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海保


 ろくに眠れないまま迎えた夜明けは、感覚としては、「ぬめって」いた。どんよりと低い空、雨風こそ止んだものの、それがかえって表現の足りなさを示しているかのような空模様だった。もっときっぱりした天気が良かった。嵐なら嵐、晴れるなら晴れて見せろ、と海保はちいさく呟く。
 明け方に、蓮司は着替えて出て行った。海保はそれに気づいていながら、追いかけることも、引き止めることもしなかった。行先は分からない。蓮司自身も定めていないのかもしれない。それからゆうに三時間が過ぎて、海保は起きあがる気になった。時計を見る。時刻、午前八時に近い。ラグランシャツに袖を通すと、つめたかった。
 冷蔵庫に残っていた玉子を焼き、トーストに乗せて、コーヒーと一緒に朝食とした。こんな時でも腹は減るのだから、と海保は半ばあきれる気持ちで食事をする。絵を汚されたことを海保は怒っていないが、戸惑っている。蓮司に対して、どう接していいのかきっと分からない。
 自分のことなら、分かる。絵を描きたい気持ちと、それを蓮司に分かってほしい気持ちは揺るがない海保の意思だ。蓮司のことは、分からない。他人だから、いくら蓮司がスムーズに言葉を紡げたとしても、それは海保にとっては、想像でしか迫ってこない。どうして絵を汚すのか、噛みつくのか、泣いてまで傍にいるのか、分からない。海保はテーブルを見つめ、食いかけのトーストを見つめ、トーストの端からこぼれた玉子の黄身だまりを見つめる。人差し指ですくって舐めると、黄身は濃く、コーヒーを流し入れると、ひどく苦かった。
 片付けもそこそこに、部屋を出た。大学の方向へ行くバスに乗り込む。大学よりひとつ手前の停留所は、ちょうど画材屋の前にある。大学構内にも画材屋はあるのだが、今日はなんとなく、目立ちたくなかった。開店直後で、人影はほとんどなかった。そこで絵具とオイルを購入し、紙袋を鞄に仕舞うでもなくぷらぷらぶら下げて、徒歩で大学まで向かう。
 十分程度の距離で、蓮司のことを考えるにはちょうどよい時間だった。海保はなんとなく、左手で首筋を触る。もう痛まないし痕もだいぶ消えたが、かつてここを思い切り噛まれたことがある。あの頃から、蓮司はごく不安定な心を抱えていた。大事なものほど雑に扱いたい性分らしく、海保は色んな箇所に傷をつくった。
 風も吹かず、雨も降らない曇天の下をのろのろと歩く。今頃、蓮司はなにをしているだろう。どんな気持ちでいるだろう。今夜は帰って来るのか。そもそも自分は、蓮司と暮らす部屋に帰るのか。
 絵画制作室へ向かう途中、大学生協の前で、同じく油彩科四年の千奈と出くわした。まるで化粧気のない顔、ショートカット、トレーナーにタイトなジーンズ、スニーカー。いつも着ているツナギ姿ではないことから、彼女もまだ制作室には立ち寄っていないことが分かった。
 千奈は海保の手元の、店名のロゴマークの入った紙袋を見て、なにが入っているのか察しをつけたのだろう、一瞬だけ眉根を寄せた。
「――今日は授業ないの、海保くん」しかし挨拶をする頃には、いつもの表情に戻っていた。
「俺、今年は卒業制作だけだから。千奈は? 授業?」
「そう、教職取ってるから、四年になったって言うのに一限目から授業があったんだよ。これから制作室行く?」
「行く」
「私も」
 千奈と並んで歩き出す。千奈は昨日の事件に触れず、バイト先の児童館の話をした。放課後の子どもらに絵を描かせているのだという。時給は安いが、やりがいがある。子どもの描く絵は面白い。人手が足りていないから今度海保もどうだ、という話で、海保は「そうだな」と曖昧に笑った。子どもは、苦手だった。どう扱っていいのか分からないし、自分はおそらく一生、関わりあいがない。犬でも飼う方が現実的だろう。
 絵画棟の三階にある制作室に、外階段からまわり込む。と、また海保の絵に数人の人だかりが出来ていた。海保の姿を認めると、ひとりが「海保!」と叫ぶ。
 昨日汚されて、出現した銀河は、なくなっていた。F100号のキャンバスはずたずたに引き裂かれ、キャンバスの骨まで折られていた。少し後ろで千奈が「ひっ」と鋭く短い悲鳴をあげて、かえって冷静になれた。朝早く出て行った蓮司の姿が、すうっと脳内に駆ける。
「海保! これもう、被害届出した方がいいぜ!」仲間のひとりが悲痛な面持ちで言う。
「嫌がらせとしか思えない。おまえの絵ばかり狙うって、明らかにおまえに恨みがあるだろ、」
「ひどい」
「警察届けろよ」
「待った、その前に教授に報告して……昨日のこと、誰か教授に言ったか?」
 仲間らは、昨日よりもずっと饒舌に喋った。海保は絵に近寄る。なにか蹴ったな、と思って見やると、それは刃がむき出しのままのカッターナイフだった。刃には暗く青い絵具が繊維と共に付着している。これで裂いた、と証言していた。
「海保くん!!」
 千奈が叫ぶ。海保は絵を置き去りに、駆け出していた。


