけの行きずりの男、とどう一晩過ごしてしまえるかを天性の感覚で知っている。本能にはとことんゆるい、食欲も性欲も睡眠欲も全部。
今だって日野が浴室に顔を見せただけでこうなのだから、自分の理性のきかなさには呆れる。だが高坂がいまもこの先もずっとほしいと思うのは日野ひとりだ。日野だけは、たとえセックスが出来なくなっても傍にいてくれなければ。…できなくなったらそれはそれで困るけれども。
日野も荒く息を吐きながら自身を擦っている。日野の姿を見て欲情した高坂の姿を見て。見せあって、でも距離は近付かない。もどかしい、興奮する。
湯船の中、もう自分の中指じゃどうにもならないと悟って、日野を呼んだ。切羽詰りながらも日野が笑ったので、性感とは別の部分でこころが動いた。ああ好きだ好きだと感情が一気に膨れ溢れる。もったいぶるように日野は上着と靴下だけを脱いで、浴室へようやく侵入した。
「――あんまり時間ないんだ、本当に」
「……来て、」
日野の状況など、正直おかまいなしだった。そこまで気の利くいい人間だったとしたら、そもそもが日野とこういう関係に陥ったりもしていなかった。高坂の上ずった声に、日野は目を細める。浴槽に膝立ちで立ち上がり、すり寄るようにして日野の股間に顔を埋めた。
粘膜で日野の性器を包み込むとき、日野は頭上で短く鋭い息を吐いた。その息の吐き方に、脳髄がじんと痺れる。
日野の性器に絡める舌とは裏腹に、自身を扱く手は雑で荒っぽかった。どうしてよいのかためらっていた日野の手は、高坂の肩に置かれる。かと思いきや頭を固定された。日野も覚悟を決めたようで、高坂の口の中を好きなように蹂躙してくる。
「……んっ、んっ、んんっ、んっ……――」
日野のリズムに合わせてどうしても声が漏れる。漏れ出る声と同じく自分を擦る手も加速してゆくのだ。口の中に日野の吐き出したものを受け止めた時、高坂も湯の中に精を放った。味わうものではないけれど、ゆっくりと飲みこんで、湯船の縁に頭をもたせる。
濡れるのも構わず日野は膝を折り、高坂を目線を同じにして覗き込んでくる。
「大丈夫?」
は、と高坂は笑った。
「のぼせた。だりい」
頬を包みこんでくる、蒸せた大きな手。顔が近付き、ああ、キスだ、と思った。思ったのだがそれをわざわざ振り切って日野の広い背に腕をまわした。腕を持ち上げるととことんだるくて重くて仕方がなかった。
「アタマ痛え」
「え」
「風呂、あがりたい」
水が欲しかった。この世の終わりみたいな抱きとめ方で高坂に腕をまわした日野は、心が痛くなる声音で高坂を呼んだ。
→ 後編
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粟津原栗子
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成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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