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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 黒いアクリル絵具をぶちまけられたF100号のキャンバスの前に座り込んでから、もう五時間が経つ。海保は講義に出席せず、ずっとそこで絵を描いていた。必要があれば脚立にのぼり、大きな刷毛を時につかいながら、黒の上に、青や、黄色を、乗せてゆく。千奈は海保の後ろに椅子をひとつ取って、その様子を定点でビデオカメラをまわすように、見ていた。
 なんとなく、いつか見た海保と恋人の様子を思い返していた。あの後、海保の首筋には絆創膏が貼られ、それはいつまで経っても剥がれなかった。あれ以来、海保が襟のあるシャツばかり着るようになったのも、きっと傷が残ったからだろうと察する。ひょっとして海保の身体には、恋人につけられたあの類の傷がたくさん残されているのではないだろうか。そういう想像さえしてしまう行動だった。
 今回の事件も、海保が落ち着きはらっていることと言い、黙々とあたらしい絵を描き続けていることと言い、犯人は海保の恋人なのではないかと想像した。いくらなんでもまさか、と考えを振り払うが、思考がめぐる。ぞろりと黒い蛇が這うような、粘ついた暗い目をした男を思い出す。
 海保は大きく伸びをして、立ちあがり、脚立を脇に除けた。絵と少しだけ距離を取り、しばらく自身の絵を見つめている。それからこちらを振り返った。いつか目を合わせた時と同じ、困ったような笑い顔だった。
「完成?」千奈は、努めて懐こく、かつ、女を殺した声で訊ねる。海保の前ではいつも性を殺す。海保には「女性」を見せて警戒されたくない、という思い込みがある。
「いや、腹が減った」
「あはは。もう五時間経ってる。学食、まだあいてるかな」
 海保が描いたのは、人を飲み込み覆いつくし、沈み込ませるような、圧倒的な銀河だった。五時間、という短時間で描いたからタッチはごく荒く、しかし重い。絵の前に立つ海保の姿が、ほのかにあかるく光って見えるほど暗い銀河。一方で星々に乗せられた色味は鮮やかで、黄色や、赤や、オレンジや、緑といった、なんとも言えない色合いが灯っている。星はきっかりと空の丸写しで、日頃から星座版と実物とをよく見比べているのだろう、という観察眼が窺える。
 絵の前に海保が佇んでこそ、完成の絵だと思った。一体、海保はどういう心でこれを描くのだろう。いままであれだけ丁寧に時間をかけて描いてきた絵を潰されて、それを超えて、現れた銀河。尋常な神経では、耐えられそうもないというのに。
 芸術を深く愛し、また芸術から愛されている海保のことを羨ましいと思う。海保の絵にいちいち感動する自分が憎いと思う。それで千奈は、「あ」と声をあげた。声と同時に一筋の涙が頬を伝って、海保に関すれば涙もろい自分がいやになった。
 海保がぎょっとした顔で、「おい、なんで千奈が泣くんだよ」と言う。
「――なんか、分かったかもしれない」
「え?」
「この絵を、潰した人の気持ち」
 海保を愛していて、才能に嫉妬していて、正気じゃいられないのだろう。いっそ嫌いになれたら楽なのに。あるいは溺愛出来たら。――もし私が海保に愛されることができたとしたら、自分の才能のなさなんかとっくに見切りをつけて、海保の愛を一身に受けるだけの存在になるだろう。
「海保くん、描くの、やめちゃだめだよ」
 目元を擦り、押さえながら、そう言った。
「絶対、絶対に、海保くんは描きつづけろ」
「……よく分からないけど、ありがとう」
 海保は、困ったようにその場で床を二・三度踏んだ。その足踏みが可笑しくて、千奈は思わず吹き出して、顔を上げる。海保は相当に困っているらしく、「女性が泣くのは、どうもだめなんだ」と言った。
「なんで?」
「困る、これに尽きる。……男泣きも困るけど」
「そういうもの? ……ごめん、これで泣き止む」
 だが海保は、人の涙に少し慣れておいた方がいいと思った。おそらくこれから、彼の人生は、人を圧倒させ続けるものだからだ。
 海保の手が、こわごわ、背中に当てられる。不器用な当て方で、女性の扱いに相当苦戦していることがわかる。めし食いに行こう、と言われて、千奈は頷く。外へ出ると、階段の踊り場で風に吹きあげられた。
 空模様を見て、海保が「雨でも降るのかな」と呟く。
「雨っていうか、嵐が来るらしいよ」
「今夜は晴れないのか」
「大荒れでどしゃぶりだって話」
「……星が見たかった」
 その呟きは、まるで星を描いた本人さえも本物の光を知らないようなひどくもの悲しい響きで、不思議と千奈は、安堵した。



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粟津原栗子
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自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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