 携帯電話はつながらなかった。電源自体が切られている。海保は舌打ちをしながら、続けて蓮司の職場の事務あてに電話をかけた。応答した女性職員は、蓮司はいま昼間部の講習中だという。ともかく、出勤している。いったん部屋まで戻り、自転車に乗り換えて、蓮司の勤めるアートスクールへと向かう。バスをつかうより、電車をつかうより、そちらの方が早いと判断した。
 二十分ほど漕ぎ続けて、汗だくになった。荒い息を整えもせず、扉を押し開ける。アートスクールは細長いコンクリートのビルに入っていて、一階が事務所、二階、三階、四階が実技室となっている。事務所で事務員に訊ねると、海保のことを知っている事務員はなにも疑うことをせず「あと五分で講習終わるから」とコーヒーを勧めてくれた。丁寧に断り、汗をぬぐう。勧められた椅子に腰かけ、ずっと踵を鳴らしていた。
 親切な事務員が海保の出現を蓮司に伝えてくれたおかげで、きっかり五分で、蓮司は現れた。その姿に、海保は驚いた。蓮司は肩まであった長い髪をばっさりと切っていた。細い顎先が露わになり、余計に寒々しく見えた。
 蓮司は海保の顔を見て、またあの余裕で、意地の悪い、瞳だけは冷めた、悪夢のような笑みを浮かべた。「屋上行こうや」と上を指差す。古いビルにエレベーターは設置されておらず、四階の屋上まで、ぐるぐると階段をのぼって行った。
 屋上には、こんな天気のせいか、誰もいなかった。高い建物の少ない街には、重たい雲がかかっている。フェンスを背に、海保は蓮司と対面した。蓮司はポケットを探って煙草を取り出すと、火をつける。
「――俺、もう絵はやめるよ」肺まで煙を吸い込み、深く吐きだして、蓮司はそう言い放った。
「……え」
「画家を、やめる。もっともここ数年は自分の絵なんか完成させたことないしな。依頼もない、出展もしない……そもそも端からもう、画家じゃなくなってんだ」
 さっきまで固形だった風が急に溶け出して、流れはじめた。つめたい北風で、蓮司のすっきりとしてしまった首筋に吹いた一筋の風に対して、やめてくれ、と思った。もうこの人を寒くさせてやらないでほしい。この人を温めてやってほしい。海保は息を吐き、顔を歪めた。
「その必要はない」
「おまえが決めんな、俺が決めたんだから。……その方がいいのさ、おまえのために、これからおまえがつくり出す芸術のために」
 蓮司は、せっかくつけた煙草をろくにふかしもせずに足もとに落とし、踏みつけて火を消した。そして握手を求めるかのように右手を差し出し、「俺が悪かった」と言った。
「絵のこと、ごめん。もうしない。怒っていい、殴っていい。……でも別れるだなんて言わないでくれ」
「……」
「愛している」
 一歩、また一歩と蓮司は海保に近付く。そして海保にしがみついた。「別れるだなんて、言わないで」
 海保の身体は、冷え切っていた。ここへ来るのにあんなに熱を渦巻かせていたというのに、冷めてしまった。蓮司がしがみついているのに、ちっとも温かくなかった。痩せた体を抱きしめ返しもせず、海保は空を仰ぐ。
 雲が割れていた。青空がちらつき、それは、海保が目にしたどんな時の空よりも青かった。幼い頃飛行場で見た空とか、中学生の夏に学校のプールに浸かって見上げた空とか、蓮司と付きあい出して初めて行ったドライブで車中から見た空とか、海保がいままでに見てきたどの空よりも青く、高く、遠い。
 いや、別れよう、と空を見上げたまま言った。蓮司の体がびくりと強張る。
「別れよう。俺が出て行く。……さようなら」
 蓮司の肩を掴み、顔を見あわせてそう言うと、蓮司は苦しげに呻き、海保の手を払った。その勢いのままフェンスにぶつかり、そこに崩れ、体を折った。
 海保は、蓮司を残して屋上を出る。階段をくだり、事務室に「どうもありがとう」と声をかけて、ビルを出る。振り返って屋上を見たが、蓮司がそこにいるかどうかは判別つかなかった。
 一度雲が割れれば、青空はぐんぐん広がってゆく。
 愛おしいな、と思った。この世界が愛おしくてたまらない。とくとくと痛む胸はしかし風に吹かれて、不思議と穏やかだ。さあっと差した光に、海保は「ようやくだ」と呟く。
 ようやく絵を、思う存分描ける。差し込んだ光に、天から祝福された気がした。描ける喜びと、喪失の涼しさを平行させたまま、海保は自転車を漕ぎだした。


End.


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はるこさま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
ハッピーエンドでなくてすみません、と恐縮に思いながら毎日更新しておりました。「素敵」と仰っていただけて、報われたような気がしています。
ハッピーエンドは、3人全員に私も思います。新しい恋をするのか、未練を引きずるのか、ヨリを戻してしまうのか、描ける日々を満ち足りた思いで過ごすのか、この先あらゆることがあるとしても、幸福に、と思います。
と、私も欲張りです(笑)
拍手・コメント、ありがとうございました!
粟津原栗子 2015/04/18(Sat)08:00:53 編集
Beiさま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
はい、これでおしまいです(^_^;) 最初書きはじめ構想の段階では蓮司のターンまでしかありませんでした。このお話は、蓮司の苦悩を書き取りたくて書いたものですので、蓮司のことを「分かる」とあったことが嬉しいです。
蓮司の人間臭さに比べれば、海保の潔さ、未練のなさは常人離れしていて、感情移入しにくいかもしれません。だからこそ海保には描ける絵・ねたまれるほどの才能があるのだろうな、と想像します。
Beiさんの仰る日が来てほしい、と私も願っています。
拍手・コメント、ありがとうございました!

粟津原栗子 2015/04/19(Sun)09:36:13 編集
Lさま(拍手コメント)
いつもありがとうございます。
3・4月は否応なく状況の変化が生まれるので、別れの話が多くなります。趣味にお付き合いいただいて本当に感謝します。
全てなにもかもの向きが揃い許し合えればばなんの苦労もなく一緒にいられるものかもしれませんが、実際はそうもゆかないことの方が多いでしょう。Lさんの仰る通り「稀」かもしれません。海保と蓮司、決して合意で別れた訳ではありませんが、私はこれをひとつのハッピーエンドのようにも思います。幸せに、と願う気持ちは同じです。
「また読みたくなる」というお言葉に励まされました。また読みに来てやってください。
拍手・コメント、ありがとうございました!
粟津原栗子 2015/04/19(Sun)09:50:13 編集
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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